1945年 4月11日『激しさを増す神風特攻』

 日本機の大空襲

『日本機の大空襲は、4月中、ずっと継続して行われた。彼らは、日中は、第58機動部隊や警備艦隊、それに陸上の対空砲火のおよばない距離にある船団をねらって襲撃してきたが、夜になると輸送船団は敵機が近づくと煙幕を張ってかくれたので、読谷、嘉手納両飛行場を主に攻撃し、つぎに渡具知の浜の米軍を攻撃した。この空襲はほとんどが夜であった。午後9時から11時までと、午前2時から4時までのあいだに行われた。

日本軍の戦術は巧妙で、時に砲兵が読谷か嘉手納、どちらかの飛行場を砲撃して米軍の応酬をその方向にそらしておいて、同時に別の飛行場を空襲するというやり方だった。また場合によっては、日本軍の飛行機は夕暮れ時に、そのまま米軍の飛行機についていき、友軍機と思わせるようなライトをつけたまま飛行場を旋回して、滑走路や貯蔵庫に爆弾を投下したり襲撃したりすることもあった。

4月11日、第58機動部隊は、日本軍の大空襲に対して激しい応戦を展開した。この日、特攻隊4機の攻撃空母エンタープライズが至近弾をうけて大破し、ついに修理のためにウルシー島へ向けて舵をとらねばならなくなった。』(122頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 122頁より》

 

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神風特攻機の攻撃を受ける米空母エンタープライズ(11 April 1945)

Kamikaze Attacks against USS Enterprise CV-6 11 April 1945 - YouTube

 

周辺離島の制圧

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p107.jpg

金武湾沿いの高台を偵察する海兵隊

COMPANY B of 1/7 patrols the high ground in the Chimu area on 11 April.

Chapter 06 | Our World War II Veterans

津堅島(つけんじま)

『4月11日の午後3時すぎ、戦死・行方不明14名、負傷者80名を出してようやく同島を制圧することができた。』(84頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 84頁より抜粋》

: 米海兵隊の記録(Chapter 06 | Our World War II Veterans)には、津堅島での戦闘は4月11日「15:30分までに(敵の)組織的抵抗を鎮圧した(By 1530 organized resistance had been eliminated)」とあるが、津堅島住民の証言によると、米軍は4月24日頃まで3〜4回上陸しては攻撃を繰り返したとのこと。米海兵隊は、残存兵を掃討する目的で11日以降も数回にわたって島に上陸した可能性あり ※

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/maps/USMC-M-Okinawa-12.jpg

Chapter 06 | Our World War II Veterans

伊江島(いえじま)・上陸5日前

『北部作戦が計画どおり展開されたので、4月11日、第10軍は…「4月16日に伊江島を占領せよ」との命令を第77師団に下した。

この作戦のおもな狙いは、沖縄攻撃を支援する一方、日本本土攻撃にも備えて、そこにある飛行場を奪取することにあった。』(140頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 140頁より》

 

南進する米軍

米軍の前方では、しだいに地形が悪くなり、3師団ともこれに直面せざるを得なかった。第27師団の進むところには右側に牧港の入江があり、中央には小川があり、その周辺には低地帯になっている水田があった。この水田地帯は周囲が高く、まんなかがくぼんでいて、ちょうど鉢のようになっていたので、米軍はあとでここを〝爆鳴弾鉢〟と名づけた。その左手には嘉数の丘陵地帯や村落がひかえていた。

第96師団の方はどうかというと、ここ西原付近には丘陵がるいるいとそびえ、墓があって、あまり目立ちはしないが、すべてが堅個な陣地として構築されているばかりか断崖絶壁の棚原高地に直面しなければならなかった。また、第7師団の正面では、頑強な178高地と和宇慶村落が米軍の前進をはばんでいた。』(183頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 183頁より》 

嘉数(かかず)

『嘉数高地を奪取すべき連隊命令を受けた第381連隊第1大隊は、4月11日午前7時鞍部を越えて攻撃前進した。諸隊は、高地南方斜面から曲射弾道の迫撃砲火を受けた。日本兵は、また嘉数高地から爆薬包を投げ込んだ。攻撃部隊は、西部嘉数から支援火力を受けたが、頂上付近に塹壕を掘らなければならなくなった。これに対し、敵は2回に亘り逆襲してきたが、ロバートソン軍曹はほとんど兵一人で食い止めた。

第383連隊第3大隊は、鞍部北側斜面においてこの日の午前中を過ごし、敵火の下で谷間を越えて前送された食糧と弾薬を受けた。午後1時、この大隊は右(南面)方の第381連隊第1大隊とともに、嘉数高地の北西斜面を登った第1大隊長は、谷間を越えて前進できなかったので、第3大隊長ステアー中佐が攻撃の指揮に当たった。

攻撃部隊が約150ヤード前進すると、嘉数高地頂上と反対斜面から、迫撃砲および機銃の猛火を受けた。当時まだ敵の手中にあった西部嘉数の敵斜面からさえ、激しい敵火を蒙った。ステアー中佐が判断するには、諸隊の攻撃続行は、西部嘉数北端を占領している第381連隊の第2大隊の攻撃によって、西部嘉数南部にかじりついている日本軍を攻撃する以外に途はないと。彼は、猛火を冒して第2大隊指揮所に至り、グレービル中佐と、この攻撃について議した。まさに攻撃を起こそうとしたとき、日本軍は西部嘉数に逆襲して来た。グレービル中佐の部下は、その位置を保持するに汲々たるありさまであった。ステアー中佐は嘉数高地に対する攻撃を中止し、傷者を煙幕下に撤収するよう命じた。嘉数高地北西斜面の両大隊は、旧位置に後退した。敵は再度嘉数の主要陣地を奪回した。(246-247頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 246-247頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p122.jpg

嘉数高地と西部嘉数の中間にある峡谷(鞍部から撮影)

KAKAZU GORGE from the saddle between Kakazu Ridge and Kakazu West, giving an idea of its depth. Path shown was used by the 381st Infantry, 96th Division, to reach Kakazu hills. (Photo taken some time after action.)

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

 

 

日本海軍の総攻撃

第五航艦: 「菊水2号作戦・前日」

11日、春の日はうららかに晴れ、沖縄周辺の天候も回復した。基地航空部隊は、まず機動部隊狩りに出かけた。

早朝の索敵で、喜界島の南部に空母3隻がいることを発見、零戦55、「紫電」戦闘機15が制空隊となって米戦闘機を追い散らし、爆戦30、「彗星」9の特攻機が突撃する。空母に突入を報ずるもの爆戦7、「彗星」4、艦船に突入を報ずるもの爆戦3。

そのうち、索敵機から喜界島の東にも空母2隻の一群、その西側に空母3隻の一群を発見したと報じて来、このあたりに三群の機動部隊の存在をほぼ確認したので、夕方、「銀河」17、重爆(陸軍)16、「天山」10が駆けつけ、雷爆撃。巡洋艦3隻撃沈、戦艦または巡洋艦1大火災、巡洋艦または駆逐艦2隻に魚雷命中。夜間も燃えつづける艦3隻が認められた。』(201頁)

『この日の結果は、米海軍省の発表では、戦艦「ミズーリ」、空母「エンタプライズ」、同「エセックス」、駆逐艦6隻が損傷を受けた。「ミズーリ」には、特攻機1機が左舷後甲板に突入。甲板を貫いて爆発。火災が起こったが、間もなく鎮火した。「エンタプライズ」には、左に回避運動をしている最中、左舷に突入、40ミリ対空機銃台に撃突した。抱いていた爆弾だけが離れて海中に落ち、空母の艦底付近で爆発。小破。もう1機は右艦首の直下に撃突、猛烈なショック・ウェーブを起し、大きな損害を与えた。撃突した飛行機の破片が、生きもののように飛んで、右カタパルトの上の飛行機が燃えはじめ、あわてて射出したからよかったが、結局「エンタプライズ」は、それから48時間、戦闘に参加できなかった。一方、「エセックス」を襲った1機の爆弾は至近弾となり、ガソリン・タンクと艦内機械工場に大損害を与えた。駆逐艦1隻が、気息えんえんの状態で、それでも突入した特攻機をハラの中に抱いたまま、ウルシーまで自力で帰った。撃沈されたものは、11日にはいなかった。』(201-202頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 201、201-202頁より》

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戦艦「ミズーリ」に突入寸前の零戦特攻機(左上)

Japanese special attack Zero fighter crashing into USS Missouri, off Okinawa, Japan, 11 April 1945 

Okinawa Campaign Photographs | World War II Database

 

第32軍の動向

中南部戦線

嘉数(かかず)

11日は、米軍の無二無三の攻撃が、嘉数でつづいた。高地西側に足場を築いた米軍は、なんとかして高地の南側に廻ろうとし、一方、北側の米部隊も勢いを増して、高地の頂上近くまで強引に押してきた。一時は、あわやと手に汗握らせたが、夕方までには、逆襲によって米軍を押し戻し、高地を確保することができた。この状態は、12日にも続いた。』(208頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 208頁より》

兵士の証言: 嘉数高地

『「1944年(昭和19年)10月、現役志願で独立歩兵第13大隊(隊長原宗辰大佐)に入隊した。1945年1月幹部候補生試験に合格したが、間もなく現地が戦場となったため同大隊の機関銃中隊にかり出された」

「われわれの大隊は1200人ぐらいだと思うが、4月下旬嘉数を後退するときに100人いたかどうかわからない。われわれの機関銃中隊というのは1個小隊に2銃ずつで全部で8銃です。弾薬は10箱しかなかった。3月22、23日ごろから敵の空襲が本格化すると不安はつのるばかりです。機関銃で2連60発ぐらい撃つと、迫撃砲の集中攻撃をかけてくる。何しろ敵は上空から飛行機でこちらの射撃状況や、自軍(米軍)の着弾状況を逐次キャッチしては連絡するんだから話にならない。銃砲撃戦ではかなわないから、手榴弾の肉薄攻撃、夜襲をかける。敵は電線をはりめぐらせて対応する。こちらは感電することもある。夜間敵のキャンプに接近し、手榴弾を投げつけると、米軍はそのへんをあたりかまわず反撃してくるんです。毎夜こうした斬込隊を送るが、10人のうち生還するのは1人か2人でした

「このためタコツボ作戦をとった。人がすわるとちょうど頭が出るくらいの穴を掘り、この中に斬込隊をしのばせる。ダイナマイト10個を箱につめた急造爆雷をかかえ、敵の戦車に投げつける。距離数メートル。2、3秒で爆発するから、こっちもまず助からない。こうして嘉数、大謝名で敵の戦車17台をひっくりかえした。あのころはまだ負けるなどということは考えもしなかった。わが軍の士気というものはあのころまでではなかったか」

「普通は戦車を先頭にして前進、そのあとを歩兵がくるんですが、敵は作戦をかえた。歩兵を前に出して、タコツボの日本兵を殺してから戦車をくり出すようになった。こうなってはタコツボ作戦も効果なしです。見つかったらまず芋ざしにやられます」』(84-85頁)
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 84-85頁より》

 

 

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