1945年 7月7日 『ハワイに送られた捕虜』

〝沖縄〟という米軍基地

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読谷飛行場に駐機するジョージ・ケニーズ大将のボーイングB-17フライング・フォートレス。この写真は極東空軍指揮官が第308爆撃航空団を訪れた時に写したものである。(1945年7月7日撮影)

General George Kenneys' Boeing B-17 ”Flying Fortress” on Yontan Airstrip, Okinawa, Ryukyu Retto. This picture was made when the Commanding General of Far Eastern Air Forces visited the 308th Bomb Wing.

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着陸誘導管制レーダーの第一の目的はほぼ視界ゼロの不利な天候の中、飛行機を着陸に導くことである。読谷飛行場で最初に利用された。(1945年7月7日撮影)

The primary purpose of ground control approach radar was to bring planes in for landings during adverse weather conditions approaching zero visibility. It was in use for the first time on Yontan Strip, Okinawa, Ryukyu Retto.

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陸軍航空隊と海兵航空隊が交代で操作する嘉手納飛行場の管制塔(1945年7月7日撮影)

The control tower at Kadena Airfield is operated part time by the Army Air Force and part time by the Marine Air Force. Okinawa, Ryukyu Retto.

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米軍の動向

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崩壊した建物内で料理をする調理係。那覇にて。(1945年7月7日撮影)

Cooks and messmen at work in ruined building - city of Naha.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

ハワイに送られた捕虜 ①

証言 ①

『昭和20年7月ごろ、私は屋嘉の収容所に収容されていた。たしか7月の7、8日だったと思うが、突然収容所から数百名の捕虜が嘉手納の海岸にトラックで連れて行かれた

捕虜の年齢は、下は15、6歳の少年から上は60過ぎの老人までいた。そのほとんどが20代30代の男ばかりであった。

午後1時ごろ嘉手納の海岸に着いた。真夏の太陽がカンカンに照りつけていた。われわれは何のためにここに連れてこられたのか最初は誰も分からなかった。沖には米船(貨物)がいたので、その船に乗せられるのだと分かった。みんなは不安の面持ちで、だまったまま、焼けつくような砂の上に約4時間も座っていた

やっと5時ごろになって上陸用舟艇に乗せられ、沖の船に向かった。船に着くと、甲板で全員着けていた服を脱がされ、丸裸にされた海水でシャワーを浴びろ、と固型の石けん(洗濯用)を渡された。久し振りの水浴びでみんなはさっぱりしたと喜んだ。

ところが、水浴びが終わった後、当然新しい衣服が与えられるものと思っていたら、それがないばかりか、体を拭くタオルさえもない。濡れた体の、文字通り素っ裸のまま、雫(しずく)をたらしながら、まるで動物のように船艙に入れられた

甲板の隅にあった二尺四方ぐらいの小さなハッチから船艙までは約15メートルはあっただろう。そのハッチからひとりびとりはしご段(垂直)を降りるときには、体中から落ちる雫や汗で手や足が滑ったので、用心しながらゆっくり降りた。上の方で米兵が「ハーバー、ハーバー」とどなっていた。

船艙には約30名の仲間が詰め込まれ、身動きも出来なかった。これは大へんなことになった、と私は思わずつぶやいた。ほかの人たちも、そのようなことをぼそぼそ語り合っていた。

夜になっても食事もない船艙には何も敷いてなく板張りの上に互いに裸身をくっつけ合って横になった。明かりもない真っ暗な船艙の中はむし風呂のようであったが、昼間の疲れがどっと出て、いつの間にか寝た。

夜中に眼を覚ました。何だか体がびしょ濡れになっている。身を起こしてみた。何と、それは、みんなの体から流れ出た汗が溜って、私の体が浮いていたのである。体を拭くものもなく、またそのまま横になった。』(71-72頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 71-72頁より》

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[ID:336] 沖縄戦写真パネル 22 ハワイ行きの捕虜移送船の待つ桟橋へ向かう守備軍の捕虜たち : 資料情報 | 収蔵品データベース | 高松市平和記念館

証言 ②

『…7月3日ごろ、行き先を知らされないまま屋嘉収容所に着いた。…2、3日過したころ、バリカンが配られ、戦車のライトの中で交替で夜を徹してぼうぼうと伸びた頭を丸坊主にした。その翌日、沖縄人の男の捕虜は慶良間島に運ばれた後、飛行機から爆弾を投下してみな殺しする、という噂が流れた。

われわれはGMC(トラック)に立ったまますし詰めにされて、どことなく出発した。道がカーブになると車の速度が落ちるので、後続の車が何十台となく陸続として続いた。途中、避難民の群と出発い、車が通過するたびに肉親を探している光景に出会った。中には手を振っているものもあった。

着いたところは比謝川下流の海岸だった。そこには数知れない輸送船がぎっしりと浮かび、そのマストが林立しているのを見てびっくりした。やがて舟艇がやってきて、われわれを本船まで運んだ。本船から降ろされた縄梯子を一人一人昇っていった。本船の舳先にメキシコビクトリーと英語で書かれていた。約1万トンの客船だった。

デッキに集まった捕虜に、これで体を洗え、と洗濯石鹸とタオルが渡された。頭上のパイプから海水がふんだんにでて、水浴が終わると、パンツを一枚あて渡され、それを着けたままの姿で下の船室に入れられた。そこには5段式のベッドがずらっとならんでいた。ペンキの匂いもなく居心地はよかった。船室からデッキへの出口にはMPが一人立哨していて自由に外に出ることは許されなかった。

…船が出て4時間ほどすぎたころわれわれはデッキに集められた。MPがわれわれを取り巻くように見張っていた。それは新鮮な空気を吸わすためであったが、僅か2、3分の時間だった。デッキに集められたときには、いよいよ慶良間に着いたのかと不安だったが、船は喜屋武、摩文仁沖を走っていたのでホット胸をなでおろした。』(80-81頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80-81頁より》

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手前から4番目、船体にV-7とあるのが「メキシコビクトリー」

The fourth ship, with V-7 on the hull, is the SS Mexico Victory.

SS Mexico Victory - Wikipedia

  

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月7日(水)