1945年 5月10日 『沖縄島からの脱出』

米軍の総攻撃・前夜

『バックナー中将は、5月10日、今度の攻撃では、特別に変わった戦闘はない、と語って、さらにつぎのようにつけ加えた。

今度の攻撃もこれまでの続行にすぎない。もし、ただちに占領できない陣地があれば、いつまでもそれに固執せず、幾分弱体化させてからとし、攻略は予備軍にまかせよ弾薬は十分あり、新鋭部隊も十分で、1個師団はたえず休養をとれるぐらいいる」

攻撃命令では、地上軍が戦闘にはいるまえに、30分間にわたる予備砲撃を行うことになった。この命令はこれまでのとは違って、「敵の砲台や要塞で、それとわかっているものは、最大限の破壊をすべし」というものだった。命令がこのように変わったのは、4月19日の予備砲撃作戦で失敗したからで、全戦線に沿って地下陣地網をはりめぐらしてある日本軍にたいしては、洞窟ひとつひとつの入口は的確に攻撃することが必要であったからだ。』(335-336頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 335-336頁より》

 

南進する米軍

部隊交替

『米第96師団第383連隊は、5月10日、第7師団の第184連隊と交替した。与えられた任務は、コニカル・ヒルの占領であった。この攻撃の主力は第1大隊だったが、この部隊の交替は、イージー高地の東部斜面で実施された。』(385頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 385頁より》

 

沢岻(たくし)・大名(おおな)

海兵隊5月10日に着いた沢岻丘陵は、反対側の陣地が、村落からさえも守られている典型的な防衛陣地であった。

…大名の高台は、沢岻の村落から真南にあたる。この両方に陣地の西のほうには、およそ50メートルから100メートルにわたって、けわしい坂道が走っており、日本軍を左翼からの攻撃から守っていた。大名丘陵の南側には、山脈が西に走っている。首里のほうにあたるところは峰の中も細いが、それが西にいくにしたがって、しだいに幅も広くなり、下のほうの低地帯をすっかり見渡せるようになっていた。』(353頁)

『5月10日に連隊攻撃をしたが、これは失敗に終わった。攻め寄せている海兵隊に、日本軍は前面の陣地や後方から、はげしい迫撃砲弾をあびせ、機関銃で撃ちまくった。海兵隊はついに日が暮れるまでに、もとの前線に後退せざるをえなかった。』(354頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 353、354頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/maps/USMC-V-14.jpg

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-7.html

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/84-40-2.jpg

後方で行われている黄燐弾の煙幕砲火をしばらく待って、進撃路を開く米海兵第7連隊の兵士たち(1945年5月10日撮影)

Marines of 7th Reg. wait while a barrage of phosphorous shells in background, pave way for the push.

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負傷した海兵隊員の手当(1945年5月10日撮影)

Aiding wounded Marine.

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安謝(あじゃ)

『最初に川を渡るのは、マーリン・シュナイダー大佐率いる第22海兵連隊の、第2、第3大隊となった。左翼側の第2大隊は、第1海兵師団と接触を維持し、第3大隊は海岸線にそって攻撃を敢行する計画になった。第1大隊は、第2大隊と第3大隊の中間に配置され、両部隊との連携を維持しながら続いて渡河し、川の南側にある高地を占領することだった。攻撃開始時刻は、夜明け直前に設定された。』(66頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 66頁より》

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安謝川‐‐泥湿地、軟底、そして川の全体像や、川を渡るための仮設橋が見える

Asa Kawa--Illustrating the mud flats, soft bottom and general appearance of the river as well as the temporary foot bridge used in crossing.

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『第22海兵連隊は、前夜のうちにかけておいた歩行橋をつたって、5月10日の朝早く安謝川河口を渡りはじめた。

ちょうど3個中隊が渡り終わったとき、一分隊ほどの日本軍決死隊が、爆雷を抱えて、橋を破壊してしまった。だが、残りの海兵隊は川中を歩いて南側の岸にたどりつき、しだいに激しくなる抵抗のなかを、午前中には安謝の村落まで進撃することができた。 

安謝は深い霧や砲煙につつまれて視野がきかず、村落の西側では、それ以上の進撃が難しくなった。米軍は、自動操縦105ミリ曲射砲やLVTから砲撃を加え、海兵自体は、猛烈な日本軍の砲火や、部分的に頑強な反撃にはあったが、第22連隊は、日暮れまでには、ついに奥行き330メートル、幅1キロ半にわたって、橋頭堡を築いた。』(338-339頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 338-339頁より》

 『シェファード将軍は、ベイリー型の組み立て橋を架けるように命令した。これにより戦車を渡河させて、翌日の攻撃に投入できるはずだった。工兵隊が2200時頃より作業を開始すると、日本軍の砲兵隊が砲撃をくわえてきた。断続的な砲撃により架橋作業は6時間ほど遅延し、最初の海兵隊の戦車が轟音を響かせながら渡河したのは1103時になってからだった。』(77頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 77頁より》

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海兵隊の戦闘カメラマンと工兵部隊は、那覇と郊外を結ぶベイリー型橋を建設中、狙撃兵による射撃を受け、その場に釘付けとなる

Marine Combat Cameramen and Marine Engineers pinned down by sniper's fire while Bailey Bridge was under construction to connect outskirts with Naha.

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海兵隊先遣隊の防衛線として利用された多数の護岸のひとつに接岸する戦車隊。前方の友軍を掩護する一方で、戦車は川を渡り、この岸壁のかげに隠れている(1945年5月10日撮影)

Tanks up against one of many sea walls- used as a line of defense for advancing Marines- tanks crossed river and remained covered behind this stone wall for protection while covering our troops in their advance.

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第32軍の動向

軍司令部

『…日本軍のほうでは、米軍のこの新しい攻撃にそなえて、いよいよ首里の防衛陣を固めていた。牛島中将は、「わが軍は、ただちにその主力を首里に向けんとす」との命令をだした。その防衛線は、西側を安里の北から大名を通り、石嶺付近の丘陵地帯にまでおよんでいた。牛島は、第6海兵師団は西側から攻撃してくるだろうと予想して、部隊を配置がえして両翼に鉄の防衛陣をしいた。那覇の東側で、道路や橋梁破壊を命じた。だが、もしかすると米軍は、パラシュートで背後から襲ってこないともかぎらない、という危惧もあって、牛島中将としては、全部隊を前面に動員するということには、ためらいを感じていた。』(336頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 336頁より》

 

沖縄方面根拠地隊: 小禄(大田実海軍少将)

前日の9日、沖縄に配備された海軍部隊の司令官である大田少将は、第32軍司令部から首里防衛陣の強化に協力するよう要請を受けた。

『海軍兵力は、陸戦兵器をほとんど持たず、沖縄の防衛強化を急いだ時期にも、沖方根部隊の装備はそのままであった。3月のはじめ、米機動部隊の空襲を受け、沖縄に上陸してくる意図がわかって、はじめて手持ちの兵力で陸戦隊をつくった。

小禄陣地にいるからこそ、20センチ砲5、15センチ砲9、12センチ砲11、25ミリ機砲64、12ミリ機銃100、7.7ミリ機銃124の銃砲弾を敵に浴びせることができるが、そこを出たら、随身兵器を持たないので、7.7ミリ機銃(小銃と同じ大きさ)を外して抱えていくだけ。おどろいたことに、スコップもないので、第一線に就いても、陣地もタコツボも掘ることができない野戦の経験もない。そして、この主力部隊が出払うと、あと小禄に残るのは、据えつけた大砲を撃つこともできず、武器といっては即製の手槍だけの設営隊員しかいなくなる。』(254-255頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 254-255頁より》

『海軍兵力は約1万人。うち約8000人が小禄半島に配備されていたが、陸戦の訓練を受けた既教育兵は約3000人しか居なかった。残りは軍属が主体の設営隊員約3000人など後方要員だったから、中核兵力を持って行かれるのである。しかも、せっかく築いた小禄要塞を事実上放棄し、要塞兵を歩兵として使う破れかぶれの作戦でもあった。大田少将は「残る兵力は重火器を使用する能力なく  槍を主体とする烏合の衆となる」と反対した』(295頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 295頁より》

  

沢岻(たくし)・大名(おおな)

5月10日ごろ、前田、仲間、安波茶付近を放棄した後、第62師団正面においては、左翼有川少将率いる歩兵第64旅団は、残兵を糾合して経塚、沢岻の線を占領し、また右翼前田、大名間の錯綜した丘阜地帯は、杉本少佐の師団輜重隊と第24師団の北郷連隊が、前後混合して守備に任じ、中島中将(進級)の歩兵第63旅団は、首里市内に撤収していた。第62師団の右翼正面は、北郷連隊の担任とする予定であったが、陣地および地形に未熟な新来の部隊なので、杉本輜重隊を依然この正面に残置し戦闘に協同させたのである。敵は、錯雑した地形と、これを巧みに利用する無数の地下陣地に拠るわが輜重隊正面を避け、その左右から首里正面に向かい浸透攻撃をしてくる。』(318頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 318頁より》

 

安謝(あじゃ)・天久(あめく)

『敵は、9日内間を奪取し、10日安謝川を渡河攻撃してきたのであるから、混成旅団ーといっても、美田大佐の独立混成第15連隊が主力であるーの第1線が、陣地につくや両3日を出でずして戦闘を開始したことになる。当時各第1線部隊が無準備のまま、西も東も弁せず、混沌たる状態であったろうことは疑う余地がない。かかる陣地と戦況において、無準備の部隊を戦わすほど無理かつ不得策なことはない。

鈴木少将指揮下の独立第28大隊は、最左翼安謝、天久の両部落付近で、まず戦闘を開始した。安謝川は、幅員6、70メートル。干潮時は徒渉可能である。南岸台上には、本道に沿うて前進する敵に対し、堅固な地下陣地があり、さらに水陸両用戦車でわが左側背に海上機動を策する敵に対しては、海岸に沿い高さ数十メートルの一連の断崖があった。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 301-302頁より》

 

沖縄島からの脱出

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ①

『1945年4月のある日、糸満の海岸近くの壕にかくれていた、…3人の、60歳近い老漁夫たちが、いきなり壕から捜し出されて、ある任務を与えられた。神参謀脱出につき、協力せよ、とのことだった。』(82頁)
《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 82頁より》

大本営が航空機の増援をしぶっていたのに業を煮やした守備軍首脳は、5月10日、積極攻勢派の神航空参謀を連絡のために東京に派遣した。もはや現地軍だけでは深刻化しつつあった戦況を挽回することはどうにもならないので大本営傘下航空軍の総力をあげて沖縄周辺の敵艦船にたいし、一大航空作戦を展開させ、それによって米軍の沖縄攻略の企図を断念せしめるほかないと意見具申させるためであった。』(129頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 129頁より》

八原高級参謀の回想:

『5月4日、5日の攻勢は中止され、各兵団は一応それぞれの部署についた。軍首脳部は力が抜けた感じのうちに、またほっとした一時のやすらぎを味わっていた。こんなある日、突然私の机の上に1枚の書き付けがおかれた。神参謀を連絡のため東京に派遣するとの命令書で、軍司令官、参謀長の署名がしてある。あまり急なことなので、ちょっと私は途惑った。派遣の目的を聞くと、軍の戦力激減した今日、国軍航空の総力を挙げて沖縄周辺の敵艦船を攻撃し、もって敵の沖縄攻略の企図を断念せしめるほかはないとの意見を直接に具申するというにあった。一見軍の危急を救う壮大な妙案のようである。』(294頁)

『本土では、今決戦準備に狂奔しているはずだ。沖縄では、どうしても勝てない戦である。…夢のような勝利を、特にこの段階において、望むのは適当でない。私は内心この案には賛成できなかった。だが、本案には、すでに軍司令官、参謀長の署名がしてある。本土決戦のことなど考えず、軍のみの見地よりすれば、少しでも多く特攻機がやってきて、敵の船舶を多少でも多く撃破してくれるのは望むところで、敢えて反対する要はない。私は黙認した。

いかにして本土に脱出するかがまた重大な問題である。海空を完全に敵に掌握された現状において、敵の目をかすめ、その包囲圏を突破するのは容易ならぬ業である。まったく決死の行である。彼はまず、摩文仁付近に至り、ここで本土から派遣されるはずの水上機に乗る計画を立てた。』(295頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 294、295頁より》

糸満で集められた老漁夫3人は、神参謀たちと合流し、水上機が着水する予定の場所へと移動した。

『夜陰に乗じて彼らは、神参謀と他に見習士官2人を乗せて、摩文仁村の小渡浜にいき、刳舟を阿多旦葉の中にかくし、そこで暫く待機することにした。1週間ばかりそこにひそんでいる間に2回ほど日本の水上機が附近の海に着水した。即ち、神参謀の脱出機であるが、肝心の参謀は、漁夫たちが、すぐ舟を出しましょうという、言葉を斥けて、今は危ない、しばらく様子を見よう、と云って、岩かげに身をよせ、海をにらむばかりで、容易に出て行こうとしない。そのうちに、敵中着水の離れ業を敢行していた水上機は、あきらめたのか、どこかへ飛び上がってしまい、計画は挫折した。神参謀は今度は刳舟で徳之島まで行けと命じた。これには、いくら、なだめ、すかされても老漁夫たちは頑固に応じなかった。「徳之島どころか、伊江島までも、われわれ老人では舟を漕いでいく元気はない。ことに今は雨季であって雨にうたれては、年とった、この体ではもたない、若い者と交替させてくれ」と言った。』(82頁)
《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 82頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

「デデコイ」役 ②

米軍が設けた田井等収容所にいた住民の中には、前線で住民に投降を呼びかけるという任務を与えられた男性たちがいた。その中の数人は、米海兵隊の第29連隊とともに牧港にいた。近くでは、日本軍の射つ野砲弾が炸裂していた。

『…朝、「日本軍の捕虜を捉えたから一寸来い」という本部の示達を受けたので…本部に駆けつけてみると、米軍の昨夜の獲物である、いかにも精根つきた顔付をした日本軍の一兵士が坐っていた。彼は…久高島出身の兵卒だった。

数日前、上官から、読谷山沖合に居る米艦船群に体当たりすることを命ぜられ那覇港から爆雷を積み込んだ小舟を操って出発、途中で米軍の監視艦に発見されて小舟は撃沈され、他の兵員が小舟と運命を共にしていたのに、彼がすぐれた漁夫だったために、小湾海岸に泳ぎつき、辛くも一命を助かったのであった。彼は三日三晩喰わずに過ごしたため、やっとありつけた食事を矢鱈にたいらげた。ネルソン中尉は「余り喰い過ぎて腹をこわさなぬように」注意した。』(171頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 171頁より》

海兵隊員と同じ制服や軍靴を身につけ、米軍と行動を共にする沖縄住民を見た日本兵は、彼らを日系二世なのかと訝った。しかし、住民のおかれた状況や戦況を懸命に説明されると納得し、その後、捕虜として収容所に送られた。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/88-31-1.jpg

放棄された町を通り那覇前線に向かう偵察兵。写真は、日本軍が第29海兵連隊第1大隊の進軍を遅らせようと作った路上障害物を越えて進む様子。(1945年5月10日撮影)

Patrol going up to the Naha front thru deserted town--shown here going over a road block that Japs made to slow down advance of Marines. 1st Battalion, 29th marines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

 

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