1945年 5月31日 『戦いはまだ続く』

ここまでの米軍の戦果

日本軍の戦死者数

『…5月の末までには、牛島中将麾下の沖縄守備隊の精鋭は、ほとんど撃滅されていた。日本軍の3戦闘部隊--第62師団(藤岡武雄中将)、第24師団(雨宮巽中将)および独立混成第44旅団(鈴木繁二少将)--はすべて前線に出て、米軍のたえなない艦砲射撃や砲撃、空爆のもとにさらされ、また、戦車隊と歩兵の攻撃の前に、さんざんやられていたのであった。

報告によると、5月の末日までに日本軍の戦死者は、6万2548人を数えた。そのほか、推定9529人が、戦死していた。戦死者は北部戦線で3214人、伊江島で4856人でているのにくらべ、6万4千人が首里の第1防衛線、第2防衛線で戦死していると報告されていた。

…こういう日本軍の損害についてに報告には、もちろん多少の誇張はあったろうが、沖縄の守備隊、なかでも歩兵の戦闘部隊が手ひどくやられたことは疑いない。ひかえ目にみても、日本軍の精鋭部隊が5月末までには、首里戦線で5千もやられたとみてよいだろう。また砲兵陣地にしても一門一門撃滅されたり、あるいは艦砲射撃、砲撃、または爆撃によって毎日毎日、目に見えて弱体化していった。』(417-418頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 417-418頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/86-39-2.jpg

勝者と戦利品。米軍部隊の首里進撃の際、多数の壕を爆壊した第1海兵師団第1工兵大隊の爆破係。彼らは、1日で100もの壕を爆破した小隊。兵士たちは、日の丸の旗、軍刀、ヘルメット、機関銃などの戦利品を持っている。これは、すべての日本兵が壕から逃げ出せたわけではなかった証拠である。

VICTORS AND SPOILS---Demolitions men of the 1st Engineer Battalion, 1st Marine Division destroyed hundreds of caves as American troops advanced on Shuri. Here's part of one platoon, which blew up 100 caves in a single day. The men have Jap flags, sabers,

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日本兵捕虜の数

『…5月末までに、米第3上陸軍団(北部戦線)が捕虜にした日本兵は、わずかに128人。また沖縄の南半分での2ヵ月にわたる戦闘で、第24軍団、第4師団の捕虜は、わずか90人、第7師団は、4月の末日から5月にかけて沖縄の中央部戦線で戦ったが、その期間中の捕虜はたった9人しかいなかった。しかも捕虜になった日本兵のほとんどは、重傷で動けなかったか、あるいは意識不明になっていたため、自然捕虜にならざるをえなかったのである。さもなければ彼らは、米軍に降る前に自殺をとげたのである。捕虜が少ないという事実から見ても、日本軍の士気の高さには、一点の疑問もなかった。彼らは殺されるまで戦ったのだ。』(418頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 418頁より》

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爆破係によって壕から運び出される負傷した日本人捕虜

Wounded Jap prisoner being taken out of cave by demolition crew.

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米軍の損害

戦死傷者・戦病者数

5月末における海兵2個師団の損害は、首里戦線での約ひと月近くの戦闘もふくめると、戦死1718人、負傷8852人、行方不明101人であった。また、第24軍団のほうでは、首里戦線を主とした2ヵ月間の戦闘で戦死2871人、負傷1万2千319人、行方不明183人をだした。陸軍第24軍団と第3上陸軍団の損害を合計すると、戦死傷者、行方不明者は、2万6044人であった。

戦病者は数えきれぬほどだった。その多くが、神経病、つまり〝戦闘疲労症〟であった。この種の患者は、海兵2個師団で6315人、陸軍4個師団で7762人もあった。最大原因は、もちろん日本軍の猛烈な大砲や迫撃砲による集中砲撃だ。それは、米軍がこれまで太平洋戦争で経験したこともない、ものすごい量だった。このほかに、米兵の神経に障害を与えたものに、日本軍の狂信的な、しかもたえまなく行われる肉弾戦があった。』(419頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 419頁より》 

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Our Losses: "one man killed to every ten Japanese."

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 15]

 

首里に迫る米軍

大移動の意味

5月31日の夕方に開かれた会議では、日本軍はつぎの抵抗線を、西は那覇港と小禄の高台地から、東は馬天港にかけて兵を配置するだろう、という見方が行われた。』(427頁)

『「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」・・バックナー中将は、5月31日、第32軍撃滅のために最後の追い込みをかけようと軍を再編しながらこういった。

もう戦いはすんだ。あとは、あちこちにたてこもっている抵抗軍の掃討戦だ。だが、これは、もう激しい戦闘はないということではないが、敵は二度と戦線を確立することはできないだろうということだ」

ほかの将校たちも同じ意見だった。日本軍には、もう秩序だった撤退作戦を行う能力があるとは思っていなかったのだ。だが、こういう楽観論は、その後まもなく、まったく根拠のないものであることが証明された。日本軍は、みごとに首里を撤退し、ときをうつさず南部で新たな戦線を確立したということがわかってきた。』(448頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 427、448頁より》

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THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

5月31日、バックナー中将は、南風原村の喜屋武から伊波を通り、具志頭におよぶ道路にそって陸軍の境界線をしき、2軍団に対し、日本軍の残存部隊を大きく区分するため首里包囲を完了せよとの命令を下した。

バックナー中将も、参謀たちも、牛島中将麾下、第32軍のかなり大きな作戦区域を、周囲を遮断して孤立させることによって、同時に日本軍の首里撤退を防ぐことが、この時点でも、まだできるものと思っていた。そのため2軍団に対して、「この地点から北の部分にいる日本軍を孤立させるため、南風原村の喜屋武に集結せよ」との命令をつたえたのだ。』(449頁)

『第3上陸軍団の戦線は、首里から那覇の南東1キロの地点におよび、その先端は南風原村喜屋武近くの高地からわずか3千メートルほどしか離れていないところまできていた。この高地こそ、バックナー中将が、その2つの軍団の先鋒部隊を集中して牛島軍勢を壊滅させようとはかっていたところである。』(451頁)

『米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。米軍が首里に着くまでに、あまりにも戦闘が長びいてしまっていたので、誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。』(421頁)

『だが、…5月31日の夜…、第96師団と第7師団が…進撃したときには、牛島中将の軍隊は、ひどい泥や、通信もきかない困難を克服して、みごとに撤退したあとだった…。米軍は日本軍を分裂させようと思っていたが、それがみごとにはずれ、米軍将兵のあいだに明らかに失望の色が見えだした。そこで第10軍は作戦を変更せざるをえなくなり、第3上陸軍団には西海岸沿いを、第7師団には東海岸寄り南進させることになった。』(451頁) 

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421、449、451頁より》

 

中央戦線

首里(しゅり)・首里城

5月31日、第77師団は、大名丘陵東端の100メートル高地まで歩いていき、そこから首里に入っていった。また、首里城南の付近にいた海兵隊は、なんの抵抗もうけずにそのまま進撃し、廃墟となった首里の町を、進撃していった。日本軍は一夜のうちにこっそり脱出していたのである。

5月31日の夕方、第3上陸軍団と第24軍団は首里南部で合流し、…米軍はその夜、武器を枕にして寝についた。翌朝は夜明けとともに南進するのだ。(439頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 439頁より》

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シェルバーン中佐率いる先鋒の一箇大隊が膝までの泥をついて要塞化した首里城を陥れたあと、破壊された城壁の下で休む第1海兵師団。

Marines of the 1st Division rest under the battered walls of Shuri castle, after a spearhead battalion under the command of Lt. Col. Charles W. Shelburne, of Kerrville, Tex., took the fortress in a push through knee-deep mud.

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中央〜東部戦線

喜屋武(きゃん)・照屋(てるや)

月の最後の日には、喜屋武照屋後方一帯の日本軍陣地を攻略したが、それでも村落にはまだ日本軍がたてこもっていた。彼らの反撃は何回となく行われたが、そのたびに殲滅された。このあたりの日本軍は後方守備隊であった。』(415頁)

『陸軍第24軍団は、米軍戦線の最南端に位置していた。軍団長のホッジ少将は、第7師団を東に迂回させ、第9師団を南に移動させて、第32歩兵連隊と交替し、軍団戦線の西端を固めるよう命令を下した。

第77師団は第96師団の後方守備と、第24軍団作戦区域内の首里戦線の一部の掃討作戦を受け持つことになり、5月31日の夕方までには、第7師団も第96師団もそれぞれ配置目標に到着して、翌日の南進態勢をととのえた。』(450-451頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 415頁より》

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与那原の南で爆撃の効果を観察する前線観測兵。第7歩兵師団。(1945年5月31日撮影)

Forward observers watch the effect of our bombardment South of Yonabaru. The 7th Infantry Division on Okinawa.

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南進する米軍

西部〜中央戦線

『第3上陸軍団は、…那覇小禄飛行場を確保することになった。バックナー中将としては、日本軍の残存兵は訓練にも欠け、さらに十分な輸送や通信施設もなく、そのうえ、道路は砲弾で穴だらけになっているので、部隊としての集団移動には困難をきたし、秩序なく敗退するだろうと考えていたのである。』(449頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 449頁より》

国場(こくば)

『戦車14輌が、やっとその月の最後の日に、発砲できる地点まで進撃して直撃弾をあびせた。それでも日本軍は、迫撃砲や機関銃で猛烈に反撃し、共同作戦で強力に攻め寄せてくる米軍の進撃を阻んだ。しかし、米軍はかなり進撃した。』(406頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 406頁より》

 

 

第32軍の動向

南部への移動

『第32軍の戦闘部隊の主力は、5月26日から28日までのあいだに、首里の防衛本陣を後にした。彼らは、なかでも第62師団などは、戦闘をつづけながら退いていったのである。独立速射砲第3大隊、第24師団第22連隊の第2大隊、そして独立機関銃第17大隊が、第32軍主力の撤退後、5月29日から31日にかけて首里最後の守備隊となった。』(430頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 430頁より》

首里退却時の陸軍兵力

首里退却時の陸軍兵力は、主戦力であった第62師団(通称・石兵団、当初兵力・8315人)が3分の1強の2923に、同じく第24師団(同・山兵団、同1万4120)は6割の8567に激減していたほか、独混第44旅団3867、軍砲兵隊約3000、その他約5000沖縄県民の防衛召集兵と鉄血勤皇隊1万7000を加えても約4万。八原高級参謀は「退却中における損耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力は約3万と判定した。3万の兵は相当のものであるが、実質を検討すれば、軍の戦力は尽きたりと長大息せざるを得なかった」と告白している。それでもなお、彼は沖縄の軍・官・民を地獄の底へと引きずり込んだ。』(354頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 354頁より》

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日本兵の死体。沖縄にて。/ Dead Japanese soldiers on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

『軍司令部は摩文仁の丘の西部にある一部構築の自然洞窟に入り、北側の与座岳から西海岸に近い真栄里に至る線に24師団、八重瀬岳から南海岸の玻名城を結ぶ線に独混44旅団と砲兵隊、南の海岸線に62師団を配した。今や守備軍は東西8キロ、南北5キロの卵を横にした型の狭い喜屋武陣地に最期の地を求め、結局はせんべいのように押しひしがれる愚策を敢えてするのである。』(354頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 354頁より》

八原高級参謀の回想:

軍首脳部用の洞窟は、山の八合目付近にある自然洞窟に手を加えたものである。山肌から、垂直に梯子で数メートル手探りに降りると、水平にろく、70メートル洞窟が続き、さらに右折して50メートル、海岸に面した絶壁上に口が開ける。屈折点からは垂坑道を経て山頂に達し、また左折すれば10数メートルで絶壁上に開口する。

洞窟は自然のものだから、所により広狭区々で、狭い所は人一人がようやく通れるありさまだ。天井からは無数の鍾乳石がさがり、鉄帽なしでは油断すると頭に怪我をする。しかも、この鍾乳石の尖端からは絶えずぼとぼとと水が垂れており、気持ちが悪いことおびただしい。

1週間ほど前から先行していた葛野高級副官の割り当てに従い、それぞれ所定の位置に落ち着く。参謀部は洞窟の前半部、副官部は後半部である。両将軍と各参謀は皆一緒だ。』(366頁)

 『副官部洞窟の開口部から、断崖を斜めに海岸に降りる小径がある。この開口部が、…将兵の憩いの場所となった。…小径を下り尽くした脚下の海岸には直径10数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命線が連絡を保持し得るや否や? 談たまたまこの問題になると、誰も自信はない。』(368-369頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 366、368-369頁より》

http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/photo/20090813115332.jpg

第32軍司令部壕跡

公園周辺ガイド-沖縄県平和祈念公園

 

沖縄本島北部の日本軍

恩納(おんな): 第4遊撃隊

『…5月31日、わが隊は払暁を期し、西側一帯にとりついている敵に対して、乾坤一擲の総攻撃を敢行することになった。「臆病な米兵は、あるいは逃げだすかも知れない」毎日が飢餓線上すれすれにあったわれわれは、この攻撃に心から賛同した
…擲弾筒の残弾を全部射ちつくしたあと、台上から機銃、小銃を総動員して射ちながら銃剣をきらめかし喚声を挙げて突撃していった。8合目あたりまで下って突進していったとき、不気味なほど静まりかえっていた敵陣のあちこちから、ダダダダダーと、一斉に機銃の猛射をうけ、同時に迫撃砲が頭上に狂い飛び交った。…多数が戦死を遂げて、この突撃は完全に頓挫してしまった。…ものすごい「十字砲火」であった。生き残ったのが奇蹟である。それでも敵は全面的に後退したようで、しばらくは無気味な静寂がおとずれた。』(216-217頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 216-217頁より》

 

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