〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月20日 『真っ赤な戦場』

赤い月面/ 陸軍看護隊ひめゆり / 伊江島住民の強制移送 

 

米軍の動向

首里に迫る米軍

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

シュガーローフとハーフムーン

安里真嘉比: シュガーローフ: (52高地)・クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)・ホースショア(馬蹄ガ丘/タカムイ/神田川ムイ)

米軍は18日にシュガームーンを確保した。日本軍の最期の首里の防衛線が崩壊しつつあった。

5月20日、第4海兵連隊はタカムイ、神田川ムイ付近の占領区域を拡張していったが、 まだクレセントの峰に達することはできなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 351頁より》

真嘉比: クレセント (ハーフムーン) は現在の南真嘉比公園あたり。激戦が続く一帯は月面のように荒れ果てた。

This is an interesting view of the base of Sugar Loaf Hill looking toward Cresent Hill to the south. Cresent Hill was the objective of the Fourth Marines immediately following theirs and the 29th Marines successful operation against Sugar Loaf Hill.

南に“クレセント・ヒル”を望むと、印象深い“シュガーローフ・ヒル”のふもとが見える。クレセント・ヒルは、第29海兵連隊のシュガーローフ攻略作戦の成功に続いて、第4海兵連隊の次の目標地点であった。

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0230時に総攻撃が始まった。… (日本軍の) 絶え間ない銃撃に耐えきれなくなったため、機関銃に一番近い位置に布陣していた小隊が後退し、シュガーローフまでもどって防御をかためることになった。さらにつぎの戦列にいた小隊長も、部隊の後退を命じたため、海兵隊はなしくずし的にホースショアからの全面撤退に追いこまれた。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 332-333頁より》

米軍は現在のおもろまち駅周辺にあった軽便鉄道の線路沿いに南下した。

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During the 29th Marines' all-out assault on ”Sugar Loaf Hill” it was almost impossible to evacuate the wounded by stretcher parties. Tanks, however, helped to solve the problem. Shown is a tank evacuating wounded along the narrow gauge railroad along which Marines fought.

“シュガーローフ・ヒル”における第29海兵連隊の総力戦の際、負傷兵を担架隊が搬送するのは不可能に近かったが、戦車がその問題の解決に役立った。写真は、狭軌の線路沿いに負傷兵を搬送する戦車。この線路沿いに海兵隊は進軍した。(1945年 5月20日撮影)

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真っ赤なハーフムーン (真嘉比)

L中隊の東側で、第2大隊のハーフムーンへの攻撃は、悪夢のような惨状になっていた。猛烈かつ正確な首里高地からの平射砲撃で大隊の側面は大混乱になった。ハーフムーンの裏側斜面の窪地からの迫撃砲による砲撃は進撃地域の全域を射程にとらえていた。支配地域を防衛しようとする日本軍の抵抗は午前中も引きつづき頑強だった。
1130時、攻撃に参加した3個中隊の戦死傷者の数は増加していった。そのため、…攻撃をハーフムーンの中心から側面にシフトさせた。1245時までに詳細な計画がきまり、攻撃を再開した。G中隊に随行する戦車隊の進撃路は、地雷原をぬけるハーフムーンの右翼側に設定した。この強力な支援のもとで歩兵部隊は丘の西端を確保することができた。(350頁)

2300時、90ミリ迫撃砲の集中砲撃につづいて大隊規模の日本軍が、K中隊とL中隊にたいして攻撃を開始した。…日本軍は中隊にたいして、450名から500名による大隊規模の攻撃をしかけており、彼らを止めることはできなかった。… 蛸壺にいた海兵隊員は、この穴を以前つかっていた日本兵が置いたままにしていた擲弾筒を発見した。榴弾も8発か9発残っていたので、彼は前進してくる日本兵にむけて全弾発射したが、ほとんど効果がないように見えた。…第1海兵師団の兵士から見えた光景は、K中隊の戦場が真っ赤だったことである。あらゆる火砲による砲弾や、迫撃砲が炸裂し、その赤いエリアは、どんどん大きくなりつづけていった。…派手な照明弾の明かりをともなう激しい混戦は2時間で終わりをつげた。…深夜までに、戦線を突破できたわずかな数の日本兵は、死ぬか撤退した。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 350、353-358頁より》

 

大名

海兵隊は、5月20日の朝、進撃に先立って、まず艦砲射撃、野砲、戦車、MI7型砲で首里高地と55高地に猛攻撃を加えた。海兵隊は丘陵頂上で、いくつか白兵戦をまじえたのち、そこの日本軍を殲滅、戦車隊と海兵隊歩兵の協同作戦で、大名岩山まで進出して、55高地裏側の洞窟にたてこもっている多数の日本軍に、直撃をあびせた。

そして、このあたり一帯の陣地を確保することによって、55高地の下方に、さらに進撃することができた。海兵隊爆雷をもった日本軍がいっぱいいるクモの巣のような陣地を蹂躙していった。(360頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 360、361-362頁より》

石嶺丘陵

無事に生き残りはしたものの、いまやすっかり憔悴しきった兵隊たちは、夜中の3時ころ峰を登りかけていた。だが、ここでも飛んできた砲弾が炸裂して、が2人の新兵を負傷させた。そのうちの1人は、防水外套にくるんで引きずっていかねばならぬほどの重傷をうけた。こうしてE中隊は、どうにか味方に達することができたのである。

石嶺に夜襲を敢行したこの中隊将兵総員204人のうち、156人が戦死、あるいは傷ついた。もともとE中隊に所属していたのは、将兵129人、このうち無事生き残ったのは、将校2人、下士官1人、兵28人。また、交替部隊としてC中隊から派遣された1小隊は、58人が出かけていって、帰ってきたのは13人だった。重砲部隊では、17人のうちわずか4人しか帰ってこなかった。こういう損害があったとはいえ、E中隊としては、首里の方向に数百メートルも侵入し、砲兵隊の協力も得て、石嶺付近の戦線で、幾百人もの日本兵を倒したのである。』(372頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 372頁より》

石嶺: チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

5月20日、チョコ・ドロップの洞窟は、完全に封鎖された。その日、日本軍の1中隊がチョコ・ドロップを奪回しようとして最後の反撃を試みたが、兵力の半分を失って撃退された。同じ日に米第3大隊は、戦車、火炎放射器、爆薬で大石森を総攻撃、ついにこれも確保することができた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 380頁より》

運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

… 大隊は〝犬歯山〟の近くで猛烈な戦闘にはいり、榴弾肉弾戦のすえ、ついにコ

ニカル・ヒルでいちばん高いところと、つぎの山とのあいだの陣地帯を占領することができた。使い果たした手榴弾は、じつに1100個を上回っていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 392-393頁より》

 

陸軍看護隊 (従軍看護婦) の到着

兵士が到着した看護隊の女性たちに戦利品を見せている。米軍は兵士に許可証を発行したうえで戦利品の本国への発送を許可していた。なかでも日本軍の軍刀は人気の的であった。

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A group of U.S. Army nurses, just arrived to serve at hospitals at this new base in Japanese waters, gather around to inspect an enemy sword displayed by Marine Private First Class Johnnie Gallagher, son of Mr. Edward M. Gallagher, Sr.

日本領の新しい基地内に設置された病院に勤務するため到着したばかりの陸軍看護兵が、海兵隊ギャラガー1等兵(マサチューセッツ州出身)をとり囲む。彼は、戦利品である日本刀を見せている。(1945年5月20日撮影)

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海兵隊と陸軍看護兵--沖縄に着任した陸軍看護兵がまず目にしたものに、沖縄の青年団旗があった。「浦添青年団」と書かれており、米国のYMCAのような若者の組織である。(1945年5月20日撮影)

MARINES WITH ARMY NURSES--One of the first sights seen by a group of U.S. Army nurses arriving here for duty was the flag of a local Okinawan branch of ”Urasoe Mura Seinen dan”, which means ”Young Man's Association.” which is similar to our YMCA's.

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第32軍の動向

首里石嶺町 - 最終防衛ラインの崩壊

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首里の日本軍司令部の近く、通称「フラットトップ」と呼ばれた丘が65年前のきょう、アメリカ軍によって占領されました。那覇市首里石嶺町にある小高い丘。頂上付近が平らな事からアメリカ軍は「フラットトップ」、日本軍は140号高地と呼んでいました。

首里の日本軍の司令部からおよそ2キロ。両軍にとって重要な場所です。戦力が激減していた日本軍は丘の頂上に最小限の戦力を配備する「反斜面陣地」といわれる防御の陣地を敷きます。

相手が登ってきたところを後方にいた戦力が一気に攻撃を仕掛け撃退、防御する作戦です。およそ10日間の戦闘の末65年前のきょう、アメリカ軍が「フラットトップ」を占領。この戦いで日本軍の防衛ラインは完全に崩壊首里撤退を余儀なくされます。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月20日

5月20日過ぎには軍司令部が置かれた首里の目と鼻の先にアメリカ軍が押し寄せた。日本軍は約5万人が生き残ってはいたが、もう、アメリカ軍を押しとどめる戦力はなかった

第32軍司令部は、これまで多くの戦場でおこなわれてきたように、戦えなくなった者を殺し、あるいは自決を促し、歩ける者だけが敵の銃弾に身をさらすようにして最後の突撃を敢行し、玉砕して果てるか、あるいは島尻地区へ脱出移動して、最後の一兵まで戦い抜くか、重大な選択を迫られた。

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編・森山康平=著/河出書房新社) 77頁より》

八原作戦参謀の言葉によれば、5月も20日を過ぎるころになると戦況は、「肺病患者の第三期的状態」に陥っていた。つまり守備軍の防衛体制は、形ばかりで中身はがらん洞というわけである。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 136頁より抜粋》

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 沖縄本島への空爆護衛空母ホガット・ベイ(CVE-75)の艦載機から撮影。(1945年5月20日撮影)

Aerial strike on Okinawa, Ryukyu Islands. Taken by plane from USS HOGGATT BAY (CVE-75).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

小禄の海軍

蚊蛇平(がじゃんびら)台地・小禄(おろく)飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

5月20日、…南方糸満方面に向けて構築していた一分隊の砲側と、東方首里に向いていた三分隊の砲側に、艦砲弾がまともに飛び込み、…一分隊のラッパ手東が即死、松岡兵長が黄燐弾を浴びたうえ、高射砲は砲身に艦砲の破片が突き刺って使用不能になった。深夜の出来事である。三分隊では昼ごろ、砲側入口で眠っていた…4人が木端微塵に吹き飛ばされた。彼らの肉片は砲側に飛散し、はらわたがダラリと天井の杭木にぶら下がった。

なかでも私たちが肝を冷やしたのは、六分隊の地下壕であった。…ここの砲は南風原方面に向けていたが、その中間に大型爆弾が落ち、寝ていた六分隊全員が火砲とともに埋没してしまったのである。

救出命令が通信班に出た。私たちは救出用具と担架を持って100メートルほど離れた六分隊の壕へ急いだ。壕の上方の岩盤が崩れ落ちて通路の真中に直径10メートルほどの大穴があき、反対側の千早城は跡形もなく吹き飛ばされていた。千早城の堅い岩盤の前には、せんべいのように押しつぶされた同年兵…の死体が転がっていた。

…私たちは上空を旋回するトンボの爆音を気にしながら、生き埋めになった戦友たちを必死になって掘り起こした。…数名が間もなく遺体となって掘り出された。』(92-93頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 92-93頁より》

小禄の海軍 (沖縄方面根拠地隊): 大田実海軍少将

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日本軍の管理下にある那覇飛行場。その背後には、那覇が見える。護衛空母ブロック・アイランド(CVE-106)の艦載機より撮影。(1945年 5月20日撮影)

Naha Airfield on Okinawa in Jap hands. Naha Town in background. As seen from plane of USS BLOCK ISLAND (CVE-106).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

…数日前、安里川まで前進した第6海兵師団にたいして、那覇市への突破を恐れた日本軍は、4個大隊の海軍陸戦隊を独立混成第44旅団の前線の南側の一帯に配置していた。海軍の大隊は、国場川の南西の丘に陣取り、シュガーローフを援護すると同時に独立混成44旅団の防衛線が突破されたさいに、首里防衛線をまもる役割であった。

そしていま、美田大佐率いる独立混成第15連隊は消滅し、これらの部隊は国場川首里高地をむすぶ、独立混成44旅団の新たな戦線を補強するために投入されるが、さもなければシュガーローフの奪還作戦にむかう準備がととのっていた。かりに戦線が崩壊すれば牛島中将の防衛線の側面が押しあけられ、海兵隊国場川まで突破され、首里要塞の背後にまわりこまれるため、彼らの役割は重要であった。

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 340頁より》

 

南風原陸軍病院 - ひめゆり学徒隊

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ひめゆり平和祈念公園資料館 PDF

沖縄陸軍病院南風原壕は、黄金森と現在の南風原町役場近くの丘に掘られた人工壕です。米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬から、本島南部への撤退命令が出された5月下旬まで使われました。各壕に負傷兵が運び込まれ、軍医、看護婦、衛生兵、女学生(ひめゆり学徒)らが医療活動を行いました。

沖縄陸軍病院南風原壕 屋外戦跡案内 | 南風原町

ひめゆり学徒隊とは

泣いて笑って過ごした75年前の学生生活 普通の日常に次第に戦争の影が忍び寄ってきた… | 戦世生きて くらしの記録 | 沖縄タイムス

沖縄師範学校女子部の生徒だった島袋淑子

4月1日に米軍が沖縄本島に上陸。戦闘が激化するにつれ、瀕死(ひんし)の兵士が続々と運ばれてきた。米軍を一網打尽にしているはずなのに、敵の攻撃はますます激しくなる。想像していた戦争と「違う」と感じ始めた。

切断された手足「学生さーん、それ煮てくれよ」 動員された17歳少女、想像していた戦争と「違う」 | 戦世生きて くらしの記録 | 沖縄タイムス

1945年3月、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人、教員18人の計240人が陸軍病院に動員され、負傷兵の看護に当たった。米軍の攻撃を受け、本島南部に撤退。約3カ月間で136人が犠牲になった。

ひめゆり学徒隊に関するトピックス:朝日新聞デジタル

生徒たちは暗い壕のなかで、昼夜を分かたず働き続けました。負傷兵の中には、あまりの傷の痛みや空腹の苦しさにいらだって「俺たちは沖縄を守りにきているのに、この様は何だ。お前らも壕を出て傷ついてみろ」と生徒たちに当たり散らす人もいました。手術室勤務の生徒たちは手術器具の準備や片付け、切断した手足の処理等をしました。治療班勤務の学徒らは、重い治療箱を持ち、看護婦と共に壕から壕へと駆けずり回りました。食事の運搬・水汲み・死体埋葬などの雑役も学徒らの仕事でした。それらの仕事は砲弾の飛び交う壕の外に出ていかなければならないとても危険な任務でした。任務の途中で砲撃に遭ったり、ガス弾攻撃を受けるなどして、南風原一帯では教師2名、生徒9名が亡くなりました。 

ひめゆり平和祈念公園資料館 PDF

… 島袋淑子さん(87)は今も悪夢にうなされる。米軍の爆撃を逃れて壕(ごう)の中に隠れている友人や日本兵が死んでいく夢を見るのだという。島袋さんは1945年3月、大日本帝国軍の看護要員として戦場に動員された女子学生「ひめゆり学徒隊」222人のうちの1人だ。沖縄の南端で陸軍病院として使われていた、あの地獄の壕の中で友人が命を落としていった中、自分が生き残ったことに今も深い罪悪感を抱いている。…(中略)…「両足切断くらいではない、腸も飛び出してどうにもならない、顔がほとんどない、そういったのがどんどん運ばれてくると、一体何なの、どうしたらよいの、そういう気持ちだった」島袋さんは当時17歳で、みんな1週間後には学校に戻れると思っていたという。

沖縄戦から70年、いまだ悪夢にうなされる生存者:AFPBB News

 

そのとき、住民は・・・

収容所生活と軍作業

米軍は生き残った民間人を次々と収容所に囲い込み、その間に基地建設を進めた。住民は米軍の基地建設の都合で収容所を転々と移動することを強いられ、戦場だけではなく多くの人が収容所で亡くなった。

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金武 - 漢那収容所

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金武の労働者用営倉への入り口。17歳から47歳の沖縄人は夜間、路上ではなくこの営倉で休む。日中は灌漑殺虫剤散布柵の建設瓦礫の掃除用具類の回収などといった労役に従事する。(1945年5月20日撮影)

At Chim (Kin) the entrance to the labor stockade where the Okinawan from 17 to 47 years of age are billeted at night to keep them off the roads. During the day they work hauling water, spray DDT, build fences, clean up debris, salvage equipment and other jobs.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

死者の埋葬: 写真の少女は、民間人収容所で縁者もなくたった一人で亡くなった。

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米国海軍: Civilian burial on Okinawa in Ryukyus. A simple burial for a civilian with no relatives.
沖縄本島で行われた民間人の埋葬。埋葬された者には親類がいなかったので簡素に行われた。1945年 5月 20日

米軍がシモバル収容所と呼んだ場所は、前原地区の泡瀬のあたりと思われる。

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沖縄本島の下原にある収容所の民間人が、配給用の農産物を受け取っている様子。この農産物は、近くの畑で彼らによって育てられた。(1945年5月20日撮影)

Civilians in camp at Shimobaru, Okinawa in Ryukyus, receiving rationed produce they had raised in nearby fields.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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米国海軍: Native official explains Military Government's work orders for the day to villagers of Shimobaru, one of native camps established on Okinawa in Ryukyus.
地元の役人が、下原の住民に、軍政府発令の当日の仕事について説明する様子。この地は、沖縄本島に設置された民間人収容所の一つ。1945年 5月 10-20日
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プロパガンダ: 米軍の記録写真は投降ビラなどにも利用された。

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米海軍: Kikue Arata, age 17, of Shimobaru, gives written statement in Japanese of her own volition to Lt. (jg) McKnight of Military Government. Translation: ”We people up to the present took in good faith the propaganda issued by Japan in regard to American troops. We believed they would kill our men and make sport of our women, but we are gratefully aware of the vast difference between the American's kind treatment to us and the treatment which we were led to expect by Japanese propaganda.”
下原に住むアラタキクエ(17)が、日本語で書かれたメッセージを、軍政府のマックナイト中尉に自らの意思で手渡す様子。メッセージの訳:「私たちは今日まで、米軍に関する日本側のプロパガンダを疑いもなく信じていました。私たちは、米軍が男性を殺し、女性に辱めを与えるものだと思っていました。しかし、米軍の私たちへの扱いは、日本側から信じ込まされたプロパガンダとは全く違って親切なものであることを知り、私たちはありがたく思っています。」1945年 5月 20日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海軍: Native official explains Military Government's work orders for the day to villagers of Shimobaru, one of native camps established on Okinawa in Ryukyus. At the end, crowd bows and pays respect to American government for kind treatment.
地元の役人が、下原の住民に、軍政府発令の当日の仕事について説明する様子。この地は、沖縄本島に設置された民間人収容所の一つ。地元民は、最後にはお辞儀をして米国政府の親切な待遇に対して敬意を表することになっていた。
撮影日: 1945年 5月 10-20日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

伊江島から慶良間諸島への強制移送

伊江島ナーラの収容所

伊江島で大規模な飛行場建設を続行している米軍は、住民を伊江島の海岸沿いに設置した収容所に収容した。いまだ各所に潜伏する日本兵は住民を虐殺した。

二、三日して、その壕にアメリカ兵がやってきて、私たちは、ナーラの難民収容所につれていかれた。ナーラに収容された人たちは、まだ壕にひそんでいる身内を探しに壕に出かけていくのが多かった。四、五名のグループでいくならわしだった。それらのうち、平良さん、新城幸徳、田港つね、他二人のグループは、ついに帰って来なかった。だいたい朝の九時に収容所を出て、五時に帰ってくることになっていたのだが、永久に帰ってこなかった。私たちは大騒ぎになったが、状況からみて、日本軍の敗残兵に殺されたのは、ほぼまちがいないだろうといわれている。

「一兵士として」沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

慶良間諸島への強制移住

伊江島の生き残った住民は、5月20日、慶良間につれていかれた。渡嘉敷に1,600人、慶留間に400人だった。私は、慶留間につれていかれた。この戦争で、私の家族は私を残して全滅した。

「防衛隊」沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

しばらくして、私たちは全員、渡嘉敷島にL・S・Tで運ばれました。渡嘉敷の人びとはまだ山にかくれたままでしたから、民家は空家になっており、そこに私たちは分宿させられました。部落のはずれにはアメリカ軍が針金を張りまわしてそれに手投弾をぶらさげて、地雷がわりに使っていました。それは、山にたてこもる日本軍ーつまり赤松隊ですがーの侵入を防ぐためだったのでしょうが、とても危険で、伊江島の人の中にも、ソテツやハブキをとりに行って、それにふれて死んだ人が少くありません

渡嘉敷で一番困ったのは、食糧でした。伊江島から持っていったのはハッタイコだけでしたので、それを水でこねて食べたり、ソテツはもちろん、雑草でも食べられるものはなんでも食べました。例えばツハブキも食べつくしてしまい、あざみの茎のトゲを除いて蒸して食べたり、ザーギナといういやな臭のする灌木の葉をたべたりしました。ソテツの中毒症もひんぱんに起りました。とくに、子どもたちは無知ですから、飢えの余り、未処理のものをつまみ食いして、中毒しました。私も危く死ぬところでした。

「子どもの体験」沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

伊江島でも日本軍に殺害された住民は、強制移送された渡嘉敷島でも、この後、山にこもる日本兵に虐殺される事件が起こる。

渡嘉敷島では、山中に赤松隊がたてこもっており、アメリカ軍との間にしばしば小ぜりあいがあった。渡嘉敷島の住民も山中に避難したままで、私たちはその民家に分宿させられたが、家の軒先を弾がかすめてとぶありさまであった。

そのころ、伊江島の戦闘は完全に終っており、その平和になったところから、なぜ、まだ戦闘のつづいているところに伊江島住民を連行したのか、私は不思議でならない。おそらくは、渡嘉敷住民を下山させるための (おとり)ではなかったかと思うがどうだろうか。

「小学生の体験」沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

 

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