オリンピック作戦 - 九州の偵察と空中写真 / 「赤とんぼ」布張りの特攻機 / 日本兵の戦闘疲労症 / 戦争と人間の心
米軍の動向
「オリンピック作戦」次は九州だ
アメリカは鹿児島上陸を11月1日に設定していた。
統合参謀本部は1945年5月、この二つの相反する見解を併せて一つの戦略計画に盛り込んだ。封鎖・爆撃戦略については、1945年11月1日まで継続および強化することを承認した。この時点では「ダウンフォール作戦」というコードネームのもとで、2 段階による日本本土への初回進攻を開始することになっていた。第1段階の「オリンピック作戦」は1945年11月1日に開始し、第 6 軍が本土南端にある九州の南部約 3分の1を掌握する。ここで第 2段階を支援するための空軍および海軍基地を確保し、暫定的に1946年3月1日に予定された第 2 段階の「コロネット作戦」で、3 個軍を投入して東京・横浜地域を占領するというものである。
リチャード・B・フラン「アジア・太平洋戦争の終結 ― 新たな局面―」PDF
爆撃機と写真偵察機
7月から8月にかけて米軍は情報収集と(米軍側の) 犠牲予測を含む詳細な解析をおこなった。
【訳】オリンピック作戦とダウンフォール作戦の犠牲者予測は、沖縄戦での経験と、日本軍が日本でさらに多くの人員を動員し、海上封鎖にもかかわらず中国と満州からより多くの舞台を連れ戻すだろうという機密情報に基づき、上昇し続けた。
H-057-1: Operations Downfall and Ketsugo – November 1945, Naval History and Command
米空軍の写真偵察部隊が九州の詳細な空中写真を撮影する。ライトニングの下部に設置されているのが空中写真撮影機材と思われる。
米空軍: Lockhead P-38 ”Lightning”, 28th Photo Reconnaissance, preparing to land on Yontan Airstrip, after completing a photo mission somewhere over Kyushu, Japan. Okinawa, Ryukyu Retto【訳】九州での写真撮影任務完了後、読谷飛行場へ着陸態勢に入る第28上空写真偵察中隊ロッキードP-38ライトニング。1945年7月29日撮影。
日本軍が建設した飛行場から本土の空爆に出向く。
7th Air Force Consolidated B-24 ”Liberator” of the 11th Bomb Group, enroute to bombing mission over Kyushu, Japan. Okinawa, Ryukyu Retto.【訳】九州上空での空爆任務へ向かう第7空軍第11爆撃群のコンソリデーテッドB-24リベレーター。沖縄。(1945年7月29日撮影)
日本軍の動向
「赤とんぼ」- 布張りの特攻機
こうして日本が空襲の嵐となるなか、次々と送りだされる特攻機。台湾の基地を飛び立った木と布張りの練習機「赤とんぼ」が、7月29日、慶良間沖で米戦艦キャラハンに自爆攻撃。これが航空特攻の最後の「戦果」とよばれている。
7月27日、台湾の竜虎海軍基地で、三村弘上飛曹以下7名、計8名に、特攻命令が下りました。7月28日の早朝に台湾の新竹基地に到着。そこで彼らに「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。そして直ちに宜蘭基地を経由して、石垣島へ転進、石垣島から宮古島へと移動しました。
なぜ、このように小刻みに移動しなければならなかったのか。本来なら台湾から慶良間まで真っ直ぐ飛べる距離です。ところが第三竜虚隊の乗る飛行機は、もともと練習機として採用されたもので、躯体は木でできていており、翼は布張りで鋼管フレームの複葉機でした。練習機だったので目立つようにオレンジ色に塗装されていました。そのイメージから「赤とんぼ」と呼ばれ隊員からは親しまれていました。もちろんこの時局において特攻仕様として機体を濃緑色に塗られています。
赤とんぼでは目的地まで到着することも困難であったと証言する航空隊の教官。
航空隊の教官の証言
あれはもうね、特攻に使っても速力が遅いし、ね。機銃も全然積んでいないし。防御も全然ない。あれはもうただ行くだけですわ。行く途中で全部落とされてね。しまいに訓練するのがしんどかったです。こう言ったらいかんけどね。したってあかん。向こうまで到達するまでに全部落とされる。練習機なんぼあってもあかんのです。
… 付いとるのは爆弾だけで。下のな、腹。飛行機の下にな。… その爆弾は不時着しても爆発するで。… それで最初はね、爆弾はね、引き手を引けば落ちよった。しまいにはくくっておったで。落ちないように。というのは、落として不時着する人間が多いために、もう不時着しても爆弾が爆発するようにな。こんな太いロープで縛っておった。縛って、飛行機に縛り付けておったもの。
米駆逐艦キャラハンへの特攻。
…1945年の6月下旬、台湾の虎尾基地で編成された第三龍虎隊。九三中練と呼ばれた小さな練習機に可能な限りの爆弾を積んで、最後の特攻攻撃をするための部隊でした。
部隊は一度宮古島に移動し、28日の夜に7機が出撃。沖縄近海でアメリカ軍の駆逐艦キャラハンに特攻攻撃を行いました。
アメリカ海軍の資料によると29日午前0時30分ごろ、特攻機は船の右舷に突っ込み爆発。後部の機械室などが破壊されたほか、機雷が爆発し、駆逐艦は2時間後の午前2時35分に沈没。アメリカ兵47人が死亡、73人が負傷しました。キャラハンは第二次大戦で神風特攻隊が撃沈させた最後の艦船でした。
このように、日本軍は布張りの練習機まで特攻に使用して特攻計画を継続した。十代の若者たちはほとんど練習も十分ではなく、機体は古い練習機、そのほとんどが目的地までたどり着くこともできず、出撃したものたちで突撃信号を打ってきたのは数パーセントでしかなかったという。
【沖縄戦の絵】「特攻機に拍手」
金武町の収容所の高台から特攻機を見ていた光景。昭和20年の7月から8月ごろ、同じ年ごろの子どもたちと遊んでいた時、ふと金武湾を見渡すと、日本軍の特攻機が米軍の艦船に突っ込んでいくのが見えた。海上から火柱が上がり、…子どもは「命中だ!」と手をたたいて喜んだという。「日本軍はまだ頑張っているんだ」と、捕虜になっても戦争に負けるとは考えなかった。…はしゃぎようを見て、軍用車に乗って見回りに来ていた米兵は怒っていたという。
第32軍の敗残兵 -「寝台の下から敵がきた!」
多くの兵士が沖縄の終わらぬ戦場を生きていた。
国吉台地の歩兵第32連隊第1大隊・伊東孝一大尉
ある日の昼間、飛行機の爆音が友軍機に似ている、と皆が言いだした。あるいは制空権を一時的にでも日本軍が回復したのではないか。伊東は昼間、斥候を出して調査したが、すべて敵機だった。そして壕の外は米兵がうようよしていた。もう駄目だと思いながらも、心のどこかで何かの奇跡を願う、妄想にも似た気持ちを誰もが持っていた。壕の近くにいた兵が、突然叫び声をあげながら小銃を発射した。
「敵がきた!敵がきた!俺の後ろにいる。寝台の下から敵がきた!」
その喚き声に、伊東もまた本当に敵が侵入してきているのではと錯覚しそうになった。この兵は、日々の恐怖が高じて精神錯乱を起こしたのだった。伊東は、彼の小銃と手榴弾を取り上げ、戦闘の影響が少ない壕の奥へと追いやった。
《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 263頁より》
米軍は第一次世界大戦から継続して戦闘疲労症に対応して向きあってきた。沖縄に専門医を派遣して第87野戦病院を設立し、また田井等民間人収容所の真喜屋に精神科病棟を開設した。宜野座の米海軍病院 (G-6-59) を調査したマロニー少佐によれば、日本側の「通常、 戦場地で多発するショック反応、 いわゆる戦争トラウマの発症は、 驚くほど低い」とあるが、沖縄戦の証言を見る限り、兵士、民間人のショックによる戦場徘徊、兵士の戦闘疲労症の各種の症状、スパイとして処刑された精神障害者および精神的に不安定となった人々の例を数多く確認することができる。日日本兵の戦闘疲労症は「見えない存在」とされ、また、足手まといとみなされ、スパイとして見せしめに処刑されていたのである。
沖縄戦における日本軍兵士の戦争神経症に関する調査・研究が皆無なこともあり、戦闘中にどの程度の急性反応的な精神疾患が発生したかは不明であるが、「第二次大戦での精神障害の中で戦争神経症の占める割合は日本21%、ドイツ23%、米国63%であり、米国が抜きんでて高い割合を示すことが指摘されている。(一ノ渡尚道・井上泰弘「シェル・ショックとは何か?)
一方、戦前・戦中期を通して日本の精神医学界は、戦争神経症についてほとんど研究をしておらず、「鍛えれば強くなる、報国の集団心理によって死の不安は解消すると単純に考える帝国陸軍から見れば、戦争神経症という概念は余分なものでしかなかった」(野田正彰『戦争と噛罪』)という指摘もある。(27頁)… 反面、こうした理不尽で無慈悲な戦闘にあって、多くの兵士は戦争神経症の症状を呈している。それはけいれん発作であったり、歩行障害、半身不随、失語、自傷であり、さらには夜驚症、驚樗反応、不眠等であった。
《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(2002年) 27-28頁》
脳症患者は、頭がいかれているので自分の傷の痛みもわからなくなり、重症で寝ている人の上を平気で歩き回って暴れる。「こいつどこかへ連れていって」と言うと、衛生兵が来て壕の奥へと連れて行った。
《青春を語る会編「沖縄戦の全女子学徒隊」フォレスト社 (2006年) 100頁 》
その前に、兵隊が、ちょっと、頭が変なのがいるでしょう、そんなのをつかまえて、全部よくやるのを見たんですよ。やっぱり注射してから一時間くらいですな。
日本軍は十代半ばの学徒を通信隊として分散させ戦場に送り出したが、それは恐ろしい数の戦死者数を出すだけではおさまらなかった。
急造爆雷を背負わされる工業高校学徒隊
爆雷出陣が始まると、学友の中から次々戦死者が出た。恐怖のあまり気が狂った学生も出た。「壕内でわめいたり、銃弾が飛び交う中で、踊ったり。かと思うと壕内のすみでじっと身を伏せていました」と長嶺さん、小川さんは語る。… 撤退時には、壕が米軍に使用されるのを防ぐため、壕の入り口を爆破する。しかし、司令部壕には発狂した学友が閉じ込もり、決して出てこようとはしなかった。仲間がかついで外に出しても、暴れてすぐに壕に戻ったため、仕方なく、生きた学友を壕に残したまま、壕は爆破されたという。
またシェルショックで壕から路上に飛び出す、戦場を徘徊する、などで砲弾にあたり犠牲となった者たちも多かっだけではない。壕を訪ね歩いただけで住民がスパイとして処刑された戦場では、精神的に不安定になっただけで、次々と「スパイ」として処刑されたと思われる。
「スパイ」として処刑された障碍者
沖縄戦証言では、日本軍が精神障がい者や、戦場で精神的に一時的に不安定な状態に陥った人々をスパイとして処刑した例が数多く確認されている。
歩哨の玉城上等兵が語ったところによると、『挙動不審な50年配の男が付近をうろついているので、尋問したら、応答の態度から常人と異なっているので精神障害者と判断し、水を求めていたので、飲ましてから追い返した』とのこと。この話が坂口大尉の耳にも入ったようで、私は坂口大尉から呼び出しをうけた。『不審人物を何故連行して来なかったか。このような不審者は、たとえ精神障害者でも射殺すべきであり、歩哨の取った措置は適切ではなかった。衛兵司令の監督不行き届きだ』と、激しく叱責された。…
… Aさんは軍司令部が坂下にあったころ、副官部に勤めていた軍属であった。同僚としてつきあっていたこともある真面目な青年であった。4月中旬ごろ、独立混成第44旅団の兵隊によって連行されてきた。彼を見て我々は驚いた。精神に異常をきたしている人だな、と直感したが、取り調べに当たった将校は、どう感じたか知らない。将校は聞いていた。『君は確かに運玉森付近で敵に発火信号を送ったのか』.しかし、彼はとりとめのないことをいいながら、肯定するような態度をとっていた。側で見ていた当間軍曹は『ほんとうにやったのか、嘘だろう。正気になってほんとのことを述べなさい』と必死になって諭しているのに、ただ虚ろな眼差しをして、いわれるままに肯定しているような態度を取っていた。ああ-、いかんせん、彼は正気に戻らずそのままスパイとされた。スパイ容疑者のほとんどは、戦争恐怖症からきた精神異常者 (精神障碍者) であり、なかには、尋問された場合、オドオドしてまともな返事ができないばかりにスパイにされた。首里記念運動場の地下には、数人の人々がスパイとして処刑されたようだ。
《濱川昌也『私の沖縄戦記』那覇出版社 (1990年) 133頁 from 保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(2002年) 34頁》
「こいつらは、波之上の陣地周辺を徘徊していた怪しい者で、スパイの疑いがあるので引っ張ってきた。厳重に取り調べ、処刑してほしい!」と、その中の下士官が署長に言った。… この浮浪者たちは、もともと波之上あたりから辻原一帯の墓地や洞窟の住人であった。部隊は彼らの安住の地に、砲をすえ、陣地を構築して、彼らを追い出したのである。
《 山川泰邦『秘録沖縄戦記』 (1969年) 》
八原高級参謀も記す4月頃の司令部壕「女スパイ」虐殺の例はもっとも有名なものだろう。八原は精神に混乱をきたした女性と知りつつ敢えて助けようとしなかった。
「スパイの末路、見せしめだ」と言うや否や、女めがけて刀を大上段から振り下ろした。「パシッ」という音と共に女は首垂れ、声を立てなくなった。(中略)やがてあの斬殺された女の話が伝わって来た。狂女は頭に風が湧き、髪を切られて風呂敷を頭に巻いていた。家族の制止も聞かず、猛爆下を浦添の墓から飛び出したというのだ。「墓に入ることは後生(グソー)を汚すことだ」と喚きながら・・・こうして洞窟から洞窟へとのぞき回り、方言でまくし立てる坊主頭の狂女をスパイとして捕らえたのである。
《渡久山朝章『南の巌の果まで』文教図書 (1988年) 93頁》
「スパイ」という言葉で追われる精神障害者
米軍が沖縄に上陸して間もない、四月はじめのある夜──。兵隊たちが、ぼろを着た数人の男と三人の女を、繁多川の洞窟(那覇警察署警備隊本部)に連行してきた。「こいつらは、波之上の陣地周辺を徘徊していた怪しい者で、スパイの疑いがあるので引っ張ってきた。厳重に取り調べ、処刑してほしい!」と、その中の下士官が署長に言った。これを聞くと、署員は苦笑いを禁じ得なかった。一見して彼らが精神を病んでいる者だとはだれの目にも明らかだった。この浮浪者たちは、もともと波之上あたりから辻原一帯の墓地や洞窟の住人であった。部隊は彼らの安住の地に、砲をすえ、陣地を構築して、彼らを追い出したのである。鳥や獣が自分のねぐらに帰るように、浮浪者たちもまた、鉄火のあらしの中を住み慣れた穴ぐらを求めて、さまよったのであろう。
そこで刑事たちが、「この大将たちは、町のごみ箱あさりをしている精神病者です。スパイのできる大それた者でない。すぐ釈放したい」と話したところ、兵隊たちは「ぼろを着て精神病者のまねごとをしているが、怪しいもんじゃ。警察で厳重に取り調べて監禁するか、銃殺にするか、処分は警察にまかせる」といって、帰っていった。
《『秘録沖縄戦記』 (1969年) 山川泰邦 》
そのとき、住民は・・・
米軍による民間人収容所の運営
民間人収容所運営という難題に米軍はどう対処したのだろうか。
太平洋でこれほど多くの敵民間人を管理する任務にアメリカ人が直面したことはこれまでなかった。
アメリカ米軍が指名した「メイヤー」や「班長」は収容所で大きな権限を持った。
その日(4月中旬頃)に私は「捕虜」になりました。「捕虜」になってから、最初に座波嘉数という所に連れて行かれました。そして、その日、夜の十時頃から、宜野湾の野高の方へ移動させられました。野嵩の捕虜収容所は、テントの木の葉を敷いただけの簡素なものでした。それに、そこは水もなく不潔な生活をしていたので、盛数が腸チフスに感染してしまい随分苦労しました。また、ここでの生活で一番恐かったことは、そこの収容所には沖縄人の班長がいて、その班長に虐待されたことです。その班長は、皆から恨まれていて、私も、あまりの憎さに殺してやりたいと思った程です。
その後、野嵩の収容所は水がないということで、私達は山原 (やんばる) の方へ移動させられました。その頃、夫は捕虜となってハワイに連れて行かれていたので、生きているのか死んでいるのかということもわからず消息は全然つかめませんでした。
Native nurses and Navy corpsman administering typhoid shots on Okinawa.
地元看護要員と海軍衛生兵が、腸チフスの予防接種を行っている様子。沖縄本島にて。(1945年7月29日撮影)
Boys carrying bags of rice on Okinawa. On a cart. 【訳】袋に入った米を運ぶ少年。沖縄本島にて。カートに載せて運ぶ様子。(1945年7月29日撮影)
Natives storing bags of rice on Okinawa.【訳】袋に入った米を倉庫に納めている地元民。沖縄本島にて。(1945年7月29日撮影)
北東部の収容所 - 瀬高・大浦崎収容所
中南部と本部半島の集中的な基地建設に伴い、多くの住民が瀬高・大浦崎収容所に移送された。しかし収容所の食糧事情は劣悪で、収容所から本部まで食糧を探しに行かなければならない状況だった。
厳しい表情で「対話集会」にのぞむ住民たち
Town hall meeting in progress at Hinoko [Henoko], Okinawa.
対話集会が行われている様子。沖縄本島の辺野古にて。(1945年7月29日撮影)
Town hall meeting in progress at Hinoko [Henoko], Okinawa. U. R. Marxmiller, CM2/c, Lt. PM Denning and Lt. Cdr. R. C. Brinker. 【訳】話集会が行われている様子。沖縄本島の辺野古にて。写真に写っているのは、マークスミラー1等船匠手、デニング大尉、ブリンカー少佐。辺野古 (1945年7月 29日)
瀬嵩を中心とした大浦湾一帯の難民の数は毎日のようにふえました。南部の戦争は7月には実質的に終わっていましたが、生き残った住民はいくつかの収容所を経て、汀間・瀬嵩・大浦・二見などの瀬嵩地区にどんどん送りこまれてきました。いままでの部落は、それぞれ汀間市・瀬嵩市・大浦市・二見市などと呼ばれました。この地区には、なんと中南部の30余の市町村民が収容され、瀬嵩市那覇村、瀬嵩市具志川村などというものもできました。
《「島マスのがんばり人生 基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 71-72頁より》
The mayor of Kayo, Okinawa, his secretary interpreter and several natives.
嘉陽の村長、彼の秘書兼通訳そして地元民数名。(1945年7月29日撮影)
Local ration board at Kayo, Okinawa. The old man is marking down the amount of rice and oil given to each person. 【訳】地元の食料配給所。沖縄本島の嘉陽にて。年配の男性が、各個人に配給される米と油の量を書き留めている様子。(1945年7月29日撮影)
山城さん一家は3月下旬~4月上旬ごろに米軍の空襲が激しくなった伊江島を舟で逃れ、対岸の今帰仁村の洞穴を転々としているうちに捕虜になった。(大浦崎) 収容所の環境は過酷で、米軍の食糧配給はわずか。大人たちはひそかに山を越えて畑に残った芋を探し、5歳だった山城さんの腹は栄養失調で膨れあがった。
幼い記憶に、外で空き缶をたたいて大声で叫んでいる人のことが強く残っている。父に理由を尋ねると「戦争で狂ったんだ」と言われた。「木に首をつって死んでいた」「マラリアで亡くなった」。そんな話も度々耳にした。「収容所で多くの人が亡くなり、山に埋められたはずだ」
収容所の閉鎖後、米軍は撤退し、周辺は地元の耕作地となった。だが、55年に米軍は当時の久志(くし)村に一帯の土地接収を通告。村は使用契約を結ばざるをえず、59年にキャンプ・シュワブが完成した。
沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集を続ける那覇市の具志堅隆松さん(65)は2013年ごろから、県や在日米大使館にシュワブ内での遺骨調査を求めてきた。「大浦崎収容所で埋葬された人の遺骨は、今も大半が残っている可能性が高い」
※ キャンプ・シュワブ内の遺骨調査は基地内のため、遺骨調査や埋蔵文化財調査等はほとんど進展していない。
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