1945年 9月7日 『第32軍の降伏』

第32軍の降伏文書調印式

琉球列島の「降伏」 ⑧

降伏調印式は9月7日午前11時20分から嘉手納の第10軍司令部前広場で行われる運びになった。広場の前にはシャーマン戦車、パーシング戦車、自動推進の155ミリ大砲が威容を誇り、陸軍と海兵隊の射撃部隊が整列した。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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琉球列島の降伏調印式に集まった記者団。(1945年9月7日撮影)

Press group at signing of Jap surrender at Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

午前10時30分物見高い兵士の群れがつめかけ、見物に都合の良い場所に席をとった。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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沖縄本島での降伏調印式。見物人が丘の上で調印式を眺めている。(1945年9月7日撮影)

Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Spectators on the hill watch the ceremony.

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午前11時、陸軍バンド部隊が〝オールド・グレイ・マーチ〟を奏でながら登場し、数分間広場で演奏を続けた。そうそうたる招待客が登場してきた。第8航空隊のドゥリトル中将、第95機動部隊のオリンドーフ提督、第1海兵師団のペック少将、陸軍サービスコマンド24のチーズ少将らが貴賓席に座った。

11時20分、ラーセン大佐が日本側将校の一行を率いて登場した。納見将軍を先頭に、代表団は直ちに中央のテーブルの後ろの椅子に座り、その背後に補佐官が一列に並んだ。』(233頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233頁より》

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スティルウェル大将に対して琉球列島の降伏調印をするため、沖縄本島の第10軍司令部に到着した日本軍将兵(1945年9月7日撮影)

Japs arriving at the 10th Army Headquarters at Okinawa to surrender Ryukyus to Gen. Joseph Stillwell.

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琉球列島の日本軍降伏を受け入れるため、降伏調印式に到着したスティルウェル大将沖縄本島の第10軍司令部にて。(1945年9月7日撮影)

Gen. Joseph Stillwell arrives at the surrender table at 10th Army Headquarters, Okinawa for the surrendering of the Ryukyus by the Japs.

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11時30分スティルウェル将軍、続いてメリル将軍と二世通訳のロバート・オダ軍曹が登場した。射撃部隊は捧げ銃の姿勢をとり、広場の全体が敬礼を捧げた。第10軍司令官スティルウェル将軍は厳かに敗軍の将に向かって宣言した。「諸君は私の指示をそれぞれが責任をもって実行せねばならない」。オダ軍曹がそれを日本語で伝えた。最初に納見将軍が6通の降伏文書に署名した。高田将軍、加藤提督と続いて署名した。』(233-234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 233-234頁より》

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。先島群島の司令官(指令部は宮古島にある)納見敏郎中将 (第1調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Lt. Gen. Toshiro Nomi signs for surrender of Sakishima Gunto, Miyako Shima (1st signer).

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。奄美群島の司令官(司令部は徳之島にある)高田利貞少将 (第2調印者)。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Maj. Gen. Toshisada Takada (Army Force Comdr.) signs surrender of Amami Gunto, Tokuno Shima (2nd signer).

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 最後にスティルウェル将軍がテーブルに歩み寄り、文書に署名して、「降伏」を受諾した。将軍は日本側代表団の正面に戻り、代表団に告げた。「以上だ。諸君は宿舎に戻ってよろしい」。降伏文書のコピーが3人の署名者に渡され、日本の将軍たちは去って行った。スティルウェル将軍はその後ろを見ながら言った。「太平洋のサムライたちが去っていくんだ。戦争は終わったんだ」。』(234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 234頁より》

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琉球列島の降伏調印式。沖縄本島にて。降伏文書に調印しているスティルウェル大将。(1945年9月7日撮影)

The signing of the surrender papers for Ryukyus at Okinawa. Gen. Joseph Stillwell signs surrender papers.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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『第10軍司令部

1945年9月7日

降 伏

下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より

北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より

北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将

先島群島日本軍司令官

高田利貞少将

奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将

奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル
米国陸軍大将』

アイスバーグ作戦 – 沖縄県公文書館

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沖縄本島での降伏調印式。沖縄本島にて。降伏調印式の遠景。 頭上には航空機が飛んでいる(1945年9月7日撮影)

Ceremony of signing of Jap surrender at Okinawa, Ryukyu Islands. Long shot of ceremony with planes over head.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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沖縄市民平和の日 | 沖縄市役所

『こうして、儀式は正式に完了し、南西諸島琉球諸島の支配はアメリカ合衆国に移された。九州から台湾に及ぶ琉球列島は1879年以来日本の領土になっていた。午後12時30分、日本側代表団は読谷飛行場から北と南へ飛び立っていった。』(234頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 234頁より》

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降伏調印式は基地の中 | 琉球放送

 

 

第32軍の敗残兵

久米島(くめじま): 久米島電波探知機部隊(隊長: 鹿山正 海軍兵曹長

住民にスパイ容疑をかけて、久米島で4件もの虐殺事件を起こした鹿山隊も降伏した。

9月7日久米島守備軍鹿山曹長以下41人の日本兵が山を下りて、北原郊外の降伏調印式場へやってきた。軍政府代表としてウィルソン隊長以下モーク少佐、ラシター中尉、ホプキンソン大尉らが列席した。その後、日本兵捕虜41人は本島に送還された。

…降伏調印式が終了すると、鹿山は久米島で死んだアメリカ兵の遺体を引き渡したい、と言った。その話では、4月1日アメリカ軍航空機が久米島の海岸線に墜落し、パイロットは死亡したとのことだった。鹿山はその遺品であるという拳銃を差し出した。拳銃の皮ケースには D・R・デニングとバン・モーストラルの2つの名前が刻まれていた。』(321頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 321頁より》

9月7日、身を潜めていたはずの鹿山隊30余人が銃を肩に掛け、仲地の集落を堂々と行進していた目指すは米軍が待つ広場。降伏式に向かうところだった。鹿山は顔見知りの住民を見掛けると、「元気か?」と声を掛けて余裕を見せた。…鹿山が米軍幹部に銃を渡し、その部下たちも次々に武装を解除した沖縄戦の組織的戦闘の終結から2カ月余。久米島の住民は虐殺の恐怖からようやく解放されたのだった。』(121頁)

『米軍はこの日、久米島から鹿山隊を移送した。鹿山隊は米軍が配給した服に着替えさせられた。背中には捕虜を表す「PW」の2文字が白いペンキで大きく記されていた。食料などを詰めたとみられる箱を持たされ、行進してきた道を引き返した。降伏式前の行進していた姿とは一転し、鹿山を含めた全員がうなだれていた。「人間はこうも変わるものか」。島民らはその光景を見詰め、ただ惨めだと感じた。』(122頁)

《「奔流の彼方へ 戦後70年沖縄秘史」(島袋貞治 著・琉球新報社 編/新報新書) 122頁より》

 

恩納(おんな): 第4遊撃隊

恩納岳に潜み、いつの日か遊撃戦を展開するはずだった敗残兵たちは、前日の6日、既に捕虜となっていた日本兵の呼びかけに応じ、投降することを決めた。

『翌朝早く、小寺少尉はニコニコしながら約束どおり、私たちを山に迎えにきてくれた。持っている武器は全部捨てさせられた。

私は戦友の肩につかまり、かすかな気力をかきたてながらヨロヨロと、指定された谷茶部落の投降地への一歩一歩を踏みだした。

いちどでいいから昼間、大手を振って歩いてみたい」と思った、米軍への恐怖の小径を今日は昼間、しかも小寺少尉ひとりを信じて投降してゆく気持ちには、まだ不安がないでもなかった。

アメリカ兵は自動小銃こそ持っていたが、私たちのトラックを待たせ、チューインガムをかみながら、これまで敵であったという態度をすこしもみせなかった。

かんたんな身体検査を受けた後、私たちはトラックに乗せられた。そのとき、反対側からジープが1台疾走してきて停まり、中から半ズボン、開襟シャツに防暑帽をかむった恰幅のよい老齢の日系二世らしいひとりが降り立ってから「いよう、まだいたんだな・・・」と微笑しながら、サングラスをはずして車上の私たちを眺め廻した。その顔に私は、「どこかでみた顔だ」と、胸がつかれる思いに頭をひねってやっと思い当った。米軍協力の特別功労者として、ジープまであてがわれているその人こそは、つい4カ月前の恩納岳戦のおりに、「地理案内は私たちがいたします」といって、岩波大尉に決起をうながしたことのある白髪が頭に霜をおく恩納村村長の古山氏その人ではないか。私は瞬間、まるでハンマーか斧で頭の脳天を力いっぱい殴られたような衝撃をおぼえ、目の前が真暗になるようだった

トラックはやがて私たちの思い出の地、谷茶を離れ、仲泊を左折して島の最狭部を縦貫している東西横断道路を走って、東海岸に出た。眼下は金武湾だ。さまざまな船やヨットが浮かんでいるのが見える。左手には石川部落があってトラックはそこに立ち寄ったから、米軍保護下の住民区を垣間見ることができた。小寺少尉の説明でいまここは「沖縄の首都」になっているそうだ。屋根のとんでしまった家には米軍のテントをかけて、何万人も住んでいた。』(259-260頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 259-260頁より》

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金武湾上陸地点。/ Chimu Wan Landing Beach, Okinawa.

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『土のようだった住民の顔は、男も女ももう生色をとりかえしていた。…やがてトラック上の異様な風態をしている私たちを見ようとして、子供たちや娘さんたちが大ぜいゲートのところまで出てきた。…嘉手納飛行場の通信任務として、沖縄の大ぜいの人たちから顔を知られている私は、命ながらえた恥ずかしさに私は顔をおおっていた

私は戦闘中に悲惨であった避難民たちの面影を浮かべ、こんなにあたたかい保護がくわえられるのなら、なぜもっとはやく・・と心がくもる思いがした。そして、荒廃した島の人たちに幸あれと祈らずにおれなかった

トラックは金武湾岸を北上してゆく。

…遂に「屋嘉」にきたのだ。

どの顔も土のよう、おちくぼんだ目だけが、狼のようにけわしく光っている。鼻をつくウミのにおいに、ゴム手袋をして身体検査をするMPは思わず鼻を押え、目をそむけた。

素裸にされてDDTをかけられたあと、PW(戦争捕虜)と墨書された服に着かえされ、私たちは一人ひとり写真を撮られたうえ、調書に署名させられた

収容所はみどりの山々を背にして、海岸よりのやや開けた砂地にあった。周囲には二重に鉄条網が張りめぐらされて、正面と周囲、四カ所に監視哨がそびえている。

この鉄条網のなかに整然と天幕がならび、高級参謀の八原博道大佐以下、7千名の同胞が収容されていると聞いて、私はおどろいた。10万人あまりの軍隊から、たった7千名、あとは戦死を遂げてしまったか、斬り込み自殺、敗走中での死亡、海上での溺死、あるいは地方民への変装潜行、日本軍10万壊滅というわけだ。それにしてもよくも7千人の者が捕虜になったものだ。沖縄玉砕劇もこれで幕がおりた。この7千人はたしかに幸運なものたちであったが、私はいろいろと考え、複雑な感情におそわれた。

その人たちが、みな安心しきった表情でいるのが不思議でたまらなかった。私たちは敗戦の虚脱感の中でこの日から米軍の寛大な保護のもとに、この同胞たちの仲間入りをした。』(260-261頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 260-261頁より》

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沖縄本島石川の地元民。トラックを待つ2000名の人。各々が様々な部隊の地に向かうことになっていた。

Natives at Ishikawa, Okinawa. About 2000 people waiting for trucks to various units on island.

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