1945年 7月26日 『ウルマ新報』

〝沖縄〟という米軍基地

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上陸用舟艇から出るのは装置を積んだ大型トラック(6段変速6輪トラック)。写真偵察群。このトラックはこれからぬかるんだ道を通って3マイル先の区域まで移動する。本部地区(1945年7月26日撮影)

A 6x6 of the Photo Reconnaissance Group coming off an LST loaded with equipment. Their area is about 3 miles from this point and must be traveled over very muddy roads. Motobu area, Okinawa.

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雨で道路がぬかるんだため困難を来している本部地区でのビル建設工事。写真は住A-1、A-2、A-3、A-4。沖縄。(1945年7月26日撮影)

Building construction in the Motobu area on Okinawa, Ryukyu Retto, was difficult due to rain and resulting muddy roads. The buildings shown here will house A-1, A-2, A-3 and A-4.

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嘉手納飛行場の第389空軍工兵中隊事務室。(1945年7月26日撮影)

The 389th Air Service Group Engineering Squadron Orderly Room at Kadena Airfield, Okinawa, Ryukyu Retto.

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那覇近郊にある第244物資補給所配給中隊の兵士の兵舎用テント。(1945年7月26日撮影)

Tents, the living quarters of men of the 244th Quartermaster Depot Supply Company near Naha.

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米軍の動向

日本軍陣地の調査

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名護にある旧日本軍発電所はそのまま残され、現在は第27歩兵部隊第102工兵部によって使用されている。高圧線の点検をしているのはスパイサー上等兵。(1945年7月26日撮影)

The Japanese power plant at Nago was left undamaged by the Japanese and is now being operated by the 102nd Engineers, 27th Division, Pfc. Warren H. Spicer, Cottage Grove, Minn., checks the volt meter on the high tension lines at the former Japanese power plant.

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名護にある発電所で見つかったディーゼルエンジンの揺り棒に油を注すアモ技師。ディーゼルエンジンの右側にあるのは発電機。全ての日本軍機材がそのまま残されていて現在はマーケル中尉の管理下で第27歩兵部隊第102工兵部によって使用されている。(1945年7月26日撮影)

Tec 5 George E. Amo, Philadelphia, Pa., 102nd Engineers, 27th Division, oils the rocker arms on a diesel engine found in a power plant at Nago. The generator for the plant is on the right of the diesel engine. The equipment, all of Japanese manufacture was left undamaged and it is now being operated by the 102nd Engineer, 27th Division, under supervision of 1st Lt. Robert Markel, Johnstown, Pa.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

高級参謀のその後 ⑥

第32軍の高級参謀の八原大佐は、組織的な戦闘が終わった後、民間人を装って投降した。しかし、目的は機会を見て沖縄島を脱出し、大本営に戦況を報告することであったため、米軍の動向を探る必要があった。米軍の管理下にある民家に置かれていた八原大佐は、7月17、8日ごろ、一緒にいた避難民から軍作業に出るよう誘われ、情報収集も兼ねて作業に出ることを決心した。軍作業当日、現場までの移動中に見た光景は、星条旗が翻り米軍の幕舎が建ち並ぶ様変わりした沖縄島だった。八原大佐は、その後も数回、軍作業に出た。7月23日夜、八原大佐は、米軍の事務所に出頭するよう命じられたが、これに従わず、翌24日にMPに連行された。

(投稿者註: 一部の資料や文献では、八原大佐が捕虜となった時期を1945年7月15日としているが、ここでは、八原大佐自身が執筆した回顧録に記載された内容を紹介する。)

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取り調べセンター。民間人通訳官と話し合う米国通訳。沖縄の民間人と話すのに、女性が雇われることもあった。

Interrogation Center. Interpreter confers with native Okinawan Civilian Agent. Sometimes women are employed to talk to civilian Okinawans. 

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7月26日ごろと記憶するが、いよいよ審査の順番が来た。屋比久検問所は、小高い丘の上にあった。予想に反して、審査官は全部日本人であった。3人ずつ横隊になって、同時に審査を受ける仕組になっている。

私の取り調べに任ずる男は、比較的丈の高いインテリふうの若い人であった。私は、かねて仕組んでいた通りに英語教師で、台湾から帰国の途に戦禍に会った旨、申し立てた。この間、隣の男たちは殴る蹴るの暴力に、地面に倒れる者もある始末。しかし、私は静かに問答を進めた。談たまたま飛行機の搭乗券に及ぶと、この男は、自分は県庁の課長であったと言い、「軍の高級副官がなかなか搭乗券を出し渋り、その上に、高級参謀が喧しい・・・」としゃべり出した。私を知っている様子もなく、別にカマをかけたふうでもない。…相手は課長だ、話せばわかると思った。そして私は、「実は俺はその高級参謀だ・・・」と話を続けようとした途端、彼は身を翻して事務所に向かって走った

万事休す!アメリカ将校が出て来た。逆流する血を押え難く、思わず「犬!」と叫んだ。将校は「イヌとは?」と聞き返した。英語では「ドッグ」だと返事をする私に、ひどく同情した将校は紙と万年筆を出して、「イヌ」と書いてくれと言う。私は震える手で「犬」と大書した。事務所には顔見知りの某市長、それに2名の有力者らしい顔の日本人がいた。彼らは戦闘終結後1か月余にして、完全に「アメリカナイズ」していたのだ。そして私の期待はあまりにも甘すぎたのである。』(478頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 478頁より》

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ディックヒル首里石嶺辺りの丘)/ Dick Hill.

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『暫くして、私は謹直そうなアメリカ軍の青年将校の操縦するジープに乗っていた。彼の兄はやはり将校で、かつて日本に駐在したと言う。2人は黙したまま多くを語らなかった。自決か、脱走かを考え続ける私のうつろな瞳に、変貌し果てた首里や前田の山々が、悲しげに、そして空しく映ずるのみであった。車は中頭郡越来村にとまった。敵10軍司令部参謀部の所在地だ。このあたり、砲撃の被害なく、すべては昔のとおり緑に覆われている。

肥った一中佐参謀が、パンツ姿で、胸毛をよじりながら出て来た。彼は私に、「君はなかなかクレバー(利口)だね」と言った。そこで、私は「クレバーなら、今こんな所に立っているはずはない」とやり返した。傍らでタイプを打っていたアメリカ兵が、声を立てて笑い出した。それから雑談になった。私が南カロライナ州のフォートムルトリで一年ほど隊付きをしたと言うと、彼も同じ部隊にいたことがあると言う。彼は私の自殺を警戒してか、日本は間もなく降伏するんだからと話した。

日本の降伏!摩文仁最後の関頭において、多くの人々は、「沖縄敗るれば、日本もまた亡ぶ」と言った。たしかに私自身もそう思ったこともある。しかし本土決戦は必ずあるものと信じていたし、これに参加するためにこそ今日まで、幾多の苦難を乗り越えてきたのである。今敵側将校の口から聞く、「日本の降伏」の言葉、それは私の今までの思念の一切を、根本から崩壊させるかに思われた。だが私は、これは単なる話に過ぎないと自らを制した。』(479頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 479頁より》

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戦術航空軍司令官ウッズ海兵隊少将と打ち合わせる第10軍司令官スティルウェル大将

General Joseph W. Stilwell, (1), CG of the 10th Army confers with his Tactical Air Force Commander, Marine Major General Louis E. Woods, of Wash., D.C..

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『私は再び自動車に乗せられた。見覚えのあるスフィンクス型の岩山の下にあるスチルウェル将軍---バックナー将軍の後任---の宿舎のかたわらを通り過ぎ、越来村の入り口に止まった。「ゼネラル・レジデンス」の標札のかかった鉄柵を開き、数名の衛兵が自動車を降りた私を招じ入れた。この部落は、家々も樹木も戦禍を受けていない。衛兵は百メートルほど部落にはいった、とある農家に私を案内し、「これがカラネルの今後の住宅です」と告げた。

8畳一間に、2坪ばかりの土間のあるささやかな藁屋だ。畳は敷いてあるが、家具、調度品はなく、わずかに3枚の毛布と蚊帳が準備してある。庭は広く、周囲には雑木が生い茂り右方東北の一角は竹藪になっている。庭前は凹道を隔ててバナナ畠があり、左と後ろは雑木をすかして別の民家が見える。衛兵長は俊敏そうな中尉で、宿営給養掛りはシム軍曹とリチャード伍長である。皆応対は紳士的だ。彼らは口を揃えて、日本は10日も出でずして降伏するだろうと言った。日暮れ前にリチャード伍長が、自殺に利用できそうな物は一切持ち去った。しかし家の梁にかかった蚊帳用の麻縄が、夏の夜風に揺れて悪魔の如く死を誘惑する。

私は一切の思念の襲来を防ぐために、知っている限りの詩を吟じ、歌を唄った。気の落ち着くに従い考えた。いたずらに死を急ぐ要はない。死ぬほどならば、死を賭けて脱走をしよう。周辺の地形の偵察、体力の回復にしばらく時間をかけよう。そしてアメリカ軍の言う日本の降伏が、どうなるかも気にかかる。

翌日アメリカ10軍情報部付ラモット海軍中尉が、私の連絡掛りとしてやって来た。品格のある優しい青年将校である。今後毎日1時間ぐらい顔を出すと言う、東京で生まれ、13の齢まで日本に育っただけあって、日本語はかなり上手だ。』(479-480頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 479-480頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

「ウルマ新報」の誕生

1945年7月26日、「ウルマ新報」創刊号が発行される。…新聞名のない、わら半紙、A4サイズで、ガリ版刷表裏の2頁である。45年8月1日発行の第2号から「ウルマ新報」の名が付けられた。』(94頁)

『発行の経緯は、創刊者であった島清によれば、こうである。1945年7月初旬頃、石川収容所に収容されていた島のもとに、米軍海軍大尉が訪ねて来た。「この混乱状態で住民はニュースを渇望していると思う。新聞を発行してくれる人はあるまいかと、市長と…所長に問うたところ、君以外に適任者はないといわれて、相談に来た。軍の援助で新聞を発行してくれる気はないか」という。』(92頁)

『島は、「沖縄県民の多くは、今でも日本軍逆上陸を信じ、必勝を疑っていないこれ程盲信している県民に、何時か誰かが真実を知らせる役割を果たさねばなるまい。偽りない世界を紹介し、次の時代に遅れをとらせないよう、方向を示すことは、やり甲斐のある尊い仕事だとは思う。軍は民心安定の手段に新聞の発行を望んでいるのであろうが、私も民心の安定を欲している。その限り軍の意図は諒解できるし、その意味では新聞発行に興味がないでもない」と答え、条件として「新聞は県民のためのものとし、私の責任で発行する」・「人事、編集、運営等一切、私の権限に属するものとす」・「軍は援助だけで干渉はしない」、このことを提示して了解を得、発行の準備にとりかかる。』(93頁)

《「沖縄  空白の一年  1945-1946」(川平成雄/吉川弘文館) 92、93、94頁より》

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ウルマ新報

新聞記事/戦況を伝えるウルマ新報 : 那覇市歴史博物館

『…どうして米軍政府は、収容所内で「ウルマ新報」を発行させたのか。この点について島は「軍側からみれば、民心安定に顕著な事績を残し、占領政策に偉大な貢献をなしたと思ったであろう」と書き、大田昌秀は「米軍政府は、行政組織面が整備されるにつれて、軍政をより円滑に実施していくため新聞の発行を思いたち、それをみずからの機関紙として使用する計画を立てました。・・・敗戦の混乱で事態の掌握ができなくなっていた地元住民にニュースを知らせ、人を安定させるねらいももっていました」と述べ、新崎盛暉は「多くの人びとが収容所で茫然自失の状態にあったとはいえ、なお日本の必勝を信じている人びとも少なくなかったであろう当時の状況を考えれば、米軍政府が軍政の円滑な実施のために、日本語の広報紙を必要としていたことは明らかであった」とする。三者とも、民心の安定によって軍政の円滑な運営をはかるための新聞発行だという。そして「ウルマ新報」の後身である琉球新報社は、「日本の敗戦の現実を報道し、無用の犠牲者を出さぬための、いわば、宣撫のための報道機関であったのである」と書く。』(97頁)

《「沖縄  空白の一年  1945-1946」(川平成雄/吉川弘文館) 97頁より》

 

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