1945年 6月3日 『米軍、伊平屋島に上陸』

周辺離島の制圧

伊平屋島(いへやじま): 上陸日

昭和20年6月3日、…朝8時ごろ、空を何機もの米軍機が横切った。』

伊平屋島 米軍上陸 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

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6月3日、米軍は沖縄本島北西海上の伊平屋島へ上陸した。上陸に先立ち百数十隻の船団が同島を包囲し約2時間にわたって空と海から猛烈な砲爆撃をくわえた。とくに上陸地点の前泊部落は数時間におよぶ砲爆撃を浴び、数十名の犠牲者をだした。』(178頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》 

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US Marine Corps 8th Regimental Combat Team landing on Iheya, Okinawa, Japan, 3 Jun 1945

[Photo] US Marine Corps 8th Regimental Combat Team landing on Iheya, Okinawa, Japan, 3 Jun 1945 | World War II Database

伊平屋島には日本の守備軍は、駐留していなかった。…ただ、東京高等師範学校出身の菊池という特務機関の少尉が、昭和19年6月頃に宮城太郎の偽名で伊平屋小学校訓導として赴任し、密かに情報活動にあたっていた。』(178頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》 

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1,000ヤード(約900m)進んでも敵の攻撃を受けることなく我喜屋集落に入る米海兵隊。弾薬やライフル銃を携え、足早に前進する。

U.S. Marines entering outskirts of Gakiya advancing 1,000 yards meeting no opposition. Using demolition and rifle fire they advance rapidly.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…前泊米軍の宿営地となったおかげで瓦葺の家は、米軍の宿舎にされ、茅葺の家屋は残らず焼き払われてしまった。』(178頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

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我喜屋集落に入る海兵隊。抵抗は皆無。

Marines entering Gakiya on Iheya-no opposition.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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新たに占領した伊平屋島我喜屋集落で、病原菌の巣窟である藁葺き家を、高速火炎放射器で焼き払う

Iheya Shima, fast working flame throwers destroy germ infested grass houses in the village of Gakiya on the newly covered island of Iheya Shima.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午後1時ごろ、田名の集落を抜ける道に、5台ほどの米軍の水陸両用戦車が姿を現した。』

伊平屋島 米軍上陸 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

防空壕や避難小屋に身をひそめていた地元住民は、2世兵士がマイクを通して日本語で「米軍は一般住民は殺害しないから早く出てこい、米国は博愛の国だ、世界中の人々を愛してる…」というのを聞いたが出るのをためらっていると「早く出てこないと手榴弾を投げ込むぞ」とおどかされて降伏した。こうして前泊、我喜屋、田名の3部落の2千余名の住民は全員捕虜にされたあげく、同島北端の田名へ移された。』(178頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

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沖縄戦の絵】「伊平屋島 米軍上陸」

『…死への恐怖でいっぱいになり、「降参しないと大変だ」と白旗を持って家族とともに小屋を出た。集落の人たちも次々と列に参加。…銃口を向ける米兵が乗る水陸両用戦車までの約200メートルを、「いつ撃たれるかわからない」と震えながら歩いたという。その後、…隣の前泊までの3キロの道のりを米兵に付き添われ無言で歩いた。 』

伊平屋島 米軍上陸 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

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海兵隊に守られて壕から投降する民間人の長い列

A long procession of civilians coming in from the hill, guarded by Marines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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伊平屋島の民間人捕虜。(米軍)兵士が島に上陸してすぐ集められた最初のグループである。

Jap civilian prisoners on Iheya Shima. This was the first group gathered in a few minutes after troops landed on the island.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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1945年6月3日伊平屋島の住民は、島が攻略されると、米海兵隊によって海岸堡の一画に大人しく集められた

Natives of Iheya Shima are quietly gathered into a compound at the beachhead when the Island was invaded, by US Marines, on 3 June 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『すでに前年の10月10日の大空襲で村有の連絡船が撃沈されていたので、県都那覇との連絡もつかず沖縄本島の戦況は知るスベもなく、時折、同島の付近海上に不時着した特攻兵や漂流死体などをとおして激戦の模様を想像するしかなかった。だが、万一米軍が同島に上陸したさいには、島人たちはボロを着て白旗をかかげ一応は降伏するふりをし、夜間に米軍の隙をみて竹槍や兇器で反撃に出ることに村民のあいだでは申し合わせができていたという。(…氏の記録による)』(178頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 178頁より》

 

南進する米軍

中央〜西部戦線

小禄(おろく)半島那覇(なは)飛行場

小禄半島は、幅3キロ、長さはほぼ5キロ。そこにある飛行場と那覇を守るための防衛陣地は、4月1日までは日本の海軍が守っていた。米軍が上陸する2、3日前、この海軍は沖縄根拠地隊として統合された。…海軍はほとんどが小禄に集結していた。沖縄根拠地隊の司令官は大田実海軍少将で、陸軍第32軍の指揮下に入ることになっていた。大田少将もこれに対しては全面的に協力の態度を示していた。』(456-457頁)

那覇飛行場は、日本が沖縄で築いた中では最も大きく、また最も重要な基地で、小禄半島から西側にある平坦地であった。ここ以外は、小禄半島には丘陵が群立し、なかには高さ60メートルに達するようなものもあったが、特別にこれといって際立った丘とか、あるいは特徴のある地形はなかった。丘と丘のあいだは畑になり、砂糖キビやその他の乾地作物が植えられていた。この平地には地雷がいっぱい敷設され、またカモフラージュされた洞窟の口からは自動操縦砲が砲口をのぞかせていた。』(458-459頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 456-457、458-459頁より》

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小禄半島--丘の防衛システムの拠点にある典型的な銃眼

OROKU PENINSULA--Typical firing embrasure in hill strong point defense system.

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『米軍は、海岸から海岸に移るようにすれば、上陸地も適当なのがあるし、さらにまた攻撃するにしても、砲兵隊の支援砲撃を思う存分活用することができる。海上からの上陸作戦ならば、各所で遮断された陸上の補給路のように、わざわいされることもなく、海路を通じて物資補給ができる。

そこで、第6海兵師団長シェファード少将は、第4海兵連隊に上陸作戦の命令を下し、その後に第29連隊がつづくことになった。計画がたてられ、隊編成も6月3日の夜までには完了した。(459頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 456-457、458-459頁より》

 

中央戦線

『第1海兵師団のほうでも、日本軍の抵抗はきわめて微々たるものであったが、その補給線は崩壊し、前線の米軍は空中からの物資投下や、輸送隊にたよらざるをえなかった。6月3日には、2軍団の間隔は3キロにまで達し、第383連隊のほうでは右翼が露出されたため日本軍の猛烈な砲火にさらされることになった。そこで、右翼をまもるために、ホッジ少将は第77師団の第305連隊を送って、その穴を埋めたのである。』(454頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 454頁より》

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長雨で陸上の輸送が困難になったため、海岸近くの部隊に必要物資をパラシュートで投下

Four parachutes drift to earth with much needed supplies for troops in shore area after land routes were made impossible by long rains.

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中央〜東部戦線

知念(ちねん)半島

『第7師団長のアーノルド少将は、追撃作戦を急速に展開するため、第32歩兵連隊に半島北部の偵察を命じた。6月3日の午後おそく、第184連隊第1大隊から出た偵察隊は沖縄南東海岸百名村落の近くまで到着して、第7師団最初の使命を達成した。

…泥中進撃は容易なものではなく、陸軍第24軍団長のホッジ少将も、米軍にもレイテでの経験がなかったら、あれだけのペースでもって進撃はできなかったろうといっていた。』(453頁)

『一方、第5海兵師団の第2大隊は、南風原村喜屋武の北側で軍団の戦線を通過し、照屋の南西を攻撃、さらに進撃して付近の高地を奪り、宜寿次村落の高台を占領して、軍団の間隔を約1キロにちぢめた。

知念半島や、また、沖縄南部の中央にある日本軍の防衛陣地を攻略されたあと、牛島中将は、島の南端、おそらく第3上陸軍団の区域内にある八重瀬岳にたてこもるだろうということが、6月3日の夜までに、はっきりしてきた。』(454頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 453、454頁より》

 

 

第32軍の動向

残存兵力と質

八原高級参謀の回想:

首里戦線より喜屋武半島に後退した際、いくばくの兵力を集結掌握し得るかは、作戦上最も重大な問題であった。各部隊からは日々死傷者数の報告はあるが、部隊の移動、転属頻繁、しかも小部隊に分散して、無数の地下陣地に拠り、激闘を続けている関係上、その報告はすこぶる不正確である。第62師団に例をとれば、作戦主任は総員3千と言い、後方主任参謀は6千と報告する。万事がこの調子なので、軍として自信ある数字を掌握するのは至難である。

私は首里退却時、陸軍兵力4万退却中における消耗約1万、喜屋武陣地に集結し得た兵力約3万と判定した。』(376頁)

『軍の主力であった第24、第62の両師団および混成旅団の戦闘員の85パーセントは消耗した。連隊、大隊、中隊といっても、今ではこれを形成する人員の大部は、未訓練で素質不良な臨時転属された後方部隊沖縄防衛隊の要員に過ぎぬのである。

…中隊長以下の下級幹部は、前述戦闘員とほぼ同率の損害を受けている。大隊長以上の損害は…極めて少ない。軍が現在なお比較的良好な指揮組織を維持し、秩序ある作戦指導を為し得るのはこれがためである。』(377頁)

歩兵自動火器は概ね5分の1に減少した。歩兵重火器は概ね10分の1に減少した。砲兵は損害比較的少なく約2分の1である。軍砲兵隊が新陣地に集結した砲は15サンチ加農砲2門、15榴弾砲16門、高射砲10門である。』(378頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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アメリカの前線後方の安全地帯への日本人子供の移動(撮影地: 首里

Leading Jap children to safety behind American lines.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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日本人の子供への応急手当(撮影地: 首里) / First aid to Jap child.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

宜野座(ぎのざ)初等学校 ②: 設立者の体験談

沖縄本島北部、宜野座の収容所で学校が設置されることになり、6月2日、教職の経験があった民間人捕虜が呼び出され、設置と運営を任されることになった。

『…6月3日 受け付けへ出頭し、受け付けのビンバード大尉、ワーチ憲兵隊長の紹介を得て…3人がスクールティーチャーの許可済みの腕章を受け取る。校長を決めて学校敷地の検分に赴く。

雨もよいの空は、朝から曇っている。わだちの跡の泥水に素足のままポチャポチャ歩きながら、子供たちを集める方法を語り合いつつ行く。

子供たちの安らぎの場所、温かい懐を造らねばならぬと終始頭をなやます。6月3日の学校日誌には「大久保の南西、高台になった空気清浄の地を卜す」とある。午後から校舎と便所の略図を書いて隊長へ提出した。』(119-120頁)

《「忘られぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第二集」(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会/那覇市史編集室内) 119-120頁より》

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月3日