1945年 5月20日 『真っ赤な戦場』

日本機の襲撃

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ほとんど毎晩日本軍機が読谷飛行場周辺に爆弾を落とし、翌朝にはこのくらい大きい穴ができていることもある(1945年 5月20日撮影)

It Happens at Yontan--Almost every night Jap planes drop bombs around the Marine Yontan strip at Okinawa, and sometimes the next morning men climb out of their foxholes and find nearby holes as big as this.

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首里に迫る米軍 

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘/タカムイ/神田川ムイ)

5月20日、第4海兵連隊はタカムイ、神田川ムイ付近の占領区域を拡張していったが、 まだクレセントの峰に達することはできなかった。』(351頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 351頁より》

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南に“クレセント・ヒル”を望むと、印象深い“シュガーローフ・ヒル”のふもとが見える。クレセント・ヒルは、第29海兵連隊のシュガーローフ攻略作戦の成功に続いて、第4海兵連隊の次の目標地点であった。

This is an interesting view of the base of Sugar Loaf Hill looking toward Cresent Hill to the south. Cresent Hill was the objective of the Fourth Marines immediately following theirs and the 29th Marines successful operation against Sugar Loaf Hill.

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0230時に総攻撃が始まった。日本軍は、…ひらけた右翼側を進撃路として選んでおり、狭い谷間に増援部隊をあつめつつ、黄燐弾による激しい集中砲撃がF中隊にくわえられた。海兵隊員たちは、前面の斜面を維持するために豊富にもっていた榴弾を惜しげもなく使っていた。しかし、日本軍の一団は…海兵隊員の戦列に縦射攻撃をあびせられる位置に機関銃を設置した。…絶え間ない銃撃に耐えきれなくなったため、機関銃に一番近い位置に布陣していた小隊が後退し、シュガーローフまでもどって防御をかためることになった。さらにつぎの戦列にいた小隊長も、部隊の後退を命じたため、海兵隊はなしくずし的にホースショアからの全面撤退に追いこまれた。』(332-333頁)

『この一帯にはまだ相当数の日本兵がいたものの、第4海兵連隊の二つの突撃大隊は、この5月20日は予定どおり前進した。攻撃開始時間は0800時で激しい支援砲撃のもとで、戦車隊と突撃部隊は、ホースショアやハーフムーンからの反撃をうける前にすばやく180メートルほど前進した。ホースショア西端の高台を攻撃する第4海兵連隊第3大隊に、右翼側の第22海兵連隊が支援射撃を実施した。攻撃の方法は、戦車を先頭にして、目につくすべての洞窟などの開口部にたいして至近距離から75ミリ砲を撃ちこむか、2門の火炎放射器を装備した通称〝ジッポー〟と呼ばれた支援戦車で焼きはらっていくものであった。その後、火炎放射手と、爆破班をともなった歩兵部隊が前進していった。』(347頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 332-333、347頁より》 

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 “シュガーローフ・ヒル”における第29海兵連隊の総力戦の際、負傷兵を担架隊が搬送するのは不可能に近かったが、戦車がその問題の解決に役立った。写真は、狭軌の線路沿いに負傷兵を搬送する戦車。この線路沿いに海兵隊は進軍した。(1945年 5月20日撮影)

During the 29th Marines' all-out assault on ”Sugar Loaf Hill” it was almost impossible to evacuate the wounded by stretcher parties. Tanks, however, helped to solve the problem. Shown is a tank evacuating wounded along the narrow gauge railroad along which Marines fought. 

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『L中隊の東側で、第2大隊のハーフムーンへの攻撃は、悪夢のような惨状になっていた。猛烈かつ正確な首里高地からの平射砲撃で大隊の側面は大混乱になった。ハーフムーンの裏側斜面の窪地からの迫撃砲による砲撃は進撃地域の全域を射程にとらえていた。支配地域を防衛しようとする日本軍の抵抗は午前中も引きつづき頑強だった
1130時、攻撃に参加した3個中隊の戦死傷者の数は増加していった。そのため、…攻撃をハーフムーンの中心から側面にシフトさせた。1245時までに詳細な計画がきまり、攻撃を再開した。G中隊に随行する戦車隊の進撃路は、地雷原をぬけるハーフムーンの右翼側に設定した。この強力な支援のもとで歩兵部隊は丘の西端を確保することができた。』(350頁)

1600時までに、夜間の防御体制をかためるためには連隊は攻撃を停止した。K中隊とL中隊はホースショアの窪地にある日本軍の迫撃砲陣地を見下ろす場所を支配した。』(351頁)

2300時、90ミリ迫撃砲の集中砲撃につづいて大隊規模の日本軍が、K中隊とL中隊にたいして攻撃を開始した。…日本軍は中隊にたいして、450名から500名による大隊規模の攻撃をしかけており、彼らを止めることはできなかった。…蛸壺にいた海兵隊員は、この穴を以前つかっていた日本兵が置いたままにしていた擲弾筒を発見した。榴弾も8発か9発残っていたので、彼は前進してくる日本兵にむけて全弾発射したが、ほとんど効果がないように見えた。…第1海兵師団の兵士から見えた光景は、K中隊の戦場が真っ赤だったことである。あらゆる火砲による砲弾や、迫撃砲が炸裂し、その赤いエリアは、どんどん大きくなりつづけていった。…派手な照明弾の明かりをともなう激しい混戦は2時間で終わりをつげた。…深夜までに、戦線を突破できたわずかな数の日本兵は、死ぬか撤退した。』(353-358頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 350、351、353-358頁より》

 

中央戦線

大名(おおな)

海兵隊は、5月20日の朝、進撃に先立って、まず艦砲射撃、野砲、戦車、MI7型砲で首里高地と55高地に猛攻撃を加えた。海兵隊は丘陵頂上で、いくつか白兵戦をまじえたのち、そこの日本軍を殲滅、戦車隊と海兵隊歩兵の協同作戦で、大名岩山まで進出して、55高地裏側の洞窟にたてこもっている多数の日本軍に、直撃をあびせた。

そして、このあたり一帯の陣地を確保することによって、55高地の下方に、さらに進撃することができた。海兵隊爆雷をもった日本軍がいっぱいいるクモの巣のような陣地を蹂躙していった。』(360頁)

『第1海兵師団は、20日の朝、二手にわかれて、大名丘陵攻撃の砲火をひらいた。第3大隊が南東から攻めあげ、第2大隊は、丘陵が東方にのびている。〝100メートル高地〟に向かって進撃を開始することになった。

戦車隊自動操縦砲、および37ミリ砲の掩護砲撃を得て、第2大隊は、〝100メートル高地〟のふもとにすみやかに進撃した。先攻の3小隊は、丘陵南側から撃ち出される日本軍銃火のために丘陵上で行き詰まったが、別の中隊が来て、その銃火の中をかいくぐって攻撃をつづけていった。

日が暮れて第2大隊は、ついに丘陵の一部を確保することができた。だが、〝100メートル高地〟は、まだまだ日本軍の手中にあった。激しい接近戦の結果でも、第3大隊は丘陵西部の丘腹では、わずかに60メートルほどしか前進していなかった。』(361-362頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 360、361-362頁より》

 

石嶺(いしみね)丘陵

『無事に生き残りはしたものの、いまやすっかり憔悴しきった兵隊たちは、夜中の3時ころ峰を登りかけていた。だが、ここでも飛んできた砲弾が炸裂して、が2人の新兵を負傷させた。そのうちの1人は、防水外套にくるんで引きずっていかねばならぬほどの重傷をうけた。こうしてE中隊は、どうにか味方に達することができたのである。

石嶺に夜襲を敢行したこの中隊将兵総員204人のうち、156人が戦死、あるいは傷ついた。もともとE中隊に所属していたのは、将兵129人、このうち無事生き残ったのは、将校2人、下士官1人、兵28人。また、交替部隊としてC中隊から派遣された1小隊は、58人が出かけていって、帰ってきたのは13人だった。重砲部隊では、17人のうちわずか4人しか帰ってこなかった。こういう損害があったとはいえ、E中隊としては、首里の方向に数百メートルも侵入し、砲兵隊の協力も得て、石嶺付近の戦線で、幾百人もの日本兵を倒したのである。』(372頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 372頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

5月20日、チョコ・ドロップの洞窟は、完全に封鎖された。その日、日本軍の1中隊がチョコ・ドロップを奪回しようとして最後の反撃を試みたが、兵力の半分を失って撃退された。同じ日に米第3大隊は、戦車、火炎放射器、爆薬で大石森を総攻撃、ついにこれも確保することができた。(380頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 380頁より》

  

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

『…大隊は〝犬歯山〟の近くで猛烈な戦闘にはいり、榴弾肉弾戦のすえ、ついにコニカル・ヒルでいちばん高いところと、つぎの山とのあいだの陣地帯を占領することができた。使い果たした手榴弾は、じつに1100個を上回っていた。』(392-393頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392-393頁より》

 

 

第32軍の動向

軍司令部

5月20日過ぎには軍司令部が置かれた首里の目と鼻の先にアメリカ軍が押し寄せた日本軍は約5万人が生き残ってはいたが、もう、アメリカ軍を押しとどめる戦力はなかった

第32軍司令部は、これまで多くの戦場でおこなわれてきたように、戦えなくなった者を殺し、あるいは自決を促し、歩ける者だけが敵の銃弾に身をさらすようにして最後の突撃を敢行し、玉砕して果てるか、あるいは島尻地区へ脱出移動して、最後の一兵まで戦い抜くか、重大な選択を迫られた。』(77頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 77頁より》

『八原作戦参謀の言葉によれば、5月も20日を過ぎるころになると戦況は、「肺病患者の第三期的状態」に陥っていた。つまり守備軍の防衛体制は、形ばかりで中身はがらん洞というわけである。』(136頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 136頁より抜粋》

 

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

『…数日前、安里川まで前進した第6海兵師団にたいして、那覇市への突破を恐れた日本軍は、4個大隊の海軍陸戦隊を独立混成第44旅団の前線の南側の一帯に配置していた。海軍の大隊は、国場川の南西の丘に陣取り、シュガーローフを援護すると同時に独立混成44旅団の防衛線が突破されたさいに、首里防衛線をまもる役割であった。

そしていま、美田大佐率いる独立混成第15連隊は消滅し、これらの部隊は国場川首里高地をむすぶ、独立混成44旅団の新たな戦線を補強するために投入されるが、さもなければシュガーローフの奪還作戦にむかう準備がととのっていた。かりに戦線が崩壊すれば牛島中将の防衛線の側面が押しあけられ、海兵隊国場川まで突破され、首里要塞の背後にまわりこまれるため、彼らの役割は重要であった。』(340頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 340頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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金武の労働者用営倉への入り口。17歳から47歳の沖縄人は夜間、路上ではなくこの営倉で休む。日中は灌漑殺虫剤散布柵の建設瓦礫の掃除用具類の回収などといった労役に従事する。(1945年5月20日撮影)

At Chim (Kin) the entrance to the labor stockade where the Okinawan from 17 to 47 years of age are billeted at night to keep them off the roads. During the day they work hauling water, spray DDT, build fences, clean up debris, salvage equipment and other jobs.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月20日