〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月8日 『ソ連、日本に宣戦布告』

ソ連の宣戦布告 / 紙爆弾の投下 / 食糧戦争 / 勝山事件

 

ソ連、日本に宣戦布告

日本はソ連の和平仲介に望みを託したが、逆にソ連に宣戦布告される。

太平洋戦争で絶望的な戦況に追い込まれていた日本の、唯一の望みは、ソ連による和平仲介だった。1945年2月のヤルタ会談ソ連の対日参戦が密約され、1945年4月5日にソ連は、日ソ中立条約を延長しないと通告していた。それでも日本はソ連との水面下の交渉を続け、7月のポツダム会談中には、近衛文麿・元首相を団長とする使節団の受け入れをソ連に求め、返事を待っていた。

【戦後70年】まだソ連に望みを託す日本 1945年8月8日はこんな日だった

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リヴァディア宮殿で会談に臨むチャーチルルーズベルトスターリン(中央ソファー左から)

ヤルタ会談 - Wikipedia

ポツダム会談でソ連は東アジアのことに何も介入してこなかったから、ソ連は今後も東アジアに関しては連合国と距離を置くだろう。軍部がこんな楽観的な報告をまとめていた、まさにその日だった。

8月8日午後5時(日本時間午後11時)、モスクワ。日本の佐藤尚武・駐ソ大使は、ソ連モロトフ外相と向き合っていた。和平仲介の申し入れの返事をもらうべく、佐藤から長いこと申し入れていた会談だった。モロトフはその場で、佐藤に文書を手渡した。

「日本武装兵力の無条件降伏を要求した今年7月26日の3国すなわちアメリカ合衆国、英国並に支那の要求は日本の拒否するところとなった。従って極東戦争に対する調停に関するソヴエート連邦に宛てられた日本政府の提案は一切の基礎を失った(中略)… 以上に鑑みソヴエート政府は明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する」

日本への宣戦布告だった。

【戦後70年】まだソ連に望みを託す日本 1945年8月8日はこんな日だった

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[ロシア国立写真・映像公文書館提供]太平洋戦争末期の1945年8月8日ソ連は突如、日本に宣戦を布告した。翌9日にはソ連軍機甲部隊が国境から南下を始め、またたく間に満州(現中国東北部)や朝鮮半島北部を制圧した。写真は、満州国の首都だった新京(現・長春)を行進するソ連軍部隊。

ソ連の対日参戦 写真特集:時事ドットコム

 

米軍の動向

心理戦 (psyop) と紙爆弾 (paper bombs)

米軍の爆撃機はまた本土に「紙爆弾」を投下するためにも使用された。

海軍の艦載機と陸軍のスーパーフォートレス (B-29) は、爆弾や焼夷弾とともにこれらの「紙爆弾」を数百万個、日本の本土と減少しつつある領土に投下している。

Bureau of Naval Personnel Information Bulletin, All Hands, August 1945

1945年8月8日頃に本土で撒かれたと思われるリーフレット。広島原爆とソ連宣戦布告を伝え、次の原子爆弾投下を予告、「ただちに武力抵抗を中止すべき」「即刻都市より退避せよ」と警告している。


日本國民に告ぐ!! (ビラ) - Wikisource

「日本の本土もまた1つの島に過ぎない」OWI 2102

〔米軍投下ビラ〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション

2万5千の日本軍が、サイパンを支えなかったとき、

 軍部はサイパンもいま一つの島にすぎないといった。

2万4千の日本軍が、硫黄島を支えなかったとき、

 軍部は硫黄島もいま一つの島にすぎないといった。

12万の日本軍が沖縄を支えなかったとき

 軍部は沖縄もいま一つの島にすぎないといった。…

本土も、これらの島と同じ運命に直面したいま一つの島に過ぎないことを考えよ

投降ビラ「伝単」の世界 | 探検コム

米軍はサイパン硫黄島の戦いで日本の完全なる情報統制を知る。沖縄戦ではそれにどう「くさびを打ちこめるか」という心理作戦 (psyop) を実験的に展開した。

アイスバーグ作戦以前は、日本人に対する心理戦作戦は何かと落胆の的であったが、アイスバーグ心理戦を主に担当したニミッツ提督のスタッフは、沖縄戦が太平洋戦争で最も成功した例と判断した。民間人からの軍事的抵抗はごくわずかであり、作戦の早い段階で予想よりも多くの敵兵士が降伏した。残念ながら、特に沖縄での人命と財産の損失は依然として莫大なものではあるが、琉球での心理戦の成功は、作戦における人的被害の減少に貢献したことは間違いない。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 71》

沖縄戦での心理作戦を成功とみなした米軍は、心理作戦 psychological warfare の研究をさらに占領統治の宣撫政策に適用。琉球列島米国高等弁務官府が発行した『守礼の門』などの宣撫雑誌は、実際には米陸軍第7心理作戦部隊が制作したものだった。米軍基地「牧港補給地区」「牧港補給地区補助施設」「平良川 (デラガワ) 通信所」を拠点にした。これらの基地は朝鮮戦争ベトナム戦争での心理戦の拠点となった。

 

第32軍の敗残兵

宮古島 - 七又地区の日本軍

約3万人の日本兵が駐屯した宮古島では、食糧不足が深刻な状態となる。

戦争中は食糧供出を軍から命ぜられて初めのうちはいうなりに応じていたが、区長をしていた砂川恵昌氏は、部落内に割り当てて来た野菜、イモなどが不足して来たし、 微発命令を拒否した。 集めようにも物がないといった。 その日の夜、 部落の西側にあるウンヌ ヤーの前の兵舎から着剣した兵隊が、部落に向ったという知らせがあった。 砂川は家を脱出していた。無人の砂川の家を兵隊は包囲して、クビヤド (ススキを摘んで作った戸)の間から、 床下にかくれていると思ったのか家を銃剣で刺していた。夜、 くらがりの中でプスプスというかわいた音が西どなりの家から聞こえていた。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 2 - Battle of Okinawa

二十年の初め頃からは、部落に食糧らしいたべものがなかったが、兵隊は、味噌をくれ、いもをくれと毎日の様に来た。 食事を作っていたら、戸を開けて入って来ようとするので、戸をワイーとつかまえて(しっかりおさえて) あげさせまいと、番していた。兵隊のやり方はさもしかった。 … 兵隊もうえ死にしたのがいたが、民間人はそてつを喰って、はれたり、しぼんだりして死んで行った。この部落民もそれを喰って死んだ人がいる。そてつは、よく腐蝕してからでないと毒があるのに、それが乾燥する前に喰ったりして死んだ。… 自衛隊というのが来るらしいが、あれはまた戦争準備をしでかすのではないのか

「七又部落 2」『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 2 - Battle of Okinawa

※ この証言は1970年頃までに収録されたもの。1972年「沖縄返還」による自衛隊配備の不安を吐露する証言も散見される。七又部落では現在、自衛隊の弾薬庫建設が強行されている*1

 

敗残兵の生活

ひたすら食糧を求める生活

恩納岳: 第4遊撃隊

東シナ海の海が煌々たる月光に映じて金色の波を散らしているある晩、麓の方にみんなを待たせた私と岡本上等兵が、県道を越えてゆくと、海岸よりの畑地にライトを消した大きな米軍トラックが数輛、こちらを向いて並んでいた。それは鬼の目のように思われたが、車の中には何か食糧があるかも知れないと思った私は、岡本上等兵とは角度をかえた北の方から近づいてゆき、私がまず、人がいるかどうか試すために、石ころを拾ってこのトラックに向かって2つ3つ投げてみた。カラカラ、と静寂の中に音がしたが、なんの反応もなく、どうやら敵はいないらしい。私は右手に拳銃を擬し背を低めながら、用心深くトラックに近づいた。

あと2メートルというとき突然、すぐ目の前の運転台のなかから、自動小銃が私をねらって、パーン、と火を噴いた。私は銃口から突きだしたような真赤な火線をわすれることができない。どんなに下手な射手でも、体の真ん中に命中するであろう至近距離で、弾は幸運にも拳銃を持っている私の右手の関節部分をかすっただけだったのだ。おどろいた私は、右手を押さえながら、まるで脱兎のように反対側の海岸に向かって逃げた。

私が射たれたと同時に、左方から侵入していった岡本上等兵が物音を立てて逃げだしたから、敵の射撃がこんどはそちらにも向いた。実は奴等は大勢いたのである。ボーン、頭上にはたちまち昼をあざむくばかりの照明弾が打ち上がり、逃げてゆく私の背後から曳光弾が洪水のように迫る。私も岡本上等兵も必死で走った。幸い海岸には、ブルドーザーで土を押し上げてできた断崖があったので、私たちはこの中に飛びこんでいた。そして射撃がひるんだ隙に海岸を一気に突っ走って危険をまぬがれた。その晩、谷茶の浜は一晩中射撃の音がなりっぱなしであった。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 253-254頁より》

また米軍は民間人を装い民間人収容所に紛れ込む兵士を CIC の尋問などであぶり出し、住民にも厳しく圧力をかけた。

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民間人収容所に紛れこんでいる兵士に出頭するよう命ずる警告

米軍心理戦リーフレット沖縄作戦 - わかりやすい沖縄基地問題

 

そのとき、住民は・・・

勝山事件

民間人収容所内外で横行する沖縄人女性への性暴力。2000年5月、1945年の7月に名護市でおこった殺人事件 (勝山事件) がタイム誌に掲載された。

50年間、その事件は忘れられていた。それから1998年に、地元(名護)の警察は、情報提供によって、このリゾートタウンのすぐ北の洞窟で3人の遺骨を発見し、それが海兵隊員のものであることが証明された。長い調査ののち、遺体は今年初め (2000年) に埋葬のために米国の親戚に送られた。… 

遺骨が発見された場所の近くで育った沖縄の高齢者の幾人かは、今、長く隠された一つの秘密を語ろうとしている。つまり村人たちの一団が3人の海兵隊員を、彼らが毎回繰り返し村の女性たちを強姦しに村にやってきている三人の黒人の海兵隊員だと考え、待ち伏せし殺害したというものである。

勝山事件について ~ 米軍内のレイシズムとセクシズム - Battle of Okinawa

2000年にニューヨーク・タイムスの取材に関して、海兵隊当局はこのように答えている。

沖縄とワシントンの海兵隊当局者は、戦争終結時における沖縄での米軍人によるレイプ事件についてはひとつも知らない、沖縄での海兵隊による戦争犯罪にかんして記録はないという。

沖縄海軍副司令官のジョン・G・カステロー将軍 (Gen. John G. Castellaw) は、島で数々の任務を遂行した過去30年間、沖縄でのアメリカ軍人による広範囲にわたるレイプの告発などは聞いたことがないと述べた。

勝山事件について ~ 米軍内のレイシズムとセクシズム - Battle of Okinawa

海兵隊によると、当時、多くの性暴力を訴える声は「なかった」ことになっているが、実際には犠牲者の訴えはおびただしくあり、多くの人が命を奪われた。女たちが声をあげていないのではない。実際には、上の発言に見るように、女性たちの声が聞かれていないということだった。

 

声を聞かない、声を拒絶する米軍のありかたは今も変わらない。

RBC NEWS「米軍が県の抗議受けない意向 米軍属強制性交未遂」2021/08/06

 

民間人収容所で二度の強姦の現場を目撃した女性の証言

終わってから、捕虜になってから (羽地で) イモを採りに行って、イモ採って中休みですよね、途中で休んでいるときに、アメリカ(兵)が来たもんですからみんなびっくりして逃げたんですよ。… そして一人は強姦する。そして、立ってるあれ (米兵) が、拳銃上に向けてパチパチと。怖かったですね。(逃げるのが)いちばん最後だから怖かったんですよ。みんなもういくらバンバンしても、助けようとする人いないんですよ。みんな逃げて。… ちゃんと軍の帽子かぶって、緑と黄色と混ざったカーキ服ですね。あれをちゃんときちっとしめて、拳銃して2人きたんですよ。あのときはアメリカ(兵)見たら皆逃げますからね。バーと逃げたんですよ。そのときにすぐ2人は捕まえられて。みんな逃げたもんだから、私もあわてて、川の石に(つまずいて)、イモを落としてしまってね。落とさなかったら見なかったと思います。私のイモを落とさなかったら。これを取って水浸しになっているイモを持って、上へ上げて頭に乗せようとして見たんですから。強姦とか殺されるとか、いろんなのがありましたから。

倒されてね、この軍の靴で、両方の靴で。そこ見た。足くびを軍の靴で踏んでいるのを見たんですよ。女の人の足首、軍の靴でね、大きい靴ですよ、両方の足を踏んでいるわけですよ。ほー、これが強姦かと思った。昼ですよ、昼。午後何時だったかね、3時ぐらいのもんかな。朝行って帰りですからね。… (中略) …

(二度目は) 捕虜になって石川に収容所に来てから、東恩納で。あれはですね、私たちはこの山で、親子はこの山ですね、…お母さんが、「助けてくれ、助けてくれ」って言ってるわけよ。娘がやられてるもんで。そのときは、薪を放ってすぐに逃げましたね。その場面までは見ません。倒されていたのは見たけれども、その場面は見ません。ただ、親が助けてくれって大きな声で言うもんだから、見たら、娘が黒人に倒されているわけよ。あっちは黒人でしたね、東恩納は。

長浜キクさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

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Japanese making rice the Okinawan way at Ishikawa, Ryukyu Islands.
現地の方法でご飯を作る民間人。沖縄本島の石川にて。(1945年 8月 6-7日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

大浦崎収容所で

本部町から大浦崎収容所に送られた22歳女性の証言

私たちは山から下りると、今帰仁から久志へひっぱられて行った。主人は戦地へ行っていたし、三歳の娘と母と私の三人だけだったので、本部へ食棍を取りに帰ることもできなかった。一度だけ、母が帰ったことがあったけれど、途中で黒人兵に追いまわされてひどい目に会ったこともあって、暴行はされなかったけれど、それ以来どうしても帰そうとしなかった。時には実家の父が訪ねて来て、少しずつ分けてくれたけれど、久志にいた数か月の間、殆んど配給だけで過ごさなくてはならなかった。

当時は女性にとっては死よりも強姦の方がこわかった。男は睾丸を切って戦車でひき殺し、女性は強姦されるという宣伝が流されていたし、事実、ここでも親の目の前でやられた人もいたので、若い女性はとくに注意せねばならなかったのである。たとえ奪い去られても、目の前で襲われようとも、なにしろ男たちは近寄ることもできなかったし、見て見ぬふりをするよりしかたがなかった。

女性を追っかける米兵たち

久志から帰って来たものの、家は全部焼かれて何も残っていなかった。この一帯はたくさんテント小屋が並んでいたが、そこヘアメリカーが突然現われたりすると、みんなでドラム缶などをガンガン叩いて追っ払ったものであった。

ある日、私たちは女だけで数人一緒にここから谷茶へ出掛けた。途中で四人の米兵が私たちに近づいて来て、いきなり、前後から私たちを挟み、私たちのなかの一番若い娘を逃れ去ろうとした。そこで私の母が、言葉は分らないながらも、大きな声で「渡久地、渡具知」と叫びながら、渡久地へ行くのだといって指さした。ところがその方向にたまたま私がいるので、米兵たちは、その娘はまだ若いからこっちにしなさいとでも勘違いしたらしく、こんどは私をつかまえて山の中にひきずり込もうとした。私は大きなザルを頭に乗せていたが、米兵たちが乱暴をしようとしたので、私の母や一緒に来た人たちが全員で私にすがりついて来た。

私はもうその時は死ぬのもこわいとは思わなくなっていた。そこで「私一人死んだらいいんだから何も騒ぐことはない。騒いだら全部やられるから」とみんなに言った。そして、どうせ死ぬぐらいならきれいに死のうと着物をなおしていると、私の母が「この娘をどうするつもりなのだ」と大声で泣きわめきながら、米兵たちにすがりついて行った。すると、さすがの米兵たちも気を呑まれて、私をつかんでいた手を離したので、いったんは死を覚悟した私であったが、頭に乗せていたザルをおもいきり放り投げて、後も見ずに一目散に逃げ、どうやら難をのがれることができた。

沖縄戦証言 本部半島 (1) - Battle of Okinawa

 

 

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  1. 【戦後70年】まだソ連に望みを託す日本 1945年8月8日はこんな日だった | ハフポスト

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