1945年 4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』

米軍の動向

北進する米軍

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1日に40マイル以上のペースで進軍する第1海兵師団第1海兵連隊第3大隊。沖縄島北端わずか数マイルの地点を進軍中、ほとんど抵抗を受けることはなかった。(1945年4月17日撮影)

Little resistance was met by these Marines of the 3rd Bn. 1st Mar. Reg't., 1st Mar. Div. as they pushed on within a very few miles of the Northern end of Okinawa in a drive that covered more than 40 miles in one day.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

本部(もとぶ)半島名護(なご)

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Chapter 06 | Our World War II Veterans

4月17日、ジーン・W・モーロウ中佐が指揮する第29海兵連隊の第1大隊が八重岳北東頂上を占拠する先陣となった。』(103頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》

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交戦するバズーカ砲部隊(1945年4月17日撮影)

A bazooka crew in action.

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『…奪るべき山は、南側の峰が削りとったようにそびえ、北は、険しくはあるが、しだいになだらかな稜線となって伊豆味-満名道路どまりになっている山である。

米軍が進んでいくと、日本軍は迫撃砲や機関銃、小銃で待ちかまえ、山上から海兵隊陣地に砲弾を雨あられのように浴びせてきた。モーロウ中佐は背後から攻撃したほうが得策と考え、4月17日の朝、きり立ったような山を登らせようと1中隊を左翼(南部)迂回させた。2小隊に山の北部へ通ずる小径を伝って進撃、ふたたび出発地点に引き返すという方法を、何回となく繰り返すよう命令を下した。中佐はこういう戦術に出れば日本軍は攻撃すべき地点がわからなくなると考えたのだ。作戦はうまくあたった。日本軍は林の中に消えていった。モーロウ中佐は山の北面にある日本軍砲兵陣地を攻撃するよう砲兵や重砲隊に命令を下した。
…この攻撃で、米砲兵隊はおよそ10名の日本兵を殺し、20ミリ砲5門を奪取した。』(138頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 138頁より》

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砲撃するバズーカ砲部隊の砲手(1945年4月17日撮影)

A bazooka crew firing.

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周辺離島の制圧 

伊江島(いえじま)

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伊江島攻略 1945年4月16〜21日

Assault and Capture of Ie Shima  16-21 Apr 45

HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

『…4月17日、第305連隊は、レッド・ビーチ後方の高台占領のため攻撃することになり、その準備として水納島の砲兵隊2隊が、日本軍陣地に軽い砲撃を加え、さらに、伊江島に上陸した1大隊からも砲撃を撃ち込んでから、第1、第3大隊が東方に進撃した。…第1大隊のほうは海岸沿いに進撃していったが、日本軍の抵抗は少なく、朝のうちに高台に到達した。そしてこの部隊は、正午までにはさらに700メートル前進して、レッド・ビーチ後方地域の一部を確保できたのである。

一方、第3大隊の方は、町から700メートル足らずの高台をすばやく占領はしたものの、…日本軍は第305連隊左翼の山腹にある洞窟から重機で猛烈な攻撃をあびせてきたので、米軍の前進は阻まれ、進撃がおくれた。そのために歩兵戦車隊の後につづいて、米軍はまずこの陣地を攻撃、これを陥落させてから前進をつづけた。

この日の朝は、時たま日本軍が迫撃砲や小銃、機関銃ではげしく応戦してきたので前進がかなりおくれたが、12時45分までには第3大隊は中央ビーチ後方の台地を確保して町はずれまで接近した。』(152-153頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 152-153頁より》

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FIGHTING TOWARD IE, American troops were held up close to the town by strong Japanese positions. The morning of 17 April the 305th Infantry, 77th Division, paused while artillery pounded Japanese positions in the western outskirts (smoke-covered area).

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

17日、第306歩兵連隊は、後方からの掩護射撃で第305連隊の前進を支援できるような場所に部隊を配置し、戦闘偵察隊を出して伊江城周辺の陣地を探らせた。』(153頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 153頁より》

『米軍は援軍として、4月17日の朝、第307連隊2個大隊を島の南西海岸と東海岸上陸させた。』(260頁)

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 260頁より》

『…第307連隊をあえて上陸させた主な理由は、島を一刻も早く占領したかったためである。

…第307連隊は、午後1時に総攻撃を開始した。日本軍の反撃はしだいに激しさを増していった。両大隊とも、2時間で、およそ360メートルしか前進できなかった。米軍は前方の台地に進出するにしても遮蔽物のない広場を通らねばならなかった。

日本軍は伊江城の陣地や、その前にある台地から、完全に米軍の行動を観察することができた。この城周辺の陣地のなかで最も堅固な陣地は、突出した丘と、その丘の上、城から南西方630メートルの地点にある大きなコンクリートの建物だった。』(154頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 154頁より》

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破壊された、コンクリート製の建物。伊江島の町の中心にある丘の上にて。

Destroyed concrete building on hill in center of Ie Shima Town, Ryukyu Islands.

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『第307連隊は、17日の午後になってもわずかしか前進できなかった。町の近くでは第3大隊は鉄条網を張り巡らし、地雷を敷設した強力な陣地に遭遇し、家を一戸一戸撃破していく戦法がしばらくつづいた。通りには地雷が埋まり、また爆弾で飛び散った瓦礫が散乱していたため、自動操縦砲の進出は不可能となり、道路を片づけようとした工兵隊に、日本軍は機関銃の一斉射撃をあびせてきた。第3大隊は町の南方---ゆるやかな丘陵地帯にそって、数百メートル東のほうへ前進しただけであった。

…どの米軍大隊も目の前にそびえた丘陵地帯から迫撃砲や小銃弾の猛射をあびていた。自動操縦砲は地雷で足止めをくらい、戦車もまだ上陸してなかったので、歩兵や工兵は日本軍主力の狙い撃ちをまともにうけざるをえなかった。』(154-155頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 154-155頁より》

 

南進する米軍

嘉数(かかず)高地以南への総攻撃計画

『第24軍団司令官ホッジ将軍の攻撃計画は、首里周辺の複雑な防御組織を撃破して該高地を占領し、那覇-与那原道に到達せんとするにあった。第7師団は、東方において178高地を奪取し、爾後その作戦地域を那覇ー与那原道に向かい進撃する。第96師団(第383連隊欠)は、直路首里中央部に向かい突進し、首里およびその南方の公路に至る地区を占領する。

以上両師団の攻撃発起はH時(4月19日午前6時40分)と規定された。
第27師団は、H+50分、前夜占領した陣地より攻撃発起する。その任務は、嘉数高地、前田断崖、その南方地帯および海岸地帯の那覇ー与那原道に至る地区を占領する。第27師団の攻撃発起の時機を遅らせたのは、砲兵の集中火を東方より逐次西方に指向せんとする計画に基づくのである。』(249頁)

『…4月19日攻撃に先だって、指揮下第7、第96、第27の三師団長に与えた前進目標は、那覇-首里-与那原道の線であった。』(252頁)

『ホッジ将軍は、戦局の進展に多大な期待をかけた。…「これはいよいよ困難になってくるわい」と攻撃の2日前に述べた。「6万5千ないし7万の日本兵は、南端で穴にこもっている。彼らを駆り出すには一寸刻みに爆破するより他に手がない」と。』(249-250頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 252、249、249-250頁より》

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第383連隊の軽機関銃チームの2人。左からザビエラキ兵とドロバ上等兵。彼らは同日入隊し、基礎訓練も一緒に受けた。嘉数高台の戦闘ではこの軽機関銃で敵の機関銃射手を倒している(1945年4月17日撮影)

Two members of a light machine gun team with the 383rd Regiment are L.R: Alex Zabielaki, 25, of 5101 South Lcamington St., Chicago.Ill., and Pfc John Doroba, 24, of 2929 38th Place, Chicago, Ill. They were inducted on the same day and had their basic training together. The light machine gun knocked out one enemy machine gun during the battle of Kakazu Ridge.

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『この作戦を実行するため米軍は一週間ものあいだ作戦に作戦を練った。3個師団がともに強烈な攻撃を敢行すれば中南部首里防衛線は突破できると信じたからだ。

…第96師団は、第383連隊が軍団予備軍として残留するほか全師団が首里防衛の心臓部まで進撃することになった。』(181頁)

『…予備軍として海上にいた第27師団は、4月9日、読谷村渡具知に上陸し、攻撃増援軍となり、第24軍団に配属されて、第96師団とともに西部を固めた。4月15日までには、第27師団は配置につき、攻撃準備態勢をととのえていた。

このほかさらに、1200の増援部隊が、第7師団と第96師団に送られ、攻撃部隊に加わった。これらの増援部隊はサイパンで訓練をうけ、整備をととのえ、数時間で沖縄の部隊と交替した。』(185頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 181、185頁より》

 

日本兵と民間人捕虜の収容

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沖縄の“Shano“に不時着した日本兵パイロットに問いかけるウィージャヴォル少尉。衛生下士官が応急処置を施す。(1945年4月17日撮影)

Second Lieutenant George Oujervoll of New York City questions a Jap pilot who had landed (crash) at Shano, Okinawa while the corpsman gives him first aid.

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新たに山から下りてきた人々。彼らには住む場所が与えられる(1945年4月17日撮影)

New Okinawans arriving from hills to be given lodging, etc.

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センターに集められた人々は年齢、名前、職業によって振り分けられ、住む家を与えられる(1945年4月17日撮影)

At same reception center where they will be classified for age, name, occupation and then given a home to live in.

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ルーレス大尉と田井等市民から選ばれた市長と役員(1945年4月17日撮影)

Lt(sg) Owen R. Loueless, 1002 W. 8th Street, Junction City, Kansas, with the town mayor and his new town council which the mayor and officers picked out of all the men in Taira.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

  

日本軍の動向

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Enemy casualty of battle on Okinawa in Ryukyus. 17 April 1945.
沖縄本島での戦闘における日本軍の犠牲者。(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

北部戦線

本部(もとぶ)半島: 八重岳(国頭支隊・宇土大佐)

『八重岳など本部半島にいた将兵たちは転進命令を受け、17日ごろから多野岳方面に脱出を図ったが、途中の武田薬草付近で多くの犠牲を出した。』(93-94頁)

宇土部隊の夜間移動は、何度も米軍と遭遇し、その度に蜘蛛の子を散らすように“散っては集まる”という状態での移動だった。』(218頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 93-94、218頁より》

  

八重岳野戦病院陸軍病院名護分院)

『八重岳の麓に「芭蕉敷」と呼ばれた地域がある。国頭支隊(宇土部隊)は、その芭蕉敷を流れるチンダガー(金田川)上流の湧水口(ワクグチ)域に宇土隊司令部を置き、その下方のチンダガー沿いにあった2戸の屋敷周辺に兵舎や炊事場などを置いた。そして、その約100m上部の谷間を利用して八重岳野戦病院陸軍病院名護分院)を設置した。』(230頁)

『八重岳野戦病院陸軍病院名護分院)は、米軍上陸による戦闘が激化すると、負傷兵も日に日に増え兵舎も病棟に替わり、衛生兵や看護婦、三高女の学生は病棟横に手で掘られた壕に移ることになった。そこは敷物もなく、彼女たちは冷たい土の上で仮眠をとったという。

4月9日頃から負傷兵が次々と運び込まれてきた。病室に入りきれない負傷兵は道路に並べられ、治療する前に息絶える兵隊も増えていったという。看護要員だった三高女の生徒は、チンダガーの炊事場からの飯上げや病棟に溢れかえる負傷兵の看護など、不眠不休で働いた。(231-232頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 229頁より》

『沖縄陸軍病院名護分院も、4月16日夜に八重岳の山下りをした。軍医、衛生兵、看護婦、なごらん学徒隊、歩行可能患者らおよそ70人がれつを作った。歩けない多くの重症者の枕元に、自爆用の手榴弾を置いて去った。寝床の上で患者たちは、「海ゆかば」をか細く口ずさんだ。翌4月17日、夜明けとともに山下り集団が米軍の迫撃砲で狙い撃ちされた。この日、4月17日に米軍は八重岳の占領を終えた。そして多野岳の攻防へと移った。』(99-100頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 99-100頁より》

 

県立第3高等女学校(なごらん学徒隊)

『1945年(昭和20)年3月24日、第三高等女学校では、看護教育を受けた20名の中から10名に動員命令が出された。10名は3月26日、国頭支隊本部(第2歩兵隊本部)の陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)に看護要員として入隊した。』(229頁)

なごらん学徒隊の証言:

『艦砲射撃の集中砲火をあびせて来た。夜になると負傷兵が運びこまれ、手足を切断する大手術も麻酔なしだった。手術室では足の切断するんですよ。膝から骨が少し残っていてぶらさがっていましたから。掘っ立て小屋で電気なんかないですから、そうめん箱にろうそくを立てて、軍医の手元を照らして糸ノコでガサガサ切るんですよ。』(232頁)

『4月16日の夕方ついに命令が出た。「全員、この場所から移動して多野岳に集結せよ」と。私たちの病院は、南風原陸軍病院の分院だったので宇土部隊とは別行動だった。隊長の渡口精一中尉の命令で、歩けない重傷兵に手榴弾2個と乾パンの袋を配った。』(233頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 229、232、233頁より》

youtu.be

なごらん学徒隊 状況1 陣地構築作業 - YouTube

なごらん学徒隊の証言:

『八重岳の裏側あたりについた頃、夜は白々と明けかけ、周囲もはっきり見えるようになっていた。敵の軽飛行機が飛んできて偵察を始めたらしいと思うや、迫撃砲による一斉射撃が始まった。病院の大城軍医も、そこで戦死された。看護婦も何名か亡くなった。夕方には、敵は砲撃をやめるので、もしやこの辺に廻ってくるのではないかと、不気味な感が漂った。』(233頁)

 《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 233頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail70_img.jpg

沖縄戦の絵】艦砲射撃を受けるなごらん学徒たち

『名護市にあった第3 高等女学校の女学生で組織された看護学徒隊(なごらん学徒隊)…、沖縄本島北部・本部半島の八重岳の陣地の日本軍部隊に従軍した。絵は部隊に解散命令が出た後の4 月17 日、八重岳から多野岳に行く途中の山中で砲撃を受けた様子。』

艦砲射撃を受けるなごらん学徒たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

伊江島には、国頭支隊所属伊江島地区隊井川正少佐が指揮する第2歩兵第1大隊と独立機関銃中隊、速射砲中隊、野砲小隊などの約7,000名 (米軍記録、日本軍の記録では約2,700名) の兵員が守備にあたっていた。ほかに、婦女子をふくめ地元住民がおよそ4,000名 (防衛庁の記録では3,000名) いた。』(106頁)

伊江島には、6800名の住民がいた(防衛庁記録)。そのうち守備軍の督促を受けて1944年3月末までに約3000名が沖縄本島疎開した。が、14、5歳以上の者の避難は許されなかった。いざ戦闘が始まると、住民は、女子救護班女子協力隊青年義勇隊、あるいは防衛隊員として招集されるか、自ら志願するかして戦場に出た。』(107頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 106、107頁より》

伊江島防衛隊

伊江島防衛隊員昭和19年の10月に500人、11月に200人、沖縄戦直前の3月に100人増強されて計800人が名護町(当時)屋部出身の宜保豊猛中尉に率いられて3個中隊に分かれ、島の中央部にあった飛行場から西側の守備に当たっていた。主な任務は飛行場の整備保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾と竹ヤリが武器のすべてだったという。

同部隊には、米軍上陸が迫る3月、飛行場破壊命令が出され、終了後は本島に引き揚げるよう軍命があったというが、本島へ渡ろうにも船はなく、そのまま島の防衛につくしかなかった。「米軍は上陸後、飛行場を中心に島を占領島は東西に分断されてしまって、東側を守備していた日本軍主力との連絡も途絶え、何も分からないまま戦闘を続けていた」。同防衛隊は恩納村以北の各部落かた召集された人らで編成されていた。』(168頁)

防衛隊員の証言:

『「上陸したその日のうちに、戦車を先頭に押し寄せてくる米軍にじゅうりんされ、部隊はほとんどが壊滅した。それ以後は山のりょう線に沿って掘られたたこ壷に身を潜め、夜になってからはい出し、各自に2個ずつ配られていた手投げ弾だけを頼りに夜襲が行われた」。』(168頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 168頁より》

4月17日、米軍は、伊江村西江前(にしえまえ)のシキミズ池東軍隊壕に攻撃を開始する。この壕は、防衛隊員らが米軍上陸の10日ほど前から昼夜を問わず4、5日かけて掘ったもので、海岸から数百メートル離れた小高い丘にあり、田村中隊の守備区であった。

『米軍は上陸の翌日、17日には同壕への攻撃を開始。正面からも、丘の上に通ずる抜け道からも攻めて来た。当時、壕内には、14、5人の日本兵が潜んでいた。米軍の侵入を防ぐため、正面入り口付近に置いてあったダイナマイトを爆破してふさいだ。全員が爆風で服はボロボロ。鼻からは血が噴き出し、惨々な状態となったが、これ以上はなす術を知らない。「首をすくめた亀の子と同じ」で、どうにもできなかった』(172頁)

『…正面入り口が爆破されたことから、米軍は裏に回って“馬のり攻撃”。ガソリンを注ぎ、火炎放射器で攻め寄せた。』(172頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 172頁より》

http://www.ww2incolor.com/d/309156-4/PICT5128

火炎放射器で洞窟陣地を攻撃する海兵隊(撮影場所は不明)

US Marines - Flamethrower on Okinawa

 

馬乗り攻撃とは


『守備軍将兵は、友軍の2、30倍もの優位な戦力と無尽蔵を思わせる物量で押しまくってくる米軍にたいし、洞窟作戦で対決したものの、かれらにとってこわいのは敵の〝馬乗り攻撃〟であった。敵がその強烈な火力を動員して防衛軍に地下陣地から攻撃に出るスキも与えず穴に閉じこめたまま洞窟陣地の上に狙撃兵を配備、攻撃をかけるのが〝馬乗り〟である。』(50頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 50頁より抜粋》

 

中南部戦線

嘉数(かかず)・牧港(まちなと)

『原大佐の指揮する精鋭独歩第13大隊、途中これに代わった独歩第23大隊、ならびにこれに協力する独立臼砲第1連隊および軽迫撃大隊等の奮戦により、敵は嘉数および75高地正面を突破する能わず、4月17、8日ごろより、わが左翼牧港方面に侵入を始め、わが虚に乗じ、48高地を奪取、さらに勢いに乗じ、東南進して伊祖城址に突入してきた。前田、仲間付近わが守備隊の左側背を脅威せんとするものである。』(228-229頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 228-229頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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田井等区のはずれから流れる川で、体を洗ったり、家族の衣服を洗濯している地元の女性。(1945年4月17日撮影)

Okinawan women washing themselves and family clothes at stream that runs along the farside of Taira.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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老人とその家族。所持品すべてを携え、これから住むことになる家へ向かう(1945年4月17日撮影)

An old Okinawan man and his family with all of their belongings trying to find their way to a house that they may occupy.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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【特集 島は戦場だった】なごらん学徒の戦争体験

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 特集 島は戦場だった なごらん学徒の戦争体験

 

【戦跡と証言】八重岳の野戦病院壕(本部町)

www.nhk.or.jp

 

【証言記録】八重岳野戦病院からの撤退

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【戦跡と証言】沖縄武田薬草園跡(名護市)

www.nhk.or.jp