1945年5月10日 『沖縄島からの脱出』
小禄海軍への部隊供出要請 / ある参謀の脱出計画 / 「政府へ連絡するためのメモ」/ 「スパイ」の処刑 / 戦場の子どもたち
米軍の動向
総攻撃計画 前夜
バックナー中将は総攻撃計画を立てた。
バックナー中将は、5月10日、今度の攻撃では、特別に変わった戦闘はない、と語って、さらにつぎのようにつけ加えた。
「今度の攻撃もこれまでの続行にすぎない。もし、ただちに占領できない陣地があれば、いつまでもそれに固執せず、幾分弱体化させてからとし、攻略は予備軍にまかせよ。弾薬は十分あり、新鋭部隊も十分で、1個師団はたえず休養をとれるぐらいいる」
攻撃命令では、地上軍が戦闘にはいるまえに、30分間にわたる予備砲撃を行うことになった。この命令はこれまでのとは違って、「敵の砲台や要塞で、それとわかっているものは、最大限の破壊をすべし」というものだった。命令がこのように変わったのは、4月19日の予備砲撃作戦で失敗したからで、全戦線に沿って地下陣地網をはりめぐらしてある日本軍にたいしては、洞窟ひとつひとつの入口は的確に攻撃することが必要であったからだ。
南進する米軍
米軍は首里に迫る。5月5日頃から米軍は日本軍の反斜面陣地、第3線: 安里の北ー沢岻ー大名ー石嶺ー弁ケ岳ー運玉森ー我謝のラインに接近した。
安謝(あじゃ)
5月10日、米軍は安謝川を渡る。
第1大隊は、第2大隊と第3大隊の中間に配置され、両部隊との連携を維持しながら続いて渡河し、川の南側にある高地を占領することだった。攻撃開始時刻は、夜明け直前に設定された。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 66頁より》
Asa Kawa--Illustrating the mud flats, soft bottom and general appearance of the river as well as the temporary foot bridge used in crossing. 安謝川‐‐泥湿地、軟底、そして川の全体像や、川を渡るための仮設橋が見える
Tanks up against one of many sea walls- used as a line of defense for advancing Marines- tanks crossed river and remained covered behind this stone wall for protection while covering our troops in their advance. 米海兵隊先遣隊の防衛線として利用された多数の護岸のひとつに接岸する戦車隊。前方の友軍を掩護する一方で、戦車は川を渡り、この岸壁のかげに隠れている(1945年5月10日撮影)
安謝川を渡り午前中には安謝の集落まで進軍する。
第22海兵連隊は、前夜のうちにかけておいた歩行橋をつたって、5月10日の朝早く安謝川河口を渡りはじめた。ちょうど3個中隊が渡り終わったとき、一分隊ほどの日本軍決死隊が、爆雷を抱えて、橋を破壊してしまった。だが、残りの海兵隊は川中を歩いて南側の岸にたどりつき、しだいに激しくなる抵抗のなかを、午前中には安謝の村落まで進撃することができた。安謝は深い霧や砲煙につつまれて視野がきかず、村落の西側では、それ以上の進撃が難しくなった。… 日暮れまでには、ついに奥行き330メートル、幅1キロ半にわたって、橋頭堡を築いた。
一方、日本軍は、陣地につくやいなやでの攻防を強いられた。
敵は、9日内間を奪取し、10日安謝川を渡河攻撃してきたのであるから、混成旅団ーといっても、美田大佐の独立混成第15連隊が主力であるーの第1線が、陣地につくや両3日を出でずして戦闘を開始したことになる。当時各第1線部隊が無準備のまま、西も東も弁せず、混沌たる状態であったろうことは疑う余地がない。かかる陣地と戦況において、無準備の部隊を戦わすほど無理かつ不得策なことはない。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 301-302頁より》
シェファード将軍は、ベイリー型の組み立て橋を架けるように命令した。これにより戦車を渡河させて、翌日の攻撃に投入できるはずだった。… 最初の海兵隊の戦車が轟音を響かせながら渡河したのは11:03時になってからだった。
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 77頁より》
Marine Combat Cameramen and Marine Engineers pinned down by sniper's fire while Bailey Bridge was under construction to connect outskirts with Naha.【訳】海兵隊の戦闘カメラマンと工兵部隊は、那覇と郊外を結ぶベイリー型橋を建設中、狙撃兵による射撃を受け、その場に釘付けとなる
沢岻 (Dakeshi)・大名(Wana Ridge)
海兵隊が5月10日に着いた沢岻丘陵は、反対側の陣地が、村落からさえも守られている典型的な防衛陣地であった。… 5月10日に連隊攻撃をしたが、これは失敗に終わった。攻め寄せている海兵隊に、日本軍は前面の陣地や後方から、はげしい迫撃砲弾をあびせ、機関銃で撃ちまくった。海兵隊はついに日が暮れるまでに、もとの前線に後退せざるをえなかった。
一方、日本軍は次々と兵を投入するが、
5月10日ごろ、前田、仲間、安波茶付近を放棄した後、第62師団正面においては、左翼有川少将率いる歩兵第64旅団は、残兵を糾合して経塚、沢岻の線を占領し、また右翼前田、大名間の錯綜した丘阜地帯は、杉本少佐の師団輜重隊と第24師団の北郷連隊が、前後混合して守備に任じ、中島中将(進級)の歩兵第63旅団は、首里市内に撤収していた。第62師団の右翼正面は、北郷連隊の担任とする予定であったが、陣地および地形に未熟な新来の部隊なので、杉本輜重隊を依然この正面に残置し戦闘に協同させたのである。敵は、錯雑した地形と、これを巧みに利用する無数の地下陣地に拠るわが輜重隊正面を避け、その左右から首里正面に向かい浸透攻撃をしてくる。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 318頁より》
Marines of 7th Reg. wait while a barrage of phosphorous shells in background, pave way for the push. 【訳】後方で行われている黄燐弾の煙幕砲火をしばらく待って、進撃路を開く米海兵第7連隊の兵士たち(1945年5月10日撮影)
Aiding wounded Marine. 負傷した海兵隊員の手当(1945年5月10日撮影)
運玉森 (Conical Hill)
米軍は部隊を後退させながら次々と日本軍の陣地を攻略する。11日は運玉森だ。
米第96師団第383連隊は、5月10日、第7師団の第184連隊と交替した。与えられた任務は、コニカル・ヒル (註・運玉森) の占領であった。この攻撃の主力は第1大隊だったが、この部隊の交替は、イージー高地の東部斜面で実施された。
第32軍の動向
首里の第32軍司令部壕と小禄の海軍
いよいよ、米軍は首里の防衛陣地に接近する。
… 日本軍のほうでは、米軍のこの新しい攻撃にそなえて、いよいよ首里の防衛陣を固めていた。牛島中将は、「わが軍は、ただちにその主力を首里に向けんとす」との命令をだした。その防衛線は、西側を安里の北から大名を通り、石嶺付近の丘陵地帯にまでおよんでいた。牛島は、第6海兵師団は西側から攻撃してくるだろうと予想して、部隊を配置がえして両翼に鉄の防衛陣をしいた。那覇の東側で、道路や橋梁破壊を命じた。だが、もしかすると米軍は、パラシュートで背後から襲ってこないともかぎらない、という危惧もあって、牛島中将としては、全部隊を前面に動員するということには、ためらいを感じていた。
前日の9日、沖縄に配備された海軍部隊の司令官である大田少将は、第32軍司令部から首里防衛陣の強化に小禄海軍の部隊を供出するよう要請を受けた。しかし海軍の部隊はそもそも飛行場の建設管理に特化したもので、地元召集である防衛隊員も多かった。
海軍兵力は、陸戦兵器をほとんど持たず、沖縄の防衛強化を急いだ時期にも、沖方根部隊の装備はそのままであった。3月のはじめ、米機動部隊の空襲を受け、沖縄に上陸してくる意図がわかって、はじめて手持ちの兵力で陸戦隊をつくった。
… 小禄陣地にいるからこそ、20センチ砲5、15センチ砲9、12センチ砲11、25ミリ機砲64、12ミリ機銃100、7.7ミリ機銃124の銃砲弾を敵に浴びせることができるが、そこを出たら、随身兵器を持たないので、7.7ミリ機銃(小銃と同じ大きさ)を外して抱えていくだけ。おどろいたことに、スコップもないので、第一線に就いても、陣地もタコツボも掘ることができない。野戦の経験もない。そして、この主力部隊が出払うと、あと小禄に残るのは、据えつけた大砲を撃つこともできず、武器といっては即製の手槍だけの設営隊員しかいなくなる。
つまり1万人部隊のうちの実戦部隊は3000人しかいない。陸軍第32軍の兵力の供出要請に、大田実司令官は抵抗した。
海軍兵力は約1万人。うち約8000人が小禄半島に配備されていたが、陸戦の訓練を受けた既教育兵は約3000人しか居なかった。残りは軍属が主体の設営隊員約3000人など後方要員だったから、中核兵力を持って行かれるのである。しかも、せっかく築いた小禄要塞を事実上放棄し、要塞兵を歩兵として使う破れかぶれの作戦でもあった。大田少将は「残る兵力は重火器を使用する能力なく 槍を主体とする烏合の衆となる」と反対した。
《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 295頁より》
沖縄からの脱出計画 - 神直道航空参謀
第32軍は5月6日に神(じん)直道航空参謀を東京に派遣することを決定した。沖縄への航空支援要請のためとされる。事後報告をうけた八原作戦参謀は戸惑う*1 。八原はあくまで沖縄戦は「本土決戦」を遅滞させる地帯作戦であり、捨て石に「本土」から援軍を期待するのは適当ではない、あるいは不可能と考えていたようだ。
こんなある日、突然私の机の上に1枚の書き付けがおかれた。神参謀を連絡のため東京に派遣するとの命令書で、軍司令官、参謀長の署名がしてある。あまり急なことなので、ちょっと私は途惑った。派遣の目的を聞くと、軍の戦力激減した今日、国軍航空の総力を挙げて沖縄周辺の敵艦船を攻撃し、もって敵の沖縄攻略の企図を断念せしめるほかはないとの意見を直接に具申するというにあった。一見軍の危急を救う壮大な妙案のようである。本土では、今、決戦準備に狂奔しているはずだ。沖縄では、どうしても勝てない戦である。… 夢のような勝利を、特にこの段階において、望むのは適当でない。私は内心この案には賛成できなかった。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 294頁》
10日、米軍が傍受した日本軍の無線通信記録には、次のような作戦が記録されている。「機雷艇」が正確には何を示すのかは別として、日本軍の機密は筒抜けであった。
「日本軍航空要人の救出航空搭乗員を奄美から九州にかけ北方の島伝いに上陸させる救助の準備をなせ。機雷艇を使用し、救出作戦は夜間のみ実施するものとする。」
《保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(2013年) 197頁》
この後、神参謀は摩文仁に潜伏する。そこで水上機での脱出の機を2度も逃す。むしろ用心深い参謀は、クリ船での脱出を選び、そしてそれは結局、成功する。
1945年4月のある日、糸満の海岸近くの壕にかくれていた、… 3人の、60歳近い老漁夫たちが、いきなり壕から捜し出されて、ある任務を与えられた。神参謀脱出につき、協力せよ、とのことだった。… 夜陰に乗じて彼らは、神参謀と他に見習士官2人を乗せて、摩文仁村の小渡浜にいき、刳舟を阿多旦葉の中にかくし、そこで暫く待機することにした。1週間ばかりそこにひそんでいる間に2回ほど日本の水上機が附近の海に着水した。即ち、神参謀の脱出機であるが、肝心の参謀は、漁夫たちが、すぐ舟を出しましょうという言葉を斥けて、今は危ない、しばらく様子を見よう、と云って、岩かげに身をよせ、海をにらむばかりで、容易に出て行こうとしない。そのうちに、敵中着水の離れ業を敢行していた水上機は、あきらめたのか、どこかへ飛び上がってしまい、計画は挫折した。神参謀は今度はクリ舟で徳之島まで行けと命じた。これには、いくら、なだめ、すかされても老漁夫たちは頑固に応じなかった。「徳之島どころか、伊江島までも、われわれ老人では舟を漕いでいく元気はない。ことに今は雨季であって雨にうたれては、年とった、この体ではもたない、若い者と交替させてくれ」と言った。
《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 82頁より》
「政府へ連絡するためのメモ」
神参謀は、最終的には5月30日に糸満の漁師を駆りだしクリ舟で脱出。世論島、徳之島を経由し、6月11日に九州の鹿屋に到着している。東京は神参謀の援軍要請に命令発令から35日が経っていた。沖縄への援軍要請は受け入れられなかった。
5月末に強制召集された6人の糸満漁師は、「秘密文書」を本土に届けるといわれていたが、実際、それらの書類には何が書かれていたのか。当時の神直道が記した日誌『神日誌』には、『政府へ連絡するためのメモ』が残されている。事実と異なる内容というだけではなく、沖縄人、そして中国人に対する極めて差別的な記述が確認される。
「政府に対する連絡
二、沖縄県人は支那人に似る、精神的中核なし、かつ無気力、神社仏閣極少 *2
三 軍隊に対する態度 消極的に協力
(一)軍隊が来たから我々が戦闘の渦中に入りたりとするもの、すこぶる多し
(二)学徒(防召)は駄目なり 召集しても皆自家に逃げ帰り 召集解除のやむなきに至る*3(三)本県人のスパイ 甚だしきは落下傘にて潜入(本県人)を目撃 追跡せることあり 電話線の故意切断*4
(四)弾丸の中でも金をやらねば物資を分けてくれぬ 何を考えているか分からぬ*5「神日誌」第32軍参謀 陸軍中佐 神直道 (2-4 pp. 337-336)
第32軍は大陸での侵略と植民地支配の思考様式を継承したまま沖縄に移駐した。第32軍が東京に伝えようとした内容は、どれをとっても事実とは大きく異なる内容で、差別に満ちた内容であり、明らかに第32軍の敗戦状況を「沖縄県人」に転嫁するものであった。
「スパイ」の処刑
第32軍司令部の参謀らは、上記のように、沖縄県民は潜在的にスパイであり、皇民としての「精神的支柱」がないという考えを共有していた。そんな中、ある女性がスパイとして連行され、見せしめとして兵士、女性、学徒らに処刑させた。壕に連行される前、拷問や虐待があったと思われる。
「上原トミ」の処刑、当時17歳の沖縄師範鉄血勤皇隊による証言
これは本当に忘れもしませんが、1945年の確か5月10日ぐらいじゃないかと思います。沖縄の女性のことなのです。この女性が憲兵隊員二人に縄で縛られて連れてこられたのです。この女性は南部戦線、いわゆる沖縄の南部方面で、夜な夜な懐中電灯を照らしていたので捕まったらしいのです。それがスパイということで南部で捕まって、憲兵に逮捕されたのです。この女性は頭が丸坊主で半袖の軍服と短いズボンを身につけていました。そのような夏服の軍服を着せられて、連れてこられたのです。その時は夕方でした。女性が連れて来られたので、みんな何があったのかということになりました。そして連れてこられて1~2時間経った頃でしょうか。軍司令部の第6坑道口は首里の崎山、金城町にありました。その坑道の真向かいには私の母校、沖縄師範学校がありました。沖縄師範学校には田んぼがありました。180㎡ぐらいあるんじゃないですか。その坑道口から20~30mのところ、田んぼの真ん中に電柱がたっているんですよ。そして憲兵がスパイという女性を連れてきました。今からスパイを処刑するということで連絡があり、師範学校の生徒と壕内で作業をしている兵隊、集まった人たちは合わせて20名程度だったんじゃないでしょうか。戦争というのは人間が人間でなくなる時ですから、この女性はスパイをしたということで、当時壕内にいた朝鮮の慰安婦4~5名も出してきました。スパイをするとこういうふうになるという見せしめや戦意高揚のために女性は処刑されたのでした。40センチメートルの刃がある銃剣を額にハチマキを巻いた慰安婦に持たせ、憲兵が「よっしゃ、突け」と言うんですよ。「エイ、エイ」とこう突くわけですよ。夕暮れ時ですから、突かれた人の表情というのは分かりません。けれども頭を垂れていました。一人が突くと「よし、次」と言うわけです。次の女性がまた突くわけです。恐らく3名~4名で突きました。その後は、縄を切って立たせ、そしてここに座れと座らせました。憲兵が立ち、「俺は剣術が苦手なんだがな」と言って日本刀をさっと抜いて構え、女性に第1刀を振り落としました。そうしたら首が落ちないんですよ。その憲兵は首から肩にかけて日本刀で切ったと思います。そして第2刀をこう振り落としました。本当に絵に見るように首が落ちました。そして、周囲にいた沖縄師範学校の鉄血勤皇隊員と、軍人が20名ぐらいで女性を囲んでいました。女性に向かってこのスパイのために我が学友を失い、我が戦友を失い、国賊であるスパイは許せないと言って、みんな気分が高まり、その辺にあった石や土の固まりを投げつけました。本当になんと言いますか。グシャグシャになったんじゃないでしょうか。今考えると、当時はスパイがいるはずはないのです。どういうことで女性がスパイをしたと説明も無く、憲兵は憲兵としての仕事として行った事でしょう。
《スパイ容疑で処刑された女性 | 証言 | 戦世の記憶》
沖縄戦における民間人の戦死者数は10万人から15万人と言われているが、その内、いったいどれだけの住民が日本兵によって虐殺されたのかは不明のままである。
1945年5月10日。この日の昼食の時、祖父の家に突然、日本兵2人がやってきた。うむも言わせず、祖父を連行した。日本兵は祖父だけでなく、ぺルーで生まれ育った息子も連行しようとした。しかし、息子は山中に入り、連行を逃れた。住民の誰かが、日本軍に「比嘉省三はスパイだ」と密告したようだ。祖父はペルー帰りでスペイン語を話すことができた。それだけで、スパイだと密告され、日本軍にスパイ容疑で殺されたのだ。祖父は連行されるとき、家族に「もう戻ってくることはできない」と話し、殺されるのを覚悟していたのだろうと家族は思った。数日後、祖父は山の中で首から肩にかけて斬られた状態で亡くなったのを部落の人が見つけた。連行を逃れた息子が現場に行き、自分の父であることを確認した。
そのとき、住民は・・・
戦場における子どもと高齢者
米軍が設営した沖縄の12の民間人収容区域
65年前の今日、アメリカ軍が撮影したフィルムには戦場で傷つき、肉親を失った孤児たちの姿が映し出されていました。5月10日の日付のあるこのフィルムには戦場に置き去りにされ、アメリカ軍が救いだした男の子が映っています。のちに「チャーリー」と命名されたこの子のように、乳幼児で名前さえわからない子も多く、アメリカ軍の作った孤児院に収容され、なんとか命をつなぎました。けがの治療を受けている子どもたち。数日前まで一緒にいた親や兄弟は、彼らの目の前で、どんな運命をたどったのか。傷ついたのは、体だけではありません。沖縄戦では、孤児院は全体で11か所設置されましたが収容された子どもの実数はわかっていません。子供はどんどん運ばれてくるものの、面倒を見る人も食糧も圧倒的に不足していて、お粥も出せず、ミルクだけの日々もあったいうことです。そのためほとんどが栄養失調による下痢を発症し、衛生状態は「豚の飼育小屋」以下だったという証言もありました。
戦後、状況が落ち着くにつれ、多くが血縁者などに引き取られて行きましたが、戦後8年たった調査ではまだ3000人が孤児院に残っていました。
These two little orphans are shown being cared for by Marine. The little girl's hand was badly broken by shrapnel. Their parents were killed by either bombs or shellings.【訳】海兵隊員が世話をする2人の小さな孤児。女の子の手は榴散弾によるひどい怪我を負っている。両親は爆弾または砲弾によって殺された (1945年)
実際にはこれは米軍が孤児を保護しているという物語仕立てのカメラアングルで撮影されたショートフィルムである。しかし記録の少ない孤児院の映像として貴重。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

*1:神直道と八原博通はどちらも最終的に沖縄脱出に成功するが、戦後、一度も顔を合わすことがなかった。八原が航空作戦を切り捨て持久戦を主張したことだけではなく、帰還後の様々なことでで、神直道との深い確執があったと推測される。
*2:ここで精神的中核とは「皇民」としての
*3:実際には召集は解除されておらず、兵士よりも厳しい斥候や連絡、斬り込み、看護を強いられ、沖縄島で召集された学徒の半数以上が戦死している。
*4:戦後のインタビューでは神直道はスパイは確認されていないと語っている。
*5:補給なき日本軍の常として、第32軍は物資の供出を地元から強制し、労働力食糧からモッコや牛馬に至るまで住民に依存した。弾丸のなかでは、女性から老人に至るまで弾薬運びをさせられ多くの県人が戦死している。また軍刀を振るっての食糧接収に金品が支払われた形跡はない。










