〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月29日 『続く久米島の悲劇』

日本軍基地と米軍基地 / 久米島の虐殺 (2) / 田井等孤児院

 

米軍の動向

〝沖縄〟という米軍基地の建設

沖縄の米軍基地は多く日本軍の土地接収と基地建設にその起源がある。米軍はまず4月1日に読谷と嘉手納の基地を占領し、次々と日本軍の基地を礎にして更なる基地建設を進めた。1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場20あまりの小飛行場を建設した。

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旧日本軍が建設した15の飛行場
沖縄島

南大東島

宮古島

石垣島

 

泡瀬飛行場、ほぼ完成。

f:id:neverforget1945:20210628232045p:plainAwase Airstrip as it looked from the control tower on 29 June 1945. Bulldozers, scrapers and rollers of the 36th Naval Construction Battalion were working to complete the field for operation on 1 July 1945. Okinawa, Ryukyu Retto.

1945年6月29日管制塔から眺める泡瀬飛行場。7月1日の作戦までの完成をめざして作業する第36海軍建設大隊のブルドーザー、スクレイパー、ローラー。(1945年6月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇小禄半島

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Area of Class II Quartermaster Dump, part of 521st Quartermaster Group at Naha.

那覇の第521補給部隊のクラスII物資置き場。(1945年6月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

第32軍の敗残兵

久米島住民虐殺事件 ② 1945年6月29日

  1. 6月26日: 米軍、久米島へ上陸
  2. 6月27日: 鹿山隊による有線電話保守係の虐殺

久米島: 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

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沖縄戦証言 久米島と鹿山隊 - Battle of Okinawa

6月27日の虐殺に続き、29日には16歳の少年を含む9名の住民を惨殺した。

その二、字北原区の区長小橋川友晃、警防班長糸数盛保および宮城栄明の家族3人比嘉亀の家族4人 ── 計9人が、米軍の上陸と同時に米軍に拉致されたが、その日に帰宅を許された。6月29日夜11時ごろ、鹿山兵曹長はこの9人を射殺したうえ、金城宅に集め、火を放って焼いたという。

《山川泰邦『秘録・沖縄戦記』(1969年) 》

容疑は、米軍上陸前の6月14日に鹿山守備隊が出した布告(情況が不利になり切迫するにつれて、鹿山は身勝手な道理に基づく布告を乱発した)――「米軍に拉致されたものが帰ってきたら、自宅に入れず、ただちに軍駐屯地に引致し、引き渡すべし。この命令に違反したらその家族はもちろん、部落の区長、警防班長は銃殺すべし」――にそむいたためというもの。
虐殺のもようは、当時日本軍の一人として現場にいた沖縄出身兵K氏のつぎの証言で明らかにされた。「宮城さんの家に集められた九人は、手足を針金で縛られ、目隠しされて立たされ『ひとりひとり殺せよ』と命令され、銃剣で次々刺したのです。一突きで死ななかったので、のたうちまわっている九人を何度も刺して殺し、八坪そこそこの住宅は血の海となり、全員が息絶えた処、火をつけて引き上げていったのです」家ごと焼き払われた死体は、いずれも黒こげでだれがだれだかまるで判別不能の有り様だったという。

「報告・久米島三二年目の夏」: ガンジーの小屋

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日本軍部隊「鹿山隊」によって子どもたちを含む久米島の2家族と区長ら9人がスパイ容疑で殺された跡(北原地区)。鹿山隊は家ごと焼きはらい、今は井戸だけが残る。

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

それに先立ち・・・

艦隊付海兵隊による「久米島攻略並びに占領 アクション・リポート」(45年8月15日付)によると、米軍の水陸両用偵察大隊は45年6月13日深夜、駆逐艦久米島北海岸に接近。三手に分かれた偵察隊が北原の集落で「沖縄語を話し、日本語をはなせない」男性と、16歳の少年「アラグスク・マゴゾリ」を捕らえ、駆逐艦に連行した。少年について既存文献は、北原で牧場を経営していた「宮城栄明さんの妻の弟」とあるだけで、初めて名前が明らかになった。拉致されたもう一人は既存文献と照合すると同村北原の比嘉亀さんと思われる。

「少年の証言が島救ったかもしれない/久米島虐殺新資料」沖縄タイムス 2003年5月12日

同証言で、旧日本軍の守備隊が機関銃一丁と小銃のみで武装した小規模の通信隊であるとの情報から、米軍は久米島を砲撃せず、当初より小規模の戦闘員742人で上陸した経緯がつづられている。… 林教授は「二人の証言が米軍の久米島への攻撃をやわらげ、多くの住民の命を救うことにつながったのではないか」とみている。

「旧日本軍の作戦資料入手/関東学院大・林博史教授」沖縄タイムス 2003年5月12日

この後、鹿山隊は捕虜となった中学生だけではなく、家族全員と区長や警防分団長を殺害したことになる。

しばらく経った6月29日、鹿山隊は米軍に拉致された人々をスパイとみなし、(米軍から)戻されたことを軍に知らせなかったとして、比嘉さんと宮城さんとその家族、さらには北原区長だった小橋川共晃さん、警防分団長ら9人を銃剣で突き殺し、さらにガソリンをまいて家ごと焼き払った。

日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN

惨殺し、放火し、「火葬」にしたと語る鹿山隊長。その後も住民虐殺を続けた鹿山は戦後のインタビューで「島民を掌握するため」だったと語る。

鹿山隊長の証言

〔答〕ええ、火葬にしました。家といっしょにね、それから、あと片づけをするように、村長に命令しました。ええーと、ワシの見解はね、当時スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね、島民が向こうがわに行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです。

久米島の日本軍 海軍通信隊の鹿山正隊長と陸軍中野学校の上原敏夫 - Battle of Okinawa

島は小さかったが食糧はかなりあった。ことばは琉球語であるが、日本の教育を受けているので不自由はしなかった。那覇は知らんが久米島離島でいち植民地である。

鹿山、テレビインタビューで語る。

7月から、米軍は久米島に通信施設を建設。米軍「久米島航空通信施設」は1973年5月14日に自衛隊那覇基地久米島分屯基地に移管された。

沖縄返還」に先駆け、1972年4月23日号で「サンデー毎日」が久米島虐殺事件を「沖縄のソンミ事件」としてスクープする。しかし、この残虐事件の受容において、典型的な「戦争の犠牲は沖縄だけではない」といった、本土の戦争被害には目を向けても、戦争加害に向きあうことを拒絶する傾向がみられた。

海を見渡せる山頂一帯に設置された航空自衛隊久米島分屯基地。この山の一体に日本軍の兵舎などがあった。

〈スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。(中略)いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていない〉 K氏はそう語り、殺害の様子を淡々と説明した。〈処刑は銃剣でやるように(隊員に)命令しました。突くようにね。

――突殺して、放火した?

 ええ、火葬にしました。家と一緒にね〉(一部改変)

まさに闇に葬られてきた事実を暴いたスクープは沖縄内外のメディアで大反響を呼んだ。本誌が初報でKと匿名にした元兵曹長はテレビにも出演。実名「鹿山正」を名乗り、「軍人として当然だった」と述べた。

テレビ局には視聴者の電話が殺到した。だが、〈その声は本土と沖縄ではまったく対照的〉だったと本誌72年4月23日号は伝える。本土からの電話の7割は「戦争の犠牲は沖縄だけではない」といった意見だった。〈「もういいではないか」(本土)に対し「やつざきにしてやりたい」(沖縄)。この落差は何か〉 記事はそう書いている。

久米島で住民20人〝処刑〟 スパイ容疑が招いた惨劇 1972(昭和47)年・〝沖縄のソンミ事件〟報道〈サンデー毎日〉 | 週刊エコノミスト Online

 

 

摩文仁の掃海艇

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愛知県出身の吉橋さんは日本軍の歩兵部隊の兵士として、米軍と戦った。絵は昭和20年6月末、糸満市摩文仁の海岸に追い詰められた際、米軍の高速艇に海から火炎放射器で攻撃されたときの様子。吉橋さんが近くの岩にへばりつくように身を隠すと、上から何人もの兵士が覆いかぶさってきた。数時間後、あたりが静かになってから身を起こすと、覆いかぶさっていた兵士のほとんどは焼死していた。

船からの火炎放射 【吉橋弘二】|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・ 

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田井等地区の孤児院

2008年に発見された写真

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Pfc. Chester J. Dziurkiewicz, member of the 27th Division Band, entertains Okinawan children in the village of Taira with some fancy rope twirling.

田井等の村で面白いロープのおもちゃで子供を楽しませる第27師団楽隊のジウオキウイク上等兵(1945年6月29日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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名護市田井等地区に、沖縄戦で親と死別したり生き別れたりした子どもたちを収容する孤児院がありました。孤児院として使われた住宅は昭和初期に建てられました。50坪の母家は、この地区で最も大きな住宅で、60人あまりの子どもたちが生活していました。終戦後、親などに引き取られる子どもたちが相次ぎ、翌年の春に孤児院はその役割を終えました。

名護市 戦争孤児院【放送日 2009.6.15】|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

孤児院は各収容所に併設されていたが、米軍の囲い込みのもとにあり、住民は自由に孤児たちの施設に通い食事を与えることすら許されなかったことが他の証言から明らかになっている。また当時の孤児院の米軍記録も今までのところ公開されていない。

孤児院での子どもたちの衰弱死に関する統計はない。これも米軍管理のもとで正確な統計が存在しないこと自体が施策の怠慢を物語っている。統計資料や記録を米軍が廃棄したのか、もとも と記録などはないのか、現在もアメリカのどこかの図書館・史料室に眠っているのかは不明である。

田井等孤児院の状況に関する証言でも「毎日のように山から運び込まれてくる小さい子どもたちは、裸にされていましたが、どの子も栄養失調でした。縁側に寝かされても翌朝までに半数は死んでいましたが、『シニイジ』といいますが、子どもたちは汚物にまみれており、朝鮮の女の人たちがダンボールに入れて埋葬していました」(35)という証言にもかなりの頻度で子どもたちが 亡くなっている状況を見て取ることができる。

また越来村(現在の沖縄市)のコザ孤児院は当時「子どもの家」と呼ばれた施設であったが、 激しい下痢で子どもたちは衰弱しており、大勢の子どもたちがそこで命を落とした。下痢で床張りの部屋は豚小屋のようになっていた。……子どもたちの遺体は、衛生係と呼ばれた男性が担架で少し離れた墓地に運んだことが語られている(36)

浅井春夫「沖縄戦と孤児院 ─ 戦後史のなかの児童福祉の空白を埋める ─」(2013)

 

親を失いひとりぼっちで戦場に取り残される子どもたち。

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米国海兵隊: A little Japanese girl shares the canteen of a marine who found her in a cave on Okinawa. She was brought in to the settlement maintained for Okinawa civilians by military government officials.
海兵隊員の水を分けてもらう日本人の少女。沖縄の壕で見つかった。軍政府職員が沖縄人のために管理している居住区に連れていかれた 1945年 6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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