〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月28日 『嘉手納飛行場から厚木へ』

進駐軍先遣隊の到着 / 震洋隊の投降 / 捕虜収容所 高級参謀から学徒兵まで / 元日本兵を殺す敗残兵 / 引き離される家族

 

米軍の動向

降伏文書調印式までの動向 (2) - 嘉手納から厚木へ

8月10日ポツダム宣言受諾の決定は、11日には世界を駆け巡る。15日に日本で敗戦宣言が行われた。27日、進駐部隊をのせた連合軍の艦船が相模湾に集結し、28日には嘉手納飛行場から神奈川の厚木飛行場へ先遣隊が到着した。

連合軍が初めて日本本土に進駐したのは、昭和20年8月28日であった。この日、連合軍から指定された神奈川県厚木飛行場は、前夜から周囲を三重に取り巻く警戒態勢の下に置かれていた。

連合軍先遣隊の到着は午前9時の通告を受けている。しかし午前7時30分には飛行場の全員が待機の配置についた。飛行場中央を南北に走るコンクリートの主滑走路の東側、中央部分の草地には、鉄パイプを組んだ幕舎が建っている。本部と控所、接待所等6ヵ所の天幕が滑走路に面して張られた。本部には日本政府と大本営陸海軍部から任命された厚木委員長有末精三陸軍中将以下、陸海軍、外務省、大蔵省等の厚木委員会の委員が詰めていた。

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 13頁》

飛行場は片づけられていた。コンクリート滑走路も、区分けして竹ぼうきの清掃が行われ、小石もとどめていない。飛行場西側区域の建物は、電灯、連絡用電話、ベッド・吊り床の宿泊設備、浴室、水洗トイレ、給湯給水から窓ガラスの1枚にいたるまで完全に整備、清掃が終わっていた。飛行場に面した格納庫も倉庫も、備品は所定の場所に納まり広々と間口を開けていた。

遠来の異邦の人を迎え、飛行場も宿舎も集まった自動車もすべて引き渡す。今朝到着予定の先遣隊は、連合軍総司令部と最高司令官マッカーサーが進駐するための設営隊である。彼らをいかに和やかに迎え、遺漏なく対応しうるか、厚木飛行場の第一印象はこれからの関係に重要であった。有末中将は沖縄から5時間の飛行を続けてくる先遣隊のために帝国ホテルに依頼してジュースを冷やし、ビールとサンドイッチを用意させていた。清掃の終わった将校宿舎には、一輪挿の花が活けてあった。

午前6時半アメリカ艦載機の偵察飛行が始まった。轟音が高くあるいは超低空で絶え間なく響いた。陽はもうかなり高い。この日の気温は最高30度から31度に達する。警戒の部隊は陽光を遮るものもない野外で、占領されるのを待つ忍耐の時間を過ごしていた。

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 17頁より》

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(厚木)飛行場には、残骸もあわせて200機を超える飛行機があるという。これを翌25日中に片づけ、安全に着陸できるようにしなくてはならない。

終戦のご聖断もあわや水の泡!? 日本海軍最強部隊叛乱事件の真相(神立 尚紀) | 現代ビジネス

一方、沖縄の嘉手納基地では軍用食などの積み込みが行われる。先遣隊は食料や飲料水などすべてを持ち込む。毒などの混入を警戒し、日本側が用意したものに手を出すことはなかった。

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A Douglas C-54 ”Skymaster”, Air Transport Command, is being loaded with rations and plane parts by a fork lift truck on Kadena Airstrip - destination, Japan. Another elevator truck with rations is patiently waiting its turn to be loaded on board this cargo plane. Okinawa, Ryukyu Retto.

嘉手納飛行場で空輸部隊ダグラスC-54スカイマスターに軍用食や飛行機の部品をフォークリフトで積み込む ー 目的地は日本。昇降機もう1台分の軍用食がこのあと積み込まれる。(1945年8月28日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前8時過ぎ、厚木基地に先遣隊が到着する。

… 天幕に中にいた有末委員長は西南の方向に爆音が響くのを聞いた。1機ではない。…2機、3機と続く大型の編隊が … 一気に接近してくる。… 沖縄を出た輸送機隊は、相模湾上空から予定の午前9時より30分早く、厚木飛行場に近づいたのである。

… 次々と輸送機から軍装シャツ姿の将兵が降りる。将校たちは待機していた乗用車、兵員は青バスに乗り込んで東側の指揮所に向かって走り出した。先遣隊指揮官 C・テンチ大佐、副官 F・バワーズ少佐の2人が直立し、その前に有末中将が立って挨拶を述べた。

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 189頁より》

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【訳】1945年8月28日の厚木飛行場での連合軍先遣隊。チャールズ・テンチ大佐が有末精三陸軍中将に迎えられる。

ATSUGI AIR BASE

 

琉球列島「降伏」への準備

… 8月26日米第10軍司令官のスチルウェル大将は、9月2日後に琉球列島の全日本軍の降伏に応じるよう作戦命令を受けた。そこで彼は、2日後、宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 227頁より》

 

那覇飛行場の拡張

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旧日本軍が沖縄に建設した15の飛行場

6月4日小禄半島に上陸した米軍は日本海小禄飛行場を接収、拡張する。

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Rosterbout Crane is lifting a steel frame which is part of the roof support of a supply repair hangar for the FEASC (Far East Air Service Command) Depot #9 on Naha Airfield. Construction crews were Air Force personnel taken from several groups to construct this steel frame building. Okinawa, Ryukyu Retto.

那覇飛行場極東空軍第9兵站部の補給修理格納庫の屋根を補強するための鉄製骨組みを持ち上げるロスターバウト・クレーン。この作業のためにいくつかの群から航空隊隊員が集められた。1945年8月28日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

その後、住民の帰村が一部許可された地域もあったが、1953年に再び土地接収が行われる。住民は激しく抵抗した。

小録村村長長嶺秋夫から1953年1月27日に琉球政府に提出された陳情書

戦前の小禄村は総面積3,099,846坪を所有しており、12部落で人口9,000人戸数1,800戸で、文化、経済、教育、その他のあらゆる側面で恵まれ県下でも屈指の裕福農村でありましたが、図らずも去った太平洋戦争の結果、戦前所有していた土地の70,45%(2,182,709坪)を軍用地に使用され、現在ではわずか1,924,277坪しか残されておらず、あまつさえ、人口は14,000に増加し、余儀なく密集生活をしているのであります。*1

1953年12月5日に米軍は武装兵を出動させ、米軍は銃剣とブルドーザーでさらに2.4万坪を接収、広大な米軍住宅地区「那覇空軍・海軍補助施設」を形成した。

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戦後の強制接収で小禄半島は全体として巨大な米軍施設地帯となる。西側 (写真左下) には米軍住宅のサバービア*2 が広がるが、土地を奪われた住民は (写真右下) 周辺の過密集住地域での生活を余儀なくされた。

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米軍施設/那覇空軍海軍補助施設(将校、下士官及び軍属用住宅)(航空写真) : 那覇市歴史博物館

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事件・事故/不発弾爆発 聖マタイ学園 爆発で飛ばされた残骸で穴があいた壁 : 那覇市歴史博物館

 

 

第32軍の敗残兵

第22震洋の投降

8月28日、恩納岳に潜伏していた金武の震洋隊が投降する。

8月下旬、終戦を知ったひとつの部隊が武装解除し、捕虜となります。第22震洋隊です。… 沖縄本島にも2つの部隊が派遣され、金武と屋嘉に配備されましたが敵艦一隻を破壊しただけで、アメリカ軍はすでに西海岸から上陸、金武へと侵攻していきました。部隊は分散して地上戦へと入り、8月までその目的を果たすことはありませんでした。

65年前のきょうは1945年8月26日(日) – QAB NEWS Headline

第22震洋隊部隊長の証言

私の近辺にいた第22震洋隊の生き残った隊員たちは、屋嘉収容所のパトロール隊の勧告を受けて、昭和20年8月28日、ついに下山することにした。金武村中川部落の入口のところで、武装解除を受けることになったのである。

わが方の人数は30名ぐらい。われわれは申し合わせて、武器はすべて山中に埋めて出た。米軍の大尉と数十名の米兵が、ジープとトラックを持って迎えてくれた。米軍大尉は終始にこやかで、私をジープに乗せ、わざわざ金武の飛行場のど真ん中を走って、屋嘉収容所に向かった。金武飛行場には、色とりどりの飛行機が翼を折りたたんで静かに休んでいる風であった。

わが敵は湊川沖に在り 豊廣稔

特攻艇とは、米軍艦隊にべニア板のボートに弾薬をのせ特攻するという日本軍の「秘密兵器」、日本海軍は「震洋」を、陸軍は「マルレ」を開発し配備した。

太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を、一挙にばん回するために開発された秘密兵器、長さ5メートルほどのモーターボート。太平洋を震撼させるという意味で、震洋と名づけられた。船首に250キロの爆薬を搭載し、敵艦に体当たり攻撃をする特攻兵器である。船体を軽くし、量産を可能にするために、ベニヤ板で造られていた。搭乗員として集められたのは、予科練を卒業したばかりの若者たち。戦闘機乗りを志していた彼らを、ベニヤのモーターボートが待っていたのである。

終戦までに震洋の体当たり攻撃で沈んだ連合軍の艦船は、アメリカ側の資料によれば4隻。その一方、命を失った震洋隊員は、基地隊員も含め、2500人にも上る。爆発事故や空襲などで、多くの若者たちが敵艦に突入することなく命を落としていった。

“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~|NHK 戦争証言アーカイブス

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志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれから特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…

海の墓標は特攻艇「震洋」か - 戦跡 薄れる記憶

沖縄島には第22震洋隊(豊廣稔部隊長)が金武屋嘉に50隻の震洋を配備していた。

そらベニヤ板やろ。それもあんた、ベニヤ板を運ぶリヤカーやろ。リヤカーの芯がピクリンピクリンと前が、真っすぐ行ってくれんが。こないギコギコ鳴っとればあんた、真っすぐ行こう言うたって行けるわけがない。それ途中でギコギコってこうやって、ほらこれで動けんわい

これが実態や。そんなもんに乗ってかて戦争せい言うがいで。あんたどう思う。

久保 守人さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

米軍が発見した震洋の秘匿壕、震洋とリヤカー。

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海兵隊: Jap Suicide Boat Base south of Chimu Town on east coast of Ishikawa Isthmus. 金武町の南にある日本軍特攻艇基地 1945年6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

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無邪気な特攻隊員「沖縄の歌を教えてください」 道が通り跡形なくなった出撃拠点 構築に多くの住民動員 | 沖縄タイムス

米軍の激しい爆撃を受け基地を放棄。4月上旬から恩納岳の山中に潜伏していた。もともと海上特攻の部隊には陸上戦の装備も食糧もなかった

そのような情況下で、小銃は五人に一梃(ちょう)、しかも軽機関銃一つ所持しない。海軍の小部隊であるわれわれが、恩納岳に行って何のお役に立とうかと思った。

沖縄の「震洋」~ ベニヤ板の特攻「震洋特別特攻隊」 - Battle of Okinawa

今も生き残った負い目を抱いて沖縄の豊廣部隊の生き残りが敗戦を知ったのは、8月も末近くなってからだった。降伏の勧告を受けた将兵は順次山を降り、捕虜収容所に入った。海で、陸で、豊廣部隊160人の中ほぼ半数の76人が戦死していた。

コレヒドール・沖縄震洋戦概要 豊廣稔

搭乗員73人のうち、亡くなったのはおよそ50人。そのほとんどが地上戦でした。

ベニヤ板の特攻「震洋特別特攻隊」 - Battle of Okinawa

 

 

屋嘉収容所の高級参謀

8月28日、八原参謀はコザキャンプから屋嘉収容所に移された。これはおそらく八原の捕虜尋問調書の完了を意味する。

第32軍の作戦参謀八原博通は、6月26日に民間人になりすまし投降、7月26日頃、取調べ中に高級参謀であることがばれ、越来村の捕虜収容所に一軒家を与えられ破格の待遇で収容されていた。

八原参謀の回想:

8月28日、私は越来村のアメリ将兵に別れを告げて、屋嘉収容所に移った。この収容所はストッケードと称し恩納山の東南麓に位置し東方は金武湾に面していた。… この収容所には、8月以降同年末に至る間、生存者がなおぼつぼつと北方山岳地帯や南方主戦場の洞窟から現れて、その数をふやした。生存者は、アメリカの概して適切な待遇を受けた。将校グループは、なすこともなく日を過ごし下士官兵のグループは、時にアメリカの労役に服した。将校と下士官兵、日本人と沖縄出身兵や朝鮮兵との間に若干のいざこざの生ずることはあったが、大体に平穏な日々であった。

10月ころ、沖縄出身者は国場収容所に移り、また朝鮮兵もいつしか姿を消し、代わりに他島の武装解除部隊の一部がはいって来た。

12月30日、帰還第1陣数100名が、アメリカ輸送船ゲーブル号で牧港を出帆した。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 482-483頁》

将校クラスは優遇され基地建設の軍作業はない。そのため早くに日本に復員できた。

将校クラスは早いですよ、二十年に帰っています。将校は[軍]作業しないからね。 

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

沖縄戦の作戦策謀「八原博通」は、その帰還第1陣として12月30日に牧港から日本に帰還した。むろん、大多数の捕虜の復員が完了するのは二年後の1947年2月である。

 

若い兵士の自殺

捕虜収容所内では、戦闘ストレス反応としての戦闘疲労症、自殺、リンチ、さらには不審死などがあったことも証言されている。

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海兵隊: This disconsolate Japanese prisoner of war sits dejectedly behind barbed wire after he and some 306 others were captured within the last 24 hours of the Okinawa battle by Sixth Marine Divisions. Imperial soldiers, sailors and Okinawan home guard were among those corraled.
打ちひしがれたこの日本兵捕虜は、有刺鉄線の囲いの中でがっくりと座っている。彼を含む306人の捕虜は、沖縄戦終結までの最後の24時間で第6海兵師団に捕らえられた。日本陸軍、海軍、沖縄防衛隊の兵士らがこの囲いに拘束されていた。 撮影日1945年6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

屋嘉収容所: 阿嘉島海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

彼はこの収容所に入った時からすでに強度のノイローゼ症状を呈していた。… どういう理由か、その中で一つ年下である私だけを頼りにし、常々、「俺はお前だけが頼りなのだ、他の者は信用できない、お前が一緒にいてくれないと死んでしまいそうだ」と言い、日中でも私のあとについて廻ったりしていた。他の者と食物のことでトラブルを起こして文句を言われてから後、一層そうした様子が甚だしくなっていた。ある夜中にも眠っている私を起こし、仮設便所(長さ十数メートルもあったが・・)の裏の暗い場所に連れ出し、「俺は駄目だ、もう生きて帰れない」と言った。私は、「もう戦争は終わったんだ、何も心配することはないから、よく眠ることが大切だ」と言ってなだめた。… 2名の衛生兵がきて、彼を連れて行こうとした時にも、激しく拒み、大勢の中で私の腕にすがって大声をあげて泣いた。気の毒には思ったが、私自身衰弱している身では、とうてい彼の面倒をみることはできないので、無理に引渡したのであった。だから〝若い兵隊の自殺〟と聞いたとき、すぐ彼では・・と思ったのである。

30分もすると、〝阿嘉島の特幹がいたらゲート近くの医務室にきてくれ〟と言って衛生兵が廻ってきた。私は、〝やはり彼だったのだなあ〟と、せめて彼の最期をみてやろうかと、フラつく足で出かけていった。

儀同保『ある沖縄戦 慶良間戦記』(1992年) - Battle of Okinawa

 

投降交渉の難しさ -  敗残兵による元日本兵の殺害

米軍は潜伏する日本の敗残兵を投降させるため、初期の時点では投降した日本兵や住民を投降交渉「テテコイ」役として送りだした。デテコイ役は、いきり立つ敗残兵に返り討ちされるリスクが非常に高かった。この時期の投降交渉では、米軍は日本軍の下士官を交渉役として送り出すことが多かった。

<未来に伝える沖縄戦>今も消えない罪悪感 宮平盛彦さん(82)下 - 琉球新報

南風原に潜伏 - 一中通信隊 (電信第36連隊第6中隊へ配属)

当時15歳学徒隊員だった宮平盛彦さんは、殺害の謀議に加わった。「生きて返せば、自分たちの居場所が米軍にばれて殺される、と思った」と当時の思いを明かす。

45年10月、すでに終戦したことも知らず、大人の兵隊6人と南風原町津嘉山にある旧日本軍の壕だった洞窟に身を潜めていた。ある日、「山、山」と合言葉を言い、奥へと入ってくる二人がいる。「戦争は終わった。本土に一緒に帰ろう」。投降を呼び掛けに来た日本兵だった。洞窟の奥で、兵隊たちが話し合い、結論はすぐに出た。「日本が負けるはずはない。米軍のスパイに違いない。生きて返すわけにはいかない」。入り口を土の塊でふさぎ、出ようとした二人を背中から射殺した。宮平さんの耳にも、発砲音は届いた。戦後五十年がたち、宮平さんが新聞に証言したことで、殺された一人が北海道の人と分かった。今も毎年、慰霊の花を手向ける。

東京新聞:4歳「スパイ」の汚名 沖縄戦 渡野喜屋の悲劇:伝言 あの日から70年特集

一中通信隊の宮平さんら11月末になって捕虜収容所に収容される。

そこは9月の初めだから、10月11月、2か月、もうほとんど3か月くらいね、そこにじっとこもっていて、外との情報とかのもほとんどなくて。捕虜になったら確実に虐殺されるという、考え方だけですよね。… それで、やっと11月の末ですよ。僕は23日というふうに今あれですけど、そのころになってね、じゃ出ようと。壕を出ましょうというふうに話がついたわけです。

宮平 盛彦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・

戦争が終わっても切り裂かれる家族

米軍は捕虜尋問を行い、根こそぎ動員で防衛隊に徴用された沖縄人男性や、学校から学徒兵として動員された年少者を捕虜収容所に収容し、学徒兵に対してもハワイなどでの長期にわたる収容所生活を強いた。そのため、長い間、共同体や家族そのものが分断された状態におかれることになる。

なかには幸運にも、収容尋問で学徒兵や防衛隊員であったことを伏せて民間人収容所に入ることができた人もいた。

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「通信隊」として戦場に駆り出された少年。日本兵のたった一言が彼の戦後を救いました。慰霊碑に手を合わせるのは65年前、わずか14歳や15歳で戦場に動員された宮平盛彦さんと井口恭市さん。同じ部隊に所属した2人でしたが、戦後の状況は全く違っていました。終戦を知らず11月の半ばまで南部を逃げ回っていた宮平さん。一方で、8月下旬には既に家族とともに、名護で暮らし始めていた井口さん。それはある日本兵のお陰でした。

井口さん「ある日本兵がこの人たちは学生だよって英語で言うのね。デイアースクールボーイズって」『彼らは学生だ』壕から出て捕虜になった時、そばにいた日本兵が井口さんをかばってアメリカ兵に伝えたこの一言。そのおかげで、まだ少年だった井口さんは兵隊と一緒に収容所に連れていかれることなく、家族とも早くに再会することができたのです。

あれから65年。井口さんは今でも、なぜ幼い少年までもが戦争に駆り出されたのか問い続けています。井口さん「家族を持ち、恋をして。そういうこともできなくて、日本は負けない、絶対勝つと信じていたんでしょう。こんなことは起きないように、人間性を失うような戦争はやるべきではないと感じます」

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月24日(金)

 

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*1:小野尋子、清水肇、池田孝之、長嶺創正「戦後の沖縄集落の住民によって継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究一沖縄県那覇市小禄村地区の被接収集落の変遷および再建過程を事例として」(日本建築学会計画系論文集第618号,49−56,2007年8月) p. 51

*2:サバービア (suburbia) アメリカの豊かさを象徴する中産階級の郊外住居地区。「この郊外生活(Suburbia サバービア)、つまり広々とした美しい郊外に家族のための一戸建て住宅を持つことは,多くのアメリカ人にとって夢(アメリカン・ドリーム)であり、それは 19 世紀の移民の時代から今も変わっていない。」中野雅博「アメリカのサバービア再考―ニューヨーク、フィラデルフィアの郊外の事例から―」(2000 年)