〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月29日 『首里城に侵入した海兵隊』

首里の占領 / 「軍主力」最優先の軍令 / 避難住民の立退き

 

米軍の動向

雨と泥との闘い

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8日間も続いた雨でタイヤの中程まで道路はぬかるんでも、第6海兵師団が日本軍を那覇から追い立てる際、その車両は物資を前線へ運び続けた。写真の小型トラックは、沖縄の首都へ向けて泥沼のなかを時速10マイルで進んでいる。(1945年5月29日撮影)

Even after eight days continuous rain had turned roads into soupy, hub-deep mud, Marine Corps vehicles kept supplies rolling to front as Sixth Division Leathernecks chased Japs out of Naha. This small truck speeds along at ten miles an hour through lake o

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

午前10時15分 - 首里城の占領

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

首里(しゅり)高地首里城

5月29日の午前7時30分、第5海兵連隊第1大隊は進撃を開始し、偵察隊が前の日に、日本軍の防備が薄くなっているらしい、と報告していた首里高地(山川、寒川付近)をめざしていった。この高台地は簡単に占領された。

第1大隊は、今度は首里の東側に回って高台に立った。首里城はいまや米軍前線から、ほとんどまっすぐ西へ、わずか650メートルないし750メートルのところにある。見たところ、このあたりはまったく防備がなされていない。城さえ、ただ歩いていくだけで占領できそうであった。第1大隊の指揮官は、ただちに連隊長に連絡し、進撃して首里城内に入りたい旨、許可を求めた。

許可が下った。そして、この日の朝のうちに、第5海兵連隊のA中隊は、首里城めざして進撃していった。首里城・・これこそ、米軍が長い間、沖縄の日本軍のシンボルとして、ねらってきたものであったのだ。午前10時15分首里城はA中隊によって占領された。他の海兵隊も防備の薄いところを通って首里に入ってきた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 432頁より》 

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首里城の城壁に立つ第1海兵師団の兵士(1945年5月29日撮影)

Marines of the 1st Marine Div. stand on the walls of Shuri Castle.

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29日午前9時ごろ、第5連隊第3大隊は首里高地に攻め込んだ。L中隊が先陣を切り、すぐあとにK中隊とI中隊が続いた。その少し前には第5連隊第1大隊のA中隊が東進して首里城趾に突入、南部連合軍の旗を掲げていた。日本守備軍の抵抗拠点に南部の旗が揚がったことを知って、南部出身者はそろって歓呼の声をあげた。北部出身者は不満の声をもらし、西部出身者はどうしたものかと迷っていた。

その夜、首里城付近に壕を掘って休むわれわれの心は、達成感に満ちていた。首里を制圧するという戦略が作戦を遂行するうえでいかに重要か、誰もが知り抜いていたからだ。今は廃墟とかしているけれど、アメリカ軍の絶え間ない砲撃に破壊されるまでは、首里城の周辺が風光明媚な土地だったことはうかがい知れた。城そのものは惨憺たるありさで、元の外観はほとんど想像もつかない。辛うじてわかるのは古い石造りの建物だったということ、それにテラスや庭園らしきものと外堀に囲まれているということだけだ。瓦礫のあいだをぬって歩きながら、私は石畳や石造物、黒焦げになった木の幹を見つめた。以前はさぞ美しかっただろうに、と思わずにはいられなかった。

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 415-416頁より》 

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首里城。廃墟と化した首里城の瓦礫の山。(1945年5月29日撮影)

Shuri Castle Ruin and rubble of Shuri Castle in Shuri, Okinawa.

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 玉陵の陵墓前で発見された偶像を調べる米海兵隊(1945年5月29日撮影)

Marine examines idol found in court yard of Shuri Castle.

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首里(しゅり)

沖縄第2の都市首里は、完全に廃墟と化していた琉球のどの市町村も、これほどまでに完膚なく破壊されたところはなかった。… 砲兵隊や艦砲射撃が首里に撃ち込んだ砲弾は、推定20万発。その上、無数の空襲で450トンの爆弾が投下され、さらに何千発という迫撃砲弾がアーチ型をなして首里に落下した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 439-440頁より》

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首里城攻略後、かつてこの(日本軍の)要塞を囲む小さな森だった場所で休憩する海兵隊員。遠景左は首里城中庭であった場所。右手は破壊された日本軍の司令部車輛。

Marines who took Shuri castle rest in what had been a grove of trees that surrounded the bastion. On the left background is the former Shuri parade ground. At right are wrecked Japanese command cars.

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残っているのはただ2つの建物だけ、両方ともコンクリート造りで、1つは首里の南西端にある中学校と、もう1つは首里のまん中にある1937年に建てられたメソジスト教会であった。その地は平べったく、地面にくずれさっていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440頁より》

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This church in Shuri was used as a snipers nest to slow up the advance of First Marine Div.

首里にある教会。第1海兵師団の進行を遅らせる狙撃兵の隠れ家として使われた(1945年5月29日撮影)

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Jap's barrack is assaulted by Marines of the First Marine Division. This barrack is located in the town of Shuri.第1海兵師団の激しい攻撃を受けた、首里の日本軍兵舎(1945年5月29日撮影)

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This terrain, is the muddy battlefield over which foot-slogging infantryman of the 10th Army had to fight their way to out-flank the Okinawan fortress of Shuri. The ridge near the top of the picture shows blasted tree trunks, standing like lonely sentinels silhouetted against the skyline. Caves, mutilated by terrific explosions, are visible to the eye. Marking the landscape are native homesteads with windbreaks for protection against the typhoons which sweep the Ryukyu Islands.

これは第10陸軍歩兵部隊が首里にある敵の要塞を側面から攻め込むために通らなければならなかった泥だらけの戦地である。写真上端には寂しげな番兵のように陰を落とす枯れ木や爆破された壕が見える。台風から島を守る防風林の並ぶ景色はこの土地の特色である。

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汚れた狭い舗装道路は、高爆発性爆弾でこなごなに砕かれ、どんな車輌も通れぬほど、爆弾の穴でいっぱいになっていた。たくさんの屋敷の石垣がくずれて散らばり、瓦礫や砕かれた屋根の赤瓦がうず高く積もっていた。建物の枠は、マキ材のように散らかっていた。日本兵ぼろぼろになった軍服の切れはし、防毒面、ヘルメット帽(これがいちばん多く見られた)や、また沖縄の民間人の、暗い色の衣服が無数にとび散っていた。この、まるで月の噴火口のような光景を呈しているところに、なんともたとえようのない腐った人間の屍臭が、いつまでも宙にただよっていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 440頁より》

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後方に破壊された教会の見える首里の廃墟を進む海兵隊員。(1945年5月29日撮影)

Marines move through the ruins of Shuri with the ruins of Christian Church in the background.

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南進する米軍 - 那覇の占領

那覇の占領

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那覇の廃墟となった建物。向こう側では海兵隊員が日本軍狙撃兵を狙い撃っているのが見える(1945年5月29日撮影)

Viewed through the ruins of Jap building at Naha, Marines pick off Jap sniper.

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Marine Scout of 22nd Regiment, 6th Marines approaches a large Jap shrine with caution. Many snipers kept Marines pinned down, and a scout is sent to advance and investigate before troops enter that part of Naha.第6師団第22連隊の偵察兵が神社に慎重に近づいていく。日本軍の狙撃兵にはこれまで散々苦しめられたので、部隊が那覇のこの地区に入る前に偵察兵を送り込む(1945年5月29日撮影)

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補充される部隊

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前線部隊と合流するため出発する前に最後の詳細な指示を受けに集合する補充部隊。彼らはシュガーローフ・ヒルの戦いで戦死した兵士の後任となる。(1945年5月29日撮影)

Replacement Troops assemble for last minute instructions prior to moving up to join line troops. These men will replace those lost in the battle for Sugar Loaf Hill.

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《AIによるカラー処理》Replacements, fresh from the states, move down into Naha.

那覇へ進軍する、アメリカ本国から来たばかりの補充部隊。(1945年5月29日撮影)

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那覇へ向かう途中、かつて日本軍の弾薬庫として使用された墓に近づく第6海兵師団第22大隊第56補充兵(1945年5月29日撮影)

On way to nearby Naha, Marines of 56th Replacement 22nd Regiment, 6th Marine Division, approach cautiously a tomb which was used by Japs as an ammunition storage.

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那覇で電話線を張る架線担当班。(1945年5月29日撮影)

A wire team strings wire in Naha.

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与那原から大里へ

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

この戦線にいた日本軍は、首里を撤退する司令部を掩護するため、米軍の進撃に対し「死にものぐるい」の抵抗をしていた。

南東のほう、第184歩兵連隊の前では、日本軍はカラデーラ村落後方の山中で、5月28日から29日にかけて、引きのばし戦術に出ていた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 415頁より》

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与那原の南側の家々を回る第184歩兵連隊の偵察兵 (1945年 5月29日撮影)

Scouts of the 184th Infantry Regiment, going through houses in the town south of Yonabaru.
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第32軍の動向

首里に残された郷土部隊「永岡隊」- 安国寺壕の最期

地元の在郷軍人で構成された特設警備第223中隊「永岡隊」は、27日、南下する第32軍司令部の背後を守るよう首里にとり置かれる。永岡隊長は安国寺の僧侶で一中の教師でもあった。この日(あるいは29日)、首里の玉陵に隣接する「安国寺」の壕で、凄まじい弾雨のなか馬乗り攻撃を受ける。

「子供が死んだお母さんのおっぱいを…」脳裏に焼き付く“地獄の戦場” 沖縄戦の体験者が伝える事実【沖縄発】|FNNプライムオンライン

15歳で永岡隊に従軍した翁長安子さん証言

キャタピラーの音が止まったと思ったら、戦車砲が壕の中に打ち込まれました。昨夜くたくたになって帰ってきた第3小隊の生き残りのおじさんたちを直撃しました。戦車砲のあとは火炎放射器で入口の土嚢などが燃え始め、中まで火が移ってきました。壕の中は煙が充満して、息苦しくなり、追い打ちをかけるように黄燐弾が投げ込まれました。息ができないので絶体絶命です。幸い私たちは、十十空襲で裁判所が焼けた時に残った書棚、金庫と言っていましたがその裏にいました。そこには、お寺の本尊などを置いていました。そのお陰で、戦車砲や黄燐弾の直撃には合いませんでした。右にいた兵隊さんは直撃を受けて、見る見るうちに目の前で燃えていくんです。暴れながら焼かれていくんです。私たちも息苦しい状態です。… 壕の上の方で、ギリギリという音が始まりました。そうしたら、隊長殿が「馬乗りされたな」とおっしゃった。その音が消えた後に、ババーンという大きな音で壕が爆破されました。それっきりわかりません。

翁長安子さん講話 - 永岡隊での活動 -(2019年)

安国寺は首里城「玉陵」に隣接する。

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SHURI CASTLE: Marine approaches steel doors of a burial vault cautious of booby traps in Castle Shuri.

玉陵で、仕掛けられた罠に用心しながら埋葬室の鋼鉄の扉に近寄る海兵隊(1945年5月29日撮影)

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照明弾の明かりの下で壕の裏に出てみると、身震いするほどの悲惨な情景が広がっていました。壕の壁には吹き飛ばされた頭などがはり付き、手足もぶら下がっていました。足元を見ると、遺体の内臓が飛び出て一面が血の海になっていました。雨も降っていたので、地面に溜まったものが血なのか水なのかも分かりませんでした。岩に見えていたものさえも、実際は遺体でした。私はその遺体に足を置いてしまったので、身体ごと転倒し掴んでいた隊長のベルトから手が放れて、崖下に落ちてしまいました。しばらく気を失った後、目を覚ますと、私は遺体の中にいました。右や左を見ても遺体だらけで、足元にも乗っている状況でした。私は、ここで死ぬのは嫌だと思いました。その場から這い出して、 照明弾の明かりで照らされた明るい場所に向かいました。そこに米兵が近づいてきたので、仕方なく遺体の中に割り込んで、私も死んだふりをしました。

15歳で従軍、翁長安子さん「なぜ戦争が起きたのか、歴史を学ぶことを疎かにしては平和な社会はつくれない」 - Battle of Okinawa

 

 

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日本軍陣地をロケット攻撃する海兵隊の急降下爆撃機(1945年5月29日撮影)

Marine Dive Bombers attacking Jap positions, with rockets.

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小禄 - 最前線に差し戻された大田海軍

沖縄方面根拠地隊 (沖根) : 小禄(大田実海軍少将)

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Chapter 09 | Our World War II Veterans

第32軍司令部の首里撤退に伴い、5月26日には南部へ退却していた海軍部隊だったが、「軍主力」の撤退を護衛するため、5月28日、陣地がある小禄半島に差し戻された。しかし南部退却前に小禄半島にすえていた重火器類はすべて破壊済みであり、米軍と応戦するはずの兵力もなく、多くは地元住民などからなる〝槍部隊〟だった。

小禄に帰った沖特陸は陣地の回復に躍起となったが、重火器類の破壊が、やはりこたえた。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 397頁より》

戦闘概報:

5月29日   部隊は小禄地区に復帰を完了する。敵兵約50人が、那覇市内の第一波止場、及び北明治橋付近に出現するのを望見する。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 91頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/91-24-4.jpg

小禄半島--小禄半島の東側沿岸部の丘には、カモフラージュネットの下に補強された壕が見える。この壕はロケットランチャーが配備されており、奥行きは25フィートであった。第6海兵師団がこの壕を攻略した時には、何の武器も発見されなかった

OROKU PENINSULA--Hill along the eastern border of Oroku Peninsula showing a heavily revetted cave with camouflage net. This cave was a rocket launcher position. The dimensions of the position are 25'. No equipment was discovered in the position when it was taken by Marines of the 6th Marine Division.

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津嘉山 - 32軍司令部の南下

軍司令部: 津嘉山(つかざん)

海軍を小禄に差し戻し、牛島司令官と長参謀長らは、27日夜首里司令部壕を後にする。いったん津嘉山壕に逗留し、29日夜になって再び摩文仁に向かって南下した。

八原高級参謀の回想:

29日も梅雨空だった。摩文仁に先行した木村、三宅両参謀から、「摩文仁の洞窟は、軍の戦闘司令所としての機能を発揮せず」との電報がきた。「機能を発揮せず」の文句に参謀長も私もむっとした。通信連絡が思うに任せぬという意味ではあろうが、なんだか後方関係参謀の作戦関係参謀に対する、軽い反発が感じられる。今や、軍の最後の防御陣地だ。首里軍司令部におけるような贅沢は言っておられんのだ。

… 軍首脳部は、野戦兵器廠の木炭自動車2台に分乗し、今夜21時出発、爾余の者はできる限り糧秣を背負うて、日没とともに徒歩で進発することに決まった。日が暮れるとともに、徒歩者は逐次出発し、壕内はひっそり閑となった。津嘉山下をクモの巣のように掘りめぐらした大洞窟も、今や人気稀に、怪奇の感がひしひしと身に迫る。静かに自室に座して出発の時間を待つ。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 360-361頁より》

 

そのとき、住民は・・・

避難住民の立ち退き - 軍最優先の住民対策

沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

第32軍は22日に初めて南下を決定したが、以降も具体的な住民対策の連絡はなかった。

これまで県庁側の要請をかわし続けてきた陸軍から、この日軍民協議会の緊急連絡が届き、既に南部の与座岳・八重瀬岳に避難している住民を、戦略的な足手まといになるとして知念半島に立ち退きさせるよう伝えられた。しかし今さら弾雨の中の住民の立ち退き計画に現実性はなく、また米軍は知念半島の経路にある与那原の南、大里にせまっており、既に避難経路を確保することも困難であった。

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

秋風台の東約1.5キロの高嶺村与座に司令部を置いていた第24師団(略号・山兵団、旭川編成、雨宮巽中将)から島田知事のもとへ「軍民協議会を開きたい」との緊急連絡が届いたのは、5月29日である。島田は例によって…警護官1人だけをお供に連れて同夜、与座へひた走った。…そのころ、与座の東約1キロの東風平村上高良集落に避難していた後方指導挺身隊本部の…隊長と…人口課長も、会議に呼ばれた。… 軍は「与座岳(標高168メートル)と八重瀬岳(同、183メートル)を拠点に反撃を試みることになったが、地方人(軍隊用語で言う民間人)がこの地域にいては作戦の邪魔になる。そこで早急に彼らを安全地帯の知念玉城方面へ立ち退かせて欲しい」という要求だった。島田をはじめ県側首脳はこの時、初めて、県民を戦禍から救うために知念、玉城方面が安全地帯として指定されたことを知らされたのである。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 350-351頁より》

既に避難住民でごった返す南部に、「軍主力」が南下する。

アメリカ軍は沖縄本島を東西に貫く攻撃ラインを作り、これを徐々に南下させ日本軍を追い詰める作戦をとっていた。住民がこの攻撃ラインをかいくぐって戦闘が終結している本島北部に逃げることは極めて難しく、住民は南に逃げるしかなかった。梅雨の時期に入り、時折亜熱帯特有の激しい雨がたたきつけるように降りしきるなか、本島南部は撤退してきた日本軍の将兵と戦火を逃れてきた住民たちがひしめき合う状態になっていった。(148頁)

南部で避難民を目指した住民の証言:

夜はもう右往左往ですね。前に行く人もいるし、逆に戻る人もいるし。子どもが戦争で親をやられてですね。裸になって、道を歩いているのが印象的でしたよ。(149頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 148、149頁より》

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沖縄戦の絵】「大きな葉を傘にした幼い2人

…昭和20年5月ごろ、八重瀬町与座のがけの下の岩陰、樹木が生い茂るところに、家族や親せきと14人で避難していた。水くみの時、墓の周りに横たわる何人もの重傷の日本兵たちを見た。 ある大雨の日、岩陰で茶碗を洗っていると、大きな棒を両手でつかみ杖代わりにして歩く日本兵がいた。服はぼろぼろ、片足が半分以上切れ、血を垂らしていた。大きな葉を傘代わりにして立っている5歳くらいの男の子と3歳くらいの女の子もいた。2人はしっかりと手をつないでいた。「親とはぐれたのだろうか」と気になってしかたがなかった。その時いきなり、迫撃砲が飛んできた

…背中には砲弾の破片が食い込んだが、手当てを受けて命はとりとめた。落ち着いてから2人の幼子を見に行ったがどこにもいず、片足をけがした日本兵も見つからなかった。今でも手をしっかりと握り雨の中に立つ幼いきょうだいを忘れることができない。

大きな葉を傘にした幼い2人 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

日本軍に「立ち退き」させられる住民

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沖縄戦の絵】坂道で見た多くの遺体

昭和20年5月ごろ、知名さんの家族は糸満市潮平の自宅を立ち退くよう日本兵に命じられ、南波平の祖母の家に向かった。その途中、国吉で坂道を登っていたときの光景。下の絵は、道端に横たわる数多くの遺体。手ぬぐいで口や鼻を押さえなければならないほど強烈な臭いがした。上の絵は、やっとの思いで坂道を登りきったときの様子で、あたりはすでに暗く、黄色や青の光を放ってこちらへ飛んで来る激しい艦砲射撃が見えた。急いで岩陰に隠れ、しばらくして出てみると、兵士と思われる何人もの遺体が横たわっていた。頭が吹き飛ばされた人や体が半分なくなった人、どれも無残な姿だった。祖母の家にたどり着いたが、爆撃を受け叔母と抱かれていた赤ん坊が即死。知名さん自身も右胸に大けが。家族や親せき13人を失った。戦後自宅に戻ると爆撃も受けずきれいなままで、「日本兵に追い出されなければ、家族や親せきを失うことはなかったはずだ」と悔やんでいる。

坂道で見た多くの遺体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

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