〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年5月14日 『〝戦力〟として必要』

一中鉄血勤皇隊 / スパイ容疑をかけられる女性たち

米軍の動向

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

総攻撃4日目

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第6海兵師団第22連隊第1大隊が防衛する前線での第10軍総司令官バックナー中将と第6海兵師団司令官シェパード少将。2人の司令官はこの地点から初めて、共に那覇の町を眺望した(1945年 5月14日撮影)

LtGen Buckner, Command General of 10th Army and General Lemuel C. Shepherd, Commanding General of 6th Marine Division, at front lines held by 1st Battalion, 22nd Marine, 6th Marine Division. The two generals saw the city of Naha together for the first time.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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崖にある第22海兵師団の司令部

22nd Command Post in cliffs. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ(52高地) 

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

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米軍側 (北側) からみたシュガーローフ

SUGAR LOAF AND HORSESHOE HILLS, photographed after the battle had moved on into Machisi and almost to Naha. Between Sugar Loaf and the hillock in foreground, where Marine attack centered, 10 knocked-out American armored vehicles can be seen.

シュガーローフとホースシューの丘は、戦闘が牧市に移り、ほぼ那覇に移った後に撮影された。海兵隊の戦闘が集中するシュガーローフと前方の丘には、10機の転倒した米軍装甲車両が見られる。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

5月14日の作戦は、…第22海兵連隊の第2大隊が、シュガー・ローフの西と北にある高台をまず占領し、そこからシュガー・ローフを攻略することになった。

海兵隊は高台の前面を占領したが、そこからは、猛烈な日本軍の砲火にあって、丘を越えることはもちろん、動きまわることさえもできない。50名の海兵隊が進撃を試みたが、帰ってきたのはわずか5名であった。このため午前中は、装甲軍で戦死傷者を後方に運ぶのに精いっぱいだった。が、それでもどうにか、シュガー・ローフの北側にある丘を一つ占領し、そこから、シュガー・ローフに猛烈な攻撃を開始した。

2個小隊の生き残りをあつめてつくった1個小隊が、夕方になって再度攻撃を開始したが、夜の8時までに小隊長が戦死し、隊のほとんどがはげしい日本軍の迫撃砲にあたって、あるいは戦死、あるいは負傷、残りの者は丘腹にしがみついていた

…シュガー・ローフの海兵はいまや、少数ながら相手にうっかりは手榴弾も使えないぐらい肉迫していた

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 343-344頁より》

11日以来の攻撃が実らないのに業を煮やした米軍は、14日、得意の大火力の集中による攻撃を加えてきた。かれらは、52高地の前面を占領したが、日本軍の猛射を浴び、それ以上一歩も進めない。死傷続出。海兵隊の副大隊長は、「この高地を占領するには、日本流の突撃をするほかない」といったとたん、頸を撃たれて戦死した。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 261頁より》

大名(おおな): Wana Ridge

14日の作戦は、第6海兵師団との共同作戦で大名丘陵を攻撃することであった。この丘陵は、大名のつき出た岩山の北側に壁をなしていた。大名丘陵は首里の北部にある長い珊瑚礁岩の丘で、その両側には墓があり、いずれも日本軍の陣地と化していた。墓の多くは下方の低地帯に向いていた。第1海兵師団は、その日の昼ごろまでに丘陵の中途まできたが、第6海兵師団と連絡をとることもできず、しかも丘陵は、日本軍でいっぱいになっているように見えた。日が暮れようとするところ、丘陵陣地にいた日本軍が反撃してきた。それはまったく激しく、一時は米軍中隊の全線を中断するのではないか、とさえ思われるほどで、米軍は煙幕のもとに、下方に退却せざるをえなかった。

第5海兵師団が第1海兵師団と交替したのが、5月14日の夕方である。作戦計画では、大名岩山と隣接の高地を、あらゆる砲火器を利用して攻撃することであった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 358-359頁より》

石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

『…5月14日までに、第306連隊のこうむった損害はあまりにも大きく、兵も残り少なくなったので、歩兵連隊は一つの大隊に組織された。5輌の戦車を先頭に、この混成大隊は、ワート高地を越えて進撃する作戦をたてた。

しかし、先発小隊がワート高地の傾斜面にさしかかったとき、日本軍の猛烈な砲火が、前面からも、両翼からも襲いかかってきた。そして2、3分後には、小隊長をはじめ小隊下士官分隊長が全部戦死し、小隊は兵力が半分に減らされてしまった。日本軍の対戦車砲は、米軍戦車が丘に現われると同時に、猛然と火を吹き、たちまち6輌を擱座させた。戦闘はまったくものすごかった。ある兵隊の話によれば、チョコ・ドロップ付近で米兵が死んだまま一列にうずくまり、あたかも攻撃前の小休止をとっている格好だったという。チョコ・ドロップや、それにつづく付近の高台を占領するために、これ以上の努力をつづけても無意味であった。(377頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 377頁より》

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チョコレート・ドロップに火炎放射攻撃をする米軍(1945年5月14日)

 

 

運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

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CONICAL HILL and the adjoining enemy positions to the north and west

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

西原町:【文化財】運玉森

コニカル・ヒルは、その頂上が与那原海岸線の平地から高さ143メートルもあり、178高地から南へ1キロ半の地点にある。四方に6本の峰が走り、長く東にのびているのは中城湾におよび、第2の峰は北東にそびえ、もう一つは北に向かって走っていた。』(383頁)

『…南から北に走る一連の丘陵を、米軍はそれぞれタール、ウィリアム、イージー、チャーリー、キングと名づけ、これらの山々がU字型のふもとを形づくり、コニカル・ヒルだけが南の一壁をなしていた。』(384頁)

『イージー高地は両翼つり合いのとれた丘で、北と南にのび、その側面はけわしい坂になっていた。南側に谷間のように深い道があり、その反対側は、チャーリー高地になっていた。チャーリー高地は東側がけわしく、こぶのようにとがった山が3つあった。そのすそは、一つは北東に向かい、また別の山はラブ高地に向かい、第3番目の山は、南へ道路の切り通しまでのび、U字型になってキング山とわかれていた。フォックス高地はイージー高地の西側で、その南端はチャーリー高地の西側までのび、そこでけわしい小山となっていたが、米軍はこの小山をフォックス山と呼んだ。』(385頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 383、384、385頁より》

『…5月14日には、ある程度の進撃をみた。B中隊はふたたびチャーリー高地に向かって進撃、いくらか地歩を固め、一方、C中隊も反対側のほうで前線を延長させていた。しかしながら、この山を西側から攻撃していったA中隊は、全員が死傷し、またこの中隊の一小隊もフォックス山をねらったが、不成功に終わった。』(386頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 386頁より

 

特攻対応と被害 - 空母エンタープライズ

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米国海軍: The end of the war finds the USS ENTERPRISE (CV-6) still floating despite the Japs' six separate claims to have sunk her. She is the first and so far only Pacific carrier to have won the Presidential Unit Citation. Here is the ENTERPRISE when attacked by a Jap Kamikaze during operations off Okinawa. Smoke drifts up lazily from the empty elevator well. Damaged ships

日本軍の戦果発表では空母エンタープライズ(CV-6)は6回も沈んだことになっているが、終戦後も海上に浮かんでいた。同艦は、大統領殊勲部隊章を受章した初の、そして現時点では唯一の、太平洋艦隊所属の空母。この写真は、日本軍の特攻を受けているところ。沖縄近海にて。空になったエレベーターの昇降路から煙がゆっくりと立ち上っている。被害を受けた船舶。撮影日: 1945年 5月 14日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海兵隊: 75mm Pack Howitzer firing to stop a counter attack made by the Nips during the day and night of 14 May. The guns are part of the 15th Marines, 6th Division.
昼夜を問わず攻撃してくる日本軍を封じ込めようと、迎撃する米第6海兵師団第15連隊75ミリ榴弾砲 1945年 5月14日

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後方で進む基地建設

泡瀬の桟橋

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浮桟橋のT字型の側から降ろされる戦車上陸用舟艇。この桟橋は島袋近くの泡瀬半島の北側に第81建設大隊によって組み立てられた。(1945年5月13日撮影)

LCT's are being unloaded at the ”T” end of the floating pontoon pier Okinawa. The pier was assembled by the 81st Construction Battalion on the north shore of Awashi peninsula near Shimabuku.

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日本軍の動向

海軍司令部

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

海軍部隊の戦況報告:

『(1) 天久、真嘉比方面の陸上戦闘は、いよいよ激しくなり、敵艦艇の第1戦線陣地、那覇、および小禄地区に対する射撃はますます強化されている。午前中、小禄那覇正面に上陸用舟艇十数隻が浮遊しているので、敵上陸に備えて警戒を厳重にする。友軍陣地に対する敵の来襲機は延71機である。

(2) 昨夜、天久方面に進出した挺進斬込隊のうち、夜の10時までに帰還した者は5名で、戦果は重機銃または連射砲のうち破壊1、軽機または重機のうち破壊1で、人員殺傷は16名である。なお、被害については調査中である。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 83頁より》

小禄の海軍は数少ない実戦部隊を陸軍に供給することを強いられていた。

護部隊十二分隊長・蒲地大尉も陸戦隊指揮官として首里戦線に派遣されていたが、報告のため一時帰隊した時、部下…は最前線の模様を聞いている。

「戦争に勝つか、負けるかではなく、戦争が出来ない状態にある。敵の攻撃が激しく、壕から頭も出せない。兵隊も従軍看護婦も、壕の中で平気で用便をする状態だと聞かされ、暗澹たる気持ちでした」

首里戦線に派遣された陸戦隊は、大隊要員、斬込隊員とも正規の海軍軍人としての教育を受けた沖特陸の主力だった。派遣する以上、陸軍にひけを取らぬ実戦部隊を、との大田少将の考えだったと思われる。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 389頁より》

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米国海兵隊: South entrance to same hill, two way fork in tunnel can be seen from entrance. 77 ammunition. Jap laying in foreground.
丘の南側入り口。トンネル内の2つの分かれ道が入り口から見える。77ミリ砲弾。手前に日本兵が横たわっている。1945年 5月14日 

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

南部戦線の学徒隊 - 一中鉄血勤皇隊

沖縄県鉄血勤皇隊第一中隊(略称・沖縄一中鉄血勤皇隊): (隊長: 篠原保司陸軍中尉)

 

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[証言記録 兵士たちの戦争]戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~|NHK 戦争証言アーカイブス

戦況の悪化は、一中の鉄血勤皇隊を“戦力として必要としてきた。結成以来、師弟がともに行動してきたが、5月14日を境に分散することになる。

一中鉄血勤皇隊 急造爆雷を背負わされ - Battle of Okinawa

一中鉄血勤皇隊学徒の体験談:

5月14日夕方、配属将校篠原隊長の命により、全員が本部壕入口の道路上に集合させられた。隊長が「いよいよ首里でも戦闘も目前に迫り、食糧も残り少なくなった。身体が衰弱して体力に自信のない者は除隊させるので手を挙げろ」と指示されたが、勿論誰も希望しなかった。篠原隊長は、止むなく弱そうな者を19名指名し除隊を命じた。…私達は勤皇隊と最後まで行動を共にしたかったが、聞きいえれられずに泣く泣く脱ぎ捨ててあった私服に着替えて隊を離れ、その晩各々の行き先を目指して首里を後にした。

《「戦世の南風原--語る のこす つなぐ--」(南風原町編集委員会/沖縄県南風原町) 224頁より》

「家族の元に帰りたいか」と何人かに尋ね、「はい」と答えた3人を除隊させた。5月14日まで、29人を篠原教官は勤皇隊から去らせた。篠原教官は、どこから探して来たのか、壕内に蓄音機を持ち込み、レコードを聴くことが多くなってきた。もちろん流行歌だ。その中には比嘉さんが好きだった「春よいずこ」という流行歌も入っていた。

一中鉄血勤皇隊 急造爆雷を背負わされ - Battle of Okinawa

…米軍は那覇でシュガーローフの奪取を図る一方、首里市の北東入口に当たる虎頭山(現・那覇市首里赤平町の虎瀬公園)にも取りつき、首里の西および東北それぞれ約2キロ地点にまで肉薄、挟み打ちにする作戦に出た。首里の高台から、一中生のかつての通学路であった安里、松川方面の戦闘状況が望見され、小銃、機関銃の発射音が終日響いた。その流れ弾が、不気味な音をたてて頭上をかすめた。

そんな中、5つの戦闘部隊に分散配備される鉄血勤皇隊員は、各部隊から学徒兵を受け取りにくる兵員受領者の到着を待って一中壕を出発、部隊展開地へ向かった。

まず、5月14日夕刻、まだ陽があるうちに独工66、夕闇迫るころに独測1、暗くなってから5砲司、午後9時ごろに野重1、翌15日未明に独重百の順となった。

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 302頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

スパイ容疑をかけられる沖縄女性

女スパイの話は広く流布され、信じられていたことが米軍の捕虜調査からもわかっている。特に若い女性はスパイとして疑われた。沖縄女性のスパイ陰謀論は、ホモソーシャル*1 な軍序列のなかで性的に消費される「噂話」から始まり、多くの人がその「存在」を信じるようになった。

そのころ、「赤いハンカチと手鏡を持ち、陰毛をそった女性があれば通報すること」との伝達があった。それはスパイだと言う。まじめな顔で、そんなことが将校の口から出るようになっていた。

一中鉄血勤皇隊 急造爆雷を背負わされ - Battle of Okinawa

私たちが洞窟へ降りるところへ、先ほどの部隊長が現れた。県庁側も軍に協力してくれというのである。なにごとかと聞くと、彼は罫紙に、赤鉛筆で書いた書面を見せた。それには次のような意味のことが書かれていた。… この付近にスパイが潜入している。沖縄出身の妙齢の婦人で、人数は4-50名と推定される。彼らは赤いハンカチと小型の手鏡をもっていて、陰毛をそり落としているのが特徴である。部隊長はまじめな顔でその書面を私たちに見せると、スパイ逮捕にぜひ協力してくれというのである。

気が狂っているのではないかと思って、相手にならずにいると、態度は真剣である。しかも哀願の表情さえ浮かべているではないか。馬鹿馬鹿しいので、取り合わずに立ち去ろうとすると、彼の表情が俄然けわしい表情に変わった。気味悪くなった私たちは、無言のまま互いに顔を見合わせると、そうそう退却した。

《浦崎純沖縄群島玉砕戦の真相 (1971年) (文華新書)》

米軍の捕虜尋問調書には捕虜が語る沖縄人女性スパイの「話」も幾つか記録されている。これらの支離滅裂な証言に関して保坂廣志はこう指摘する。

結局、 戦場にあって住民はいかなる理由をもってしてもスパイに仕立て上げられてしまうわけである。 スパイとは何かとの論議など、 戦場にあっては一切無用なわけだ。 手には武器を持ち、軍隊組織やそれに繋がる誰かが、 スパイといえばスパイであるわけだ。 その時、 スパイ処刑者は、自由奔放にスパイ視されたものを殺戮したわけである。 スパイがいた、スパイを見たと証言する兵士の先に、確実に住民虐殺が存在するわけである。… 巧みに仕組んだ 筋書きがあること自体が創話を物語り、誰がスパイと呼ばれる者を殺したかの証明にもなろう。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ- 上』107頁 》

戦力として「必要」とされ、浦添で女子救護班として命がけで負傷兵を搬送した女性、戦場においてスパイを疑われ、性的搾取か処刑かの二択を迫られる「汚い」状況に対して激しく憤る。

スパイの容疑は女性にもかけられた。…5月上旬、負傷した日本兵を従姉妹とともに首里城近くの野戦病院まで搬送したあと、日本軍の陣地に立ち寄った。砲弾が降りしきるなか、4日間飲まず食わずで負傷兵を搬送した…が、日本兵からかけられたのはねぎらいの言葉ではなく、スパイの疑いだった。

「『何を言うか、貴様はどこからきたのか』と言うの。泊まるところもないからね、『日中は歩けないからもう避難しにきました』と言ったら、(日本兵が)『手を出しなさい』と言うの。日光にもあたってないから、陣地生活だから年頃でもあるし色白いでしょ。私がてを出したら『この手をもって君たちは戦闘協力者と言えるのか』と言うの。『君たちはね、慰安所(から来たの)でなければね、スパイと認めろ』と言うの、私に」

身を危険にさらし軍に協力してきたのに、スパイの疑いをかけられた…。怒りに震えるあまり、従姉妹に沖縄の方言で「榴弾で自爆して死のう」と呼びかけた。

「うちなんかもう、わじわじして(頭にきて)からに、今まで家族と別れて軍に協力していざこうなってから、慰安所(から来た)と認めろ、それとも軍のスパイと認めろと。こんな汚いことはないさ姉さんと言って、私が手榴弾をこう抜いたらね、すぐ大尉が私を止めたのよ、『おいちょっと待ちなさい、あんたはいま何といったかね』と言うの。『あやまちを犯したらだめだ』と言ってその手榴弾を取り上げたの」

榴弾で自決しようとしたところ、たまたま、沖縄出身の大尉がいて、…話しかけてきた。その兵士は、…父親を知っていたため、最後はスパイの疑いを晴らすことができた。

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 138-139頁より》

「私は今までこんなに家族とも別れて軍に協力してきたのに慰安婦だとか、そうでなければスパイと認める、こんな汚いことはないさ。

「姉さん、(もうこのときからは方言で)ナーエー、ワンガ手榴弾スグ安全栓ヌジャーナカイヤ、マンガクヌ副官ナカイ投ギークトウ、ワッターテェータッチカヤーニ、ヤームンヌギヨー、ユヌマジュンヌギヨー、ヤームンシ、ワッタータイウマウティシジミシラヤー (もう、私が手榴弾の安全栓を抜き取って、この副官に投げつけるから、私達は二人くっついて、あなたも私と同時に安全栓抜きなさい。あなたのもので、私達は一緒にここで死んでしまおう) 』と言いざま手榴弾を腰から抜き取ったとたん、大尉が『オイ、ちょっと待ちなさい! 今なんて言ったか』と、安全栓を抜こうとした手を止められたもんだから、こんどは少尉が、私の後ろに回ってきて『あやまちを犯したらだめだ!』とその手榴弾を取り上げたのです。私がアンネール副官ナカイ、今頃になって慰安婦ンディイラリイミ、手榴弾シウヌタンメー小ワンガクルスクトゥヤ、ワッタータイ、ウリシ死ナャー (このような副官に、慰安婦なんていわれてたまるか。このじいさんな私が殺してしまうから、私達二人は、あなたの手榴弾で死んでしまおうね) ということを、方言で話したのがきっかけで、その大尉が『あんたは浦添小湾のひとだって、もう一度名前を言ってごらん』『手登根フミ(旧姓名)です』… 私たちはこの大尉のおかげで救われたのです。

《洪ユン伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』インパクト出版会2016年 pp.324-5 》

 

島袋民間人収容所

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日本人民間人を収容する島袋キャンプ周辺地域の様子。(1945年5月14日撮影)

View of Okinawa Shima country side near the Shimibuku camp for Jap civilians. 14 May 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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アメリカ軍は那覇市首里で猛攻撃を加え、迎え撃つ沖縄守備軍を力で圧倒しす。

「愉快です!敵艦に体当たり!」65年前のきょうの新聞には日本兵が乗りこむ神風特攻機を女子挺身隊が整備する写真が掲載され、本土決戦に向けて国民が一丸となるよう機運を高めようとしていたことが伺えます。

しかし、沖縄の最前線ではアメリカ軍が守備軍の本拠地である首里を包囲。物量ともに劣る日本軍は前線からのほぼ直線的な後退を余儀なくされます。

アメリカ兵に囲まれ、記録用のカメラに手を振るよう命令される男性。民間人や兵士は捕虜として長い列をなして収容所へと向かいました。収容所に無造作に積み上げられたキャベツ。アメリカ軍から配給された芋を足で洗う女性。収容所での捕虜としての生活は自由も制限され、同じ日本人が捕虜を監視するという異様な環境でしたが、捕虜となった県民の表情にはたくましさと強さが溢れていました。

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月14日 

 

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*1:女性及び同性愛を排除することで形成される男性間の緊密な関係や序列