〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月25日 『お礼参り』

パラシュートで届ける食糧 / 民間人収容所の規格屋 / 隊長への「お礼参り」 / 掘っ立て小屋と危険な軍作業

 

米軍の動向

パラシュートで届ける食糧

本土進駐の最重要任務の一つは、日本軍に捕らえられた捕虜の救出であった。日本軍は枯渇する労働者を補うため国策として捕虜を日本本土に移送し炭鉱などの強制労働に充てた。移送や本土でおびただしい捕虜の命が奪われた。米軍は日本中に散在する捕虜収容所の場所を空からも特定し、パラシュートで物資を投下する任務を続けた。

米空軍: ... the 13th Air Cargo Re-Supply Squadron, pack a parachute into a canvas cover which will be stripped off by a static line. They are based at the edge of Kadena Air Field on Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】 嘉手納飛行場の端にて、パラシュートを帆布のカバーに詰め込む第13空輸補給中隊。カバーは荷物が投下されると自動索によってはずれるようになっている。嘉手納。1945年 8月17日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

宇部興産の本山収容所では、まだパラシュートが到着しない間、なんとか赤十字の箱でしのいだ。戦中の捕虜に届けられるべき赤十字の小箱は、収容所の管理者に収奪され、捕虜に届かないことも多かった。

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【訳】その後の数日間、我々の将校たちは日本軍に圧力をかけ、我々が最初に受け取ったのは赤十字の小包だった。1つは2つに分けられ、ようやく本物の食べ物が手に入った。ネスレの練乳を3、4杯、あるいはコンビーフ缶半分をご飯に乗せただけでもごちそうだった。次にやるべきことは、日本人の警備員を排除することと、我々の将校が指揮を執り、ピッケル武装した警備員を収容所の入り口に配置することだった。… また、各捕虜収容所がその位置を示す必要があるということをラジオで聞き、私たちは、調理場の屋根に POW の文字を描いてその位置を示しました。この標識は翌日、大きな効果を発揮した。

宇部興産「本山炭鉱」~ ブレニグ・ジョーンズ「日本の本山 ~ 歴史をありのままに見る」より (BBC) - Basically Okinawa

いよいよパラシュートで物資が届く。以下は長崎の捕虜収容所。収容者113人が亡くなっている。

数日後、米軍機が小ヶ倉寮の上を低空で飛来し、やがて救援物資がパラシュートで投下され、捕虜たちは待ちに待った食糧でようやく命をつなぐことができた。

調査レポート 福岡第 14 分所(長崎市幸町) pdf

 

民間人収容所 - 「住居」の建設

米軍は米軍基地建設のため多くの住民を北東部の民間人収容所に再移送したが、ほとんど収容の準備もないまま住民が次々と荒れ野に移送され、多くの住民が飢餓やマラリアの犠牲となった。基地建設には敏捷さを誇る「海のミツバチ」海軍建設大隊 (シービーズ) だが、こと民間人収容所の住居建設に関しては動きはまったく俊敏ではなかった。

米陸軍公刊史書琉球の軍政府」

計画立案者らは、そのような建設作業は海軍のシービー部隊によって行われるだろうと予想していた。ニミッツ提督は 1945年1月にはこれに同意していたが、しかし、第27海軍建設大隊*1が実際に軍事政府の専門家を支援するために沖縄に到着したのは6月4日のことであった。

Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950 (1988) - Basically Okinawa

第27海軍建設大隊の記録には、住民が収容所に移送された金武町、本部半島、勝連半島から家屋を破壊して材木などの資材を調達 (サルベージ) した記録を記している。これらの場所は沖縄戦で大規模な家屋損失を避けれることができた地域である。金武町の破壊とサルベージは6月21日から、本部半島と勝連半島は7月1日に開始された。

サルベージされた資材と木材は久志、漢那、石川 (民間人収容所) の製材所に牽引され、集められ建築用に大きさが合わせられる。製材所に隣接する作業場では、民家のプレハブ部品が作られる。規格は建設現場に運ばれ、そこで353人の現地人労働者が39人のシービーズの監督の下で住宅のフレームを組み立てる。シービーズが作るのはフレームのみで、住民女性らが、割った竹で側面のパネルを織り茅葺き屋根を固定する。各家は12x24 (3.6mx7.3m)で、キッチン用の小さな差掛けが付いている。1日あたり平均50戸の住宅が建設され、来週中には1日あたり100戸以上に増える予定だ。

第27海軍建設大隊 (27th NCB) ~ 民間人収容所の家屋の建設 - Basically Okinawa

北部の収容所と比較し、もっとも状態が良いとされた石川民間人収容所の様子。

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Ishikawa native compond constructed under seabee supervision.【訳】海軍建設大隊の監督の下で建設された石川民間人収容所の住居地

第15海軍建設大隊 (15th NCB) - Basically Okinawa

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第82海軍建設大隊 (82nd NCB) - Basically Okinawa

それでも石川収容所は、北部の収容所とは比べ物にならないほど状態が良かった。

漢那民間人収容所で

… また移動して金武村の中川というところに行きました。そこへ行ったら、配給もないし、食べ物は向こうのようにない。そこでは、栄養失調がまただんだん増えたわけですよ。配給ではどうしても足りないので、山羊が食べる草は、どんな草でもわたしたちは食べました。また海へ行って、ホンダワラを取って来て、これを罐詰といっしょに煮て食べたりしました。うちは仮小屋で地べたに茅を刈りて来ていて、まるで動物の生活ですね。そういう生活を半年くらいしまして、名城へ移動しました。金武の中川は、人家がちょっとしかありませんから、山の中の道のそばに仮小屋をつくって、床がないですから、茅を敷いて寝起きしました。冬になっても被り物は、毛布なんかありません。アメリカ兵は着物がある、食べ物があるといったが、そんな配給はなくて着のみ着のままですからね。それで自分たちで作業しながら、南京米袋などを拾って来て、それを縫い合して被っておったんですよ。

山城よし (三十歳) 『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 米須 ( 1 ) - Battle of Okinawa

米海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.【訳】 米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子。 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

しかしこの時、米軍が持ち込んだプレハブの規格工法は後に規格ヤーと呼ばれる戦後の住宅建設の原型になった。

米空軍: THIS WILL SOON BE HOME FOR A NATIVE FAMILY - Military Government furnishes the frames for native huts, but the Okinawans do the rest. Here a group is busy putting on the thatched roof. Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】軍政府が住民の家の骨組みを建て住民は残りの仕事をする。写真は数人の沖縄人が屋根を葺くのに忙しくしている様子。1948年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

軍政府の住宅建設をありがたく感涙するには及ばないだろう。収容所の「掘立て小屋」をつくる資材は、米軍が人々の村落を破壊してサルベージしたものだった。

多くの損傷を受けた建物や無傷のままの建物が、建築資材を回収(サルベージ)する目的で、私たちの監督の下、住民によって取り壊された。こうして回収された木材と石材は、過密状態の住民のための収容所を建設するため、収容所の過密地域に輸送された。

ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946) - Battle of Okinawa

このため、衣食住で悩まされた収容所から解放され帰村しても先祖代々からの住居が失われている、という深刻な状況を生じさせる。これらの無駄と矛盾に満ちた住宅計画は、すべて沖縄という米軍基地の建設を優先させるがためだった。

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A consolidated B-32 super-bomber taxiing towards the runway on Yontan Airstrip before take-off on a routine flight to Luzon. Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】ルソン島(フィリピン)での慣例飛行への離陸前、読谷飛行場の滑走路に向かって誘導滑走するコンソリデーテッドB-32長距離爆撃機。1945年8月25日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

屋嘉捕虜収容所内の「お礼参り」

阿嘉島の野田隊は8月23日武装解除し投降、その夜に屋嘉収容所に収容された。それまで軍の理不尽な暴力にさらされ、仲間の「処刑」すらあったため、捕虜収容所では「お礼参り」という報復が横行した。

阿嘉島の野田隊に所属していた兵隊の回想

8月下旬頃の、まだ殺気めいたものが残っている収容所の中では、芳しい話ではないが、毎夜のように集団リンチが行われた。中でも一番顕著だったのは、われわれの隊の主計であったM中尉がやられた事件で、主に早くに投降した整備中隊の兵隊達が、他部隊の兵隊の応援で始めたものであった。

これは、たしか25日の夜であった。兵隊だけがいる中隊のテントのある広場に、黒山のような人が集まり、見覚えのある数名の兵隊によるものであった。殴ったり蹴ったりされ主計は全身打撲で気を失ってぶっ倒れ、水をかけられて息をふき返し、仲間の将校がようように引き取って行った。兵隊の側からみれば、仲間の兵隊が殺されたのを始めとし、過酷な処置を受けただけに、その感情も理解できるところだった。

ほかに阿嘉島の関係では、かつて島の炊事にいた下士官や本部関係の将校など数名が、主計ほどではなかったが兵隊達によってリンチを受けた。

つい先日まで存在した軍隊という組織では、考えも及ばないことで、仮にあったとすれば、言語に絶する処分をされるであろうが、何と言っても収容所の捕虜は、数の上では兵隊が最も多く、次は下士官で、将校は生き残った率は高かったにしても、やはり数の上では絶対少数なのであって、まともに反抗などできる気勢もなかった。

また兵隊と上官という関係ではない特殊な事件だが、入所早々の頃、ある兵長が朝鮮の軍属と思われる3、4人に、真昼間襲われたのを見た。

これはその軍属が、兵長の帯びていた帯革(軍隊の幅の広いバンド)を抜き取り、それで首を締め上げたもので、周囲には私のほか日本兵の捕虜が数人はいたのだが、しばらくはその気勢にのまれ誰も止めようとせず、映画でも見ているように放心状態で眺めているきりであった。兵長が気絶したのをみて、ようやく1人がゲートにとんで行き、MPに告げたので殺人には至らなかったが、それに至る事情はあるにせよ、凄惨な感じのする出来事であった。

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 215-216頁》

1945年3月、慶良間諸島阿嘉島で米軍に捕獲された日本陸軍の特殊攻撃艇「四式連絡艇」。

1945(昭和20)年3月、慶良間諸島阿嘉島…:戦争の記憶~沖縄戦 写真特集:時事ドットコム

 

屋嘉収容所の朝鮮人軍夫

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米海軍: A small detail from a seaplane tender head back to their ship with their 19 Korean prisoners. 【訳】朝鮮人軍夫捕虜19人と共に、水上機母艦に戻る小規模の特派部隊。撮影日 1945年 5月 11日 撮影地は不明

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

野田隊長と懇意だった衛生兵の証言

虐げられていた者の反発が起きた。そのはじめとして慶良間列島の日本軍の下士官朝鮮人軍夫たちの柵に連れ込まれたのであった。軍夫たちが慶良間にいた時、酷使されたことへの仕返しでこれを境として毎夜のように私刑が行われた。

その頃同じ慶良間の阿嘉島から武装解除をして収容されてきた集団があった。ある夜、将校がいる将校幕舎に呼び出しがかけられた。呼び出しがかけられたのは阿嘉島の第2戦隊の野田少佐であった。執拗な軍夫たちの呼び出しに、逃げることもできずそれに応じて柵の外に出ると体格の良い大きな男が3-4人の軍夫と待ち構え待ち構えていて、一歩柵から出ると、両脇をしっかりと抑えられた。

《『血塗られた珊瑚礁-一衛生兵の沖縄戦記』関根清 (JCA出版 1980) p. 233 》

収容所内で謝罪にくる日本兵もいた。

それで、沖縄 (ブログ註・沖縄島の収容所) に行ったら、私たちに会いに来ました。「自分が本当に悪かった」と。私個人そうしたくてやったわけじゃなくて国の法律がそうだから、仕方なかった。心の中ではそうでしょう。国法がそうなっていたからで、個人的な感情はないんでしょう。彼も話が上手でした。私も不思議。昨日まではよく殴って。今日はわざわざ謝りに来たのです。… 世の中がひっくり返ったのか。妙な気がしました。この世の中で、こんなことが。妙な気がして、殴りたくもなく、むしろ感動しました。朝鮮人と日本人は大変仲が悪かったんです。ある日はけんかして大騒ぎになったこともあります。大きなけんかになって外人たちが銃を撃って、空砲を撃ってけんかを止めたんです。大騒ぎになりました。敵同士になったんです。日本を攻撃しに行くと。そのような運動をする人もいました。「一緒にやろう」と言われました。私はそんなことやりたくもないし、飢えて言葉も出てこなく、精神的に疲れていたんです。

イム・ビョンファンさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

日本軍の虐殺手法は、まず穴を掘らせ、次に処刑するというものだった。

飯盒を盗んだという理由で銃殺された兵隊逃亡しようとして失敗した朝鮮人十二人の銃殺、など、ほんとにこの世の人間のなせるわざとは思えない事が簡単にやってのけられました。特に朝鮮人の場合、まず銃殺場所に連れていく前に、炊事班が炊いた白いごんをおわんに山盛りにして入れ、離入りのパインをニコずつ食べさせていましたが、これまでの飢えをしのぐためか、あるいは自分の最期の食べ納めのためか夢中でかけこんでいました。部落民の話しによると、彼らは殺される前に体長ほどの穴を掘らされ、その前に立たされて撃たれると穴にころがる方法になっていたようです。兵隊が上から砂をかぶせた後、まだ十分には死んでないせいか砂がムズムズ動いている人は、日本刀で何度か刺して殺していたということです。

その他に部落民 (住民) の場合は、前にも述べたように銃殺までには至りませんでしたが、二、三人の人が半死状態になるまでの拷問をうけました。食糧をさがしに行って見つかれば以上のような苦しい目にあわされ、そうかといってさがしに行かなければ人を餓死させてしまう始末です。その頃から、部落民アメリカ軍よりも、次第に、味方であるはずの日本兵に恐れを抱くようになり、逃亡する人が目立ってでてきました。逃亡する手段として、日本兵に見つからないようにこっそり浜辺に出て手をふれば、島の周囲をとりまいている米艦からゴムボートが出され、迎えに来てくれました。

「阿嘉島の戦闘経過」沖縄戦証言 慶良間諸島 (1) 阿嘉島 - Battle of Okinawa

日本軍によって使役された朝鮮人軍夫は、最初は沖縄島の捕虜収容所の区画に収容されていたが、ハワイなどの収容所に移送され、後に帰還の手続きが行われた。

摩文仁九死に一生を得て投降した朝鮮人軍夫の証言

阿嘉島から収容所に入ってきた軍夫たちは、まるで骸骨のように、やせさらばえていた。彼らの話によると、本島には三年分の台湾産玄米が備蓄されていたが、離島には、月初めに一か月分ずつ支給されることになっていた。だから3月23日 (ブログ註・厳密には26日)、米軍が上陸し、彼らが山中に逃げた時には十日分の食料しか持っておらず、山に自生する山桑を摘んで命をつないだという。また朝鮮人軍夫16人が、スパイ容疑で虐殺されたという話を聞き、それを芝居にして、望郷劇場で演じたことがある。望郷劇場は、我々の請願によって、朝鮮人収容所の中に設けられた唯一の娯楽施設で、米軍がトラック一杯の用材や工具を提供してくれた。

《金元栄『朝鮮人軍夫の沖縄日記』三一書房、1992年、182頁》

 

そのとき、住民は・・・

民間人収容所の生活

第27海軍建設大隊が駐屯した古知屋収容所では女性たちが茅や竹を刈り、シービーの監督の下で竹を編んだり茅の屋根を葺いたりした。茅刈り作業だけでも危険が伴い、また作業の報酬は握り飯一個という状態だった。

古知屋収容所で茅刈りの軍作業にでていた女性の話

そうしたら名護から来たアメリカ兵二人来てですね、… そうしたら上に登って、二十二、三くらいの娘を二人ですね、引っ張って来るんですよ。… そうしてMPに云ったんですよ、白か黒かときくんですよ、MPは。(註・白人) といったらなかなか行かないんです、一人では。そうしてMPも目をキョロキョロさせてさがして、… そんな恐しい生活をくり返しかえして苦労しました。… 掘立て小屋をつくって、苦しい生活でした。作業に出ても握り飯一箇ずつ貰うだけでした。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 米須 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

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  1. 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月25日(土)
  2. 1945年7月15日 『因果はめぐる』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

*1:第27海軍建設大隊が沖縄に駐屯した日程記録はあるが、クルーズブックには沖縄での写真記録を見つけることができない。