1945年 4月23日 『第1防衛線の崩壊』

南進する米軍

城間(ぐすくま):「アイテム・ポケット」

前日に城間一帯の偵察を強化した米軍は、得た情報をもとに作戦計画をたてた。計画は、日本軍の陣地を攻撃しながら城間南西に位置する牧港飛行場まで進撃するものであり、その作戦を遂行するために特別攻撃部隊を組織した。

『ホワード・ルイス曹長分隊長として12名からなる1分隊がつくられ、ライフル、バズーカ砲、地雷、携帯用火炎放射器などももたせて厳重に装備させた。

23日の朝早く、ルイス曹長分隊をひきつれ、…ふもとの平地に出た。これを、一日本兵が目ざとくみつけ、迫撃砲を撃ちまくった。ルイス曹長は目標をさだめ、そこに兵を走らせた。…岩から岩へ、…丘陵のけわしい先端をよじ登って、日本軍の迫撃砲陣地のおよそ40メートルのところまできた。ここで榴弾が雨あられのように降りだし分隊はもうこれ以上の進撃はできなくなった。…分隊は40メートル離れている友軍の砲兵隊に合図した。

…長距離から日本軍陣地に砲撃を加え、日本軍の機関銃や迫撃砲もこれに応戦した。彼我の砲弾入りみだれ、アイテム・ポケットはいまや炸裂する砲弾、小銃、機関銃でまるで地獄の様相を呈していた。…ルイス曹長は、負傷した兵をつれて引き退がれ、との命令をうけた。』(227-228頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 227-228頁より》 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-27.jpg

米軍が「アイテム・ポケット」と呼んだ城間一帯での行動図

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

 

伊祖(いそ)

22日に伊祖村落一帯に敷設された地雷を撤去し、伊祖村落への道を進撃することができた第106連隊の第1大隊は、大隊の再編成をした東の第105連隊と相呼応するため550メートルほど後方に退いた。

4月23日、第105連隊の第2大隊と交替した第1大隊の先攻2個中隊は、第2大隊が20日に行ったのと同じ戦法で丘陵頂上に到達し、日本軍に奇襲攻撃を加えた。C中隊は、東の峰の端にある丘陵頂上まで達したが、いつのまにか日本軍のまん中にいることに気づいた。ここで激しい白兵戦が展開され、銃剣や手榴弾だけでなく棍棒まで使用しての肉弾戦となった。

ここでの1時間あまりの戦闘で、日本軍は100名以上が戦死したが、ジョンソン曹長のごときは、1人で30名以上の日本へを倒すという、はなばなしい奮闘ぶりを演じた。ある時は、彼は地面にとび降りたところ、まわりに12名もの日本兵がいるのを発見し、自動小銃で8名をうち倒し、銃床で4名を殴殺するという奮闘ぶりだった。

浦添丘陵の西の峰の戦いは、4月23日の夜、突然、終わった。夜半になるちょうど1時間前、前日まで、昼でも夜でもたびたび合図のラッパを吹いていた日本軍のラッパ手が、集中ラッパを吹くや、30名からなる日本兵が、〝バンザイ〟を叫びながら、壕の中から飛び出し、まっすぐ伊祖の南に塹壕を掘っていた第106歩兵連隊の第1大隊の前線に突貫してきて、この日本軍はついに全滅したのである。』(267-268頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 267-268頁より》

  

嘉数(かかず)

22日に米軍は、嘉数陣地の日本軍を一気につぶすための特攻隊を編成した。

『この部隊は、第27師団副師団長ブラッドフォード准将の指揮下におかれた。いわゆるブラッドフォード特攻隊である。23日に作戦準備はすべて完了し、部隊は位置につき、翌日の攻撃にそなえた。』(272頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 272頁より》

 

西原(にしばる)

21日に西原村落の占領を任された部隊が苦戦し兵力が半減したため、米軍は、別の部隊と交替させた。交替で入ってきた部隊は、被害の少なかった部隊と共に22日、中隊2個が西原村落の占領することに成功し、143高地に対面する高台も奪取した。しかし、別の中隊2個は日本軍の猛攻にあい前進できないでいた。

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 9]

4月23日、装備したブルドーザーがきて谷間を埋めたので、はじめて第763戦車大隊B中隊の中型戦車がここを渡り、丘に登り、棚原丘陵に直弾をあびせることができた。攻撃には火炎放戦車隊装甲車が、かなりの成果を収めたにもかかわらず、歩兵の進撃はあまりかんばしくなかった。高台の日本軍は、頑強に陣地を固守して、米軍の進撃にたいしては、手榴弾爆雷を抱えての、決死的な反撃でのぞんだ

4月23日の夜西原ー棚原戦線は突破できそうだということが明らかとなった。4個大隊がいまや稜線上にあり、高台という高台を全部占領した。あとはただ棚原丘陵と、嘉数の向かいにある西原丘陵最西端だけが残っているだけだった。』(259頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 259頁より》

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岩山を火炎放戦車で攻撃する米軍

ROCKY CRAGS west slope was attacked by flame thrower tanks shortly before capture of the point shown above.

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第32軍の動向

北部戦線

野岳(たのだけ/タニューだけ):第3遊撃隊、国頭支隊

宇土大佐の国頭支隊は、拠点としていた八重岳や本部半島一帯を米軍に占領された4月中旬、ゲリラ戦に特化した第3遊撃隊(別称:第1護郷隊)の拠点、多野岳へと後退し始めた。移動は夜間に行ったとはいえ、総勢1000人の隊列は米軍に察知されており、途中、何度か攻撃されながらも前日の22日、出発から約一週間かけてようやく多野岳に到着した。しかし、米軍がこれを見逃すことはなかった。

『…4月23日頃には、本部半島から撤退した部隊と運天港の海軍部隊がタニュー岳に合流し、混雑をきわめていた。彼らは食糧を持たないで撤退したため、避難民の食糧を奪う事が何度も起こった。

《結成50周年記念「恩納村民の戦時物語」(恩納村遺族會) 112頁より》

23日朝から、トンボが、盛んに多野頂上上空を低く飛び爆撃が繰り返され迫撃砲弾が射ち込まれた

迫撃砲や艦砲が射ち込まれるたびに、山中の樹々は、裂け飛び、散髪されたように、幹や枝を払われ、山腹の陣地小屋は、上空に露出してしまった

第3遊撃隊本部の山小舎は吹っ飛び、残った常鎮(既教育兵をそう呼んだ)が、銃と、手榴弾と、竹槍を携げて斬込みにでかけた。』(312-313頁)

『砲撃の白煙のうず巻く山中に、急に雨が降り出した。灰色によどんだ雨雲が、濃いガスとなって、深い谷間に漂い出した。…遠く南の空が赤く燃え、艦砲の音がドシンドシンときこえた。』(313頁)

多野の頂上には、しだいに米軍の陣地ができ始めた。山中は昼になると、けたたましい銃砲声が轟きわたり、思わぬ近距離から、機銃弾がほとばしった。…この騒ぎの中に、宇土大佐は、多野岳を抜け、もっと北へ退がろうときめていた。各隊からは、「固まらずに、隊別に行動した方がよい」という意見が出たが、宇土大佐はこれを押えた。』(314頁)

頂上では、戦闘が行われ、日本軍は、わずかに、擲弾筒で応じた死傷者が続出した。になると、残余の兵力をまとめて、各隊は整列をおえた。重傷者は、山中に残すことになっていた。宮城兵長は経理部の機密書類を焼き、公金を谷間に埋めた。部隊が整列しようとすると、死体が足に絡まった。死体は、整列の場所をあけるため、抱えて藪の中に投じられた。兵隊達が持ち切れぬために捨てた米が、谷川の底に白くうずまった。谷をふるわせて、手榴弾の炸裂する音がきこえた。「何だ、敵襲かァ」「違います。重傷者が手榴弾で自爆しました」これらの声が密林にうつろに響いた。』(314頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 312-313、313、314頁より》

 

中南部戦線

第1防衛線・中央戦線からの撤退

4月23日までに日本軍の防衛戦はあっちで敗れ、こっちでくずれ、ついに多くの崩壊線を出し、しかも残った陣地の痛手はひどく、まったく使用にたえなくなったため、こういう陣地に永らくたてこもっても不得策だと思って、…撤退した』(274頁)

『前線の日本軍将兵がいかに落胆し、また何に望みを託していたかは、嘉数ー西原戦線で戦った日本軍の一兵隊のつぎの日記によっても明らかにされている。4月23日、米軍が最後の攻撃を試みた日、彼はつぎのように綴っている。

「敵上陸以来、すでに一と月になんなんとするも、熾烈なる戦闘まだ昼夜を分かたず。敵の物量は驚くべきほどなり。わが軍一発撃てば、敵は少なくとも十発をもって報いること必定なり。友軍機ついに一機も機影を見せず。もし飛行機われにあらば、たちまちにして勝利を収めん。ああ飛行機!」』(274頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 274頁より》

 

東部戦線: 第24師団第22連隊

4月23日、日本軍第24師団の第22連隊が首里防衛線の東部を奪還して、第62師団と連絡をとった。それまで三週間にわたって米軍の猛攻をうけていた第62師団にもついに救援がきたのだ。同師団の兵力は減る一方で、残存兵力も少なくなっていたので、第22連隊の進撃はまことに救いの神であった。

日本軍の第24師団と第62師団の境界戦は、いまや第62師団が前線の西半分に集結したので、だいたい首里北方から西原村の幸地と棚原の線までのびていた。第32軍のこの両師団は、だいたい宜野湾街道を境にしてそれぞれ兵を配置した。前線の部隊配置がえ4月23日の午前11時を期して行われた。第24師団の新たな展開を指示した命令は、「とくに幸地近くの第62師団との連絡部隊は強固に守らなければならぬ」と述べてあった。

日本軍の第22連隊の防衛線は、東海岸から北西の方向へ我謝、小波津、翁長、幸地村落を通っていた。第24師団の残りの部隊は予備軍として、首里の北東方や小禄一帯に配属されていた。』(280頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 280頁より》

 

軍司令部

米軍は、沖縄本島南部の知念半島沖から上陸を試みるそぶりを見せる陽動作戦を繰り返していたため、軍司令部は南部一帯に布陣する部隊を前線に配備してこなかった。しかし、第1防衛線での死闘が続き、兵力を補う必要が生じた。米軍が南部から上陸することはないと判断した軍司令部は、4月22日、南部にいた部隊を北上させる命を出した。

『…首里の存亡を賭けて日米両軍の正面からの激突は、まさに始まろうとしていた。ところが、守備軍首脳のあいだでは、全軍を挙げて総反撃に打って出るか、それとも北上させた部隊を「戦略持久」のために第2線に布陣せしめるかをめぐって、意見の対立がおこった。

長参謀長や若手参謀たちは、全軍を投入して総反撃に転じる機は熟したとして極力、攻勢に出ることを主張した。ところが、作戦参謀の八原大佐は「さいごまで持久戦をつづけるべきだ」という持論をのべて譲らず、何度目かの対立をみせた。』(118-119頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 118-119頁より》

 

 

真実を伝えない日本メディア

沖縄本島に無血上陸した米軍。その三週間後には、中北部地域を手中に収めていた。しかし、4月23日に放映されたニュース映画「日本ニュース」は、沖縄戦の状況をつぎのように伝えた。

『敵艦載機、沖縄島に来襲。3月中旬、有力なる敵機動部隊、南西海域に遊弋して、沖縄上陸の企図はいよいよ明らか。

カーチス・ヘルダイバー、はるか慶良間列島を臨む我が飛行場施設を攻撃。

俄然(がぜん)、アメリカはその全艦隊を挙げて、まず慶良間列島に来襲。4月1日、沖縄本島南部地区に、また7日、北部に上陸。1400の敵艦船蝟集(いしゅう)する沖縄の戦局。沖縄こそ、決戦場。ここに全力を傾倒する敵兵力を一挙にたたく神機は来た。南西海域へ、敵機動部隊の撃滅。陸軍特別攻撃隊の若武者たちは、軍神加藤少将の像の前に、敵撃滅を誓って陸続、南海へ進発。

真(まこと)、沖縄こそ決戦場。我が特攻隊の怒りは敵艦隊の頭上に炸裂(さくれつ)する。敵艦船轟沈(ごうちん)、既に数百隻。しかも敵の戦意はなお熾烈(しれつ)。国運を懸ける沖縄決戦に、我が精鋭は敵殲滅(せんめつ)の大攻防戦を展開しつつあり。』(日本ニュース 第250号)

www2.nhk.or.jp

 

 

そのとき、住民は・・・

伊江島の集団自決

一ツ岸ガマ

生存者の証言:

『これはもう上に戦車が待っているわけですよね。アメリカ兵も数十人いたと思いますよ。そこでですね、・・もみな捕虜にとられているわけですよ。21日には。私たちいたところの近辺はまだ捕虜にとられていなわけですよ。こっちは分からなかったのか分からないけど、それでも23日の日に米兵がきてですね、…「民間人は出て来なさい」と言われたわけですよ。そこでですね、出たら大変ということ、出たら日本兵にやられるから、日本兵にまたやられる。だから出ることができないわけですよ。そしてですね、ちょっと割れた穴があるんですけど、こっちから煙弾2個投げられたんですよ。

(親戚が)「いま死ぬから」と言ってですね、後ろに石を積んであるんですけど、この石の中にですね、「こっちに固まりなさい」と言って防衛隊が呼び出したわけですよ。そしてこっちにみんな固まったわけですよね。そして私の父と島袋さんといって、この人は私の門中ではないけど、この方は入らなくて、この24名の中に入らなくて。みんなで26名いたので。この2人はちょっと側で座っていたんですよ。煙弾投げられたものだから、爆雷2つ準備して1つを爆発させたんですよ。』

『そして2つ目を爆発させたらみんな死んでいるわけですよ。私たちも親子はですね、気絶して目が覚めたらですね、だいたい4~5分くらい気絶していたのかこれは分からないけど、目が覚めてみたら周辺が真っ白に、足が痛くて泣き始めたんですよ。泣き始めたらおやじが「安信、生きていたのか」って出てきてですね、この遺体をかき分けて私と母を出したわけですよ。これですね、母はこっちに動けないんですよ。顔もあっちこっちに細かい傷で、耳も聞こえないもんだから。』

『もうみんな死んでいるもんだから、ただ、頭がですね、5個転がっているだけでですね、イエイチさんは当時私より2級先輩だったが、この人の頭だけは顔が分かりよったわけですよ。』

www2.nhk.or.jp

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail41_01_img.jpg

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail41_02_img.jpg

沖縄戦の絵】伊江島「集団自決」

4月23日、壕の外に出てくるよう呼びかける米兵の声が聞こえてきた。しかし「捕虜になればみんな殺される」と聞かされていた壕の中の人たちは、出て行くことができなかった。真ん中に立っている防衛隊員の男性が「皆で一緒に死のう」と呼びかけ、壕の中の人々は男性のもとに集まった(1枚目の絵)。この直後、男性が爆弾を爆発させ、22人が一瞬のうちに命を落とした(2枚目の絵)。母に抱かれ…爆発で崩れた岩に首まで埋まったが一命を取り留め、助け出された。 …「集団自決」の真相を知ってほしいとの思いから、自決直前の壕の中で肩を寄せ合う親せきたち1人1人の様子を絵にした。

伊江島「集団自決」 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月23日