〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年5月1日『軍刀を振るって突撃』

防衛隊少年兵ハクソーリッジ

米軍の動向

沖縄島上陸から1カ月目 - 後方で進む米軍基地建設

米軍の上陸地点 (読谷・嘉手納) は米軍の一大拠点となる。

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Above: 1945年4月1日の読谷・嘉手納上陸計画

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

Below: 1972年時点の読谷・嘉手納地域の米軍基地。「米軍基地環境カルテ」(沖縄県) より

米軍基地「波平陸軍補助施設」 (1974年返還) 周辺か

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米国海兵隊: An aerial of an ammunition transfer point off Okinawa's beach Green 2.
第2グリーンビーチの武器輸送拠点 (撮影地: 読谷村 撮影日: 1945年5月1日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍基地「トリイステーション」北側周辺か

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米国海兵隊: Ration and ammunition dumps and causeway on Okinawa's Beach Red 3.
第3レッドビーチの配給物資、武器集積所と砂利道 (読谷村 1945年5月1日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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米国海兵隊: An ammunition dump (105mm for rockets) of Okinawa's Beach Blue 2.
ブルービーチ2の(105ミリロケット砲)弾薬集積所。 (1945年5月1日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍基地「トリイ通信施設」南側 (1973年返還部分) か

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米国海兵隊: An aerial shot of gasoline dumps off Okinawa's beach Yellow 2.
第2イエロービーチ近くにあるガソリン集積所 (読谷村 1945年5月1日)

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

嘉手納基地の海岸にひしめく戦艦

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Consentration of shipping on the west side of Okinawa. This is ”Purple Beach”, where our forces made their initial landing.

沖縄西海岸に集合した船舶。この場所は「パープル・ビーチ」と呼ばれ、米軍が最初に上陸を果たした場所である。(1945年5月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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G-3地区の海軍武器庫防弾シェルターのコンクリートの床(1945年5月1日撮影)

Concrete floor for the naval steel magazine splinter proof shelter, G-3 area.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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The litter strewn about the ground is mainly clothing removed from casualties. 17th Medical Battalion Collection Station.

地面に散らばっているゴミは主に死傷者の身からはずされた衣類。場所は第17医療大隊の集積基地。(1945年5月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍

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THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

勢理客 (じっちゃく): 第1海兵師団

『第1海兵師団の最初の目標は安謝川の北堤であった。師団のすぐ前には、安謝川とのあいだに、いくつもの小高い丘や連丘があり、この高台に、日本軍は陣地を築き、海兵隊は、このあたり一帯をおとすのに5月までかかった。

第5海兵隊がまだ前線に移動中の4月30日と5月1日、第1海兵師団のほうでは南進を試みたが、かえって、毎日、反撃をくらい、かなりの人命の損失を出すような始末だった。5月1日には、一中隊だけで24名も戦死者を出した。』(278頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 278頁より》

仲間(なかま)

『…第27師団の右翼の方では、5月1日、第307連隊第3大隊が仲間村落を攻め、そこから学校のほうに向かって進撃をつづけていた。ところが、この作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして5名が戦死し、米軍はかなりの時間、弾薬にこと欠いてしまった。』(294頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 294頁より》

幸地(こうち): 第17歩兵連隊

『幸地丘陵の戦闘は、5月の初旬になってもなおつづいた。第17連隊は、なんら得るところもなかった。5月1日、装甲ブルドーザー1台が出動し、西側から幸地丘陵への道をならした。そして、つぎには火炎砲装甲車が1輌この道路を通って、2回にわたって前面の丘腹を焼きはらった。しかし、それでも峰の向こう側の東丘腹にある日本軍陣地を攻撃することはむりであった。』(285頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 285頁より》

翁長(おなが): 第32歩兵連隊、第184連隊

…第32連隊は、5月1日の夜が明けるまでに第184連隊と交替することになっていた。しかし、…かなりの兵力の日本軍が両中隊に切りこんできたため、ここでしばらく戦闘がつづき、部隊交替はその日の午後5時半やっと完了するというしまつだった。第32連隊の第1大隊は、前線交替後、後方陣地にひきあげるとき日本軍と衝突したが、この戦闘で11名が戦死し、22名を負傷させた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 285頁より》

 

第32軍の動向

中南部戦線、伊藤大隊

首里平良(たいら)町: 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

守備軍は、120高地および146高地を奪回すべく夜襲を決行することになり、前日30日22時に作戦を開始した。

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沖縄戦史 伊東大隊(第32連隊第1大隊)棚原の戦闘

24時を期して大隊砲が射撃を開始。見事な弾着で、黒煙が山頂に上がった。1分ほど経ってから146高地の北斜面に信号弾が上がった。それは突撃が成功したとの信号弾だった。…山頂に突撃したのは、岩田小隊だった。一方、星野小隊は西側斜面の敵を掃討している。

…伊東大隊の夜襲と同時に、配属の第89聨隊第2大隊が120高地を攻撃する予定になっていた。しかし占領した様子は一向になかった。…問い合わせると、聨隊長からは占領したとの返事だった。(おかしい) 伊東は疑問に思いつつも、146高地の防備を固めていた。

朝になると、敵の猛烈な砲撃が始まった。戦車が前進してきて、大隊本部がある小さな丘の30メートル前まで迫ってきた。バラバラバラ……と掃射を始め、丘を挟んで対峙する格好となった。山頂近くでは、擱座した1両の敵戦車が、大音量を響かせながら火柱を上げて燃え出し、車載砲弾が次から次へと破裂していた。夜が明けるまで知る由もなかったが、目前の120高地にはまだ敵が陣取っていた。』(158-159頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 158-159頁より》

 

牛島軍司令官、八原をたしなめる

 …5月1日に妙なことが起こった。牛島軍司令官が、八原高級参謀を呼んで、あとにも先にもはじめての注意をしたのである。

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 244頁より》

八原高級参謀の回想:

… 軍司令官が「八原ちょっと来い」と言われる。沈黙しておられる参謀長の傍らを通り過ぎて軍司令官の前に立った。司令官は膝組んだまま、いままでにない沈痛な態度で、「貴官は攻勢の話が出るたびに反対し、また吾輩が攻勢に決心したのちも、浮かぬ顔をして全体の空気を暗くする。すでに軍は全運命を賭けて攻勢に決したのである。攻撃の気勢を殺ぐようなことはないよう」と申し渡された。(268頁)

… 私は後にも先にも、将軍から叱責の言葉を頂戴したのは、実にこのときだけである。瞬時にして私は全般の空気より判断し、軍参謀長が司令官に策動されたものと察した。私は言が過ぎると思ったが、暗に参謀長も聞いておられることを意識しつつ、「私は失敗必定の攻撃の結果を思うと、つい憂鬱にならざるを得ません。今回の攻撃が成功するやに考える者が多いようですが、おそらく数万の将兵は、南上原の高地にも手をかけ得ず、幸地付近を血に染めて死んでいくでしょう。これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、すでに閣下がご決心になったことでありますので、私としては、もちろん、その職責に鑑み、全力を尽くしております。また私の態度については、今後十分注意いたします」とお答えした。将軍は私の暴言に怒られた様子もなく、「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後には軍刀を振るって突撃する考えである」と言葉静かに申された。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 268、270頁より》

* 実際には最後まで「軍刀をふるって突撃」することはなかった。see. 6月23日

 

沖縄県庁 - 後方指導挺身隊の発足

沖縄県庁: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

繁多川の壕では、民行政の機能とその対象を失った今日、今後の職責は、未占領地に限られた住民の新しい戦力化をはかる以外に途はない、ということになり、警察部で固めている警備隊と協力して、にわかに、後方指導挺身隊を結成することになった。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 102頁より》

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県庁壕(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『…農務課長・古郡仁作(1941年前期、内務省採用、のち殉職)が「警察署警備中隊が前線なら、こちらは後方支援の仕事だから、後方の文字を付けた方が良い」と提案したのを受けて、「沖縄県後方指導挺身隊」と命名5月1日発足した。

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 281頁より》

 

小禄飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

…坂尾と私は中隊長に呼ばれた。豊見城にある海軍本部壕へ行って、余分な発電機があれば譲ってもらうよう交渉して来い、というのである。

「電気がないと、鬱陶しくて、いかん。この先、持久戦で3年はもちこたえねばならんからな」といった。私は自分の耳を疑った。中隊長は何を考えているのだろうか。誰が考えてもあと3年どころか、3ヵ月ももつはずがない。沈滞している兵隊の気分を盛り上げるために、わざとそのようにいったとしか思いようがなかった。海軍司令部は連日敵の砲撃にさらされている。いわば危険地帯に踏み込むことになるが、陰鬱な地下壕から出られるだけで足どりも軽く、炊事が用意してくれた飯とたくあん二切れを飯盒に入れて壕を出た。

豊見城への一本道には、人影ひとつ見えなかった。兵隊も民間人も、地下にもぐって息を殺しているにちがいなかった。太陽の直射を浴びた白い地面の照り返しがまぶしく目に沁みた。

1時間ほど歩いたころ、突如、後方から激しい轟音とともに真赤な機銃弾が頭上を掠め眼前にはね返った。はっとして首をすくめたとたん、敵機が覆いかぶさるように低空を掠め、急上昇して行った。機体を銀色に輝かせたグラマンで、胴体には豊満な女性ヌードが描かれていた。狙われているとわかったが、両翼に爆弾を吊っていないのを確認すると、私は咄嗟に、このグラマンを地上に叩きつけてやろうと思い、路上に立ちはだかって、「さあ来い!」と叫んだ。グラマンは小さく旋回し、機首を立て直すと、あらためて私たちめがけて突っ込んで来た。私たちは散兵壕の中に飛び込み、首をすくめた。急降下したグラマンから撃ち出す機銃弾は、私たちの頭上を掠めて芋畑に突き刺った。グラマンが頭の上を通り越したのを確認すると、再び壕から飛び出した私たちは、「さあ来い!」と身構えた。パイロットも頭に来たのか、数回同じことをくり返したあと、深入りして自爆しては?と思ったのか、機上から手を振って飛び去った。私たちもそれに応えて両手を振った。このときばかりは、スポーツの後のような爽やかな気分だった。』

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 84-85頁より》

 

防衛隊

防衛隊とは、軍が法的根拠なく地元の民間人を防衛召集した部隊で、沖縄の防衛召集兵、約25,000人のうち、約13,000人が戦死した。蓑と傘で作業部隊として働かさたため「ミノカサ部隊」、あるいは正規な武装はなく竹槍を持つ姿から「棒兵隊」ともよばれた。新川シズコが米軍に証言したように、激戦地では防衛隊は「作業部隊として徴兵されたのではなく、斬り込み隊として」も使われた。

防衛隊分隊長として防衛招集された45歳男性の証言

その死体を 穴に埋めて始末してから、部隊に帰ったら、部隊長がみんなこれから第一線に行くから、お前たちも食事をしなさいとすすめていまし た。私は麦飯と味噌汁を食べました。 それからですね、 みんな兵隊は急造爆雷を持っているもんだか ら、私は防衛隊で爆雷は使用できないと、拒否したんです。しか し、運ぶだけだから運べというので、持って行ったんですよ、城間の裏の方へ。4月6日の夜ですよ。作戦はいい作戦だったでしょうね。四中隊と五中隊は、反対の方から出てですね、われわれの中隊は後方から出て、挟み撃ちをする 計画だったんです。ところが行ってみたら、なかなか敵は優秀だから、もう敵の砲弾がどんどん飛んできて、進めなくて、防衛隊はついてこないんですよ。私ともう一人は岩の陰にかくれて様子をうかがったら、日本軍は一発も撃たない前にほとんど死んでしまっているようでした。だから私たちは谷底の方へ逃げたんです。 逃げるときも迫撃砲がどんどんきて大変でした。そのときに私は右足のすねを被片でやられました。またもう一人は耳をやられていました。

そうして浦添の壕に帰ったらですね、残っていた兵隊たちは、大 きなシンメ鍋に、戦果をおさめて帰ってきたら食べさせようと思って飯をたいて待っていました。みんな死んでもう帰ってこない よ、と私は報告したんです。私たちの怪我は看護兵が簡単に治療しました。それから屋富祖の自然壕の本部の方へ行ったんです。西林中佐もいましたが、そこには負傷兵がたくさんいました。

それから二日か三日して、部隊長と副官は別れの会をしていましたので、は、これはもうみんな死ぬつもりだと私は悟って、逃げたんですよ。 逃げて行ったら、 ちょうど仲西の学校の近くの自然壕に、防衛隊がみんな集まっていました。防衛隊の主計少尉に指揮されてですね、握り飯を日に二個ずつくれていました。その壕はすでに日中は馬乗りされているんですよ。だから私は主計少尉に言うた ですよ。こんなに腹がへっていては戦争はできないから、私が五名ほどつれて行って、キビ畑からサトウキビを取ってくるから、出してくれと頼んだんです。すると、危険だから、と断られましたが、 大丈夫だからと強いておねがいして、私は五名をつれ出して、また逃げて行ったんです。首里の末吉の方へです。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)浦添篇》

 

少年兵

捕虜尋問で学徒兵であることがわかれば大人の日本兵捕虜と同様に扱われた。捕虜収容所に入れられ、また海外の収容所に送られた学徒も多かった。米軍は捕虜尋問で詳細を把握していながら、記録写真には学徒兵を「日本兵」と記録している。

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Wounded Japanese soldier captured on Okinawa, Ryukyu Islands awaiting entrance into surgical tent for further treatment, after having received first aid.

沖縄本島で負傷し、捕虜となった日本兵。応急処置後の治療を受けるために、外科治療用テントの入り口で待つ様子。(1945年5月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

そのとき、住民は・・・

前田高地 - クチグヮーガマ

浦添城跡敷地内

前田高地に陣取る日本軍を攻撃するため、猛烈な砲撃が始まりました。壕の入り口付近に、兵士たちが潜んでいたため、…壕も攻撃されます。

避難住民の証言:

爆弾が近くに落ちると、ぐわーんと(壕の)中まで響いて … そこら辺にいた人は、その破片でやられて、天井に肉が飛び散って … もう、どうにもできない薬もないし。みんな、自分の体もどうなるかわからない … 震えて隠れてばかりいますからね、暗い壕の中で…

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浦添市 クチグヮーガマ|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

米軍が砲弾をガマ近くに撃ち込むと「ドーン」という爆音とともに地響きがした。爆風がガマの中まで吹き込み、見上げると、壕の天井に人間の肉片がこびりついていた。「近くにいた日本兵のものなのか、住民のものか分からないが『地獄とはこんなものなのか』と思った」。飲まず食わずの避難生活が続き、「どうせ死ぬならたくさん水を飲みたい」と45年5月5日にガマを脱出して自宅の井戸を目指した。「黒くなって、膨れ上がった死体がそこら中にあった」。

「ハクソー・リッジ」、住民も犠牲 映画が映さない沖縄戦 体験者は惨状を目撃 - 琉球新報

 

豊見城(とみぐすく): 海軍司令部壕

独立高射砲第27大隊、通信班・陸軍二等兵の回想:

この司令部壕はかなり急な坂道の上にあったが、見下ろすと小径のほとりに仏桑華の花がいまを盛りと咲きほこっていた。…花陰の中に初老の男がひとり膝をかかえてうずくまっていた。何をしているのか気になり、「そんなところにいたら危ないですよ」と声をかけた。すると男は顔を上げ、「もういつ死んでもいいんです」と物憂げに答えた。「どうしたんです」

「はい、長男も死んだし、母もゆうべ死んでしまいましたから」そういうと、男はぽつりぽつりと話し出した。

「長男は師範学校の4年生でしたが、軍の伝令に召集されて首里で戦死したのです。母は家族が北部へ避難しようというのを聞かず、どこにいても死ぬときは死ぬ。おなじ死ぬならご先祖さまの亡くなったこの家で死にたいといって動こうとしないのです。しかたがないので私だけが残って面倒をみていたのですが、そのうち少しあった食べものもなくなりました。困ったことになったと思いましたが、わしはもうこの歳だから何もいらないと水ばかり飲んで、昨夜とうとう死んでしまったのです。88歳でした。私は母の遺言どおり行李にしまってあった一番いい着物を着せ、背中に負って先祖の墓へ運んで行こうとしたのですが、骨と皮になっているはずの母がどうしたことか、重くて、重くてとうとう途中で歩けなくなってしまったのです。それで引き返して母を戸板にくくりつけ、縄でお墓まで引っぱって行ったのですよ」

男は、それから漆喰で固めた墓の石蓋をあけて寝棺に母の遺骸を納め、あとは漆喰の替わりに畑の土を練って目張りをし、ようやく、わが家に帰って来たというのである。

「どうして母があんなに重たかったのかと不思議でしたが、自分の足を見てやっと気がつきました。脚気にかかっていたんです」

そういって男は両脚を出して見せた。なんと二本の脚は丸太棒のように膨れあがり、とても人間の脚には見えなかった。男は花の下で静かに死を待っていたのである。私はことばに窮し、ただうなずいて立ち去るほかなかった。

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 85-87頁より》

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海兵隊 Apparently more concerned over the prospects of bad weather than a rain of Jap bombs is this venerable native of Okinawa.
日本軍の爆弾よりも悪天候を気遣っている民間人。
撮影日: 1945年 5月 1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

前田高地 (浦添)

RBC 琉球放送】戦後70年の地平から「浦添・前田高地周辺での戦い」

浦添・前田高地周辺での戦い | 琉球放送

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