1945年 5月26日 『大移動の意味』

米軍の動向

雨と泥との闘い

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梅雨のさなか、“シュガーローフ・ヒル”にある第4海兵連隊第1大隊の司令部(1945年5月26日撮影)
1st Battalion, 4th Marines Command Post, on Sugar Loaf Hill during rainy spell.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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那覇の前線にて食事を待つ列。6インチものぬかるみに並んで立つ戦闘部隊員(1945年5月26日撮影)
Mess line, front lines at Naha, showing combat troops standing six inches in mud.

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首里に迫る米軍

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沖縄戦で戦闘中の海兵隊員。ガリティ1等兵が、墓から出るのを拒んだ日本軍狙撃兵に向かって火炎放射をしているところ。狙撃兵は、この墓を隠れ家として使っていた。(1945年 5月25日〜26日撮影)

Marines in action during Battle of Okinawa. Pfc. Joseph F. Garrity fires at Jap who refused to abandon tomb he was using as sniper's nest.

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『米軍は、5月22日からその月の終わりまで、日本軍後方地域を観測させるため飛行機を飛ばしたが、厚い雲の層と豪雨にたたられて行動がひどく制限された。しかし、それでも飛行機は、ほとんど毎日のように、短時間ずつではあったが、戦線上空を飛び回っていた。

22日、民間人の群れと思われる集団が、夕暮れを利用して神里から南へ移動していくのがみられた。その移動はつぎの日もつづいた。この人たちは白衣を着ていたため、観測機はこれを兵隊とはみなかった

米軍は、前に空中からビラを戦線後方地域にまき、沖縄の人に白布を着て歩いたら、空襲や爆撃をされないですむと知らせてあった。5月24日と25日にも、観測機はなお南方へ人々が移動しているのを見たが、米軍としては相変わらず、民間人の移動だとばかり思っていた。この見方が間違っているのではないか、という最初の疑問が起こったのが5月26日、その日は午後になって雲が晴れ、かなりの時間、島の南端のほうを詳しく空中観測することができた。戦線から島の南端へ延々と列をつくった大移動が発見された。』(424頁)

『この日、まさに日も暮れようとする午後7時2分、与座岳のすぐ西にある大里の方向に頭を向け、一隊の日本軍が、はるか南のほうまで延々とつづいているのが見えた。北に向かって進んでいるのだ。15分後には、道路は北進する部隊でいっぱいとなり、真壁のすぐ上のほうで塞がっているという報告がもたらされた。これは沖縄作戦中にいまだかつて見られたこともないほどの、最も大きな部隊移動であった。』(425頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424、425頁より》

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砲兵隊の観測機(小型偵察機)が小型機専用滑走路から飛び立つ

Artillery observation planes (grasshoppers) taking off Okinawa cub strip.

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26日の空中観測からの報告は、頭を悩ますものだった日本軍はあらゆる方向に移動していたのだ。だが、大部分は南へ向かっていた。ただ例外は、大部隊が1つ北に向かって進軍しているということであった。この部隊移動のうち最も大きなのが首里の南約7キロのところにいた砲兵隊の移動だった。この各地の大移動はいったいなにを意味するのだろう。

一つ一つ注意深く検討した結果、到達した結論が、日本軍は悪天候や、そのために空中観測もうまくいかないという条件を、巧みに利用して、疲労した部隊を前線から退かせ、これにかわる新鋭の予備軍を南部から移動させ、米軍攻撃に対処しようという計画であるということだった。日本軍は、もっと大きな掩蔽壕に新しい砲座を設け、今後も首里戦線を支援させよう、という計画であるにちがいない。』(425-426頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424、425-426頁より》 

 

南進する米軍

那覇(なは)

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第4海兵隊L中隊ライフル部隊は弱体化し、消滅してしまった。この写真を撮影したころ、日本軍は持てるもの全てを海兵隊に投げつけていた。(注)那覇での大きな爆破は我が軍の航空機および重砲によるもの(1945年 5月24日〜26日撮影)

Fourth Marines,  ”L” Company Rifle Squad, lie low and break up while making way near river bank at Naha. At time photo was taken Japanese were putting everything they had at Marines. Note: Large explosions in Naha made by our planes and heavy artillery.

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米軍の大砲で包囲攻撃される那覇。後方ではすさまじい砲煙が上がっている。(1945年 5月24日〜26日撮影)

Naha under siege by our big guns. Heavy smoke rises in background.

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与那原(よなばる)・運玉森(うんたまむい): コニカル・ヒル

『大里村の日本軍は、26日に掃討され、その後、第184連隊は、カラデーラ付近まで南進したが、別にたいした抵抗にもあわずにすんだ。偵察隊からの報告は、わずかに散在する日本兵にあっただけだという。日本軍は右翼を退いたのであって、退きながらも、ときどき銃火を交えるだけで、別に米軍指揮官たちがかねて想像していたように知念半島に撤退する計画はないらしいということがしだいに明らかになってきた

米第7師団の首里包囲作戦で、日本軍が、そのもてるかぎりの火力を動員して、最も激しい抵抗を試みたのは、師団右翼、コニカル・ヒルの南のすそが那覇ー与那原道路と接する高台地で、ここは首里防衛陣の結集地点であった。

もし米軍がこの地点の確保に成功すれば、それは首里から南部に通ずる道を遮断することになり、包囲作戦の成功を意味する。このため、日本軍としては、米第7師団が、この地域をいささかなりとも確保することを激しく拒んだ。』(413-414頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 413-414頁より》

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YONABARU-NAHA VALLEY highway, with Yonawa and Oak Hill in foreground. Picture was taken 26 May as 7th Division infantrymen pressed back the enemy's right flank below Shuri.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 14]

『米軍の首里を包囲できるという明るい望みは、与那原から首里に至る線を通過しようとしたとき、すっかり消しとばされてしまった。第32連隊は、5月23日から26日にかけての戦闘で日本軍防衛線の前面でそのまま釘づけにされてしまったのだ。

日本軍は多くの対戦車砲や機関銃をもって、この戦略的に重要な丘陵地帯を奪ろうと進撃してくる米軍めがけて、通路一帯に猛烈な砲火をあびせ、迫撃砲弾は集中弾となって降ってきた。第32連隊は、もし戦車が使用できたら、おそらく日本軍陣地を殲滅できたかもしれない。だが、連日の雨のために、戦車は泥にはまって動けなくなっていたのである。

5月26日の雨は豪雨で、88ミリを記録した。その後の10日間は、毎日、平均30ミリの雨が降った。…日本軍が陣地確保のために死にもの狂いの抵抗をしたのは、喜屋武村落東方の丘陵付近である。ここでは、5月26日、第32歩兵連隊が抵抗線突破を試みたが、激しい反撃をうけて、多数の損害を出したあげく後退せざるをえなかった。』(414頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 414頁より》

http://tothosewhoserved.org/usa/pto/usapto11/img/img368a.jpg

Mud and flood increased the difficulties of fighting on Okinawa. Above, 77th Division infantrymen trudge toward the front lines past mud-clogged tanks

US Army PTO 11 Okinawa: Chapter 14: Battle in the Rain

 

  

第32軍の動向

首里撤退・南部への移動

電信第36連隊26日首里を発ち、津嘉山を通過して、28日には摩文仁に到着した。残りの部隊は、もっと早目に脱出していた。』(428頁)

戦車第27連隊の残存部隊も、26日から移動を開始し、神里を通過した。同じくその日に、第103と第105の両機関銃砲大隊は、首里と識名方面をぬけ、なかには、手で砲を運搬しながら南のほうへ下っていったものもいた。

陸軍第32軍の主な戦闘部隊では、第62師団が最初に出発した。この師団は最初の予定より2日も早く、26日首里移動を開始したが、撤退に先立って、与那原の南西で米第7師団の戦線ふかく猛烈な弾幕を張り、米軍の作戦をおくらせた。第6および第1海兵師団の左翼にいた独立混成第44旅団は、26日に前線を撤退することになっていたが、交替することになっていた海軍の陸戦隊が来れなくなったので、2日間もおくれ、28日になってはじめて、旅団としての前線撤退ができた。』(429頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 428、429頁より》

軍司令部: 沖縄県出身将校の体験談

『…首里を撤退したのは5月26日。「明日は海軍記念日だと言いながら出発したので間違いない」。前日に先発隊がすでに出ている。「大里などに敵が一部来ているとの情報もあり、先発隊は大里経由で1隊、小禄経由で1隊と分かれて向かった。米軍の探索と掃討をやりながら軍首脳の撤退に安全な道を開くのが目的だったと思う」』

『…出発した26日の夜は大雨だった。70~80人ぐらいを率いて行き先も知らない出発。「とにかく山部隊の司令部へ行け」が命令だった。』

午後9時ごろ、南向きの壕から出発、寒川から下って、右に識名高地を見ながら谷間づたいをぬかるみを踏みしめて進んだ。識名園にのぼり、一日橋―国場―津嘉山―豊見城の平良高嶺を通り、与座岳にある山部隊の司令壕へ―。一晩中歩いた。

到着した時には、すでに夜は明けていた。気がつくと兵の数は半分ほどになっていた。幾度となく続いた戦闘で兵隊たちは疲労こんぱいしている。そして大雨の中をびしょぬれになっての移動。「砲弾が激しい時は止まって気をつけながらたばこも吸ったりしたが、一晩中歩き続けた。疲れた兵隊たちにはきつかったに違いない」…。歩き続けなけらばならないが、体力は限界に来ている。途中、次々と倒れていった。戦友が抱きかかえ、ようやくたどりついたのもいるが、多くは放っておかれ、その後、消息の知らないままだ。』(191頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 191頁より》

[119 32軍司令部壕(4)]首里壕にまだ負傷兵遺骨 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

5月26日午後、米軍の観測機は沖縄本島南部へと移動する大勢の人の群れを確認した。

小禄半島と那覇ー与那原間のまんなかあたりにかけて、約2千からなる人の移動が発見され、午後6時には、首里のすぐ南のほうを、3千から4千の人々の群れが歩いているのも見えた。八重瀬岳の前方にある道路上には、約100台ほどのトラックが発見され、その日の正午には、2輌の戦車が大砲を引っ張っているのも見えた。さらに1時間後には、牽引者が別の大砲をひいていた。その日の午後、7輌の戦車が、南と南西の方向に移動していた。

観測機のパイロットが、この移動部隊に攻撃を加えてみた。曳光弾が当たったとみるや、数名の兵隊が爆発で吹き飛ばされた。それは明らかに彼らが、爆薬物を携行していたことを物語るものであった。観測機の指示に従って、米軍は大砲や艦砲射撃で、移動中の軍隊や車輌に一大集中砲火をあびせた。海軍の艦砲だけでも津嘉山の南側で、推定500人の日本兵を戦死させ、大砲1門と戦車5輌を破壊した。』(424-425頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 424-425頁より》

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1945年5月26日、米軽巡洋艦ヴィンセンス号からの攻撃で破壊された日本軍のCDG砲。

Jap 5” CDG destroyed by fire from USS Vincennes on 26 May 1945. 7171 W3.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

『第32軍は小禄海軍部隊の後退を6月2日以降と予定していたが、ここに連絡の行き違いから大きな誤解がおきた。すなわち、沖縄方面根拠地隊は命令(電報)を誤解して受けとり、5月26日第32軍を待たず、先におりからの雨をついて南部の移動を開始、真栄平に移転した。その際、携行困難な重火器は破壊した。また、重傷者には手榴弾や薬品などが手渡された。』(90頁)

戦闘概報:

5月26日   第32軍が島尻半島南部地区に兵力を集約することに決定したのに策応して、海軍部隊も該地区に転進を開始、司令部を真栄平に移転する。』(91頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 90、91頁より》

 

沖縄島からの脱出

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ②

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神直道航空参謀だが、5月10日水上機による脱出を試みるも、タイミングを逃し失敗。そこで、刳舟で北上することにし、その後は若い漁夫の漕ぎ手を探していた。

『わが空軍の画期的な沖縄援助を求めんとして首里軍司令部を去った神参謀は、十数日を経た今日、まだ摩文仁付近に滞留したままであった。本土帰還のため、まず水上機に頼ろうとした彼は、ここで毎日のように、飛行機の来着をまっていたのである。特攻機でさえ、夜間を利用しても沖縄上空に到達するのが至難の状況である。況や水上機では、なおさらのことである。敵情、気象、相互の打ち合わせ等の関係で、容易に望む飛行機はやってこない。ようやくきたかと思うと、海上波が高くて着水ができぬ。犠牲になった飛行機もあるという噂が飛ぶ

神参謀の本土連絡に当初協力したという三宅参謀が、とうとう私に、取りやめさせるべきだと意見を具申した。軍の運命は旦夕に迫った。今さら空軍の積極的援助を依頼するなど笑止である。しかも神自身敵の重囲を突破する術も望みも失っているというのである。成り行きに委すほかはないと思い、私は彼の意見を聞くのみで、なんら処置するところはなかった。』(343-344頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 343-344頁より》

『その頃、東風平村の富盛のある防衛隊員の壕では、海に経験のあるもの6人出ろ、と、隊長から命令された、雨を浴び乍ら夜通し、勝手のわからぬ泥濘の山道や、畑の中を、案内されて、摩文仁の小渡浜に着いた。神参謀たちがかくれている場所である。』(83頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 83頁より》

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年5月26日