1945年 5月14日 『“戦力”として必要』

米軍の総攻撃・4日目

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第6海兵師団第22連隊第1大隊が防衛する前線での第10軍総司令官バックナー中将第6海兵師団司令官シェパード少将。2人の司令官はこの地点から初めて、共に那覇の町を眺望した(1945年 5月14日撮影)

LtGen Buckner, Command General of 10th Army and General Lemuel C. Shepherd, Commanding General of 6th Marine Division, at front lines held by 1st Battalion, 22nd Marine, 6th Marine Division. The two generals saw the city of Naha together for the first time.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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崖にある第22海兵師団の司令部

22nd Command Post in cliffs. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

西部〜中央戦線

シュガーローフ: (52高地) 

5月14日の作戦は、…第22海兵連隊の第2大隊が、シュガー・ローフの西と北にある高台をまず占領し、そこからシュガー・ローフを攻略することになった。

海兵隊は高台の前面を占領したが、そこからは、猛烈な日本軍の砲火にあって、丘を越えることはもちろん、動きまわることさえもできない。50名の海兵隊が進撃を試みたが、帰ってきたのはわずか5名であった。このため午前中は、装甲軍で戦死傷者を後方に運ぶのに精いっぱいだった。が、それでもどうにか、シュガー・ローフの北側にある丘を一つ占領し、そこから、シュガー・ローフに猛烈な攻撃を開始した。

2個小隊の生き残りをあつめてつくった1個小隊が、夕方になって再度攻撃を開始したが、夜の8時までに小隊長が戦死し、隊のほとんどがはげしい日本軍の迫撃砲にあたって、あるいは戦死、あるいは負傷、残りの者は丘腹にしがみついていた

…シュガー・ローフの海兵はいまや、少数ながら相手にうっかりは手榴弾も使えないぐらい肉迫していた。』(343-344頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 343-344頁より》

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SUGAR LOAF AND HORSESHOE HILLS, photographed after the battle had moved on into Machisi and almost to Naha. Between Sugar Loaf and the hillock in foreground, where Marine attack centered, 10 knocked-out American armored vehicles can be seen.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

『11日以来の攻撃が実らないのに業を煮やした米軍は、14日、得意の大火力の集中による攻撃を加えてきた。かれらは、52高地の前面を占領したが、日本軍の猛射を浴び、それ以上一歩も進めない。死傷続出。海兵隊の副大隊長は、「この高地を占領するには、日本流の突撃をするほかない」といったとたん、頸を撃たれて戦死した。』(261頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 261頁より》

 

中央戦線

大名(おおな)

『…14日の作戦は、第6海兵師団との共同作戦で大名丘陵を攻撃することであった。この丘陵は、大名のつき出た岩山の北側に壁をなしていた。大名丘陵は首里の北部にある長い珊瑚礁岩の丘で、その両側には墓があり、いずれも日本軍の陣地と化していた。墓の多くは下方の低地帯に向いていた。第1海兵師団は、その日の昼ごろまでに丘陵の中途まできたが、第6海兵師団と連絡をとることもできず、しかも丘陵は、日本軍でいっぱいになっているように見えた。日が暮れようとするところ、丘陵陣地にいた日本軍が反撃してきた。それはまったく激しく、一時は米軍中隊の全線を中断するのではないか、とさえ思われるほどで、米軍は煙幕のもとに、下方に退却せざるをえなかった。

第5海兵師団が第1海兵師団と交替したのが、5月14日の夕方である。作戦計画では、大名岩山と隣接の高地を、あらゆる砲火器を利用して攻撃することであった。』(358-359頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 358-359頁より》

 

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

『…5月14日までに、第306連隊のこうむった損害はあまりにも大きく、兵も残り少なくなったので、歩兵連隊は一つの大隊に組織された。5輌の戦車を先頭に、この混成大隊は、ワート高地を越えて進撃する作戦をたてた。

しかし、先発小隊がワート高地の傾斜面にさしかかったとき、日本軍の猛烈な砲火が、前面からも、両翼からも襲いかかってきた。そして2、3分後には、小隊長をはじめ小隊下士官分隊長が全部戦死し、小隊は兵力が半分に減らされてしまった。日本軍の対戦車砲は、米軍戦車が丘に現われると同時に、猛然と火を吹き、たちまち6輌を擱座させた。戦闘はまったくものすごかった。ある兵隊の話によれば、チョコ・ドロップ付近で米兵が死んだまま一列にうずくまり、あたかも攻撃前の小休止をとっている格好だったという。チョコ・ドロップや、それにつづく付近の高台を占領するために、これ以上の努力をつづけても無意味であった。(377頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 377頁より》

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チョコレート・ドロップに火炎放射攻撃をする米軍(1945年5月14日)

US flamethrower tanks attack Japanese positions on Chocolate Drop Hill,Okinawa during World War II.

Assault on Shuri Line shows M-4 tanks and M-18 motor carriages equipped with flamethrowers attack Japanese positions on Chocolate Drop Hill in Okinawa during World War II. Flame throwers attacking Japanese mountain caves. US soldiers at 77th Infantry, 306th Regiment OP (Operations Post), observe fighting through binoculars. Smoke rises from explosions. Location: Okinawa Ryukyu Islands. Date: May 14, 1945.

US flamethrower tanks attack Japanese positions on Chocolate Drop Hill,Okinawa du...HD Stock Footage - YouTube

 

中央〜東部戦線

コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

コニカル・ヒルは、その頂上が与那原海岸線の平地から高さ143メートルもあり、178高地から南へ1キロ半の地点にある。四方に6本の峰が走り、長く東にのびているのは中城湾におよび、第2の峰は北東にそびえ、もう一つは北に向かって走っていた。』(383頁)

『…南から北に走る一連の丘陵を、米軍はそれぞれタール、ウィリアム、イージー、チャーリー、キングと名づけ、これらの山々がU字型のふもとを形づくり、コニカル・ヒルだけが南の一壁をなしていた。』(384頁)

『イージー高地は両翼つり合いのとれた丘で、北と南にのび、その側面はけわしい坂になっていた。南側に谷間のように深い道があり、その反対側は、チャーリー高地になっていた。チャーリー高地は東側がけわしく、こぶのようにとがった山が3つあった。そのすそは、一つは北東に向かい、また別の山はラブ高地に向かい、第3番目の山は、南へ道路の切り通しまでのび、U字型になってキング山とわかれていた。フォックス高地はイージー高地の西側で、その南端はチャーリー高地の西側までのび、そこでけわしい小山となっていたが、米軍はこの小山をフォックス山と呼んだ。』(385頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 383、384、385頁より》

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CONICAL HILL and the adjoining enemy positions to the north and west

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

『…5月14日には、ある程度の進撃をみた。B中隊はふたたびチャーリー高地に向かって進撃、いくらか地歩を固め、一方、C中隊も反対側のほうで前線を延長させていた。しかしながら、この山を西側から攻撃していったA中隊は、全員が死傷し、またこの中隊の一小隊もフォックス山をねらったが、不成功に終わった。』(386頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 386頁より》 

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西原町:【文化財】運玉森

 

 

第32軍の動向

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

海軍部隊の戦況報告:

『(1) 天久、真嘉比方面の陸上戦闘は、いよいよ激しくなり、敵艦艇の第1戦線陣地、那覇、および小禄地区に対する射撃はますます強化されている。午前中、小禄那覇正面に上陸用舟艇十数隻が浮遊しているので、敵上陸に備えて警戒を厳重にする。友軍陣地に対する敵の来襲機は延71機である。

(2) 昨夜、天久方面に進出した挺進斬込隊のうち、夜の10時までに帰還した者は5名で、戦果は重機銃または連射砲のうち破壊1、軽機または重機のうち破壊1で、人員殺傷は16名である。なお、被害については調査中である。』(83頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 83頁より》

『護部隊十二分隊長・蒲地大尉も陸戦隊指揮官として首里戦線に派遣されていたが、報告のため一時帰隊した時、部下…は最前線の模様を聞いている。

「戦争に勝つか、負けるかではなく、戦争が出来ない状態にある。敵の攻撃が激しく、壕から頭も出せない。兵隊も従軍看護婦も、壕の中で平気で用便をする状態だと聞かされ、暗澹たる気持ちでした」

首里戦線に派遣された陸戦隊は、大隊要員、斬込隊員とも正規の海軍軍人としての教育を受けた沖特陸の主力だった。派遣する以上、陸軍にひけを取らぬ実戦部隊を、との大田少将の考えだったと思われる。』(389頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 389頁より》

 

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊): (隊長: 篠原保司陸軍中尉)

『戦況の悪化は、一中の鉄血勤皇隊を“戦力として必要としてきた。結成以来、師弟がともに行動してきたが、5月14日を境に分散することになる。』(一中鉄血勤皇隊・6)

[75 一中鉄血勤皇隊(6)]戦況悪化で一線へ - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

一中鉄血勤皇隊学徒の体験談:

5月14日夕方、配属将校篠原隊長の命により、全員が本部壕入口の道路上に集合させられた。隊長が「いよいよ首里でも戦闘も目前に迫り、食糧も残り少なくなった。身体が衰弱して体力に自信のない者は除隊させるので手を挙げろ」と指示されたが、勿論誰も希望しなかった。篠原隊長は、止むなく弱そうな者を19名指名し除隊を命じた。…私達は勤皇隊と最後まで行動を共にしたかったが、聞きいえれられずに泣く泣く脱ぎ捨ててあった私服に着替えて隊を離れ、その晩各々の行き先を目指して首里を後にした。』(224頁)

《「戦世の南風原--語る のこす つなぐ--」(南風原町編集委員会/沖縄県南風原町) 224頁より》

『…米軍は那覇でシュガーローフの奪取を図る一方、首里市の北東入口に当たる虎頭山(現・那覇市首里赤平町の虎瀬公園)にも取りつき、首里の西および東北それぞれ約2キロ地点にまで肉薄、挟み打ちにする作戦に出た。首里の高台から、一中生のかつての通学路であった安里、松川方面の戦闘状況が望見され、小銃、機関銃の発射音が終日響いた。その流れ弾が、不気味な音をたてて頭上をかすめた。

そんな中、5つの戦闘部隊に分散配備される鉄血勤皇隊員は、各部隊から学徒兵を受け取りにくる兵員受領者の到着を待って一中壕を出発、部隊展開地へ向かった。

まず、5月14日夕刻、まだ陽があるうちに独工66、夕闇迫るころに独測1、暗くなってから5砲司、午後9時ごろに野重1、翌15日未明に独重百の順となった。』(302頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 302頁より》

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そのとき、住民は・・・

スパイ容疑をかけられた女性: 救護班にいた女性の証言

『スパイの容疑は女性にもかけられた。…5月上旬、負傷した日本兵を従姉妹とともに首里城近くの野戦病院まで搬送したあと、日本軍の陣地に立ち寄った。砲弾が降りしきるなか、4日間飲まず食わずで負傷兵を搬送した…が、日本兵からかけられたのはねぎらいの言葉ではなく、スパイの疑いだった。

「『何を言うか、貴様はどこからきたのか』と言うの。泊まるところもないからね、『日中は歩けないからもう避難しにきました』と言ったら、(日本兵が)『手を出しなさい』と言うの。日光にもあたってないから、陣地生活だから年頃でもあるし色白いでしょ。私がてを出したら『この手をもって君たちは戦闘協力者と言えるのか』と言うの。『君たちはね、慰安所(から来たの)でなければね、スパイと認めろ』と言うの、私に」

身を危険にさらし軍に協力してきたのに、スパイの疑いをかけられた…。怒りに震えるあまり、従姉妹に沖縄の方言で「榴弾で自爆して死のう」と呼びかけた。

「うちなんかもう、わじわじして(頭にきて)からに、今まで家族と別れて軍に協力していざこうなってから、慰安所(から来た)と認めろ、それとも軍のスパイと認めろと。こんな汚いことはないさ姉さんと言って、私が手榴弾をこう抜いたらね、すぐ大尉が私を止めたのよ、『おいちょっと待ちなさい、あんたはいま何といったかね』と言うの。『あやまちを犯したらだめだ』と言ってその手榴弾を取り上げたの」

榴弾で自決しようとしたところ、たまたま、沖縄出身の大尉がいて、…話しかけてきた。その兵士は、…父親を知っていたため、最後はスパイの疑いを晴らすことができた。』(138-139頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 138-139頁より》

 

那覇市で捕虜になる男性

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那覇市内に入った米軍が、この日最初に捕虜として捉えた男性と話す米海兵隊のジェファソン大尉(1945年 5月14日撮影)

First man captured of day in drive into Naha. Lt. Jefferson, Marine officer, speaks with him.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月14日

 

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