1945年 7月6日 『軍作業』

〝沖縄〟という米軍基地

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ボーイングB-29スーパーフォートレスには頑丈な滑走路が欠かせない。普天間の第2滑走路では、第806工兵航空大隊の地ならし機が長さ8500フィート、幅200フィートそして厚さ12インチの石灰岩の地表にあるくぼみを埋めている。(1945年7月6日撮影)

(投稿者注: 上の和訳は、リンク先の和訳に投稿者が加筆したもの)

To handle the large Boeing B-29 ”Superfortresses” a very firm strip was needed. Here a sheeps-foot roller of the 806th EAB is seen packing down the fill on #2 strip at Futema  which was 8500 feet long  and 200 feet wide, with a 12 inch coral surface.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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第854工兵航空大隊は、普天間の南端を流れる小川の水を排水するため、54インチコルゲート管を第2滑走路を横切るようにして設置した。排出口を支える土台の石材は、地元の建造物のものを使用した。(1945年7月6日撮影)

(投稿者注: 上の和訳は、リンク先の原文を基に投稿者が翻訳したもの)

854th Engineer Aviation Battalion laid a 54 inch corrugated pipe across #2 strip at Futema, to carry the water of a small stream that ran at the south end. The stone base for holding the pipe outlet was from a native building.

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そのとき、住民は・・・

軍作業

野嵩収容所にいた男性の証言:

『私が野嵩に来たころには、すでに前に捕虜になった人たちは軍作業に出ていた。軍作業は強制でなく、出たい人たちが早朝MPテント前の広場に何百人と集まり、続々迎えにくる米軍トラックに、迎えに来た米兵が要求する人数だけMPが数えて送り出す方法をとっていた。中にはちゃんと作業先が決まっている人たちがいて、そういうグループの場合責任者として班長制度もとられていた。そういう以外の人たちは、トラックが着くたびに作業にありつこうと押し合いへし合いを繰り返した。軍作業はもちろん無給だが、作業先で、収容所では食べることができないような食事にありつけたし、食糧、衣服、たばこ等の余得があるので、皆必死だったのである。そういうことで朝のMPテント前広場は大変活気にあふれていた。』(100頁)

《「忘られぬ体験  市民の戦時・戦後記録 第一集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 100頁より》

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飛行場での地元住民の労務は最小限に抑えられた。現場の兵士の報告によると、女性たちは労役に意欲的で、作業場までいくトラックはいっぱいだったという。この写真に写るのは、マチナト[牧港]滑走路の低地に石灰岩を敷く女性労働者。浦添(1945年7月6日撮影)

(投稿者注: 上の和訳は、リンク先の和訳に投稿者が加筆したもの)

Use of native labor was kept at a minimum in the construction of air fields on Okinawa. Reports from men at the field stated that women were eager to work and trucks bringing them to the construction area were constantly filled. Shown here are some of the women laborers laying coral on the low spots of Machinato Strip.

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宜野座(ぎのざ)初等学校 ⑤

沖縄本島北部、宜野座の収容所で学校が設置されることになり、6月2日、教職の経験があった民間人捕虜が呼び出され、設置と運営を任されることになり、着々と開校の準備を進め、6月6日宜野座初等学校が開校した。その後1ヵ月間の状況は、以下のようなものだった。

職員数名の体験談まとめ

『校長は、学校運営方針としてまず養護明朗の点に力を注ぐよう強調される。豆畑の跡の草を一本一本引き抜いて遊べるようにしてやる。鋏を借りて来て髪をつんでやり、爪を切ってやる。

毎日のように川や海へ連れて行って体の垢を落としてやり、身なりをさっぱりさせてやる。ある時などは男の先生方は児童と一緒にジャブジャブする。女の先生方はモンペの裾をまくり上げて児童の背中を流し、垢を落としてやるこの子供たちを満腹させてやりたい。このままの状態が長く続いたらどうしようかなどと案じながら痩せ細った腕をこすってやる。

海水浴の帰りには「先生腹がへった、腹がへった」とキビ畑に一目散に走りたがる。戦場から追われて来た子供たち、食べ盛りの子供たちなので無理に叱る事も出来ない。かえって涙がにじみ出る。私たちはその日その日の児童の状況を校長に申し上げては、ため息をついたり、喜んだりした。

ある時は頭のシラミ、衣服のシラミを教師と共に日光に当たり、語らいながら、校長先生も一緒に仲良く退治してやる。日増しに児童の眼は輝きを増し、笑い声が多くなってゆくのが何よりの楽しみであった。山や野に行って子供たちと語らい、どうしたら一日も早く戦争を忘れさせ、楽しく一日を過ごさせるかが一番私たちの気になる所だった。

当時、世間の口はうるさく、道を通れば〝アメリカ学校〟といやがらせを言う。他の職にある者はいろいろ物資が得られる。家の人にも何だかすまない気がする。自分もああして家族を喜ばしてやりたいと思った事もなきにしもあらず。しかしあの青白い顔をして痩せ細った子供たちの顔を見ると、腹は減っても校長先生の熱と愛に燃えた児童愛万分の一でも私たちは力添えをしたいと、何か目に見えない大きなものにひかれて行くような気持ちで一杯であった。その頃、夜になると日本軍が役職員を襲うとかのデマが飛び、特に教師に対して反感を持っているなどといろいろ噂があったが、校長は「子供たちを救ってたおれるなら満足だ」と強く決意する所があるかに窺われた。

7月6日には創立1ヵ月目の記念日なので簡単な小運動会を挙行し、運動会を理由に軍から貰って来た鉛筆石けんお菓子全児童に賞品として配って上げる

宜野座初等学校後の1ヵ月間には先生方の異動が激しく、やめられた先生は男教員19人、女教員11人、使丁男子2人、創立後1ヵ月目の現在では、男教員5人、女教員15人、給仕女子2人である。』(217頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 217頁より》

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米軍政府管理下で再開した学校で授業をする沖縄人教師(撮影地:宜野座
Okinawan school teacher holds class as school resumes activity under AMG supervision.

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