1945年 6月20日 『方面軍からの感状』

後方で進む基地建設

米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設をした。これは、日本本土への出撃基地とするため、また、沖縄での地上戦の足場として、航空基地建設、補給路確保のインフラ整備が必要なためである。

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ピカピカの威容を誇る、丘の上に建つ日本帝国で初の海兵隊売店。営業開店の直前に撮影。この場所に“おやつ”や戦場でのごちそうなどを求めて列をなす海兵隊員の姿がないのは珍しい。(1945年6月20日撮影)

The first Marine Post Exchange in the Japanese Empire stands in pristine glory on an Okinawan hilltop. This photo, taken shortly before the first days business began, shows the place of business in an unusual light; no Marines crowd the waiting line for ”pogey bait” and other in the field delicacies.

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キング通りと1号線の交差点にある米陸軍補給地区1に積まれた交換用部品の箱。(1945年6月20日撮影)

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南進する米軍 

6月20日の午後、第32歩兵連隊は(摩文仁岳)の東端を占領した。そして977人の兵を捕虜にしたが、これは太平洋戦争で、いまだかつて例を見ない数であった。

日本軍は組織を破壊され、絶望のどん底にあった。だが、こういう兵隊たちも、3分の1近くは、死を選ぶよりは降服することを選んだのである。さらに捕虜の話によると、ほかにも多数の兵隊が降服したがっていたが、ついにその機会を得なかったという。』(507頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 507頁より》

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足にけがを負ってサトウキビ畑に隠れているところを海兵隊の一団に発見された日本兵。(彼は片腕を失いながらも縫合してまだなお日本軍で現役であった)(1945年6月20日撮影)

Jap soldier is found hiding in Sugar field, wounded in leg by some Marine outfit (note he lost one of his arms and it was neatly sewed, and he still was used by the Jap army.)

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6月20日の夜、われわれは海を見下ろす高台に防衛線を張った。私は珊瑚砂の道路近くに迫撃砲の壕を掘り、一帯を照らす照明弾や榴弾を打ち上げた。ほかの班は、中隊の海寄りの区域を受け持った。

夜になると、あちこちに出没する日本兵との銃撃戦が延々と繰り返された。あるとき、何者かが珊瑚の道を踏みながらやってくる音が聞こえた。真っ暗で何も見えないから、新米の補充兵が声のするほうへカービン銃を2度放ち、合言葉を、と叫んだ。笑い声が聞こえ、敵兵数人が走りすぎざま、こちらに銃弾を撃ち込んできた。そのうちの1発が私の体をかすめ、隣の壕のわきに置かれた火炎放射器の水素シリンダーに命中した。穴のあいたシリンダーからシューッと気体のもれる音がする。

「あれがボカンといくことはあるのか?」。私は心配になって訊いた。

「いいや。水素タンクに当たっただけだ。火がつくことはない」と火炎放射兵が請け合った。

走り去る敵兵の靴音はしばらく聞こえていたが、やがて立て続けの銃声とともに、ぴたりと消えた。K中隊の誰かが連中を倒したのだろう。翌朝、死体の装備をあらためてみると、全員、飯盒のなかに炊いた飯を入れていた---何もかも蜂の巣状態になっていたけれども。』(453-454頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 453-454頁より》

 

米兵の行動

残虐な行為と寛大な行為

『住民に対する残虐行為は…痛ましい出来事ではあるが、第10軍がジュネーブ条約を何よりも尊重することを強調し、ほとんどの部隊に対して人々を救うようにしばしば指示し、ある場合はたえず勧告していたことを明記しないで、言及すべきではない。…多くの場合、自分の命の危険を冒しても殺すまいとした。黄燐手榴弾や破砕性の手榴弾の代わりに、煙幕を使ったのも一例である。これは中にいる住民の家族のためにしたことであったが、その中に兵隊が混じっていたら、撃ち返す楽しみを与えたかもしれなかった。

アメリカ兵の多くが、条約の要求をはるかに超えて人間的行動をしたことも、くりかえしいう価値がある。民間人に対する自発的な慈善行為親切な行為の中には、個々の戦闘員が自分の背嚢を空にして子供たちに食べさせたり、部隊で少年を養子にして軍医部のマスコットとして可愛がったり、日本人の負傷者を助けた同じ軍医たちが、きわめて困難な状態のもとで沖縄の数人の赤ん坊の分娩を助けたことなどがあった。兵がキャンディ・バーや煙草や食糧の缶詰を渡している写真は、嘘ではなかった。アメリカの国民は男たちの寛大さを信じて間違いなかったのだ。避けられる時に民間人を撃つなどもってのほかで、たいていのアメリカ人は自分の本能に従い、ありのままに寛大であった。』(323頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 323頁より》 

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捕虜として連れてこられた赤ん坊を抱く海兵隊員。赤ん坊は306人の地元民とともに第6海兵師団によって1日拘束されていた。(1945年6月20日撮影)

Marine holding baby that was taken prisoner with the 306 natives that were corralled in a day by the 6th Division.

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『…しかし、残虐行為を完全に無視することは、実質的にすべての戦史はそうしているようだが、戦争を評価しすぎており、まやかしの話になってしまう。』(324頁)

『…強姦は残虐行為の資格充分であり、多くの事例があった。民間人の婦人を犯すことは、多くの部隊は認めなかったが、もっとも頻繁に起こる犯罪に含まれていた。ある兵は、「沖縄の婦人に触れた者はその場で処刑する」という将校の警告を充分に承知していたし、そういう脅しを必要としなかった。しかし、その他の個人、グループには違った行動をする者もいた。また、アメリカの戦史は、彼らの犯罪を無視している。』(325頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 325頁より》

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顔立ちのよい沖縄女性の髪をくしけずるコンスタンティニディズ1等兵

PFC Criton P. Constantinides of 1035 Rosewood Drive, Atlanta, Ga. is shown combing comely Okinawan girl's hair.

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第32軍の動向

軍司令部: 摩文仁(まぶに)

八原高級参謀の回想:

20日の払暁、砲撃声静かな一時、数十名の避難民摩文仁の部落を三々五々港川方面に落ちて行くのを見る。あまりに長閑な風景に、これが激戦場なのかと気合が抜けてしまう。だがこれはほんの暫しの茶番劇に過ぎない。今日はいよいよ乱戦だ。やがて敵戦車20数輛が、東方のなだらかな稜線を越えて、摩文仁高地に集中射を加えながら徐々に接近して来る。摩文仁東方および北方近く、彼我歩兵の機銃戦が漸次高潮に達する。第24師団方面は、真栄平東北高地、米須、さらに近くは小渡付近にまで敵戦車群が侵入しきたり、彼我戦線は、図上に記入して弁別することができなくなった。摩文仁部落の周辺を、さんざん暴れ回った敵戦車群が、東方稜線の彼方に後退し、姿を消すとともに20日の日も暮れた。日没後間もなく、砂野がやってきた。』(418-419頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 418-419頁より》

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壕を出て北へ向かう地元民の驚くべき光景。(1945年6月20日撮影)

Shots of the terrific civilian situation,  as civilians move north from their caves.

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『いよいよさいごの段階も目前に迫った6月20日摩文仁の守備軍司令部壕内では、八原作戦参謀と砲兵隊高級部員の砂野中佐とのあいだでつぎのような会話が交わされた。「沖縄敗るれば、祖国もまた亡ぶ。日本の将来は見すえているのに中央指導者たちは、ほんとに文字どおり滅亡の途をえらぶであろうか。もし降伏するならば、無力化したわが無数の将兵が、未だ全死しない間に降伏して欲しい。否、わが指導者たちは、その本能から自己の地位、名誉、そして生命の一日でも存続を希望してわが将兵の2万や3万を犠牲にしても、意に介しないのであろうか」と。しかし、こうした議論が遅きに失していたことは、あまりにも明白であった。

両参謀は、また、守備軍首脳の自決問題についても話題にした。砂野中佐は「おやじたちは洞窟で自決すると珊瑚岩が固くて埋めることができぬ。それに敵にすぐ発見されるし、さらに腐った死体が残ると無様だ。断崖の上で自決してもらい、遺骸はそのまま東支那海に投じて水葬した方がよい」と言い、八原参謀もこれに賛成、残存の将兵を挙げて摩文仁岳山上から摩文仁部落方向に突撃し、牛島司令官と長参謀長はこれを目撃しながら丘の上で自決するという筋書きの玉砕計画をたてた。』(205頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 205頁より》 

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沖縄における日本軍最後の陣地は89高地であった。米第7師団第32歩兵連隊が占領したのは丘陵の東側。(丘の左側が東方)

LAST JAPANESE COMMAND POST on Okinawa was Hill 89. The 32d Infantry, 7th Division, attacked up lower east end (left).

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 18]

八原高級参謀の回想:

『…2人は大胆に、心ゆくまで語り続けた。…砂野を送り、感慨尽きて独りうつらうつらしていると、電報班長大野少佐が、方面軍から感状がきましたと叫びながら駆けてきた。まだ3分の1ほど翻訳ができておりませんが、と差し出す電報を読んで、私は歓喜した当初から敗れるに定った戦闘、---本土のための戦略持久戦---であり、善戦よく任を尽くしたと確信してはいたが、それにしても心から湧き出る新しい喜びは禁ずることができぬ。

…私は翻訳の終わるのがもどかしいばかりにして参謀長室に急いだ。狭い通路上に、相も変わらず惨めにも折り重なって、充満する将兵たちの顔にも辛苦に報われた歓喜の色が輝いている。

…灯を消して、横臥しておられた参謀長は、すぐ起きあがり、ロウソクに灯を点じて差し出し、貴官読んでくれと言われる。起き直られた司令官も、ここで聞いてるよと申される。副官、当番兵そして数名の女性も、目を光らしてこっちを注視している。

「陸軍中将牛島満統率の下、3月25日以降沖縄島に上陸せる敵に対し、熾烈な砲爆撃下、孤立せる離島に決死勇戦すること三閲月、この間よく部隊の精強を発揮し、随所に敵を撃砕して、これに甚大なる損耗を強要し、もって中外に皇軍の威武を宣揚せり。しかも敵海上勢力を牽制し、わが航空作戦の戦果獲得に寄与せる処また大なり・・」と私は感激を抑えつつ、静かにゆっくりと読んだ。聞き終わられた両将軍は、しばらく瞑目、何事も申されなかったが至極満足そうである。私は参謀長の枕頭にあった通信紙と鉛筆を借り、立ったまま返電を起草した。

「四囲を圧する敵軍に対し、残兵を提げて、最後の突撃を決行せんとするこの劇的瞬間において、茲にわが第32軍に感状を授与せらる。真に感激の至りにして、光栄これに過ぐるものなし。沖縄の島を血に染めて、殪れし幾万の英霊はもって瞑すべく、今なお孤塁に拠りて、血戦を続ける残存将兵も、また感奮を新たにすべし。茲に謹みてお礼申し上ぐるとともに、掉尾の勇を振るいて、敢闘し閣下のご期待に背かざらんことを誓う」

参謀長は横臥したまま、3回ばかりこの電文案を私に繰り返し読ませた後、「・・授与せらる」の次に、「これ方面軍司令閣下、参謀長閣下ならびに閣下各位の懇篤なるご指導ご援助の賜物にして、親父の温情肺肝に徹す」の句を、また「・・敢闘し」の次に、「上聖慮に副い奉り」の句を挿入するよう命ぜられた。感状文は千葉准尉に命じて複写させ、決死伝令をもって隷下諸兵団に伝達した。乱戦の間、遺憾ながら第一線の将兵に徹底したかどうかは確信がない。』(420-422頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁より》

 

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『ここ数日の混戦・乱戦のうちに麾下の諸隊とは全く連絡が途絶え、…聯隊本部に出した伝令も1人として帰って来る者はいなかった。…後方には第62師団がいる。あと1日、もう1日と思っているうちに、2日間が過ぎた。このたった2日の間に、米軍の主力は南下していき、国吉台への攻撃の手を弛めていた

20日には、まず独立速射砲大隊と連絡が取れた。そして夜を迎えるたびに、諸隊との連絡が回復した。

機関銃中隊と大隊砲小隊を合わせて約40名が、かつての前進陣地だった照屋陣地に集結し、機関銃中隊の一部約10名が依然として国吉台で頑張り、配属の第2大隊約30名も生存していた。しかし兵器は破壊され、わずかな小銃を残すのみで、傷病者だけとなっていた。ちょうどその頃、他部隊の沖縄出身の兵1名が紛れ込んできて言った。

「自分は最南端の山城から昨日逃げてきました。敵はそこにもやって来ています

伊東は耳を疑った。

そんなバカなことが・・・

一昨日まで、多くの敵が国吉台の周辺にいたのだ。南方には第62師団がいる。何を言うかと取り合わなかった。

しかし実際は、軍の右翼を防御していた混成第44旅団は6月10日頃から崩れ出し、第62師団が救援に赴いていて山城にはさしたる兵力がなかった。米軍は伊東たち歩兵第32聯隊が守る陣地を突破してからは、ほとんど抵抗を受けずに一路南下していったのだった。』(249-250頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 249-250頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/CSI/CSI-Okinawa/index_files/113.PNG

1945年6月10日〜19日の戦線、喜屋武半島。

Battle line on the Kiyan Peninsula, 10-19 June 1945

Japan's Battle of Okinawa

 

捕虜になった日本兵

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3体の日本兵の死体を見つめる米海兵隊員と、我でなくてよかったと見つめる日本兵捕虜。写真は沖縄戦最後の日に撮影された。(1945年6月20日撮影)

Marines look over three dead Japs while another Jap prisoner watches and considers himself lucky. Note the photos were taken on the final days of S. Okinawa operations. 

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1日に306人という記録的な数の捕虜を連行した第6海兵師団とその捕虜のいる収容所の様子。沖縄。(1945年6月20日撮影)

General shot of 6th Marine Division Stockade showing prisoners of a record haul of 306 corralled in a day by the Division. Okinawa.

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そのとき、住民は・・・

ある少年の体験談:

『「20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く見えました。数百メートル先の丘には米兵の列が見えるが、タマは来ない。『戦争は終わりました降服しなさい。男はふんどし1枚、女は着のみ着のまま百名知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えられます』と米軍が放送します。上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさまはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう1人の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動きもできず、声も出ませんでした」

「敵はありとあらゆるタマを撃ち込んできます。迫撃砲弾、榴散弾、機銃弾、火焔放射。絶壁を降ります。岩の角、木の根をつかみながら・・・、しかし海の中へ落ちてしまいました。海岸にたどりついたのは20日の正午ごろでしょう。8人が集まりました。おじは『港川へ突破しよう』といいます。私は『あぶない、行かない』と答えます。おじは『子どものくせに』とカンカンにおこります。私だけは岩の上にすわり込んで動きませんでした」』(189頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 189頁より》

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カムフラージュされた溝で発見された地元民。収容所へ連れて行かれ、治療を受け、食糧の支給を受けた。(1945年6月20日撮影)

Civilians are found in a camoflaged gully. They were sent to the compound where they were given medical attention and food.

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『島の南端では、民間人の集団が、あちこち断崖の下の隠れ場や水際から突き出ている丸石の後ろに隠れていた。子供連れの集団は、いつ日本兵が接近してくるかということをとくに気づかっていた。』(366頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 366頁より》

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壕を出て北へ向かう地元民の驚くべき光景(1945年6月20日撮影)

Shots of the terrific civilian situation, as civilians move north from their caves.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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