1945年 6月28日 『沖縄の基地化と収容所』

戦闘後の米軍

摩文仁の丘の星条旗

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日本軍が司令部を置いていた89高地での国旗掲揚。参加者は第10軍司令官スティルウェル将軍、第24陸軍兵団司令官ホッジ少将、沖縄海兵隊司令官兼第7師団・連隊司令官ガイガー中将。(1945年6月28日撮影)

Flag raising ceremony on the top of Hill 89, site of the former Headquarters of the Japanese Army. The ceremony was attended by Gen. Joseph W. Stilwell, C. G. of the 10th Army; Maj. Gen. John R. Hodge, C. G. of the 24th Army Corps; Lt. Gen. Roy S. Geiger, C. G. of the Marine Forces on Okinawa and the Commanders of the Regiments of the 7th Division.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

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1st Division Marines and 7th Infantry Division soldiers cheer exuberantly at Okinawa atop Hill 89, where the Thirty-second Army commander took his life.

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

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98高地にある第32帝国陸軍司令官牛島中将と参謀長長勇将軍の墓の前に立つ日本軍捕虜。心理作戦部隊の依頼で撮影。(1945年6月28日撮影)

A Jap prisoner of war stands in front of the graves of Gen. Isamu Cho, Chief of Staff, and Lt.Gen. Mitsuru Ushijima, former Commanding General of the 32nd Imperial Japanese Army on hill 98. Picture made at request of the Office of Psychological Warfare.

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(投稿者注: リンク先にある原文と和訳は、摩文仁の丘を「hill 98 / 98高地」としているが、正しくは「89高地」であると考える)

 

〝沖縄〟という米軍基地

6月末までには嘉手納の長距離爆撃機用の2200メートルの滑走路が25パーセント完成し、泡瀬金武にできた戦闘機用のは、使用開始前にあり、残波岬の長距離用2500メートルの滑走路は15パーセント完成、そのほかに普天間の中距離、ならびに中型爆撃機用の滑走路が工事中であった。』(446頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 446頁より》

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普天間飛行場の建設工事の様子。手前はドリル車、後方は圧搾機。穴は発破を仕掛けるため20フィートの深さに掘られる。ブルドーザーやショベルが石灰岩を掘りやすくするためである。(1945年6月28日撮影)

During Futema airfield construction the two wagon drills are stationed in the foreground of this area, with the compressor units in the background. The holes are drilled 20 feet deep for the charge to loosen coral for shovels and bulldozers.

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沖縄の軍事的価値は、すべての期待をしのぐものだった。それは大軍隊を収容することができ、日本本土の近くに多数の飛行場を建設でき、日本の入口で作戦が遂行できるような艦隊基地をあたえた。』(516-517頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 516-517頁より》

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本島東側の天願と田場の近くに作られた海軍の物資補給用桟橋。写真は南向き。(1945年6月28日撮影)

A Naval Supply Depot pier has been erected near the towns of Tengon and Jaba on the east side of Okinawa. The view is made looking south.

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そのとき、住民は・・・

沖縄の基地化と収容所

 『沖縄の基地化が明確になるにつれ、民間人は住んでいるところからさらに別のところへ移動させられた。この移動は最初は収容キャンプへ、次は人口密集地域の沖縄本島の3分の2を占める南部から比較的人口のまばらな北部の不毛の山岳地帯国頭方面へという具合に行われた。しかしそのような傾向が明確に現れる以前に、軍の方針がいろいろ変わり、そのたびに住民は収容所に閉じ込められたり、解放されたり、かと思うとまた閉じ込められたりを繰り返さねばならなかった基地建設計画は拡大されたかと思うと修正されあるいは縮小されたり延期になったり、絶えず再検討を繰り返していた。そして当然のことながら住民もそれの中に翻弄されたのである。』(59頁)

《「沖縄  空白の一年  1945-1946」(川平成雄/吉川弘文館) 59頁より》

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テントを張る場所を確保した後、テントを取りに丘を下る。ここではテントを持って丘を上る地元民の姿が見える。(1945年6月28日撮影)

After they have found the spot for their tent. They go back down the hill, here they are shown carrying the tent up.

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『沖縄住民の戦争による被害と混乱は徹底したものだった。少なくとも全人口の75パーセントが何ヵ月もの間、自分の出身地を捨てて暮らさねばならなかった。出身地にいた人たちはほんのわずかであった。

住居や建物という建物の90パーセントが破壊され、かろうじて全壊を免れた建物もその損壊はひどかった。農民は自分の土地で農耕に従事することもかなわず、耕しているところはといえば他人の土地だった。控え目に見ても全戸数の90%が家具や調度品を破壊された。住民は砲爆撃下、持てるだけの家財道具や消耗品を肩にかつぎ、あるいは頭にのせて逃げまどうのみだった。その間に家具類は一切が灰じんに帰したのである。失った品物のなかには食料品や日用雑貨類も含まれていた。

政治も政府機関も存在せず、社会生活らしきものはあってもなきがごとく、わずかに緊急食料を配給するときにだけみられるようなものであった。』(74頁)

《「沖縄 空白の一年 1945-1946」(川平成雄/吉川弘文館) 74頁より、琉球列島の政治・社会・経済に関する陸軍長官への報告書」の内容を含む》

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班の人々に米を配給する班長。その後ろでは別の班の家族が待っている。(1945年6月28日撮影)

Honchos rationing out rice to their people while other families wait in the background.

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家族を亡くした子どもたち

6月28日、沖縄島南部の海岸で12歳の少年と幼い弟妹の3人が捕虜になった具志頭村仲座に住んでいた少年と家族は、梅雨が明けた頃から米軍の攻撃が激しさを増してきたので、山の中にある仮小屋へと避難することにした。

しかし、そこは米軍の攻撃を受けて死体もあったため、一家は部落に戻り、別の避難所を探すことにした。仲座部落から数キロ離れた大保原には日本軍が作った陣地壕があり、一家と親族は、そこでしばらく身を隠した。少年の家族は、母親と4人の姉妹弟。少年と母親は、水を汲みに部落へと戻ったとき、住んでいた屋敷の前に行ったが、焼けて何も残っていなかった。

この頃から米軍の攻撃は非常に激しくなり、仲座部落の住民の多くが犠牲になった。陣地壕の東側にある山中からは、家族を亡くしたのか大人が泣き叫ぶのをよく耳にし、毎日、恐怖の生活が続いた。ある日、日本兵が現れ、壕から出て行くよう命じた。親戚の叔父さんが行くあてがないことを告げると、「貴様はスパイだ」と将校が刀を抜かんばかりに着剣をガチャガチャと音を立てたり、下級兵が手榴弾を振り回したりして脅した。一家と親族は、砲弾が炸裂し、硝煙の立ちこめる恐怖の戦場へと追いやられた

ここからは、もう、壕を探す状況ではなく、摩文仁原の森林の中に入った。そこは、牛島司令官がいた摩文仁の丘と仲座部落の間で、米軍は、摩文仁の丘を目指して部落まで進出していた。森林の中には、避難できる場所などなく、皆、松の木の根っこにしがみついたり、着物で覆った頭を皆で突き合わせて石のようになり、身動きひとつせずに攻撃が止むのを待つ日々となった。森林の中には他の避難民もいたが、そこで犠牲者が出たので、一家と親族は、日没後にギーザバンタ(慶座断崖)近くの海岸に避難した。

岩陰に身を潜めていたが、朝になって艦砲射撃が始まり、少年の母親と姉妹2人、祖母を含む親族の半数も犠牲となった。陸と海からは、「デテコイ、デテコイ」「センソウハ オワッタ」と、米軍が繰り返し放送した。生き残った親族は、少年と幼い弟妹の面倒を見ることは困難だと判断し、別の親族と行動を共にするよう勧められ、数百メートル離れた壕に預けられた。しかし、そこにいた大人達が相談し、6月28日、皆で捕虜になった。少年が5歳の妹をおんぶし、10歳の弟が荷物を持って歩いた。戦争孤児となった3人は、玉城村百名の民間収容所で食事が提供されたあと、佐敷村伊原に移された。

しかし、ある日の深夜、10歳の弟が突然死んでしまった。激しい戦火を潜り抜けて、ようやく落ち着き始めた矢先だった。悔しさと虚しさで泣く少年。5歳の妹と2人きりになってしまった。(578-584頁)

《「生と死・いのちの証言 沖縄戦」(行田稔彦 編著/新日本出版社) 578-584頁より抜粋、要約》

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沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。この少年を見ると、日本軍が撤退時に残していった子ども達の平均年齢(13才)がわかる。

Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island. This boy shows the average age (13) of youths left by retreating Jap army.

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戦後70年の地平から「戦争孤児 家族を奪った沖縄戦」 - YouTube

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月28日(木)