1944年 10月10日 『十・十空襲』

琉球列島を確保せよ

米軍の動向

沖縄攻撃

『1944年10月3日、太平洋軍地区米軍は、琉球列島(南西諸島)を確保せよ、との指令を受けとった

琉球諸島は日本四島への入口、その中でも沖縄島は最も重要な島である。琉球侵攻を決定したことは、米国が日本の防衛線の内陣に食い込む用意ができていたことを意味するものであった。』(15頁)

『沖縄最初の攻撃は、レイテ上陸作戦に参加した第3艦隊所属の攻撃空母機動部隊(司令官マーク・A・ミッチャー中将)によって行われた。大型空母7、戦艦5、小型空母8、重巡4、軽巡7、対空巡3、駆逐艦58が、昭和19年10月10日の未明沖縄沖に到着した。台風による悪天候を利用して、南東からその後を追ってきたものであった。』(52頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 15、52頁より》

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空母ホーネット (CV-12) 甲板上で、暖機運転中のF6F-5機。同機には、南西諸島攻撃用のロケット弾が搭載。(1944年10月10日撮影)

F6F-5s warming up on flight deck of USS HORNET (CV 12). Planes loaded with rockets for strike against Nansei Shoto (Japan Proper).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『米第38高速空母機動部隊は、予定の攻撃発起点である北緯24度から25度、東経129度から130度3分付近(沖縄本島東南端の知念岬から約280キロほど)の海上に、沖縄本島に平行する形で到達し、空襲への出撃を、いまや遅し、と待っていました。』(109頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 109頁より》

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F6F機。沖縄攻撃の準備のため、空母エンタープライズ(CV-6)の甲板上で弾薬が装備されているところ。点検され、翼にある銃器に50口径の弾が充填されている。(1944年10月10日撮影)

An F-6F on flight deck of the USS ENTERPRISE (CV-6) being loaded and prepared for a strike on Okinawa.Receiving a check-up and re-load of 50 cal shell for its many guns in the wings.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『このころ、巡洋艦駆逐艦からなる小型の機動部隊が、2,400キロ東方のマーカス島に猛攻を加え、日本軍をして大機動部隊来襲と思わせようとしたり、マリアナに基地をもつ爆撃機が、硫黄島を猛爆し、その方面からの偵察が不可能になるようにしたり、第3艦隊所属の空母部隊に先んじて牽制偵察機を飛ばせたりして日本軍を牽制し、その間にミッチャーの空母部隊が沖縄沖に達したのである。

ミッチャーの艦爆機は、10月10日の朝早くから沖縄に対して波状攻撃を開始した。』(53頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 53頁より》

10月10日のまだ明けやらぬ海上を、航空母艦からの一番機が発進したのは、午前5時45分、第1群から第4群の主力航空母艦から北・中飛行場を攻撃目標とする戦闘機隊と爆撃隊・攻撃機隊でした。沖縄まで、米艦載戦闘機の主力グラマンの巡航速度で、約1時間たらずの距離を発進したのです。』(109-110頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 109-110頁より》

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空母バンカーヒル(CV-17)から出撃したSC2B機。沖縄本島へ爆撃に向かうところ。撮影機材:K-20カメラ。(1944年10月10日撮影)

SB2Cs from USS BUNKER HILL (CV 17) ready to drop bomb loads on Okinawa Jima, Nansei Shoto. K-20. Alt. var. F.L.. 6 3/8”. Aerial.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『空襲は10日午前6時すぎ日本軍の不意をついて突如として開始された。軍の首脳部でさえ信じられないできごとだったので、一般住民は「友軍の演習だろう」ぐらいに思って安閑としていた第一撃は読谷山、嘉手納、伊江島小禄各飛行場に向けられ、編隊をなした艦載機群から大量の焼夷弾、爆弾、ロケット弾、機銃が浴びせられた。』

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第一節 読谷山村における沖縄戦

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第38機動部隊による南西諸島への攻撃。空母ハンコック(CV-19)の艦載機による攻撃で炎上する沖縄本島の飛行場施設。(1944年10月10日撮影)

Task Force 38 strikes Nansei Shoto, the southwestern islands of Japan, as airfield installations on Okinawa Shima burn after attack by USS HANCOCK (CV19) planes.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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兵器要員。沖縄の施設と日本軍に対する再攻撃のため、TMB機に破砕爆弾を装備するところ。空母エンタープライズ(CV-6)上にて。(1944年10月10日撮影)

Ordnance men loading TBM's with fragmentation bombs for another strike at Okinawa installations and Japanese personnel: on board the USS ENTERPRISE (CV-6).

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『その後、船舶、無線設備、港湾設備などが攻撃目標になり、さらに未曽有の被害をもたらしたのは、午後一時からの那覇市街などへの無差別攻撃だった。』

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第一節 読谷山村における沖縄戦

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炎上する那覇市港湾施設。台湾・沖縄攻撃の際に、空母フランクリン(CV-13)の艦載機から撮影。(1944年10月10日撮影)

Harbor installations in Naha City, Okinawa Jima, Ryukyu Retto, burning. Taken by plane from USS FRANKLIN (CV-13) during Formosa-Ryukyu strike.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

那覇市の9割が焼失日本への空襲で初めて焼夷弾が使われ、病院や学校など、民間施設も爆撃を受けた無差別攻撃だった。』

報道の魂 

『爆撃は一日中つづき、多くの日本軍の飛行機が地上で攻撃うけて、破壊され、弾丸をあび、ほんの2、3機が舞い上がったのみであった。バンカーヒルの戦闘爆撃機が、相接する2隻の日本潜水艦を発見し、そのまんなかに爆弾を投下した。爆撃は沖縄島ばかりでなく、久米島宮古奄美大島、徳之島、南大東島に対しても行われた。

この攻撃は、大型空母機動部隊が一日で行ったものとしては、最も熾烈をきわめたものであった。攻撃すること1356回、爆撃機は652個のロケットと21個の魚雷を発射し、541トンの爆弾を投下した。那覇は炎と燃え、密集した那覇の2112平方キロの4分の3が灰燼に帰した。この攻撃によって、日本軍の飛行機23機が撃墜され、88機以上が、地上や海上で撃破された。貨物船20、小型船舶45、小型潜水艦4、護衛駆逐艦1、潜水艦1、掃海艇1、その他の船舶を撃沈させた。

…この攻撃についてのミッチャー提督の戦果見積もりは、あるいは控え目であったかもしれない。というのは日本軍の報告には、駆逐艦1隻と掃海艇1隻がつけ加えられていたからである。同報告では、約500万連の機関銃弾と30万袋の玄米の被害を報じ、また米軍は対電探戦術を使い、宣伝ビラを投下したと報告してあったが、しかし、この報告では、その日の攻撃で最も重要なことであった琉球の重要地帯の空中撮影が行われたということについては、一言もふれていなかった。』(53-54頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 53、53-54頁より》

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甲板要員。沖縄攻撃から最後に帰ってきた、航空機の整備に汗を流す。空母エンタープライズ(CV-6)にて。(1944年10月10日撮影)

Flight deck crews ”sweating in” the last few planes coming in from their attack on Okinawa, on board the USS ENTERPRISE (CV-6).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の動向

『刻々と米軍機動部隊が、沖縄を目標に疾駆しているとき、沖縄の第32軍司令部は、10日から3日間、参謀長主催の「兵棋演習(大きな盤上の地図に、各兵種=歩・砲など=を書き込んだ駒を並べ、戦術研究をやる演習)」に、注意をそそいでいました。そのため、徳之島、宮古石垣島、大東島などの各地から司令官、参謀など高級幹部を那覇に集め、兵棋演習前日の9日夜、32軍牛島司令官の招待で、波の上にあった沖縄一のホテル・沖縄ホテルで慰労の宴会を催しました。宴会のあとには軍参謀全員の二次会が、市内の料亭でもたれました。

それだけではありませんでした。陸軍航空の戦闘機隊が駐屯していた陸軍北飛行場では、9日の夕食に軍旗祭と思われる、酒もでる特別食がだされました。

軍旗祭とは、陸軍の連隊創設の日で、天皇から軍旗を授けられた日を記念しておこなわれる祝宴で、陸軍で唯一の軍隊内で食事と一緒に酒が出される無礼講の日だとされていました。一般兵が下士官を殴ったり、下士官が将校を突き飛ばしたりしても、とがめられることのない日だったのです。飛行場の全部隊に酒が配られ、年に一度の宴会に全将校が酩酊して、ぐっすり寝込んだのです。

宴会をしていたのは、第32軍首脳部や北飛行場だけではなく、…海軍小禄飛行場でも、日頃の勤労奉仕や徴用、野菜などの供出にたいするお礼の意味を込め、村三役や国民学校、青年学校校長などを夫婦同伴で招待し、宴会を部隊内で催していました。

これが、第一線の配備されていた天皇の軍隊の状況でした。』(108-109頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 108-109頁より》

 

沖縄島中部

読谷(よみたん)飛行場 / 別称: 北飛行場

『…北飛行場や周辺部落に所在した各部隊では、あまりにも突然の空襲であったことと、兵隊は演習という思い込みがあったことから、直ちに指揮系統による応戦態勢を整えることは出来なかった。飛行場周辺に配備されていた高射砲、機関砲隊は各隊の独断で射撃を開始したが、その他の部隊は空襲警報発令(7時)によって乙号戦備(上陸攻撃のおそれが少ない空襲または砲撃に対する戦備)に移り、ようやく対空射撃を開始する始末であった。その対空射撃も、低空の敵機に対しては機関砲のほか小銃や速射砲でも射撃する状態であったという 』

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

  

嘉手納(かでな)飛行場 / 別称: 中飛行場: 第44飛行場大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

『蜻蛉が群れをなして飛ぶ秋日和がつづいたある日、突然、B29が1機ま昼の青空の中をかげろうのように身を透かせながら飛翔してゆき、兵隊たちが「あれよ、あれよ」といってる間に、高射砲もとどかない1万メートルの飛行場上空をまっすぐに島の南から北へとび去った。

そんなこともあり飛行場作業、通信任務がつづけられていた10月10日、…私たちが朝食後の一服のときであった。突然、北方の読谷飛行場方面から、

グワグワン、グワグワン!

という一大音響がとどろき渡った。「すわ!」と、私たちがおどろいてみつめる読谷飛行場あたりにはパッと黒煙が挙がり、みる間にピカピカッと電気溶接のような火花がつづいたかと思ったら、轟然たる爆発音がとどろき渡った。たちまち日の出の美しい空は真黒になって大黒煙が濛々とたちのぼり、友軍の対空砲火が吠えるように「グワン、グワン」射ちだした。…上空には早や山犬のようにどう猛そうな、真黒と真白の機体には星のマークがついているまぎれもない米機、グラマンF4F、カーチスが4機ずつの編隊を組んで、ハヤテのように読谷飛行場めざして殺到してゆく、そして日輪を背にして白い翼がサッと陽にキラメクと真逆様に飛行場目がけて突っ込み、機関砲、ロケット弾の雨を降らせる。

投弾、掃射がおわると敵は風に舞う木の葉のように、対空砲火の弾幕をあざ笑うかのようにヒラリと機体をかわして射程外の残波岬沖の海上に這うようにぬけ、また編隊をがっしり組んで同じ目標にのしかかっている。』(70-71頁)

『熊蜂のような米機は220高地の稜線をかすめて走り、次々と機影をまして一方的な攻撃がつづく。高射砲弾は高く、あるいは低く炸裂するが、敵機はその間を縫って去り、また攻撃をつづける。一機として撃墜できない。耳がひき千切れるような轟音と共にドラム缶入りの燃料が燃えつづけ、弾薬は誘爆をつづけてドドドドッと断末魔のような地ひびきが襲った。』(71-72頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 70-71、71-72頁より》

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編隊を組んで帰還する、6機のSB2C-3C機。南西諸島で最初の攻撃を行った後。(1944年10月10日撮影)

Six SB2C-3Cs flying in formation, returning from first strike on Nansei Shoto (Japan Proper).

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『第二波、第三波と幾百機ともいう艦載機の空襲は全島にひろがっているらしい。黒煙は日をさえぎって、轟音がとどろいていた。

第四波がはじまったのは午前11時ごろ。敵機はこんど、わが嘉手納飛行場の爆撃も開始した。「ドドドドー」大爆発音が身近に地面を震わせる。…米機の間隙を縫って緑の中にある本部事務室の通信所に駈けつけた。通信所は安泰であった。』(73頁)

『…島田准尉をはじめ、本木曹長、新岡軍曹などが鉄帽を冠り、刻々と入ってくる通信情報に耳を傾けているが、誰も寂として声なく、深く生い茂った榕樹の空間から敵空襲を見守っている。前方の空を北の方からゴマ粒のような幾つもの編隊群が那覇首里方面を一直線に目指しているのをみていると、そのうちの最後尾の編隊群の先頭機がサッと陽にきらめくや、ほとんど、直角に近い急降下で私たちの方に向かって突っ込んできた

「敵機だ逃げろ」

というが早いか、みなは慌てて庭先にある防空壕に飛び込んだ。同時に「ダダーン」という落雷のような大音響と共に私たちは防空壕の中で地面に叩きつけられた。雨のような土砂が頭から降りかかった。

「近かったなあ今のは」

恐怖で誰も顔がこわばっていた。

…2秒間、早く投下されたために私たちをそれた爆弾は、70メートルくらい前方の民家に命中して家族7名が爆死した。…付近はガジュマルの大木がスルメのようにひき裂かれて、生々しく、血の匂いが胸をつき、人間の肉片に銀蠅がいっぱいたかっていた。わが嘉手納飛行場周辺で最初に犠牲となった一家である。

大空襲は終日つづいて敵機がまったく視界からとび去ったのは夕陽が沈むころであった。』(74-75頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 73、74-75頁より》

 

沖縄島北部

本部(もとぶ)

『…瀬底水道には、海軍が甲標的と呼んでいた特殊潜水艇を運んできた潜水母艦・迅鯨が水上機母艦・神威とともに停泊していました。そこへ急襲してきた米軍機の波状攻撃を受けて、両艦とも撃沈されてしまいました。』(121頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 121頁より》

 

今帰仁(なきじん)

『…運天港の潜航艇基地も爆撃を受け、潜航艇2隻が沈没、魚雷艇13隻沈没、海軍籍の立神と158号輸送艦、58号駆潜艇、掃海特務艇として海軍に徴用されていた新浦丸も撃沈されました。』(121-122頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 121-122頁より》

 

名護(なご)

独立混成第44旅団の日本兵の証言:

『「グラマン(米軍戦闘機)がひっきりなしに来る。数なんて分からんかったです。

『ドーン』とでも言うんかなあ。1発や2発やないから、口で表現しようもない。みな山の上へ上がってね。ただ見とるだけです。何もできん。とにかくね、見渡す限り穴だらけやな」』

『「きれいな街、という印象だった名護の街は変わり果ててしまって。民家なんかつぶれてね。住民はもう家を建てるのを諦めて、それきり壕に入って生活しよったわね」』

神戸新聞NEXT|連載・特集|シリーズ 戦争と人間| 第4部 玉砕せよ~沖縄戦~ |(2)空襲、見渡す限り穴だらけ

 

沖縄島南部

蚊蛇平(がじゃんびら)台地・小禄(おろく)飛行場付近: 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

『10月、沖縄の朝夕はめっきり涼しくなり、真っ赤な落日をバックに芒の穂先だけがひっそりと秋風にそよいでいた。その頃から米軍のB29が1機高射砲の届かない上空を、毎日のように飛来するようになった。その都度戦闘姿勢の号令で高射砲にとりついたが、高度1万メートルでは手のほどこしようもなく、中天に画かれる美しい飛行雲をただ眺めているほかなかった。敵機は行きがけの駄賃のように、ときどき大きな爆弾を落として行った。悪夢のような一日がやって来たのは、それから間もなくである。

1944年昭和19年10月10日、この朝、私は朝食の準備のため、夜が明けそめる那覇の町並みを蚊蛇平台地から見下ろしていた。朝露を受けてキラキラと光る瓦屋根、家々の軒先からいっせいに立ち昇る白いけむりは朝餉の支度であろうか。けむりはやがて中天に立ち込める真綿のような朝靄と交わり合いながら、薄紫色の霞となっておだやかに棚びくさまは、あたかも、ワイドパネルに描かれた水彩画を見るような美しい風景であった。これが私の瞼に残った最後の那覇の姿であった。

私はドドーンという遠雷のような響きを訊くとともに、音のする北飛行場のあたりを凝視した。飛行場はたちまち火の海となり、上空一面に真っ黒な煙が立ち込めていた。煙の上空に栗つぶのような黒い塊りが動いていたが、黒い塊りはたちまち蜘蛛の子を散らすように飛散したと思う間もなく頭上に現れ、眼下の小禄飛行場に向かっていっせいに爆弾の雨を降らせはじめた。

敵機だッ!戦闘姿勢」と叫ぶ声に私たちは夢中で台上に駆け上がり、各部隊は6門の高射砲にとりついた。小禄飛行場はすでに火の海になり、グワーン、グワーンと腸がねじ曲げられるような大音響とともに、無数の火柱が上がった。飛行場を使用不能にして、日本機の反撃を封じ込めようとする作戦にちがいない。地上にあるものは、虫けら一匹残れまいと思われるほどの凄まじさであった。中隊の火砲から一弾も発射する隙もない一瞬の出来事である。』(42-43頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 42-43頁より》

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10・10空襲時の那覇港および旧那覇市街 1944年10月10日

1944年10月10日 10・10空襲 – 沖縄県公文書館

陸軍二等兵の回想:

『…陣地上空に現れた第二波の敵機は、編隊を解くなり私たちの高射砲に向かって急降下、機銃掃射と同時に両翼につけていた爆弾を陣地に向かって叩きつけると、巧みに反転急上昇して飛び去った。爆弾は私たちの頭上を掠めて陣地周辺の集落や砕石場に落下、轟然と火柱を上げた。敵機から撃ち出される真っ赤な曳光弾は砲側付近の岩にはね返って飛散、そのたびに初体験の私たちを恐怖に慄え上がらせた。

敵機は識別表で見たことがあるグラマン、コルセア、カーチスなどの機種で、真っ黒な胴体に描かれた不気味な髑髏や、純白の機体に画かれている女性ヌードの絵は何を意味するのか。敵機は操縦士の顔がはっきり見えるほどに急降下し、銃撃をくり返すと飛鳥のように飛び去った。いずれも、米海軍第5航空艦隊自慢の艦載機群である。私は正直恐ろしさに手足が慄えた。』(44頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 44頁より》

 

軍司令部 

八原高級参謀の回想:

『10月9日の夕、軍参謀長統裁の司令部演習参加のため、参集した麾下全軍の兵団長、独立団隊長らの招宴が沖縄ホテルで賑やかに開催された。その宴会のあと、軍参謀全員で市内の料亭で二次会をやった。大いに浩然の気を養い深更宿舎に帰った私は前後不覚に眠ってしまった。ところが、翌朝未明、参謀部先任書記千葉准尉に叩き起こされてしまった。彼が私に差し出したものは、薬丸参謀が書いた空襲警報発令の起案紙であった。わが電波探知機に、アメリカ機の来襲状況が明瞭に感知されたのだ。ついに予期したものがきたのだ。敵機は、今や沖縄東南約30キロの地点をまっしぐらに進撃中である。私は独断警報を発令するとともに、参謀長、軍司令官にこの旨電話報告した。腹が減っては戦ができぬと、当番兵勝山伍長を促して半煮え飯を食い、参謀部事務室に駆けつける。走りながら美しく明け初めた空を仰げば、グラマン十数機が朝陽に銀翼をきらめかせながら、首里山中を北飛行場方向に、矢の如く突進しつつある。…初めてのアメリカ機に見参せんとする将兵で、司令部内は相当混雑している。首里那覇街道上は浮き足立った避難民でいっぱいだ。』(61-62頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 61-62頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail03_img.jpg

沖縄戦の絵】『10・10空襲で燃える那覇

昭和19年10月10日の10・10空襲の様子。…那覇市泉崎の自宅から宜野の湾市の親せきの家へ避難する途中、首里城守礼門のあたりから炎上する那覇市街を目撃した。遠くに見える街からは赤い炎と黒い煙が上がっている。』

10・10空襲で燃える那覇 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

八原高級参謀の回想:

 『空襲の第一波は、7時20分ころから8時ころで終わり、その機数は百数十と判断せられる。攻撃を受けたのは、主として飛行場と那覇港である。那覇の港は、すでに火を発し、黒煙天に冲している。ためにわが防空部隊は、敵機を捕捉するのに苦労しているようだ。軍司令部にいちばん近い南および東飛行場にさか落としに突っ込む敵機の襲撃振りは実に鮮やかで、まったく空中サーカスを見るようだ。』(63頁)

 《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 63頁より》

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炎上する港湾施設那覇市にて。台湾・沖縄攻撃の際に、空母サン・ジャシント(CVL-30)から飛び立った航空機から撮影。(1944年10月10日撮影)

Harbor installations in Naha City, Okinawa Jima, Ryukyu Retto burning. Taken by plane from USS SAN JACINTO (CVL 30) during Formosa- Ryukyu strike.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『運悪く、那覇港には、その2、3日前に台湾から大量の弾薬をつんだ船が入港していた。』(88頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 88頁より》

八原高級参謀の回想:

敵の第二波は、第一波とほぼ同数機で9時半より11時ごろまで続く。その攻撃目標は依然第一波と同じである。地上部隊も防空部隊に呼応して迎撃を始め、島内至る所、銃砲声耳を聾するばかりだ。那覇港の黒煙はいよいよ高く、濃くなり、ときどきドラムかんに火がつくのか、真紅の焰がめらめらと高くあがる。港に碇泊中の数隻の艦船が港外に遁走を図りながら、敵機の反復攻撃を受けて火を発し、近きは沖縄神宮付近の海岸に沿い、遠きは遥か慶良間群島に向かい、洋上をのたうち回っている。その光景は人間の最後に似て真に悲壮である。』(63-64頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 63-64頁より》

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炎上する那覇市港湾施設。台湾・沖縄攻撃の際に、空母フランクリン(CV-13)の艦載機から撮影。(1944年10月10日撮影)

Harbor installations in Naha City, Okinawa Jima, Ryukyu Retto, burning. Taken by plane from USS FRANKLIN (CV-13) during Formosa-Ryukyu strike.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

八原高級参謀の回想:

『敵はさらに第三波、第四波、第五波と終日、主として飛行場、港湾に向かい攻撃を続行した。だが、どんな気紛れか、それとも本気か、最後には直接那覇の市街に対して焼夷弾攻撃を加えてきた。折からの強風に、全市見る間に火焔に包まれてしまった。荒井警察部長の要求に応じて、第9、第62師団から救援隊を繰り出したが、敵の銃爆撃下、すでに全面的に火を発した市街はどうにもならない。バケツの水送り式防空法は、こんな状況下ではまったく児戯にひとしい。』(65頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 65頁より》 

『…第32軍は10月11日、「十・十空襲」での那覇市壊滅を第十方面軍と西部軍に次のように打電している。

那覇市ハ十日午後第四、第五両次ノ銃撃及爆撃ヲ伴フ大規模ノ焼夷弾攻撃ニ依リ全市火ヲ発シ十日夜半迄ニ県庁其ノ他一部ヲ残シ烏有(うゆう)ニ帰セリ」 と被害の大きさを伝えている。

空襲は日没まで五波に及び、その範囲も北は奄美大島から南は石垣島までの南西諸島のほぼ全域に爆撃が加えられた。』

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第一節 読谷山村における沖縄戦

 

沖縄陸軍病院

昭和19年10月10日、米空軍による空襲で本部のある開南中学校、外科の済生会病院、兵舎として使用している第二中学校は爆撃によって破壊炎上した。病院全部隊は南風原分院に夜を徹して移動し、同地で空襲による負傷者多数を治療収容した。』(30頁)

看護師の証言:

陸軍病院として本格的な外科業務が始まったのは19年10月10日の那覇大空襲以後ではないだろうか。その日は前夜から盲腸炎の手術を5人も行なったばかりで、午前5時頃、疲れた体を休めるため宿舎へ引き揚げたとき爆音が聞こえたが、日本軍の防空演習だと思っていた。暫くして「敵機来襲」とわかり、直ちに病院に飛んで帰り、負傷兵の治療に追われて病院はたちまち野戦病院のようになってしまった。
命令により入院患者を南風原国民学校…へ移動させることになった。患者は容体によって独歩、護送、担送の三つに分けて、独歩と護送の患者は一人で歩かせ、今朝手術したばかりの患者までも「腹を押さえて」と無理させた、26人の患者移送は午前8時より夕方までかかった。』(70頁)

衛生兵の証言:

昭和19年10月10日の那覇空襲の日は患者が5、60人位いた。前日の9日の晩から患者を避難させ始めていた。10日朝の読谷の空襲は、皆を動揺させないため日本軍の演習だと言い聞かせていた。残った兵隊は病院近くの甲辰国民学校の小さな壕に避難させ、私は他の2人の兵隊と毛布を被って那覇農園…に午後4時30分頃まで避難していた。

それからさらに避難命令が出て10日の夕方、南風原国民学校へ病院全体移動した。』(115頁)

《「閃光の中で -- 沖縄陸軍病院の証言 --」(長田紀春・具志八重/ニライ社) 30、70、115頁より》

 

体験者の証言

逓信省の職員

【戦世の証言】 NHK沖縄放送局より: リンク先で動画が観られます。

『戦時中、通信や郵便を扱う旧逓信省の職員になり、海軍司令部壕の設置工事に携わったあと、沖縄戦終結する直前まで軍とともに働くことになった男性がいます。昭和19年の那覇市の十・十空襲で一命を取りとめながら、その後、地上戦に巻き込まれ、数多くの死に直面し続けた男性の思いをうかがいました。』

十・十空襲~沖縄戦(那覇市) | 戦世の証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

 

そのとき、住民は・・・

【戦世の証言】 NHK沖縄放送局より: リンク先で動画が観られます。

『いまから70年前の昭和19年10月10日、アメリカ軍が県内各地を上空から爆撃し、那覇市のほぼすべてが焼き尽くされ、1400人あまりの死傷者が出ました。この「10・10空襲」は、多くの県民にとって戦争の恐怖を肌で感じさせ、半年後に始まる沖縄戦への不安を生じさせるものとなりました。』

10・10空襲(那覇市) | 戦世の証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

『…10・10空襲は、住民を戦闘に巻き込んだ沖縄戦につながる悲劇の始まりの1つととらえる人も多くいます。また沖縄の人たちに必ず勝つとされた戦争に疑問を抱かせるものともなりました。10・10空襲を生き延びた2人の男性に空襲を目の当たりにして何を感じたのか、そして平和への思いについてうかがいました。』

10・10空襲(那覇市) | 戦世の証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

沖縄島中部

読谷(よみたん)

『…北飛行場が所在する読谷山村では、空襲警報発令に先立ち6時40分から警戒警報もないままいきなり敵機の襲撃を受けた。何事だろうと近くにいる兵隊(村内では多くの部落やその近くに部隊が配備されていた)に聞けば、友軍の演習という返事であった。住民は初めのうち演習ということだから、北飛行場でもうもうと立ち昇る火柱と黒煙、その異様な光景を屋敷囲いの石垣の上に群がり、あるいは木に登って眺めていた。そのうち半信半疑になっているところに、「敵機来襲、敵機来襲」と叫ぶ怒号が飛び交った。そこではじめて、住民は蜘蛛の子を散らすように、それそれが屋敷内の粗末な防空壕や木の陰に身を隠す状態であった。』

読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 空襲と艦砲射撃

 

 

沖縄島北部

伊江島(いえじま)

勤労奉仕伊江島飛行場に動員されていた羽地青年学校の生徒たちは、10日の朝、滑走路地ならしをしていると、係の兵隊がきて「今日は、演習がもうじきはじまるので、滑走路からでて、すわって演習を見学しろ」と命じ、生徒全員が滑走路外の草地にすわって見学をしていたら、隣にすわっている友達が、もたれかかってきました。みると、頭から血を流して死んでいました。それから大騒ぎになって、「敵機だ」と、逃げだしました。この日、一番多くの死傷者を出したのは、羽地青年学校の生徒たちでした。

徴用労働で、伊江島に来ていたなかで、死傷者なし、という村もありました。それは金武村からの徴用者たちでした。

午前7時ごろ、徴用作業のため飛行場にでてきた金武の人たちのうち、…移民で米軍空襲を体験したサイパン帰りの1人が、南の方、読谷山の方向にあがる煙をみて、

「あれは、高射砲の弾の煙だ。空襲だ」といって、「早く逃げないと、ダメ」と、村人にいいはじめました。

彼女の言葉が、終わるか、終わらないうちに、敵機が飛行場めがけてつっこんできました。「みんなわれ先に逃げだし、金武村の人たちで、負傷したり、死んだ人はいな」かったのです。

また、ハワイからの移民帰りのおじさんも「あれは友軍機ではない。星のマークは米軍機だ」と、叫んで、みんなに逃げるのをすすめていました(『金武町史戦争編』から)。』(119-120頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 119-120頁頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/108-25-2.jpg

第38機動部隊による南西諸島への攻撃。空母ハンコック(CV-19)の艦載機は、沖縄本島奄美大島近海を通る船舶をロケット弾で攻撃した。(1944年10月10日撮影)投稿者註: 撮影場所は不明。

Task Force 38 strikes the Southwestern Islands of Japan as planes from USS HANCOCK (CV19) make a rocket attack on shipping at Okinawa Shima and Amami Oshima, in Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 
本部(もとぶ)

『本部は、飛行場建設の資材、徴用者や軍隊の食糧・弾薬・燃料の積み出し港として、人や物の出入りが激しくなり、にわか景気でうるおっていました。
市場には、伊江島に積みだす弾薬や燃料が山積みされていました。
…本部は、伊江島とほぼ同時に襲撃され、市場のなかに野積みされていた火薬が直撃を受け爆発し、警察・郵便局など主要な建物、公共施設が全焼し、連絡不能となりました。

また、鰹漁船が漁の途中に銃撃され、死者もでて、エンジンは止まり、漂流して3日後に、やっとエンジンを修理して帰ることができた事例もありました。』(120-121頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 120-121頁より》

 

名護(なご): 沖縄愛楽園

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沖縄戦の絵】 『空襲を受ける沖縄愛楽園』

昭和19年の10・10空襲で、当時国民学校6年生…が学校帰りに見た光景。昼ごろ雑木林の中を歩いていると5、6機の戦闘機が現れ、日本軍機と思って手を振ると機銃掃射を始めたので、とっさに松の木陰に隠れた。翼には米軍機を示す星のマークが見えた。戦闘機はハンセン病療養所の現在の沖縄愛楽園へ向かい、機銃を撃ちながら急降下を繰り返し、建物のセメント瓦の屋根が銃撃で砕けた。急上昇する機体からは黒い爆弾が落とされた。
米軍機に憎しみを感じると同時に、攻撃のすさまじさに圧倒された。』

『沖縄愛楽園の自治会で入所者の証言などを集め編集している事務局によると、10・10空襲については当時の園長の手記に、爆弾の破片で2~3人が軽いケガをしたと記されているとのこと。攻撃の理由は、軍事施設と思われたのではないかとも言われているが、正確なことは分かっていない。』

空襲を受ける沖縄愛楽園 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

沖縄島南部

那覇(なは)

1944年10月10日「十・十空襲ー那覇の崩壊」アメリカ軍は、南西諸島全域に大空襲を敢行した。10・10空襲と呼ばれるこの空襲によって那覇市は一挙に炎上し壊滅した。空襲は10日の午前7時の第一次から午後3時45分までの第五次まで延べ9百機におよぶ大規模なものであった。第二次の那覇港攻撃に続いて正午をはさんでの第三次攻撃で垣花町が炎上し、第四次攻撃は那覇市街地に集中し、第五次は全機をあげて那覇攻撃に終始した。低空銃爆撃とともに、多数の焼夷弾を投下したため、市内各所に火災が生じ、それが翌朝まで燃えつづけ、全市域の90%が消失した。』

 

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「10・10空襲罹災地図」 赤色が被災した範囲

『罹災戸数は、15,648戸中11,440戸に及んだ。とくに西本町592戸、貸座敷689戸で、上之蔵町602戸、東町552戸、旭町275戸、久茂地町903戸で全焼、西新町は1,146戸のうち1,130戸が焼失、天妃町は371戸のうち370戸が焼失した。また軍民あわせて150隻の船舶が沈み、また交通機関の破壊をはじめ軍需物資、民需物資の被害は大きかった。住民の死傷者は、死者330、負傷者455であった。この空襲によって那覇市庁舎は焼失し、重要書類もことごとく灰となった。→『写真集・那覇百年のあゆみ』』

琉文21 » 1944年10月10日「十・十空襲ー那覇の崩壊」

那覇市民の証言:

1944年昭和19年10月10日。その日の朝、…トイレの窓の向こうに、異変を見た。遠くの空に黒い煙がもくもくと上がっていた。そして、蚊のような大群がこちらに向かって飛んで来る。それは航空機だった。機銃掃射!「何が起きているのかわからないが、とにかく防空壕へ入れ」と父は言う。近所の人たちは、「これは演習ですか?」と聞いていた。

それは本物の空襲だった。早朝から夕方まで、5回にわたる波状攻撃。延べ1400機の米軍艦載機が、合計541トンの爆弾を落とした。』

首里の高台から那覇市街を見下ろした人は、「船や飛行場、倉庫などが爆発、その煙が天まで届いて怪物のように見えた。それが落ちてくるのではないか」と恐怖した。』

報道の魂 

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沖縄戦の絵】 『10・10空襲 戦火の集落と防空壕

那覇市大嶺…の集落近くには日本軍の飛行場があり、昭和19年10月10日の10・10空襲では、爆弾や機銃掃射を雨あられと浴びせられ、住宅地域も被災した。…祖父母や親せきなど8人で防空壕に逃げ込んだ。激しい空襲は午後から3時間ほど続き、爆風で壕は揺れ、板やクバの葉の上に盛り土をしただけの天井からは土が頭上に降り注いだ。いつ止むとも知れない爆発音の中、全員耳と口を押さえてじっとうずくまっていた。
この時の恐怖は今でも忘れられないという。この空襲で同じ集落の住民2人が死亡し3人が負傷。2~3日経ち、家のすぐそばの海岸でたくさんの爆弾が落ちているのを見つけ、改めて空襲の激しさを知ったという。』

10・10空襲 戦火の集落と防空壕 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『米軍機述べ900機による大空襲は飛行場、港を中心に沖縄全域にわたった。特に那覇は昼以降、集中攻撃を受け、焼い弾、ロケット弾、機銃掃射の繰り返しで、上之蔵町をはじめ、那覇港一帯の町が2日間燃え続けた。600人を超す死傷者と市の9割が灰じんに帰した。』(87頁)

那覇市上之蔵の実家が球部隊兵器部長の官舎として使われていた女性の証言:

『「朝7時前だと思いますが、小禄方面から鳥がいっぱい、それこそ空を覆うほどたくさんの鳥が飛んできました。『パチパチ』と爆竹のような音がしたと思ったら、あっという間に辺りは機銃弾と火の玉が飛んできました」』(88頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 87、88頁より》

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沖縄戦の絵】 『死んだ米兵に石を投げる兄妹』

昭和19年10月10日の10・10空襲から5日ほど後、海岸の堤防のそばに、墜落した米軍機の乗組員とみられる遺体が流れ着いていた。空襲で家を焼かれた当時9歳…と6歳の妹は、米兵の遺体に石を投げた。…当時学校では「鬼畜米英」と教わり、憎しみが募っていた。時代は変わり、…石を運んでくれた妹は今、アメリカ人と結婚して幸せに暮らしている。正しい教育を受けられる、戦争のない世の中が続いてほしい』

死んだ米兵に石を投げる兄妹 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 【戦跡と証言】 NHK沖縄放送局より: リンク先で動画が観られます。

 『那覇市の甲辰小学校跡地に建つ石碑です。大型デパートの敷地に、戦時中まで小学校があったことを示しています。明治37年に創立され、10・10空襲で焼失するまで、40年間続いた甲辰小学校、今では、この石碑以外、当時の姿を推し量るものはありません。小学校は焼け野原となった那覇の戦後の復校計画の中で、隣接する小学校もあったことから再建されなかったのです。戦後50年が経ち、卒業生たちが石碑を建てました。』

甲辰小学校跡碑(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

『20軒もの窯元が集まる陶器の街、那覇市壷屋に、防空壕がありました。壕がある坂道の名を取って「天ぷら坂の壕」と呼ばれています。壕の建設は那覇市長の指示を受けた当時の町内会長がとりしきり、住民を挙げて進められ、昭和19年10月9日に完成しました。その翌日、のべ1000機あまりのアメリカの戦闘機が沖縄を襲いました。

市街地の90%が焼失し、市内だけで、225人の住民が犠牲になりましたが、防空壕へ避難ができた壷屋では、ほとんどの住民が助かりました。』

天ぷら坂の壕(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局 

 

那覇市若狭の若狭海浜公園に「なぐやけの碑」があります。和やかで穏やかという意味をもつ、なぐやけの碑には、那覇の街を焦土に変え、およそ670人の犠牲者を出した10・10空襲の犠牲者を含む、那覇市戦没者およそ2万9000人の名簿が収められています。「なぐやけの碑」の慰霊祭には、空襲の犠牲者の遺族などが参列していますが、空襲を覚えている人は減る一方です。』

なぐやけの碑(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

那覇市にある那覇空港の滑走路の北側に、塔がそびえる小高い丘があります。ここにはかつて大きな灯台が立っていました。先原埼灯台跡です。先原埼灯台は、明治29年に沖縄で初めて建てられた灯台で、高さは12メートルでした。この純白の灯台の近くには日本軍の飛行場があり、昭和19年10月10日の空襲や、その後の地上戦でアメリカ軍の標的になり、灯台は跡形もなく姿を消しました。いまは台座だけが残っています。』

先原埼灯台跡(那覇市)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail04_img.jpg

沖縄戦の絵】『10・10空襲直後に描いたノート 』

昭和19年の10・10空襲直後、1~2週間ほどの間…に描いた空襲の記録の一部。10月10日の朝7時前、米軍機が現れて爆撃が始まった。…家族4人は、自宅から500メートルほどの那覇市若狭の墓の中に避難。中は大勢の人で溢あふれ、担架で運ばれてくる負傷者もいた。午後6時ごろようやく空襲がやみ、被害の無かった那覇市郊外の高台へ向かった。火災を避けて初めは海沿いを進んでいたが、現在の松山のあたりで次第に街なかの炎が行く手を阻むようになった。道の両側が燃え上がって熱くてたまらず、できるだけ道の中央を歩いた。前を行く人たちを見て「あの人たちが通ってるから大丈夫だ」とついていった。およそ3時間後ようやく高台にある知人宅に到着。夜の9時になっていた。』

10・10空襲直後に描いたノート | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

  

慶良間列島

『慶良間では渡嘉敷で4隻の鰹漁船と連絡船、座間味では、4〜6隻の鰹漁船と鉱石運搬船や連絡船が沈められました。』(125頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 120-121頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/108-27-2.jpg

渡嘉敷島。港には、雷戦隊VT-51のTBF機に攻撃された貨物船。小さな埠頭が、入り江に向かって伸びている。台湾・沖縄攻撃の際に、空母サン・ジャシント(CVL-30)から飛び立った航空機から撮影。(1944年10月10日撮影)

View of Tokashiki Shima. In the harbor is an AK which was attacked and reported hit by TBF of VT 51. A small pier extends into inlet. Taken by planes from USS SAN JACINTO (CVL 30) during Formosa-Ryukyu strike.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 
渡嘉敷島(とかしきじま)

『10・10空襲当日の朝、渡嘉敷の人たちは、東方那覇方面で、普通でない煙の上がり方をみて、島の人たちは「あれは、空襲じゃないか」と、不安にかられ、島に駐屯する特攻隊や地上部隊の兵士たちに聞くと「あれは、演習だ。安心しろ」との答えに「演習か」と、安心する間もなく、飛んできた米軍機は、兵舎として接収された学校の炊事場に爆弾投下、早目に登校していた子どもたちは上へ下への大騒ぎとなりました。

…当日はまた、現地召集や徴兵検査終了の新兵が入隊する日なので、村の兵事主任が引率して那覇へ向かう予定でした。

渡嘉敷の人びとは演習と聞いて安心し、駐屯部隊の徴用船に便乗して那覇をめざして出港しました。船が那覇までの3分の2ほどの距離にある慶干瀬(神山島)のあたりまできたとき、米軍機の襲撃をうけました。最初の一撃で、機関長やその他の乗り組み員数人が機銃掃射で倒され、左舷の甲板は血の海となりました。』(125-126頁)

《「沖縄を襲った米大艦隊 「10・10空襲」の実相に迫る」(久手堅憲俊/あけぼの出版) 120-121頁より》

 

先島諸島

宮古島

昭和19(1944)年10月10日午前7時30分、宮古島南方上空に見馴れない機影が編隊を組んで現れた。秋晴れの平良町上空でそれは東西に分かれ、飛行場方面と漲水港へ急降下する。間もなくサイレンが鳴り銃撃音、爆撃音がこだまして対空砲が応戦しても、友軍機の演習が実戦さながらに行われていると多くの町民が空を見上げていた。飛行場の方面から黒煙が舞い上がり、"銀翼連ねて"宮古島の空を守るはずの"荒鷲"が燃え上がるのを見て、ようやく本物の空襲であることを知った。45分に及ぶ空襲で、島の3カ所の軍用飛行場からは応戦に飛び立つこともなく9機が撃破された。
続いて午後2時5分第2波、延べ19機による空襲で、漲水港沖合に停泊中の広田丸(2,211トン)が撃沈されるのを目の当たりに見せつけられた。この「10・10空襲」を皮切りに宮古島は連日のように米軍機の空襲にさらされ、瓦礫の島へと化していった。』

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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