1945年 7月12日 『収容所で再会』

〝沖縄〟という米軍基地

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第504高射砲兵大隊D中隊の司令部の配置と射撃統制。後方は金武湾(1945年7月12日撮影)

Fire Control and command post layout of Battery ”D” 504th Antiaircraft Artillery Gun Battalion, Kin Wan in background.

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米軍の動向

偵察活動

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沖縄北部連山を横切る偵察活動で高里部落を離れるブリット中尉率いる第27装甲機動偵察隊。(1945年7月12日撮影)

Led by 1st Lt. V. Britt, Bronx, N.Y.,  a patrol from the 27th Cavalry Reconnaissance (******) leaves the village of Takazato on a reconnaisance mission that will take them across the mountain range of Northern Okinawa.

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本島北部の山林地帯の偵察活動中に見つかった小川を渡る第27機械化騎兵偵察隊。(1945年7月12日撮影)

A patrol of the 27th Cavalry Reconnaissance Troop Mechanized, fords a stream found during their reconnaissance mission which will load them across the high mountains of northern, Okinawa.

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日本軍陣地の調査

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那覇の天久にある第4砲座の砲座と弾薬穴。これは日本軍高射砲の砲座である。(1945年7月12日撮影)

Gun position #4 at Amiki, north of Naha, shows gun foundation and ammunition pit. Jap AA Emplacement.

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読谷飛行場近くの丸太でできた覆いで隠された日本軍75mm高射砲。写真は第6砲座。(1945年7月12日撮影)

The 75-mm Japanese AA gun pit near Yontan airfield has revetments made of logs. Gun position #6.

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捕獲された日本軍兵器(1945年7月12日撮影)

Okinawa-Capt Equip & Mat. Japan.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

ハワイに送られた捕虜 ③

1945年7月7日ごろ、屋嘉収容所にいた捕虜たちの一部は、米軍のトラックに乗るよう指示され、たどり着いたのは、嘉手納の海岸だった。その後、沖に浮かぶ米軍の艦船に乗せられた捕虜たちは、甲板で海水のシャワーを浴びるよう命じられた。ところが、乗船した船が異なると、扱われ方が極端に違った。貨物船に乗せられた捕虜は家畜にように扱われ(証言 ①)、客船に乗せられた捕虜は、人道的な扱いを受けた(証言 ②)。両者とも食事は1日2回であったと証言するも、貨物船に乗せられた捕虜はパンや水が入ったバケツを与えられ、客船に乗せられた捕虜は、米軍の野戦食が配られた。(1945年7月8日参照)

証言: ①

『たしか嘉手納沖を出て4、5日したころ全員デッキに上げられ、煙草を一本ずつ与えられ、海風に当らせた。そしてまた船艙に入れられた。もちろん丸裸のままであった。ほんの5、6分のひとときだったが、正に蘇生の思いがした。その後は3日に1度の割りであった。』(73頁)

 

証言: ②

『…デッキには午前1回、午後1回出ることが許された。その際、両舷はMPが固め、そこへ近づくことはできなかった。捕虜が以前に海に身投げしたものがあったと聞いた。デッキに出る外は船室にこもりきりだったので 、どうなることか皆目見当がつかなかった。

とある日、MPが「君達はハワイに連れていくのだ」と話をした。ハワイの炭坑に働かされる、その期間は20年は下るまいという噂が船内に流れた。夜に入ると厳重な燈火管制が敷かれ、未だ日本軍の潜水艦が出没するということのようであった。また、夜間には船から銃弾を発射するような音が船室にも響いたように記憶している。』(81頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 73、81頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

民間人収容所

中南部で戦闘が続いていた1945年(昭和20)5月、6月、7月にかけて、米軍は保護下に入った住民をトラックやLST(上陸用舟艇)で沖縄本島北部の東海岸地域へ移した。その住民移動は中南部臨時収容所を転々とさせられたものであった。』

読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争 

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民間人の一団を警護する海軍予備役のカーライル水兵。彼らは、戦車揚陸艦に乗って沖縄本島北部へ向かう準備をしている。(1945年7月12日撮影)

Roy C. Carlisle, S1/c, USNR, watches and guards the civilian group as they prepare to leave on an LST to northern Okinawa, Ryukyu Islands.

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揚陸艇に所持品を運ぶ沖縄本島の民間人。トラックで同艇に移送される者もいた。全員が沖縄本島北部に向かっていた。(1945年7月12日撮影)

Japs at Okinawa, Ryukyu Islands carrying belongings to landing craft. Some are taken to the LC via truck. All headed for northern part of the island.

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宜野座の収容所へ行った女性の証言: 

『捕虜になってからはトラックに乗せられ、船のある港へ連れて行かれ、母とは別の船で、宜野座村にある収容所へと連れて行かれた。母とはどこではぐれたかは覚えていないが、宜野座収容所で再会することができた。出会った時は私のことを死んだと思っていたのか、「生きていたんだね」と喜んだのを覚えているよ。
収容所での生活はとてもつらいものだった。ご飯もしょうゆと水を混ぜたようなスープとおにぎりが1日に一回出るだけ。栄養失調の人は飲み込めないから、食べることができない。たくさんの人が亡くなっていくのを見たよ。』

<未来に伝える沖縄戦>収容所で母親亡くす 具志堅トミ子さん(75)〈4〉 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

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揚陸艇に所持品を運ぶ沖縄本島の民間人。トラックで同艇に移送される者もいた。全員が沖縄本島北部に向かっていた。(1945年7月12日撮影)

Japs at Okinawa, Ryukyu Islands carrying belongings to landing craft. Some are taken to the LC via truck. All headed for northern part of the island.

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戦車揚陸艦 LST-1031の第2甲板にいる民間人。沖縄本島北部に向かう途上にて。(1945年7月12日撮影)

Japanese people on 2nd deck of USS LST-1031 on their way to northern Okinawa, Ryukyu Islands.

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野嵩の収容所に行った男性の証言:

『…糸満近くの浜で、米軍の水陸両用戦車に乗せられ、さらに戦車もろとも沖合で上陸用舟艇LSTに乗せられ1時間くらいたったろうか。女たちは最初、このまま海に投げ捨てられると泣き、LSTに乗せられてからはアメリカに連れ去られるのではないかと泣いた

LSTが止まり、戦車は再び海におどり出た。一体どこに連れていかれるのだろうか。外が全く見えないので皆目方向が分からない。やがて戦車が陸地に乗り上げて止まった。ここはどこだろうと見渡すいとまもなく、こんどはまた、目の前に待機している大型トラックに乗り移らされた。トラックが走り出し、しばらくして見覚えのある北谷モーシーの墓を見つけて、やっと桑江あたりに上陸したことを知った。

トラックは普天間から宜野湾街道に入り、しばらくして左折し、とある部落に入った。部落に入って人々は皆自分の目を疑った。そこにはあの島尻のような焼けただれた部落ではなく、濃い緑に包まれた昔ながらの部落があったからである。そこが、その後7ヵ月間私が収容所生活を送った宜野湾村字野嵩で、野嵩という地名も初めて聞く名であった。

トラックから見渡すと、部落の周囲は全部有刺鉄線で囲まれ、たった一か所設けられた出入口にはMPテントがあり、3、4人のMPがカービン銃を持って警戒に当たっていた。

トラックがMPテント横の広場に着くと、たちまち黒山のような人だかりができて、家族や知人を見つけた人たちが互いに呼び合い抱き合って泣くという光景があちこちに繰り広げられた

この光景を見て初めて自分たちよりほかにも大勢の捕虜がいること、殺されることはないということを知った。そうすると、いままで張りつめていた気もいっぺんに緩み、トラックから降りるとフラフラと道端に倒れ込み、横になった。

あおむけに寝ていると、いろいろのことが思い出されて涙が止まらなかった。つい10日ほど前の2人の肉親の無残な爆死生き別れになった兄弟、そして、ただ一人重傷の身でここまで来たのに、この先15歳という子供の身で一体どうなるのだろうか等々、傷の痛みと不安でもう動く気力もなかった。

何時間たったろう、もう日が傾きかけていた。その間も続々捕虜になった人たちが重い足どりで頭上を通り過ぎて行った。突然「進ヤアラニ(進むじゃないのか)」と呼ぶ声がした。見上げると、私と同じ赤平町の金城さん一家が通り過ぎるところであった。これを逃しては大変と追いすがり、そのグループの後についていくと、白い腕章をした人が先導していて、着いたところは門の横の石垣に白いペンキで「104」と大書された野嵩でも北西の一番端にある家だった。

人々は家の中に上がり込むと、家族ごとや仲間ごとに場所をとり、わずかばかりの荷物を解いて収容所第一夜の支度に取りかかった。』(18-19頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 18-19頁より》

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戦車揚陸艦 LST-1031の第2甲板にいる民間人。沖縄本島北部に向かう途上にて。(1945年7月12日撮影)

Japanese people on 2nd deck of USS LST-1031 on their way to northern Okinawa, Ryukyu Islands.
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ボートから波止場に食料を運ぶ民間人。沖縄本島北部にて(1945年7月12日撮影)

Japanese people carrying provisions from boats unto the wharf at northern Okinawa, Ryukyu Islands.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月12日(木)