1944年 8月22日 『対馬丸事件』

対馬丸事件

1944(昭和19)年8月22日沖縄からの疎開学童約800人を乗せた日本の貨物船「対馬丸」が、長崎に向かう最中に、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」によって撃沈されました。

当時、対馬丸には「学童を含め約1800人が乗っていた」とされていますが、そのうち生存者はわずか280人程度、うち学童疎開者は60人ほどでした。』

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1944年8月22日、多くの尊い命を乗せて撃沈された「対馬丸」(写真:日本郵船歴史博物館所蔵)

撃沈から72年「対馬丸の悲劇」を深く知るQ&A | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

『1944年8月21日、那覇をたった学童疎開船「対馬丸は、22日夜に鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分で沈没した国民学校の学童や教員ら乗船者1788人のうち1485人(判明分)が死亡した。犠牲者のうち学童は780人で、6歳以下の子どもを含めると1000人余の幼い命が犠牲になった。助かった280人のうち21人が奄美大島付近に漂着した。』

「なぜ生かされた」9歳の重荷 - 西日本新聞

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沖縄戦の絵】「対馬丸沈没  浮かぶ子どもの死体」

昭和19年8月22日、…船員として乗り組んだ疎開船「対馬丸」が沈没する光景。夜10時過ぎ、米軍の魚雷3発を受けた対馬丸は10分も経たずに左側に大きく傾き始め、危険を感じた中島さんは船から離れようと海に飛び込み必死に泳いだ。「ズドーン」という大きな音に振り返ると船は船尾から沈み始め、およそ20秒で姿を消した。しばらくすると船体から出る空気の泡とともに救命胴衣を着けた子どもたちが浮かび上がって来た。皆うつぶせで頭が海水に浸かり、死んでいるのがわかった。…イカダで3日間漂流の後、日本軍の船に救助された。…「生き延びた者として対馬丸の悲劇を伝え、若い次の世代に戦争が子どもたちの人生をめちゃくちゃにしたことを知ってもらいたい。私の耳には助けることが出来なかった子どもたちの悲鳴が今でも残っている」』

対馬丸沈没 浮かぶ子どもの死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

疎開に至るまで

『昭和16(1941)年12月8日にはじまった アジア太平洋戦争。はじめは勝ち戦を続けていた日本でしたが、翌年の夏から敗戦を重ねるようになり、昭和19(1944)年7月ついにサイパン島が占領されました。』

『「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で政府は奄美大島や徳之島・沖縄県のお年寄り、子ども、女性を島外へ疎開させる命令を出します。』

『…日本政府より沖縄県庁あてに 「沖縄島、宮古島八重山島から老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」 の電報が届きます。』

『沖縄からは8万人を本土へ2万人を台湾へ移すことになりました。』

対馬丸記念館「対馬丸事件とは 出航前」 

生存者の証言: Aさん

『…1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのをなんとしても沖縄で食いとめたい。沖縄にたくさんの兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、まずは戦力にならない女子供を疎開させたほうがいいんじゃないか。女子供10万人のうち8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう──そういう計画のもと、私たちは疎開させられることになったようです。

そんなことを私たち子供は知りませんから、本土(やまと)へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました

母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けばふたりに会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、ほとんど面影がないんです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。

私の家族は6人で、母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。6年生の兄はとても行きたがって、「行くんだ、行くんだ」とみんなに言い、自分で申し込みをしてしまいました。』

OKINAWA 2015 死線を泳いだ少女 平良啓子さんの証言(完全版) | VICE JAPAN

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対馬丸記念館チャンネル】

海よ、いのちよ。(公開版) - YouTube

 

 

乗船・出航

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対馬丸記念館対馬丸事件とは 出航前」

生存者の証言: Bさん

『1944年(昭和19)8月19日、夜明けと共に馬車で「軽便鉄道」の嘉手納駅にいき、そこから那覇までは汽車に乗って行きました。父も一緒でしたから、私たちは大はしゃぎでした。那覇では出港を待つために港の旅館で二泊しました。

21日になって船に乗り込むことになりました。まだ太陽があって、明るかったので昼の時間だったと思います。その船は沖に停泊していて、桟橋からはしけが出て何度も往復していました。

大きな船に乗り移って船室に入ると、むっとする臭気がしてとても汚く、すぐに気分が悪くなるほどでした。よく見るとサトウキビの枯れた下葉が敷き詰められていて、山羊小屋のようでしたので、子ども心にも「こんな所に」とうんざりしてしまいました。

寝具などあるはずもなく、雑魚寝で一晩を過ごしたのです。船って、こんなものだろうか、来るんじゃなかったと思いました。食べ物も臭くて、汚れたバケツのようなものに入れられてきたのですが、臭いを嗅いだ瞬間に吐き出してしまうほどで、とにかくひどい状態でした。』

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 戦災孤児たちの戦争体験 

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対馬丸記念館チャンネル】

ボクは対馬丸に乗った ~声の絵本~ - YouTube

 

 

魚雷攻撃・沈没

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米潜水艦「ボーフィン号」。ハワイの真珠湾で停泊、展示されている。

USS Bowfin Submarine

 

生存者の証言: Aさん

「…潮風が心地よい夜でした…」。長崎に向けて那覇を出発して2日目の午後10時すぎ。甲板で祖母の膝枕で休んでいた。「本土に行けば雪も電車も見られるかな」。祖母、兄と姉、いとこ、義姉と一緒に、修学旅行にでも行くような気分だった。

ドスーン。突然の爆音とともに体が飛ばされ、祖母や兄を見失った。全長約136メートルの船体が炎を上げて一気に傾き、甲板に波が押し寄せた。助けを求める子どもたちの中に、いとこ…を見つけたが、大波にさらわれた。…暗い波間に白いブラウスが遠ざかっていった。2畳ほどの竹のいかだを見つけてよじ登り、振り返ると船は跡形もなく消えていた。祖母も兄も姉の姿も…。』

「なぜ生かされた」9歳の重荷 - 西日本新聞

生存者の証言: Bさん

真夜中近く、うつらうつらしていると突然「ドカーン!」というすごい音と共に船はグラッと大きく揺れました。外は暗くてよく見えなかったのですが、煙突だったのか何かが二つに割れ、火の粉がパリッパリッと飛び散りました。それが私たちに降りかかり、肌を刺すように痛くて、ずっとそれを振り払っていました。すると次第に船が傾いてきて、海水が上がって、周囲からはいろいろな悲鳴が聞こえてきました。そして高いところから滑り落ちるような感覚で気を失いました。そして、気がついたら海の上に浮かんでいました

海の上は資材置き場をひっくり返したような状態で、いろんな物が浮いていました。私は誰かが乗せてくれたのでしょう筏(いかだ)の上に居るのです。そこからお母さんや弟たちの名を呼びました。するとどこからか「ここにいるから大丈夫だよー。ちゃんとつかまっておくんだよー」という母の声がするんです。お母さんはそばに居るんだと思っても姿は見えないし、その後は分からなくなりました。でもそれが最後になりました。

誰かが私をいろんな筏に乗り移らせてくれたように思います。記憶がはっきりはしていないのですが、とにかく誰かがより安全なものに乗り移らせてくれた、おぼろげながらそんな記憶なんです。筏には5人ほど乗っていたと思いますが、子どもは私1人でした。漂流している間は、お腹が空いたという感じもなくて、ただ寒くて眠いんです。眠ろうとするとピッシャと誰かが叩いて起こすんです。「寝たらいけない、死ぬぞ」と、これが強烈なんです。恐いという感情はありませんでした。大海の波間に浮かぶ筏は、一枚の木の葉のように、ただただ波のなすがまま揺れているだけでした。』

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 戦災孤児たちの戦争体験

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対馬丸沈没から71年 | 琉球放送

 

漂流・救出

『救出作業は行われたものの、救出作業が始まったのは翌23日からでした。当日は、深夜であったことや二次被害の危険性を考慮し、船団は「救出よりも退避行動を優先」させたのです。

軍と民間の漁船による捜索で、24日までに漂流者約250人が救助されるなどその後も捜索は続けられましたが、6日間も漂流したあげく150キロも離れた奄美大島に流れ着いた子どももいたようです。

「学童の生存者は全体の1割にも満たない60人程度」という悲しい結果になりました。』

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生存者の証言: Aさん

『…漂流が始まった。孤独と飢え、渇き、時折襲ってくるサメの群れ

…6日目の朝、…奄美大島近くの無人島に漂着したところを漁師に救出された。島でも生存者はひとまとめにされたが、幸運にも…父を知る島民にかくまわれ半年後、船で沖縄に送り届けてもらった。』

「なぜ生かされた」9歳の重荷 - 西日本新聞

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対馬丸 さようなら沖縄 FULL - YouTube

生存者の証言: Bさん

何日たったのでしょうか、私には1週間にも10日にも思えたのですが、実際は4、5日後だったそうです。朝方か夕方かほの暗いなかで、何か光が見えるんです。水平線に船影が見えたんです。それで「あっ、船だ!」と叫んで、私も眠気が一気に醒めました。それで、みんなで一斉に「助けてくれー」と手を振ると、船が近づいてきました。間もなく、上から服を脱いだ人達が飛び込んで私を抱きかかえて船に上げてくれました。皆さんがおっしゃるには漁船だったということでしたが船名も知らず、私にはただ船としか記憶がありません。

それから毛布にくるまって眠りました。どれくらい寝たのか分からないのですが、目がさめたら温かいお粥があって、「世界中でこんなに美味しいものがあるのかな」と思うぐらいに感謝をしながらいただきました。その船はやがて鹿児島に着きました

鹿児島では、生存者を収容している旅館があって、そこに入れられました。子どもたちがたくさんいるので、弟たちも当然いるものだと思って探すのですが見つからないのです。それで、旅館からは抜け出して港に行きました。港では多くの出入りする船があって、たくさんの人々が入ってくる船を待っていました。そこで私は、走って行ってはお母さんや弟たちを探しました。ずっと繰り返しそんなことをしているものですから、港の人に叱られてしまいました。でもなかには親切な人も居て、「お母さん達を探しにきました」と言ったら、その人は持っていた弁当を私にくれました。船に走って行っては探す、でもいないと分かるとすぐ泣きました。泣き疲れて港で寝てしまって、港の人に旅館まで連れていってもらったこともありました。』

読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 戦災孤児たちの戦争体験 

 

箝口令・隠蔽、そして生き残ったという罪の意識

『そのころ沖縄では親たちが半狂乱に陥っていた。沈没のうわさはあったが、疎開計画を推し進めていた旧日本軍は批判を恐れ、沈没の事実を隠し続けた。生存者たちは病院などに収容され、憲兵の監視の下、家族との連絡も遮られた。』

「なぜ生かされた」9歳の重荷 - 西日本新聞

生存者の証言: 引率した教師

『「生徒を引率した教師」が生き残ったことで、…責め苦を負っていました。
「(沖縄に帰ってきても)ただ街は歩けなかったです。もう責められる。なんであんたは生きていたと言われるかも知れないと・・・それはもうずっとありましたね。」』

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » Q+リポート 対馬丸事件から70年・「秘密」の恐ろしさ

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