伊江島上陸 / 藁の飛行機 / 「コザ」の誕生 / 八重岳の占領 - 棒切れと石の学徒出撃 / 伊江島の戦争 - 竹槍と急造爆弾
米軍の動向
午前7時58分 - 米軍の伊江島上陸
米軍が伊江島への上陸を開始する。そこは日本軍が「東洋一」と誇った伊江島飛行場がある島だった。
夜明けとともに - 上陸前の艦砲射撃
第5艦隊の戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦7隻が、4月16日の暁、伊江島めがけていっせいに猛烈な艦砲射撃の砲火を開いた。LCTは海岸の上陸地点にロケット弾や曲射砲で一斉射撃を浴びせ、支援砲艦や上陸部隊の乗った船の護衛艦から発射された幾千という40ミリ、20ミリ弾が弧をえがいて伊江島の海岸に落ちた。
燃える伊江島。沖縄侵攻には真珠湾攻撃で甚大な被害を受け沈没し修復された戦艦ウエスト・バージニアも投入された。
Invasion of Ie Shima just off Okinawa in the Ryukyus, taken by the USS WEST VIRGINIA (BB 48). Gosuki[Gusuku] Mountain in background. 16 April 1945. 沖縄島にほど近い伊江島への侵攻。米軍艦ウェストバージニア(B-48)から撮影。後方に見えるのは城山(ぐすくやま)。(1945年4月16日撮影)
米国海軍カラーOkinawa L-Day invasion, taken by USS WEST VIRGINIA (BB 48). 16 April 1945.
上陸日の侵攻の様子。米軍艦ウェストバージニア(BB-48)から撮影。
飛行機からは爆弾が投下され、ロケット弾が発射され、無数のナパーム弾が海岸やその後方に落とされた。炎ともえたナパーム弾が弾薬庫や、ガソリン貯蔵所を爆発させ、一瞬、黒煙や砲塵が中天高く舞い上がり、2、3分後には伊江島は真っ黒い煙でつつまれた。その中に一すじの白い煙がさっと一吹き横に流れた。その向こう側に、ロケットや砲を乗せた軍艦が見える。一すじの白い煙は、上陸準備が完了したとの合図であった。
1945年4月16日、伊江島上空を飛行するTBM アベンジャー。
Napalm bombing on Ie Shima in Ryukyu Islands by TBM plane of VC-Squadron-84.
VC-84中隊のTBM機により、伊江島に対してナパーム弾攻撃が行われているところ。(1945年4月16日撮影)
LSTから上陸用舟艇への乗りかえは順調に進んだ。午前6時5分、上陸用舟艇に乗り移った全員は、集合地点で隊列をととのえた。水陸両用戦車は真後ろに水陸両用車を従え、うなりを立てて海岸から3千メートル離れた出発地点を海岸へ向けてすすんだ。
Assault boats streak for the beach at Ie Shima during Okinawa operation. As seen from plane of the USS SUWANNEE (CVE-27). Aerial: T-10; 00-9-K-20 2500'; 2 mile distance; Area 8632.
沖縄侵攻作戦で伊江島の浜に猛然と迫る強襲艇。護衛空母スワニー(CVE-27) の艦載機から撮影。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度2500フィート(762メートル)。距離2マイル(約3キロ)、区域8632。(1945年4月16日撮影)
天気は晴朗、波は静かだった。水陸両用戦車も両用車も、巡洋艦、駆逐艦、LCTの位置を過ぎて哨煙まだくすぶる海岸へ向かった。上陸部隊第一波が海岸に近づいたとたん、後方の支援軍が伊江島内部にむけて艦砲射撃を開始した。
米軍は南側と西側から上陸
伊江島に無血上陸。急速に進軍し、一日で城山まで到達する。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]
午前7時58分、伊江島南部海岸に上陸
午前7時58分ー予定より2分早くー第305連隊第1上陸大隊の先発隊は飛行場の真南にある伊江島南部海岸に上陸し、3分後には同連隊の第3上陸大隊が、左翼(西側)へ550メートル離れた別の海岸へ上陸を開始した。
部隊は高い砂丘を越えて迅速に進撃し、海岸の北方より360メートル離れた高台に沿って走る道路に達して、第1大隊は東に向きを変えた。この高台から伊江島の町までは、おそるべき多くの地雷が敷設してあるのだ。たとえ急いで敷設したためカモフラージュが十分でなかったとはいえ、これは水陸両用戦車や自動推進砲の移動を非常におそくした。第3上陸大隊は島内に入るや東方に進撃して村落の方に向かい、その左翼は滑走路東端のちょうど南側にさしかかった。
午前8時7分、伊江島南西端に上陸
午前8時7分、第306連隊の第一波が、伊江島南西端の幅およそ550メートルの海岸に上陸し、その第一波は左翼(北側)に位置を占めた。3時間も待たずして上陸部隊は1800メートル進撃して飛行場の西端に出た。第3大隊は10時15分には上陸を完了し、予備大隊として島の西端の偵察にあたったが、同大隊は洞窟や塹壕の日本軍を掃討しながら東方に進撃、第306連隊第1大隊の左翼後方を固めた。第306連隊の迅速な進撃は、16日の午後もつづいた。米軍はすみやかに飛行場を横切った。滑走路には遮蔽物とてなく、平坦に広がったところでは、日本軍にとっては格好の射撃場所だったかもしれないが、日本軍は別に応戦するでもなく、ただ飛行場東方の端で抵抗してきたが、ここでは米軍の部隊や装甲車隊が十数カ所におよぶ日本軍の塹壕を殲滅した。
Ie Shima in the Ryukyus. Taken by plane from the USS MAKIN ISLAND (CVE-93). Ruined buildings. Lens 6 3/8”. Alt. about 500'.
伊江島の様子。護衛空母マキン・アイランド(CVE-93)の艦載機から撮影。廃墟と化した建物。約500フィート上空から見たところ。(1945年4月16日撮影)
午後の進撃は、なかなかはかどらなかった。日本軍は、村落の西側にある陣地や洞窟、そして高台下方の山麓にある今はとりでとなった墓のなかから、小銃や機関銃で猛烈に応戦してきたからである。ここではもっぱら歩兵や工兵隊の撃ち合いであった。装甲車や戦車は地雷のため足止めをくわされたからで、敷設地雷の中には250キロ爆弾も無数に埋められていた。第305連隊の第3大隊が大きく左翼に迂回して、およそ1600メートルも進攻したのにくらべ、第1大隊は日の暮れるまでに海岸からわずか700メートルほどしか進撃できなかった。
北進する米軍 - 本部半島の制圧
閉じる円 - 八重岳頂上を制圧
米国海兵隊: Truck convoy moving across Okinawa. This outfit is the 3rdBn, 1stReg, 1stDiv. The command officer is LtCol Steven V. Sabel. 沖縄島を横断するトラック部隊。この部隊は第1海兵師団第1連隊第3大隊に所属しており、司令官はサベル中佐である。(1945年4月16日)
4月16日の朝早く、海兵航空隊や砲兵、海軍砲が支援する中を、海兵第4連隊の第1大隊は、八重岳の険しいスロープをあがっていった。これを見ていた日本軍の迫撃砲隊が、このとき、いっせいに砲火をあびせてきた。が、海兵隊の先鋒は、すでに密林におおわれたスロープをのぼっていたが、これは明らかに日本軍の目から逃れえたのであろう。しかし、峰の頂から、およそ90メートルほど離れた岩肌もあらわな山腹をあがっているとき、突然、日本軍の迫撃砲や手榴弾がとんできて目のまえの山腹で爆発し、遮蔽物もないので米軍は森の中に引き退らざるをえなかった。
右翼線(南東側)では、他の海兵隊が、ライフル銃で応戦しながら小さな谷間を進撃し、そのあと、他の大隊と合流して一気に山頂にかけのぼり、日本軍防衛陣地内に突撃を敢行した。その日の午後、第1大隊は、ついに八重岳頂上を制圧した。日本軍はあるいは死に、あるいは八方に散っていった。
SNIPER HUNTING: A rifleman of the 29th Regiment 6th Division, creeps around a rock as he comes up on a Japanese sniper on Okinawa. The sniper was killed by the Marines after he had held up their advance up the mountainside by throwing hand grenades. 狙撃兵狩り。岩の周りを腹ばいになって日本軍狙撃兵に近づく、第6海兵師団第29連隊のライフル銃兵。狙撃兵が手榴弾を投げて海兵隊の山腹への進軍を阻んだ後、この狙撃兵は海兵隊によって殺された。(1945年4月16日撮影)
4月16日の夕方、八重岳の別の峰から、日本軍がなにやら忙しそうに動いているのが見えた。それは、日本軍が反撃態勢をととのえようとしげいるものと見られた。米軍は、そうさせてはならじと迫撃砲やその他の砲で猛烈な砲火をあびせた。大隊本部では、その間、手のあいている者は、急いで弾薬を山のうえに運んだ。午後6時50分、予想どおり日本軍が突撃してきた。海兵隊は確保した陣地を守って応戦し、およそ100名の日本軍を撃滅した。… シャプレイ大佐の率いる海兵隊が南側の山を攻撃しているとき、片方では、海兵第29連隊が北東から八重岳に迫っていた。もともと第29連隊は、伊豆味ー満名の線の北部にある山を占領することになっていたが、八重岳付近で日本軍の斥候隊と衝突したので、南西の方向へ進路を変えたのである。ところが、この山の南西部は攻撃し難い地形だった。海兵第29連隊は日本軍の陣地を探すため、4月16日、17日のまる二日をついやした。
本部町にある「清末隊陣地壕」。沖縄戦当時、日本軍は本部町の八重岳周辺に3000人の部隊を配置しました。清末隊陣地壕は、ここにいた部隊の隊長の名前からそう呼ばれました。… 本部半島でのアメリカ軍との戦闘は、4月10日頃からおよそ1週間続きました。アメリカ軍は、艦砲射撃やロケット弾による激しい攻撃で日本軍を包囲、清末隊は、最後に壕の外へ出て突撃し、全滅しました。…
特攻攻撃対応 - 空母イントレピッド
空母イントレビットは1982年からマンハッタン(NY) で イントレピッド海上航空宇宙博物館 として展示公開されており、日本軍特攻に関する展示も多く含む。
九州にある飛行場は、米第58機動部隊がたたいた。だが、それにもかかわらず、日本機は15日と16日、ふたたび相当な数をもって沖縄上空に現れた。16日の空襲では、神風1機が、空母イントレピッドの飛行甲板に体当たりしたのをはじめ、他の特攻機も10隻の船舶に損害を与え、駆逐艦1隻を撃沈した。この米軍の損害に対し日本側も270機が撃墜された。
特攻機の攻撃を受けた米空母「イントレピッド」
読谷飛行場で日本機による夜間攻撃を高射砲で応戦する米軍
Japanese night raiders are met on 16 April with a spectacular network of antiaircraft fire by Marine defenders based at Yontan airfield. In the foreground, silhouetted against the interlaced pattern of tracer bullets, are Corsairs of VMF-311. Department of Defense Photo (USMC) 118775 日本の夜間襲撃隊は、4月16日、読谷飛行場を拠点とする海兵隊の壮観な対空砲火に遭遇した。 前景にみえるシルエットは、VMF-311 のコルセア。 国防総省の写真 (USMC) 118775
嘉手納飛行場 - 藁でできた飛行機
日本軍は住民にたくさんのダミー飛行機を作らせ設置させていた。
Dummy Japanese planes made of straw found on Kadena airfield, Okinawa, Ryukyu Islands. 嘉手納飛行場で発見された擬装用のわら製飛行機。(1945年4月16日撮影)
Lt. A. F. Kochmanski of the 24th army Corps scratches his head in amazement at Jap subterfuge in making dummy airplanes to fill airfields on Okinawa, Ryukyu, Islands. 飛行場に擬似飛行機を置くという日本軍のごまかし作戦にあきれて、頭をかく陸軍第24軍団のコシュマンスキ中尉。沖縄にて。撮影日: 1945年 4月16日
先島諸島への攻撃 - 石垣島
先島群島の攻撃はイギリス太平洋艦隊が主導し、米艦隊と口語で、石垣島と宮古島にある6カ所の飛行場を封じ込めるため、連日の激しい爆撃を繰り返し、八重山群島を封じ込めた。下の写真は飛行場の形状からして石垣島の平得飛行場と思われる。
Two bombs from a TBM plane from USS SUWANNEE (CVE-27) whistle their destructive way toward Ishigaki Airfield on Ishigaki Islands of Sakishima Group. Aerial: T-0930-9 K-20 4000'.
護衛空母スワニー(CVE-27)所属のTBM機から投下された2つの爆弾が、石垣飛行場を破壊するため音をたてて落下する様子。先島諸島の石垣島にて。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度:4000フィート(約1219メートル)。(1945年4月16日撮影)
前年の空襲とは異って、夜明けから日暮まで数十機が交互に飛来し、猛爆撃を展開した。空爆は衰えるどころか、むしろ日ましに激しくなっていくばかりである。大浜部落は海軍飛行場を守るためにその周囲には陣地があったので、大変危険であった。実際あっちこっちに爆弾が落ちた。連日の激しい空襲のため生産も殆んど行なわれなくなった。そうした中で、どの家でも、夜になると母親は明日の食物の準備に大変であった。
キャンプ・コザの設営
Camp Koza: 越来村に宣撫隊本部コザ・キャンプを設置。コザの名称の由来は諸説あるが、越來村の胡屋 (Goya) あるいは美里村の古謝 (Koja) の名称が混合したのではないかと言われ*1、既に1944年の米軍の戦略マップに Koza の記載がある。
Okinawa Collection (COLL/3720) at the Marine Corps History Division OFFICIAL USMC PHOTOGRAPH, 1 October 1944
米国海兵隊: Military government (this pack by direction of Lieutenant G. De Mambaro, USNR, These are a series of stills to be made from time to time until completion of Camp Koza.)
軍政府(米海兵隊予備役部隊所属デ・マンバロ大尉率いる部隊。コザキャンプが出来上がるまで、度々撮られたスチール写真の一部)1945年4月16日
コザの軍政府病院は、現在の沖縄県立中部病院のもととなった。。
U.S. Army Surgeons performing an emergency operation at the military government hospital G-6 #2 at Koza.
コザのG-6, #2g軍政病院で救急手術を施す陸軍医 (1945年4月16日)
第32軍の動向
本部半島 (宇土部隊) - 八重岳からの撤退
宇土部隊は本部半島の八重岳・真部山一帯に陣地を設置し、兵士を集中させた。地元住民は日本軍や町役場の命令でこの地帯に避難していた。さらに、人口が集中する沖縄県中・南部の住民10万人を避難させる計画が立てられ、朝助さんらの守備範囲の各町村に割り当てられていた。そして、住民と軍人がひしめきあう中、この山岳地帯が日米の戦闘の場と化す。
宇土部隊、しかしその半数近くが地元から召集した防衛隊員と学徒兵からなっていた。
八重岳では、宇土大佐が率いる約3,000名の守備軍が布陣していた。宇土部隊は、独立混成第44旅団の残存者約500名のほか、現地で徴集された防衛兵が約800名と青年義勇隊員約200名、鉄血勤皇隊員約400名からなっていた。
多くの防衛隊員や学徒が斬り込みさせられるなか、宇土部隊本隊が退却する。
屋部海岸に上陸した米軍は、15日以来、真部山、八重岳一帯にかけて、激しい攻撃を加えてきたため、支隊の各中隊は、支離滅裂になった。陣地壕も次々に占領された。真部山では、佐藤少佐の率いる6中隊志垣中尉が、鉄血勤皇隊の三中生とともに奮闘したが、装備とて満足できない守備軍は、わずかに米戦車砲に対し、爆雷攻撃と、手榴弾で応じた。米軍は、昼は海空と相呼応して、山中の日本軍陣地を攻撃し、夜になると遠くの後方に退いて、出撃してこなかった。各隊に配属された防衛隊員も、鉄血隊員も、竹槍と急造爆雷と、それに3、4人に一挺宛渡された小銃だけだった。
閉じられた円。
4月16日、米第4マリン連隊の1個大隊は、飛行機、野砲、艦砲の援護射撃を得て、八重岳の急坂を登っていった。その夜おそく、米軍に八重岳の頂上を占拠された。その後日本軍は反撃したが、米軍に阻止された。
学徒兵に斬り込みを命じる。
米軍による八重岳・真部山の攻撃は、艦砲射撃、空からの機関銃掃射、近距離からの機銃・迫撃砲など、熾烈を極めていた。そのような戦況下、三中学徒隊で編成された通信隊は斬込み作戦を与えられた。4月15日、無線班に出撃命令が出た。(216頁)
4月16日、暗号班も斬込み隊を告げられ多くの犠牲者を出した。… 斬込み隊となった暗号班は、出発したと同時に迫撃砲の集中砲火を受け、負傷者を1人出した。そしてやっと目的地に到達した時、暗号班の総指揮官だった徳丸中尉は「小銃を持っている者は、着剣せよ。武器のない者は、手近にある短剣、短剣の鞘、棒切れ、スコップまたは石を持って俺の後について来い」と命じ、米軍に向かって突撃したという。暗号班は、15名中7名が戦死した。(216-217頁)
4月16日、壊滅状態に陥った宇土部隊は、護郷隊のいる多野岳へ撤退することを決定。撤退は、翌17日まで続いた。(217頁)
《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 》
伊江島の「六日戦争」
伊江島には「東洋一」と鳴り物入りで建設された伊江島飛行場があった。伊江島の戦争、多くの防衛隊員と住民が巻き込まれ、住民の半数1500人が犠牲になった。
昭和20年4月16日から21日まで、「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘が伊江島で繰り広げられた。日本軍約2000人、村民約1500人がこの6日間で戦死したが、現地召集の防衛隊員の多くも運命をともにした。
飛行場大隊とは、飛行場の建設、管理や警備にあたる部隊である。
八原高級参謀の回想:
伊江島は、… 城山があるほかは全島概して平坦な、飛行場として最適の土地であった。… 伊江島は国頭支隊〔独立混成第44旅団第2歩兵隊(第3大隊欠)〕主力のうちから大隊長伊川少佐らの大隊(一部欠)を率いて守備に任じていた。これに田村大尉の飛行場大隊が協力していたが、もちろん戦闘用には訓練していなかった。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 225頁より》
16日の未明、米艦隊がいっせいに島を砲撃したのち、波止場、ナガラ浜、ハテ浜、小浜などから上陸して直ちに進撃、3時間後に飛行場を占領してしまった。さらに、戦車隊が激しく日本軍をたたきながら、ハダ原付近に集結するという進撃振りであった。日本軍の高射砲隊は、ハダ原方面から来襲した米戦車隊と3時間にわたり激戦、米軍に相当に損害を与えたが、陣地をつぶされ、多数の戦死者を出して後退した。
《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 256頁》
「東洋一」の飛行場も大砲も伊江島を守らなかった。
日本軍は城山を主陣地に、壕内で息をひそめた。その弱小な戦力を補うため、本部半島に設置の大砲2門に伊江島の防衛を頼る、との計画になっていた。ところが本部半島の日本軍は … 4月16日に早くも敗退した。米軍の伊江島上陸と同じ日だった。期待の大砲は一発も撃たないまま、米軍に破壊された。
苦境の伊江島日本軍は、急造爆雷で米軍戦車に抵抗した。木の箱に火薬を詰めて抱え、タコ壺にひそんで接近する戦車との間合いを計り、マッチで導火線に火を付け、タコ壺から這い出して突進し、戦車の車体下に爆雷を放り投げる。「肉弾攻撃」と呼んだ。
《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 101頁》
1945年の沖縄戦で、米軍が捕獲した日本軍の梱包爆弾。木箱に爆薬を詰め、荒縄で縛った手製の兵器で、簡単な構造の起爆装置も付いている。米軍戦車を狙い、自爆攻撃に利用されたとされる
竹槍と急造爆弾 - 「やけ気味」の抵抗
4月16日の夜、日本軍は第305連隊第3大隊に総攻撃を加えてきた。それはまったくやけ気味な攻撃ともいうべきものだった。彼らは、迫撃砲や70ミリ砲で装備しており、そのほかに小銃、竹槍をもち、さらに袋には手榴弾を入れ、また箱の中に砲弾から抜きとった火薬をつめて身体ごと体当たりするような爆薬箱を文字どおり幾百ともなくもっていた。日本兵は少数のグループをつくって米軍陣地に忍びより、極めて近距離から爆薬箱を投げたり、あるいはまた箱を抱えたまま陣地内におどり込み、米兵を道づれに自爆しようとした。
この〝人間爆弾〟のなかには成功したものもあったが、しかし、大方は近づくまえにすでに射殺されていた。米兵のなかには、爆薬箱で自爆を遂げた日本兵の片脚が飛んできて腕をへし折られたものもいた。
暗中にくりかえされた肉弾戦が何時間かたって日本軍が退却したとき、第3大隊陣地内やその周辺には日本兵の死体152をかぞえた。第305連隊の第1大隊はたとえ小数の敵軍とはいえ、いくども肉弾戦をくりかえした。』(151-152頁)
そのとき、住民は・・・
伊江島
小学生の証言
一九四四年(昭9)十月十日の空襲のとき、私は国民学校高等科の二年生だった。それ以後、わたしは学校へ行っていない。毎日が、飛行場建設や陣地構築に明けくれたからだ。当時、伊江島の民家には、必ず各戸一名の徴用割当があり、私の家では、私がそれに出たのである。私は、主としてグシク山の陣地掘りの作業に従事させられた。石油ランプを灯した地下の作業で、鼻の穴がまっ黒になるような労働だった。
3月23日未明、空をおおう大編隊の空襲で焼夷弾が雨のようにばらまかれ、伊江島は猛火になめつくされてしまった。その日から毎日激しい空襲にさらされて、軍民いっしょになって洞窟にもぐった。3月25日から艦砲射撃が始まり、4月16日までつづいた。空からは戦闘機と軽爆撃機に、4月1日から16日の上陸開始まで、島内の壕、建物、その他の施設はシラミつぶしに攻撃された。もはや壕はけっして安全な場所ではなかった。直撃弾を受け、多くの命が生き埋めになった。外に飛び出した者は、砲弾や機銃弾でやられて倒れた。壕や洞窟では炊事もできず、生米をかじり、岩からしたたり落ちるしずくでノドをうるおすのがやっとだった。おびただしくふえるシラミに悩まされ、おとなも悲鳴をあげた。子供たちはあまりのかゆみに泣きわめいた。
昭和20年4月中旬ごろ、本部町から伊江島方向を見た様子。米軍の艦隊が激しい砲撃を加えている。体当たり攻撃を試みた日本軍の特攻機が攻撃を受けて海に落ちていく。「米軍が近づく中、食糧を求めて避難先を抜け出し、実家に立ち寄った時に弟と2人で見た様子を絵にした。特攻機が落ちていくのを見てこの戦争は負けると思った。伊江島沖の米軍艦隊 |戦争|NHKアーカイブス
アメリカ軍が上陸した日、私たちの家族は上陸地点に近い西崎の自分の壕にかくれていました。その日の夕方、一団のアメリカ兵がやってくる気配がしたかと思うと、外から壕内に向かって、「イシティチョーン、イシティチョーン」と呼ぶ声がしました。多分「出て来い」という意味の方言を間違えて言ったのだと思います。私たちが、ジッと息をひそめていますと、火焔放射器で火を放ったのでしょう。壕の入口を偽装してあった木の葉がパチパチと燃える音がして、壊内いっぱいに煙が吹き込んできました。余りの息苦しさに、小さな子どもたちが、大声で泣きわめきました。アメリカ兵はまもなく立ち去ったようです。多分、子どもの泣き声で、戦闘員でないことを確めたからではないでしょうか。とすれば、泣き声で助かったようなものです。
捕虜収容所と軍作業
米軍はプロパガンダ用に中央の民間人収容所の写真を多く撮影した。米を炊き、男性収容所軍から作業に出される男たちにおにぎりを配る。
米国海兵隊: Native women bring in rice balls for able bodied men in compound. Mayor is in white shirt with black arm band, he directs all natives. 捕虜収容所の健康な男性におにぎりを届ける女性。白いシャツに黒のアームバンドをしているのは村長で、彼が地元民に指示を出す (1945年4月16日)
米国海兵隊: Able bodied prisoners are fed rice balls made by their women folk. 労働可能で健康な捕虜たちに地元の女性が作ったおにぎりが支給される (1945年4月16日)
米国海兵隊: Natives are brought in from fields where they are captured or found in caves. 捕らえられたり、壕の中で発見されたりして戦場から連れてこられた地元民 (1945年4月16日)
米国海兵隊: Natives being sworn in and issued dog tags. 地元の人々は宣誓をして認識票を発行してもらう (1945年 4月16日)
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