1945年 6月12日 『どうか死んでくれーッ』

南進する米軍

西部戦線

小禄(おろく)半島 

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小禄半島にて、投降するために丘をよじ登る日本兵。必見。このように日本兵を至近距離で見るのはまれである。白旗に注目。

Jap soldiers scrambling up a hill to surrender on the Oloku peninsula. HOT---rarely see Jap soldiers so close, note surrender flag.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

6月12日とその翌日、159人の日本軍が降服してきた。捕虜になった日本兵としては最初の大きな集団である。

大田実少将は、海軍がほとんど壊滅の寸前にあったとき、自決して、最後をとげた。』(464頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 464頁より》

 

西部〜中央戦線

国吉(くによし・くにし)丘陵

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

6月12日午前3時を期して1中隊を先攻に出発することになった。国吉丘陵を占領したら、夜が明けるまではそこを確保し、その後、その中隊は大隊の戦線を支援することになった。

C中隊とF中隊は、驚くべきほどの容易さをもって進撃できた。この分なら簡単に丘を占領できるだろうと思った。だが、この勝利の夢も明け方になるとはかなく消えた。

C中隊は、2個中隊がそれぞれの目標についたとたん、まず銃火を開いたが、これはかえって日本軍に防衛態勢をとらせる合図になった。

 1、2分後には迫撃砲弾が落下しはじめ、陽が昇るとともに、それはいよいよ激しさを増した。彼らは峰にそって砲撃を開始する一方、機関銃を掃射して、この平坦地に米軍増援部隊が入れぬようにした。』(491頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491頁より》

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日本軍看護婦の死体日本兵、軍医とともに日本軍のいる国吉に移動中だった彼女は、止まるよう命じられたがそれでも逃げ、全員ヘンゲヘアー一等兵に射殺された。彼女が医薬品とともに持っていた投げ棒型手榴弾をかばんから引き出すヘンゲヘアー一等兵彼女はライフルも所持していた(1945年6月12日撮影)

DEAD JAP ARMY NURSE: This nurse, who with a Jap corpsman and doctor, was making her way from behind our lines across hill #69, presumably to a high ridge 8 (Kinushi) occupied by the Japs, was ordered to halt. They made a mad dash and were killed by rifleman Pfc Gerald J. Henggeher, 22, (956955) He is pulling out one of two potato masher grenades she had in one pack, along with medical supplies which included paper towels, bandages, etc. In another pack, also shown, she carried Jap rifle ammunition.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…戦車2輌をもって、日本軍の大砲に挑戦させたが、1輌はたちまち撃破され、他の1輌も怒り狂う砲弾で撃退させられた。先攻の2個中隊とも損害をこうむり、救援を求めたが、2大隊のどの中隊も無事にこの平地を横切るということは、到底不可能なことで、そこに進出することは、国吉丘陵で遭遇したのと同じく、銃火に身をさらすようなものだったのである。

米軍は煙幕を張って進撃したが、日本軍はこの煙幕のなかに機関銃弾を流し、米軍は、結局、2個中隊と、その支援戦車隊が撃退されて攻撃は失敗した。午後、C中隊とF中隊が、まだ救援を求めているとき、戦車数輌は、負傷者用のプラズマやそれに水、弾薬などを積んで国吉丘陵に到着し、重傷者を後方に運んできた。

大隊長らは、この戦車隊の成功に気をよくして、今度は各戦車に6人ずつの歩兵を積み、この長さ1キロの平地を横切る計画をたてた。こうして銃火の中を戦車隊が、行きに弾薬物資を運び、帰りに負傷者を運んでくるという方法は、案外うまくいき、日が暮れるまでに、その日だけでも22人の戦死傷者を、後方地区に運ぶことができ、国吉丘陵攻略戦では、ずっとこの方法が行われた。』(491-492頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 491-492頁より》

 

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ): (米軍呼称: ビッグアップル)

『日本軍の防衛戦に対するつぎの大攻撃は、第17歩兵連隊の作戦地区内で行われようとしていた。そこではバチラー大佐が八重瀬岳に夜襲を計画していた。』(479頁)

『出発は、6月12日の午前4時を期して開始されることになっていたが、これは相手にさとられぬように、こっそりことを運ばなければならないので、砲兵隊による予備砲撃行われなかった。』(481頁)

『午前4時の少し前になると、照明弾の明かりも消え、砲弾の落下もやんだ。その後、米軍の進撃にはほとんど変化もなく、最初の予定どおり作戦は行われた。

それからは、まったく予定されていたかのように深い霧が、突然、南部沖縄の上におおいかぶさってきた。層が厚く、視界は3メートル半までしかきかないが、米軍にとっては相手には発見されず、しかも進撃にはさしつかえないので、まったくのおあつらえ向きの霧だった。…午前5時半、夜が明けて2、3分もたつと、…それぞれ占めるべき位置に着いた。

…50人ほどの日本兵が2列になってやってくる。米軍は小銃やブローニングで撃ちまくり、37人を倒した。残りの兵は逃げて行った。』(483頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 479、481、483頁より》

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第7師団の第17歩兵連隊が夜襲後に占領した八重岳一帯

NIGHT ATTACK ON YAEJU-DAKE by the 17th Infantry, 7th Division, on 12 June resulted in capture of the section shown in picture above. Company A went up the path shown near center and occupied the coral ridges appearing in center. Company B moved up the slope at left and swung back to right on top of the escarpment.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

5時半ごろ、幾人かの日本兵がB中隊のまん中の前方にある洞窟から出てこようとしているのを発見した。壕の入口は、分厚いコンクリートで固めてあるので、爆薬で封じ込めるわけにはいかない。そのため中隊は入口のほうに待ち構えて、相手が壕から出て来るたびにやっつけた。

夜が明けてまもなく、C中隊は丘陵全面にある壕を掃射し、そののち高台地にいる大隊の一部に合流した。

午前8時、戦況はおちつき、第17歩兵連隊は、八重瀬岳に強固な地歩を築いた。日本軍は、米軍の砲撃を逃れるため、夜のうちに八重瀬岳から前線部隊を退かせていた。だが、午前7時に予定の攻撃がはじまる前までには、ふたたびそこを占領することになっていた。

第32歩兵連隊が、玻名城の95高地頂上にいたる道を焼きはらって15時間後には、第17連隊はみごとな夜の進撃で八重瀬岳の一角を占領した。』(484頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 484頁より》

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沖縄島における最後の戦いで、日本軍の激しい反撃を受けながら断崖を進む第96師団第383連隊の歩兵部隊。手前の平地を崖のふもとまで進むには日本軍壕からの絶え間ない砲火が壁となり、火炎放射器とかばん爆弾攻撃によって危険極まりない日本軍陣地をつぶしてしまうまでは立ち往生であった。(1945年 6月12日撮影)

Infantrymen of the 383rd Regiment, 96th Division, inched up this escarpment against heavy Jap resistance during the final days of the battle for Okinawa Shima. These rocks show the effect of artillery fire which blasted out cave positions. Level ground in front of the escarpment made advance to the cliff's base extremely difficult. Interlocking fire from Jap cave on the face of the escarpment held up the Yanks until flame throwers and satchel charges closed the deadly strong points.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…6月12日の午後6時に、ハロラン大佐の第381連隊は、日本軍の抵抗主力に対して、ふたたびつぎの一撃を放った。…12日の攻撃のために、ハロラン大佐は、予備軍から第2大隊を引き出して中央部の先攻となり、西端で戦うよう命令を出すとともに、第381と第383連隊とのギャップを埋めさせるようにした。さらに、第17連隊の夜襲が成功すれば、第3大隊は丘の隣接地を攻撃することになった。

丘陵前面の壕は、これまで大砲や戦車が猛烈に攻撃してみたにもかかわらず、ノーラン中佐の率いる第3大隊が、12日の朝、丘陵のふもとに着いたときは、日本軍の砲火はいささかの衰えもみせず、以前にも増して激しいものだった。』(485頁)

『八重瀬岳のリンゴ型の部分は、相変わらず日本軍の手中にある。しかし、12日の夜までには、第7師団と第9師団は、いまは再編されてできた日本軍の独立混成第44旅団を、南東側から攻め立てていたのである。』(486頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 485、486頁より》

 

 

第32軍の動向

小禄半島の海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

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https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-9.html

12日午後74高地の頂上は米軍に占領され、司令部壕の最後の時は迫った。…壕内に居た各部隊の生存者に最後の非常呼集が掛かったのは午後8時ごろだったと言う。司令室と幕僚室にはさまれた通路に整列したのは、血潮と硝煙にまみれた約270人にすぎなかった。

大田司令官の他、幕僚は首席参謀の前川大佐、南西諸島空司令から連合艦隊兼沖根参謀に転じ、4月から司令部に詰めていた棚町大佐、護部隊司令・羽田大佐、21空廠小禄派遣隊の鈴木中佐、軍医長・小山少佐、機関参謀・山田少佐の6人が顔を揃えていた。

司令官は普段と全く変わらぬ温泉顔で、歴戦の部下の顔を慈愛に満ちた眼差しで見回していたが、「敗軍の将、兵を語らず」故だろうか、伝達事項は山田参謀が声を張り上げた。大要次のような内容だったと言う。

司令官及び幕僚は本日、自決される。これまで、諸官と共に随分、奮闘したが、遂に敗れた。しかし、友軍は必ず逆上陸して、沖縄島を奪回すると信じる。自力で行動出来る者は最後まで生き延び、地理に明るい諸官が逆上陸軍に協力してくれ。自力で行動出来ぬ者は、残念ながら自決してくれ。自力で行動出来る者は只今から自由行動を取れ」』(445-446頁)

曹長の証言:

『「壕には他に、身動き出来ぬ傷病兵が約300人は居まして、その処置が早速、始まりました。軍医長は『自分は皆を殺すために軍医になったのではないが、事ここに至っては止むを得ない。どうか死んでくれーッ』と泣きながら、注射していきました。これらの人々も無念の涙にくれながら、次々に瞑目しました。

ですが、中には手も足も動かせぬ兵隊で『軍医長、待ってくれーッ。このままでは、死んでも死に切れん。せめて手榴弾の一発でも、敵に投げさせてくれーッ』と絶叫する者も居まして、その悲壮な光景はとても言葉では表せません」』(446-467頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 頁より》

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幕僚室(左)の左手奥に暗号室、医務室、発電室がある。

海軍司令部壕 - Wikipedia

 

海軍司令部の最期: 解散命令を受けた兵隊や女性軍属の証言

『「羽田大佐が通路の人波をかき分け、かき分けしながら『護の部下は居らんか』と近づいて来られた。我々10人程が『護です』と答えましたら、『ご苦労だった』と一人一人に挨拶して行かれた。誠実な司令の最後の言葉だと思うと、たまらなかったですねえ」

女性軍属…は、鈴木中佐とお別れをした。

「40歳代の穏やかな司令でしたが、わざわざいらっしゃって『もう最後だ。皆さんともお別れだねぇ』と涙を流していらっしゃいました。私たちもいよいよ最後だと思って、持って来た白いブラウスを着、薄化粧の死拵えをしました」

断末魔の絶叫、呻き声が満ち、肉親、知人を求めて右往左往する人々で大混乱の司令部壕内

…「時間ははっきりしませんが、山田機関参謀が大声で『総員脱出せよ。壕は爆破させる』と言い終わるか終わらぬうちに、何発かの拳銃の発射音がしました。『あの音は司令官の最期だ。早く外に出ろ』と皆が口々に言い、脱出する人、動けない兵隊や将校の自決などで、壕内は阿鼻叫喚の状態に陥りました」

…「大勢の人にもみくちゃにされ、押され押されて行ったら、司令官室の前に出ました。部屋には電気が灯り、扇風機も回っていました。のぞくと、幕僚の方々が日本刀を側に置き、胸で手を合掌して(両手の指を組み合わせる仕草をしながら)横たわっておられました。最後に自決された機関参謀が、あの様にされたのではないでしょうか。通路から割と近くに見えましたので、西口に通じる側の入口から見たと思います」』(447-448頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Former_Japanese_Naval_Underground_Headquaters_Okinawa06s5s3104.jpg/1920px-Former_Japanese_Naval_Underground_Headquaters_Okinawa06s5s3104.jpg

司令官室

海軍司令部壕 - Wikipedia

『…壕内の混乱は、なお続く。

「その後、南口の方で『突撃ーッ』の兵隊さんの声がして、ワァーッという喚声がした途端、壕内で爆雷がドーンと爆発しました。爆風が押し寄せ、電気が消えて真っ暗になり、ああ、もう今、自分は死んだのだという気分になりました。兵隊たちが出た後へ、米軍が毒ガス弾を投げ込んだらしく、全員フラフラになり、気がついた時は民間人の女性6人、傷病兵2人の8人だけになっていました。2、3日後、米軍が攻撃を仕掛けて来た時、民間人のうち30歳くらいと12、3歳くらいの母子が手榴弾で自決してしまい、私らは1週間後、先に脱出していた…さんに救出されました」

…沖特陸は32軍に抽出された兵力を除き約5500人だったが、うち4000人小禄戦線で戦死したと言われる。

…「食料の調達や壕内に残っていた人の救出で、その後、何度も司令部壕に出入りしました。真っ暗なのでビール瓶にガソリンを入れ、ランプ代わりにしましたが、銀蠅がワァーッと集まって一瞬に吹き消す。至る所、死屍累々。嗅覚も神経も麻痺していたからこそ耐えられた、敗残の日々でした」』(448-450頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 頁より》

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白燐弾が投げ込まれた後の大田中将の壕の通用口。入り口から突き出た丸太に注目。これらは入り口の補強に使われていた。この壕はどんな砲撃にもゆるがず、攻略するには歩兵を投入しなければならなかった。

A side-entrance into Admiral Ota's cave after phosphorous grenades had been thrown in. Note the logs jutting out of the entrance. These had been used to buttress the entrance. This cave was impregnable to any to any sort of bombardment and had to be taken by infantry.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

小禄村のある少年の証言:

『「隊長の吉背兵曹長は『軍は今夜自爆する。住民は沖縄本島南部へ避難せよ』と命令しましたが、米軍の攻撃の方が早かったのです。壕の入口をふさがれ、小さな穴からポコンという音とともにガスが広がりました。日ごろ親しかった朝鮮人軍夫のブンリョウさんが私の体を高く持ち上げ、窒息をしないようにしてくれました。こんなことを3、4回くりかえしたのち、兵隊の死体をふみわけ、小穴を押し広げて外へ出ました。翌日、小禄の自宅の壕へ入ったところを米兵につかまってしまいました。」

「戦闘が激しくなる前、海軍の陣地構築のために出た土砂がおじのサトウキビ畑に捨てられたことがありました。おじはあまりにひどい下士官にかみつきました。下士官緊急事態だとどなりつけました。そこへ年配の将校があらわれました。『ご迷惑をおかけして申訳ありません。しかし、緊急事態をよくご理解になって協力して下さい』と声をかけた。強気のおじさんも、やむを得ないと納得しました。この人は海軍根拠地隊司令官の大田実少将だったのです」』(171頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 171頁より》

http://kaigungou.ocvb.or.jp/english/img/outline/ph02.png

大田実海軍少将(のち中将)

http://kaigungou.ocvb.or.jp/english/outline/

 

西部〜中央戦線

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

12日もまた激しい戦闘が繰り返された。伊東大隊の猛烈な銃火の前に、敵は死傷者を続出させたが、なおも闘志を燃やしてその一部を左隣の第3大隊の右端に突入させた。やがて伊東大隊の左翼も、この侵入した敵と榴弾を行うようになり、大隊の損害は急増していった。伊東は昨日から前進陣地の第3中隊に撤退を命令していたが、その夜も「速やかに」と伝えた。しかし伝令のもたらした報告によると、敵に包囲されて撤退が困難であるとのことだった。』(238-239頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 238-239頁より》

 

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ)

八原高級参謀の回想:

12日の夕方、砂野から怒気を含んだ声で、電話がかってきた。「敵の戦車十数輛が、2、3百の歩兵を伴い、安里から標高点122の東側を経て、八重瀬岳に進入中だ。同方面には旅団の兵が1人もおらず、今軍砲兵隊の一部で阻止している。一体旅団は何をしているのだ。不注意千万にもほどがある。八重瀬岳は東方に対する重要な軍砲兵の観測地帯だ。これを敵にとられては一大事だ。早く軍において、対抗処置をとってもらいたい」と凄い権幕だ。

平賀連隊が、八重瀬岳の山頂を棄て、その東麓に陣地を占領したことにより、自然に生ずる弱点、すなわち現に敵第7師団が乗じつつある攻撃行動は、防御部署決定の際、軍が厳重に指摘注意したところであった。しかるにもかかわらず、旅団はその過ちを犯し、敵に乗ぜられている。八重瀬岳は軍砲兵のためのみではない。実に軍主陣地地帯の骨幹を成す要地である。さればこそ、あらゆる兵力を、涙を振るって容赦なく旅団の地獄戦線に投入しつつあるのだ。

私は逸る心を抑えつつ、京僧参謀を電話に呼び出し、軍砲兵隊からの報告通りの戦況なるや否やを詰問した。京僧は落ち着いた調子で、「こちらにも同じような通報があったので、将校斥候を派遣して、偵察させたが、八重瀬岳の山中には敵影を見ない。なるほど、122東側付近より米軍が突破侵入せんとする気配はあるが、すでに報告してある通り、旅団としては配兵しているし、さらに旅団長の指揮下にはいった臼砲第1連隊も、この正面におることであるからご安心願いたい」との返事だ。混成旅団、軍砲兵隊いずれの報告が真なりや不明であるが、八重瀬岳に危機の迫りつつあることは明瞭である。』(394-395頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 394-395頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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沖縄戦の絵】「母に手を引かれ」

沖縄本島北部の山中で米軍の掃討作戦に巻き込まれた時の体験。…家族5人で本島北部の山中の小屋に避難していた昭和20年6月12日、米軍の部隊が小屋に迫ってきた。小学校の校長だった父は「御真影」と呼ばれた天皇陛下の写真を守るため、1人で別方向へ逃げた。…母親に手を引かれ弟と一緒に林の中に逃げ込んだ。
身を潜めた直後、銃撃が始まり、機関銃や火炎放射器の音が長い間鳴り響いた。歩くのが困難だった祖母は逃げ遅れて消息が途絶えた。銃で撃たれてしまったのではないかという。…『母が私たちの手を引っ張って逃げた時の、女親とは思えないほどの力強さを今でもはっきり覚えている。敵に見つからないよう私たちの身を隠してくれた山原(本島北部)の原生林が私の命の恩人だ

母に手を引かれ | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

御真影」を守った人びと ①

『米軍上陸2ヵ月前から、沖縄戦が終了するまでの5ヵ月間、「天皇の写真」と共にさまよった一団の人達があった。

御真影。・・・その北部疎開については、10月10日の那覇の大空襲があってから、色々取沙汰されていたが、翌年1月初旬頃から、全島各中学校、国民学校の校長又は教育界の代表者達によって、名護の北方約3里、稲嶺国民学校に集結されていた。

その頃、追い立てられるような不安の中に、疎開を急ぐ避難民たちは、よく北部山中や海岸よりの道路筋で、頸から白い紐を吊し、両手で御真影を捧持している、沈痛な面持ちの人達に出会い、道を避け、うやうやしく、それを見送ったものだ。

その沈痛な面持ちの人たちは、それから5ヵ月間、その御真影を風雨から守り戦禍から救うために、その沈痛な表情から解放されることがなかった。2月上旬、県当局は御真影奉護の常任委員を任命した。御真影の保管については、県当局や軍から色々指示があったが、彼ら委員に対しては、いざという場合の処置が委されていて、戦況に応じて適切な判断をなすために、彼らはだんだん欠乏してゆく食と戦いつつ、あらゆる方法をつくして、奉護所を守らねばならなかった。』(283-284頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 283-284頁より》 

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