〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年4月24日 『津堅島の悲劇・前夜』

攻防第2線津堅島伊江島の慰安所日系人の沖縄戦

 

米軍の動向

南進する米軍 - 首里の攻防第2線

第2線、城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月23日の夜から24日にかけて、濃い靄が、やがて深い霧に変わって、沖縄南部をつつんだとき、日本軍砲兵はしだいに砲撃度を増し、全前線に対して猛烈な砲火をあびせてきた。夜も明けないうちに米軍前線部隊は、少なくとも1千回の砲撃にさらされたのである。24日の朝が明けるにつれ、日本軍はこの弾幕と、夜のうちに降りてきた濃い霧を利用して、首里第1防衛線から撤退したことが明らかになった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 273-274頁より》

24日、第24軍団長のホッジ少将は、各師団長に対して無線電話で、「本日の戦況は、敵がこれまで死闘をつづけてきた陣地を放棄し、兵を撤退せしめたものと思われる」と連絡し、さらに偵察を強化して日本軍の新たな散兵線をさぐるようにとの命令を下した。その日の午前11時、将軍は各師団長に指示して隊を再編成し、積極的な行動に出て前線のあらゆる地形を利用しつつ、日本軍の前哨地に突進して地の利を得るように命令した。これは、4月26日の午前6時を期して行われる予定の総攻撃の準備である。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 275頁より》

城間:「アイテム・ポケット」

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

米軍は、4月20日から城間一帯の日本軍陣地への攻撃を繰り返すも、全く切り崩すことができず、進撃は行き詰まっていた。

4月20日から24日までのあいだに、ライヤン大尉は、…各中隊が、それぞれの方向から、山あいの日本軍陣地〝ポケット〟を攻撃するのを見ていたが、24日、「今度は自分の番だな」と心中ひそかに期するところがあった。

大尉は、4月20日にE中隊が辿った同じ進撃路を通って、わがF中隊も、25日の午前2時を期して攻撃を敢行したい、という作戦を、クレーアー大佐に進言した。この進言は上級本部にいれられた。だが、大尉が驚いたことに、彼は24日の夜7時ごろ、急にクレーアー大佐に電話で呼び出され、まったく違った方向から、1時間にわたって…丘陵を攻撃せよとの命令をうけたのである。

この路こそ、ルイス曹長が、23日にとったのと同じ方角だったのだ。米軍の命令は、まったくやけ気味で混乱状態におちいっていた。

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 228-229頁より》

嘉数(かかず)

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 二日前の22日、嘉数陣地の日本軍陣地を一気に攻めるため、第27師団副師団長ブラッドフォード准将の指揮下で、“ブラッドフォード特攻隊”が編成された。

4月24日の朝…13分間にわたる予備砲撃をくわえたのち、ブラッドフォード特攻隊は、午前7時30分、攻撃を開始した。嘉数陣地をかちとらねばやまぬという決意も固く…。しかし、刃向かう敵はいなかった。日本軍は夜のうちに陣地を退いていたのだ。2時間もたたぬうちに米軍の全大隊は目的地に到着した。… 激しい戦闘も終わって、4月24日と25日、嘉数地区を調べることができるようになってから日本軍の死体をかぞえてみたら、600の死体が発見された。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 272頁より》

和宇慶(わうけ) :「スカイライン丘陵」

…米軍37ミリ砲の3回にわたる直撃から免れた400メートル前方のトーチカが、頑強に抵抗して南側山腹での米軍進撃を阻んでいたが、…殲滅された。日本軍の独立歩兵第11大隊は、スカイライン丘陵を守ってよく戦った。…4月23日の夜から24日にかけて、…第11大隊は、…米軍前線に激しい砲撃を加えながら、178高地から退いていった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 248-249頁より》

 

日系人沖縄戦

アメリカ軍は真珠湾攻撃の直後から日系人を強制収容し、また一方では日系・沖縄系二世を米軍の情報戦に投入。沖縄戦に投入されたアメリカ陸軍語学学校 (MIS: Military Intelligence Service) の語学兵は152人、またアメリカ海軍語学学校の通訳兵は170人、少なくとも332名の日系人部隊がいた。彼らは懸命に沖縄の人々の命を救おうとした。

アメリカ海軍語学学校と坪田テリー輝人

坪田は津堅島では命令に背いた。背中に重い車のバッテリーとポータブルの拡声機を背負いながら、火炎放射器で焼かれ吹き飛ばされる前に投降しなさいと呼びかけた。

「軍は他の壕をすでに爆破していたのを知っていたので、彼は上着を脱いで丸腰になって、壕に入っていくと伝えた。」坪田に同行していた米兵は彼の背中に銃を突きたてて、行くなと命じた。

「私は彼に従うことは出なかった」と坪田は言う。「心の中で、私は戦争に送りだされるとき父が私に語った言葉を思い出していた。戦争は人を撃ち殺すだけじゃない、命を助けることも戦争の一部なんだ」といった言葉に。

Defiant soldier saved lives of hundreds of civilians during Okinawa battle - News - Stripes

40年後のある日、一人の女性が普天間のバーで「じゃあ、あなたがあの津堅島のときの坪田さんですか!」と尋ねた。彼女は、その時救われた少女の一人だと語った。

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コザの嘉間良の収容所で住民の登録に通訳として携わるMPの腕章をした坪田輝人 Terry Tsubota (1945年4月16日)

その日、彼は洞窟に隠れ自爆しようとしていた少なくとも20人を外に連れ出した。…「6人から8人の女の子のグループがありました。すべて10代の子たちです。彼女たちはひどく怯え、衝撃から震えていました。私は彼女たちを壕からだしました。」

Honolulu Star-Bulletin Hawaii News

 

アメリカ陸軍語学学校と比嘉武二郎

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ミネソタ州キャンプ・サベージにあったMISの日本語学校で軍隊訓練を受けた。

「私が本部テントに足を踏み入れたとき、私は私の人生の最大のショックを受けた…壁には沖縄の南半分の巨大な地図があったからだ。誰かが私のバケツに氷水のバケツを注いだように、私はほとんどその前で凍りついた。」

その後、諜報機関は、10月アメリカの飛行機が那覇を爆撃した後に撮った写真を彼に見せ始めた。比嘉は親しみ慣れた場所をじっと見つめた。比嘉は2歳のときに家族とともにハワイを離れ、沖縄の親戚を訪問し、他のものがオアフ島に戻ったあとも残り、母親が病気になったときも母親と一緒にいた。彼が16歳となり日本人に召集されるのを恐れて初めて、妹にハワイへの帰国を支度してもらったのだ。今、彼は那覇とその周辺の田舎の写真を見ていた。

「私は安堵のため息をついた — 私の祖父の家はまだ建っていて、私の村の部落全体がそこにあった」と比嘉は言った。「それから、将校は私に巨大なコンクリートの要塞であると信じられていたものの写真を見せた。彼は怪訝で呆れかえった顔つきをしていた。」沖縄は強固に要塞化されているようだ、と将校は言った。

比嘉は、彼の頭の中ではっと思いつき、そしてすぐに将校にそれがすべて間違っていると説明した。「要塞」は、実際には沖縄の数百の伝統的な墓であり、亀の背中のように見えるコンクリート亀甲墓だった。「その時、それが私が公式に陸軍諜報機関の一員になったときだった」と比嘉は語った。

Book lauds unheralded Nisei translators - News - Stripes

 

第32軍の動向

北部戦線: 第3遊撃隊と国頭支隊

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八重岳から多野岳へと後退した宇土大佐率いる国頭支隊だったが、米軍の攻撃を受けた。多野岳に布陣していた第3遊撃隊などは斬込みを敢行。宇土大佐は、総勢1千人の隊列をさらに北へ移動させることにした。攻撃で戦死した兵隊や、重傷を負って歩けない兵隊は、そのまま野岳に置き去りにされた。

濡れた隊列が徐々に動き出すと、地上に倒れた兵隊が、傍らの米袋を指差しながら、榴弾と交換してくれと眼で力なく嘆願した。木の根に転び、立木に頭を打ち、暗黒の斜面を辷り落ちながら、一歩一歩前に進んだ。行進ではなく、谷にうごめき、はいずり廻る、傷ついたけものの彷徨に似ていた。…隊列は久志村の三原の山辺にはいっていた。24日の未明だった、この時、宇土大佐は前夜隊列から離れ、1日先に本部とともに多野岳を発っていた。

三原についた宇土将兵は、枯枝や、落葉を掻き寄せ、飯を炊き始めた。山が深く、樹々を深く掩われた麓だった。付近には、多数の住民もいた。久しぶりに、日本軍の集団を眼のあたりに見て、狂喜した住民は部隊の後について行こうと焦り出す者もいた。同日夜、隊列は三原を出発、源河部落を経て、25日には有銘の山中まできた。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 314-315頁より》

 

中南部戦線

津堅島: 球師団4152部隊、独立混成第15連隊部隊

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武島良成『1945年4月・沖縄県津堅島の戦い』京都教育大学紀要2017.09.30.

津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた中城湾要塞の重砲陣地として1941(昭和16)年夏から、島民総動員で陣地づくりが行われた。沖縄戦では日本守備軍約160名が配備され、それに防衛隊約40名、島民女子約30名が加わっている。

沖縄県平和祈念資料館 | 沖縄戦について

4月10日、米軍は津堅島に上陸し、翌11日に同島を制圧した。津堅島に布陣していた日本軍の部隊は、島が制圧されると沖縄本島に退却。島には負傷して動けない日本兵と看護婦や住民が残された。重症の兵士に手榴弾が渡され自爆を強要された。その後、米軍は掃討作戦のため、3、4回ほど島に上陸した。沖に停泊する米艦艇を拠点とし、島での作戦が終わると艦艇に戻るということを繰り返した。

日本軍の部隊と共に本島に渡った防衛隊員らは、その後の命令で津堅島に戻る。

『防衛隊員ら10人ほどが負傷兵を助けに、津堅に戻ったのは3回目の戦闘から約1週間後の24日ごろ、米軍に発見されないようにと照明弾が打ち上げられるとサバニを引っくり返し、消えるとまたこぎ出すといった難行だった。

津堅島にたどりついたのは、午後8時過ぎ。夜陰にまぎれて、壕から500メートルほど北にある砂浜に到着した。急きょ負傷兵の搬出作業が始まった。日本軍のタンカのほかに、米軍が放棄していったタンカがあったが、それでも足りずに木を切り取って、間に合わせのタンカ作りも行われた。元気な者総出で必死の作業だったという。

防衛隊員男性の証言:
『「亭島大尉らとともに沖縄本島まで行き、その後の命令で、負傷して島に残った戦友の救出にと、島に引き返したことも今考えれば夢のような感じがする。」』(44頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 44、44-45頁より》

だが、救出、移送の準備作業は困難を極めた。そして翌朝、米軍が島に上陸する。

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津堅島の陣地壕(うるま市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

第1防衛線 - 嘉数高地陥落

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A dud shell from a Japanese 327mm spigot mortar found in a field near the town of Kakazu. Estimated length is 41/2feet.

嘉数付近で発見された日本軍327mm臼砲の不発弾。長さは約4.5フィート(1945年4月24日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

第32軍司令部は、東西の両翼から米軍にまわりこまれることを恐れ、戦線を全面的に後退させることを決めた。23日夜から24日にかけて嘉数高地の守備隊を約1.5キロ後方の浦添高地(仲間ー前田の線)に下げた。また、南部の糸満摩文仁方面にほとんど無傷でいた第24師団を北上させ、中街道以東の戦線(幸地から小波津の線)につけた。第62師団は東海岸道の城間から中街道の前田(浦添高地)の線に戦線を縮小した。第24師団の東部戦線への進出により、この方面からの米軍の浸透は阻止されたが、西半分を守る第62師団はすでに消耗しきっていたので、西海岸道と中街道にそった進撃は止まらなかった。浦添高地は、首里方面の日本軍陣地を見おろせる位置にあるため、米軍はその攻略に力をいれた。

《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 81頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p244.jpg

浦添高地のスケッチ

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

第24師団第32歩兵連隊第2大隊: (大隊長・志村常雄陸軍大尉)

第24師団が南部から北部の前線に。

4月24日夜、わが第2大隊は、喜屋武・山城の陣地を後にした。大隊が東風平に差しかかるころから、道路上を逆に南に向けて避難する住民の群れが多くなってきた。(175頁)

二等兵の回想:

…とうとう山部隊(第24師団)にも出動命令が下った。4月24日のことである。第一線で戦う石部隊(第62師団)の独立歩兵第12大隊を援護するために中部戦線に移動するのだ。… 私は何人かの戦友と一緒に束辺名集落の一隅に遺書と爪を埋めた。60キロといわれる完全軍装を慌ただしく整えるとその重さがずしりと肩にくい込んだ。

絶え間なく砲弾の轟く中、第32歩兵連隊全員が集結し、薄暮の中で大隊ごとに行進が始まった。総勢2800人の出陣である。私は山城集落の広場で志村大隊の出発をじっと待った。誰も彼も口を結んだままで、鉄兜の下の目だけがギラギラと光っている。無気味なほどに緊張した空気に包まれたまま隊列は、北へ北へと行進を始めた。(63頁)

闇夜とはいうものの、艦砲がしきりに炸裂するので、街道筋を避けて畑の中を横切るが、隊列はいつの間にかバラバラになり、前へ前へと重い足を運ぶだけである。首里の高地の上空と見られる辺りでは照明弾がしきりに明滅している。… 通り過ぎる集落はことごとく焼け落ち、人々は逃げ惑うばかりである。(64-65頁)

《「私の沖縄戦記 前田高地・ 60年目の証言」(外間守善/角川学芸出版) 63、64-65 および同書内の「志村大隊「前田高地」の死闘(抄)」175頁より》

 

そのとき、住民は・・・

沖縄戦の絵】山中を歩く家族と日本兵の死体 

空襲が激しくなり、家族と親せきそれに近所の人約60人で、いったんは沖縄市の自宅から沖縄本島北部に避難したものの、食糧が底をついて再び沖縄市に戻る時の山中での光景。敵に見つからないよう、歩くのは夜。大人たちは持てるだけの荷物を担いだり頭に乗せたりしていた。… 子どもたちは足が腫れ、その痛さに泣いた。いちばん怖かったのは、うるま市石川のあたりで見た日本兵と思われる大勢の死体。真っ黒く焼けた顔や肌、ちぎれた片足など、思い出すと今でもぞっとするという。

山中を歩く家族と日本兵の死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

米国陸軍通信隊: Pfc Robert A Vincent, of Jamaica, L.I., N.Y., offers rations to Okinawan children who were found in the town of Gusukuma during the drive on Machinato airstrip.

牧港滑走路を走行中、城間の町で発見された沖縄の子ども達に食料を与えるロバート・A・ヴィンセント1等兵(ニューヨーク州ロングアイランド島ジャマイカ出身)。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

伊江島・ナガラ収容所

生き残った住民は、いったん南海岸のナーラ浜 (川平ナガラ原) の収容所に収容された。伊江島の基地建設に伴い、5月20日頃に慶良間諸島への移動が行われ、渡嘉敷島に約1,700名、慶留間島に約400名に分けられ収容された。またその後は大浦崎収容所に移動させられた。

ある女性の体験談:

…海岸から飛びおり、死のうと思い絶壁を探しに出かけた。私は死に場所をさがし当てた。私はだれから先に海へ投げ込もうか一晩中考えた。

もう、きょう死のうと思った日は敵が上陸してから7日目になっていた。先に捕虜になった人達が「もう戦争は終った。ナーラの浜に何百人の日本兵や住民も集まり、テント小屋が作られ若い人も多数生き残って居る」といっていた。8日目親せきのおじさんの家族が様子を見るため壕から出て行った。私達家族は、それでも信じられず、一日壕の中で様子を見るため待っていた。9日目、親戚のおじさんに、思ったより住民も多数生き残り、日本兵も捕虜になっていることを聞かされ、壕を出る決心をした。

… 北海岸から南海岸まで米兵に守られながら捕虜収容所に着いた。飛行場には、米軍機が沢山並び、伊江島は大きな戦車やトラックでうまっていた。… 長い壕内生活のため、着物も頭もシラミだらけだったので、頭からくさい油をかけられ、消毒された。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 92-93頁より》

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米軍占領後の伊江島の地元民。女性と子どもが、海岸から軍政府の収容所に移動させられている様子。(1945年4月24日撮影)

Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation. Women and children being escorted from beach to Military Government camp.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米軍占領後の伊江島の地元民。軍政府の収容所で検診を受けるために並んでいる民間人。(1945年4月24日撮影)

Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation. Civilians in line for medical inspection in Military Government camp.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米軍占領後の伊江島の地元民。収容所のテントで、DDT(殺虫剤)のスプレーをかけてシラミを取っているところ。(1945年4月24日撮影)

Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation. Delousing with DDT spray in camp tents.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

軍作業

こうして、二、三日たった日、壕の外で隣の壕にいた西江さんの呼ぶ声がした。父たちがとび出したところ、すでに四、五日前にアメリカ軍に収容された西江さんが、私たちを連れ出しに来たのであった。私たちは、壕を出て、ナーラの収容所に行った。収容所ではD・D・Tの乳剤で消影され、顔面の火傷の手当を受けた。このころから眼が見えるようになっていた。私はしばらく休養した後、ほかの人々とともにアメリカ軍の指示する作業に従事させられた。仕事は、馬の死骸の片づけ、食糧集めなどだった。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

 

伊江島で「慰安婦」にされた女性たち

軍は島に慰安所を設置し、兵士による強姦事件を防ぐ砦として女性をつれてきた。そうして彼女たちを「慰安婦」としただけではなく、米軍上陸が近づくと、彼女たちに救急法を学ばせ、軍の補助看護婦として従軍た。最後には斬り込みまでやらせたため、伊江島の「特殊慰安婦人」にされた女性達は全員戦死した可能性が高いと思われていた。

伊江島における慰安所の特徴は第一に、第32軍創設以降飛行場建設のために上陸した部隊が設置したという点、第二に、慰安所建設を急いだ理由が、兵士たちのストレス解消のためであると同時に、労働力として動員された住民と軍隊との「協力関係」を円満にするという目的もあったという点、第三に、慰安婦に戦闘参加の教育が行われ、軍隊に「性」の「慰安」を提供する以外に、戦闘員としての「動員」も準備されていた点である。

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 185頁より》

1944(昭和19)年8月2日「陣中日誌」には、10時から12時まで (伊江島の) 「特殊慰安婦人10名ニ対シ救急法ヲ教育ス」という記録が残っている。救急法の教育まで受けた慰安婦たちも戦闘に巻き込まれ、全員戦死した可能性が高い

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 183-183、185頁より》

しかし、米軍が記録した1枚の写真は、ひとりの慰安婦とされた女性が、捕虜になった後も米軍の収容所で献身的に救護活動に従事していたことを示している。

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《AIによるカラー処理》Natives of Ie Shima, Ryukyu Islands after American occupation. Jap army doctor and Geisha girl nurse working in Military Government camp.

米軍占領後の伊江島の地元民。軍政府の収容所で治療を行う日本軍医と女性の看護要員。撮影地: 伊江島 (1945年 4月 24日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

※ 沖縄公文書館の和訳では「女性の看護要員」と訳されているが、正確には米軍はその当時慰安婦に対して米軍が使っていた geisha という語を使って "Geisha girl nurse" と記載している。彼女が日本軍の「慰安婦」であり、かつ日本軍から救護の訓練も受けていた「看護婦」であることを、尋問から正確に把握していたと思われる。詳しくは下記の記事で。⇩

 

  

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