1945年 6月25日 『民間人捕虜になる』

掃討作戦

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南部では、多くの日本軍のトラックが破壊または鹵獲された。溝にはまって機関銃でハチの巣にされたトラックを調べる憲兵(1945年6月25日撮影)

In Southern Okinawa, many Japanese trucks were destroyed or captured, here MPs are shown inspecting one of the trucks which was run into a ditch and riddled with machine gun fire.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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沖縄の海岸を攻撃した総勢240人のうち、第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊所属の兵士はたった31人。31人中25人が負傷したが、任務に復帰した。(1945年6月25日撮影)

Only thirty-one men of ”L” Company, third Battalion, twenty-second Regiment, Sixth Marine Division out of a total of 240 who hit the beach at Okinawa. Twenty-five of the thirty-one were wounded but have been returned to duty.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 

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投降してきた日本人と沖縄人の負傷兵の集団。(1945年6月25日撮影、場所不明)

A group of wounded Nips and Okinawans that have surrendered.

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上陸艇LCVPから銃を向けられ投降する日本兵(1945年6月25日撮影、慶良間列島

Japs surrendering under guns of a landing craft LCVP at Kerama Retto, Ryukyu Islands.

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将軍らの遺体確認

6月25日、米軍は、捕虜となっていた沖縄憲兵隊副官(階級:中尉)を摩文仁へと連れ出し、自決した第32軍司令官の牛島満陸軍中将と同軍参謀長の長勇陸軍中将の亡骸を確認させた。この憲兵隊副官は、米軍が沖縄に上陸する数ヶ月前、首脳2人の自決を介錯した坂口勝中尉に、介錯の作法を教えていた。副官は、部下を率いて玉城村の壕内にいたが、6月3日に投降し、捕虜になって日本軍将兵に投降を呼びかける「帰順工作」に従事していた。

連れて行かれたのは、海岸側司令部壕から3、40メートル下の場所で、遺体は窪地に並ぶように埋められており、その上には石が積まれていた牛島中将の遺体には首がなく、略章をつけた軍服に白い手袋をしていた。長参謀長の遺体は、敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っており、ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけだった。その肌着には墨で「忠則盡命 盡忠報国 長勇」と書かれていた。これが沖縄戦を指揮してきた軍首脳2人の最期の姿だった。(首里城地下の沖縄戦・4 / 32軍司令部壕・10を要約)

[125 32軍司令部壕(10)]牛島中将の遺体確認 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および

[41 最後の命令]「最後まで敢闘せよ」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 より抜粋、要約》

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牛島満司令官及び長勇参謀長とされる遺体

[Photo] Remains of General Mitsuru Ushijima and Lieutenant General Isamu Cho, Okinawa, Japan, 5 Jul 1945 | World War II Database

(投稿者注: リンク先はこの写真の撮影日を1945年年7月5日としている。また、この写真は牛島と長ではない人物の遺体である可能性を指摘する人びともいる。)

『沖縄守備軍首脳は、いかにも武人らしい最期をとげたわけだが、軍命とはいえ無謀としか言いようのない沖縄戦を部下将兵ばかりか、住民まで道連れにして戦ったことへの批判を免れることはできなかった。岡本太郎氏は、個人的な人格がどうであれ、「とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自分らのおかした惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまで虚栄の中に反省もなく〝帝国軍人らしく〟自刃した。その軍部を象徴する暗いエゴイズムに戦慄する」と述べている(「忘れられた日本」)。』(224頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 224頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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怪我をした民間人を壕から助け出す海兵隊(1945年6月25日撮影)

Marines help wounded civilians out of a cave.

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(投稿者注: 轟の壕にいた民間人救出・2日目の様子と思われる)

 

「民間人捕虜」になる

『「捕虜になったの・・・。6月25日に、ほら、沖縄の戦争が、一応もう敗戦が決まったでしょ。その時に米軍は一斉に総出で各部落をまわってね・・・。住民を皆、連れ出したわけ。日本軍が潜んでるってことでね、米軍はそれを恐れていたのよ。だから、捕虜になったときが6月25日。

わたしは12歳だったけれども、そういうことは皆、脳裏に刻まれているんですね。昭和20年の6月25日に捕虜になって、もう村中のひとが一斉にトラックに乗せられてね」

そこはここ本部の村ですかと尋ねると、…「はい、自分の郷里でですよ。そして、母はもうその頃重体だったから、トラックじゃなくして、特別にジープで迎えにきたんですね。そのジープには2世の通訳がついていたんですよ」

…「やっぱり、米軍としてきている2世のかた、日本語話すかたがついてきていたという米軍の配慮というのがね、わたしとても感心したんですよ。

そして、それからジープに乗せられて、わたしはもう、鍋釜とか味噌とか、お米とか、持っていかなきゃってやっていたところに、その2世のかたがね、なんにもいらない、なんにもいらないって手を振って教えるんですよ。

なんにもいらないっていったって、鍋も釜も持っていかなきゃ何でご飯炊いて食べるんだってね、小さいながらに口答えしたら、その2世が、ほんとになんにもいらない、いらないっていうもんだから・・・。それに、母はもうとっても重体だったから、見込みはないなあと思いながらね」…「山で発病して・・・。それまでは父よりも母のほうが元気だったのにね・・・。急に何の病気だったかわかんないけど、熱も出て・・・。ほんとになんだったのかわからんけれども・・・」』(7-9頁)

《「失われる記憶のルポタージュ 沖縄戦と民間人収容所」(七尾和晃/原書房) 7-9頁より》

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米海軍軍政府の収容所内にいる民間人。沖縄本島田井等の村にて。背中に子どもを背負っている母親と娘。原始的な手段で物を運んでいる様子や母と娘の服装の違いに注目。

Japanese civilians in US Navy Military Government compound, village of Taira, Okinawa, Ryukyu Islands. Mother with child strapped on her back and daughter. Note primitive means of transportation and differences in dress between mother and daughter. CL-62#55.

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『それまで本部の村から奥に入った山中で避難生活を送っていた…が、沖合からの艦砲射撃の嵐が止み、地上戦も終わった気配伺い、本部の村に帰ってきていた。

「焼け跡に父が、萱の、小さい掘立小屋、ほんとに小さくて3名か4名ぐらいが寝られるぐらいの掘立小屋を作ってくれて、そこに母を寝かせていました。

それで兄などは、もうほら、戦争中だからまだ学徒隊に行っていて帰ってきていなかったし姉達はアメリカに強姦される恐れがあるからといって、まだ山奥に逃げていたから・・・。結局は妹とわたしと父と、3人で母を見ていたんですよ」

そして、捕虜となる日は予告なく訪れた。

「その日、うちの父は山へ行って、物をとってこようと馬を引っ張っていったんですね。ところが、行ったっきり。結局は父は途中で捕虜になっていたわけでね。それで、わたしと妹と母はジープに乗せられて。それから名護の病院に連れて行かれて、そこで米軍の医者がちょっと診察してから羽地に連れて行かれたわけ」

羽地と田井等は隣あった集落であり、同時に、沖縄島と本部半島との首根の細い部分にある。南北をつなぐ北部地域の交通の要衝ともいえる場所だ。羽地ではすでに収容所の構築が始まっていた。そこには病院なども併設され、小さな村は、…同様に次々と送り込まれてくる民間人捕虜であふれていた。

…自身のそのときの境遇をはっきりと、「捕虜」と呼んだ。兵隊に限らず、民間人でさえ、米軍に捕まれば、それは捕虜となることを意味していた。

だが、米軍から見れば、それは、民間人に紛れ込んだ日本軍の戦闘員を選別する意味と、そして、民間人を隔離することで確実に「保護」するためのものであった。

沖縄の住民にとっての「捕虜」生活が、米軍にとっての「保護」という強い信義と建前を孕んでいたことは、しかし今に至るまで、…収容所生活の体験者たちにとっては意識されていない。それは、半世紀を超えてなお続く、沖縄における米軍駐留の在り方の、微かにして、だが決して噛み合わぬ悲劇の芽ばえであったのかもしれなかった。』(9-10頁)

《「失われる記憶のルポタージュ  沖縄戦と民間人収容所」(七尾和晃/原書房) 9-10頁より》

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10日目でやっと食べ物にありつけた沖縄の少女とその父親(1945年6月25日撮影)

An Okinawan girl and father receive food for the first time in ten days.

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月25日(月)