〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』

八重岳陥落住民虐殺 / 伊江島の戦争2日目 / 嘉数の戦い / 軍と新聞記者

 

米軍の動向

北進する米軍 - 本部半島と伊江島

本部半島: 閉じられる円

USMC-OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

4月17日ジーン・W・モーロウ中佐が指揮する第29海兵連隊の第1大隊が八重岳北東頂上を占拠する先陣となった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》

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A bazooka crew in action. 交戦するバズーカ砲部隊(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

… 奪るべき山は、南側の峰が削りとったようにそびえ、北は、険しくはあるが、しだいになだらかな稜線となって伊豆味-満名道路どまりになっている山である。

米軍が進んでいくと、日本軍は迫撃砲や機関銃、小銃で待ちかまえ、山上から海兵隊陣地に砲弾を雨あられのように浴びせてきた。モーロウ中佐は背後から攻撃したほうが得策と考え、4月17日の朝、きり立ったような山を登らせようと1中隊を左翼(南部)迂回させた。2小隊に山の北部へ通ずる小径を伝って進撃、ふたたび出発地点に引き返すという方法を、何回となく繰り返すよう命令を下した。中佐はこういう戦術に出れば日本軍は攻撃すべき地点がわからなくなると考えたのだ。作戦はうまくあたった。日本軍は林の中に消えていった。モーロウ中佐は山の北面にある日本軍砲兵陣地を攻撃するよう砲兵や重砲隊に命令を下した。…この攻撃で、米砲兵隊はおよそ10名の日本兵を殺し、20ミリ砲5門を奪取した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 138頁より》

 

伊江島の戦い、2日目

Assault and Capture of Ie Shima  16-21 Apr 45 江島攻略 1945年4月16〜21日

HyperWar: USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

米軍は援軍として、4月17日の朝、第307連隊2個大隊を島の南西海岸と東海岸上陸させた。

《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 260頁より》

… 第307連隊をあえて上陸させた主な理由は、島を一刻も早く占領したかったためである。… 第307連隊は、午後1時に総攻撃を開始した。日本軍の反撃はしだいに激しさを増していった。両大隊とも、2時間で、およそ360メートルしか前進できなかった。米軍は前方の台地に進出するにしても遮蔽物のない広場を通らねばならなかった。日本軍は伊江城の陣地や、その前にある台地から、完全に米軍の行動を観察することができた。この城周辺の陣地のなかで最も堅固な陣地は、突出した丘と、その丘の上、城から南西方630メートルの地点にある大きなコンクリートの建物だった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 154頁より》

この日の朝は、時たま日本軍が迫撃砲や小銃、機関銃ではげしく応戦してきたので前進がかなりおくれたが、12時45分までには第3大隊は中央ビーチ後方の台地を確保して町はずれまで接近した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 152-153頁より》

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伊江島の戦い。アメリカの部隊は軍は日本の強力な砦によって町の近くではばまれた。 4月17日の朝、第77師団の第305歩兵団は一時停止し、砲兵は西部郊外(煙に覆われた地域)で日本の陣地への砲撃を開始した。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

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Destroyed concrete building on hill in center of Ie Shima Town, Ryukyu Islands. 破壊された、コンクリート製の建物。伊江島の町の中心にある丘の上にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

第307連隊は、17日の午後になってもわずかしか前進できなかった。町の近くでは第3大隊は鉄条網を張り巡らし、地雷を敷設した強力な陣地に遭遇し、家を一戸一戸撃破していく戦法がしばらくつづいた。通りには地雷が埋まり、また爆弾で飛び散った瓦礫が散乱していたため、自動操縦砲の進出は不可能となり、道路を片づけようとした工兵隊に、日本軍は機関銃の一斉射撃をあびせてきた。第3大隊は町の南方---ゆるやかな丘陵地帯にそって、数百メートル東のほうへ前進しただけであった。… どの米軍大隊も目の前にそびえた丘陵地帯から迫撃砲や小銃弾の猛射をあびていた。自動操縦砲は地雷で足止めをくらい、戦車もまだ上陸してなかったので、歩兵や工兵は日本軍主力の狙い撃ちをまともにうけざるをえなかった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 154-155頁》

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A bazooka crew firing. 砲撃するバズーカ砲部隊の砲手(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

南進する米軍 - 嘉数の戦い

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米軍の到達目標は主戦ラインの南の青線で囲まれた地帯

 嘉数高地以南への総攻撃計画

第24軍団司令官ホッジ将軍の攻撃計画は、首里周辺の複雑な防御組織を撃破して該高地を占領し、那覇-与那原道に到達せんとするにあった。(249頁) … 「これはいよいよ困難になってくるわい」と攻撃の2日前に述べた。「6万5千ないし7万の日本兵は、南端で穴にこもっている。彼らを駆り出すには一寸刻みに爆破するより他に手がない」と。(249-250頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 》

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第383連隊の軽機関銃チームの2人。左からザビエラキ兵とドロバ上等兵。彼らは同日入隊し、基礎訓練も一緒に受けた。嘉数高台の戦闘ではこの軽機関銃で敵の機関銃射手を倒している(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

やがて17日頃から防衛線が崩れ始める。

原大佐の指揮する精鋭独歩第13大隊、途中これに代わった独歩第23大隊、ならびにこれに協力する独立臼砲第1連隊および軽迫撃大隊等の奮戦により、敵は嘉数および75高地正面を突破する能わず、4月17、8日ごろより、わが左翼牧港方面に侵入を始め、わが虚に乗じ、48高地を奪取、さらに勢いに乗じ、東南進して伊祖城址に突入してきた。前田、仲間付近わが守備隊の左側背を脅威せんとするものである。』(228-229頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 228-229頁より》

 

軍と新聞

海兵隊の広報担当とプレスセンター。アーニー・パイルユージン・スミスなど、多くの記者が沖縄戦を取材した。

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MARINE CORPS PUBLIC RELATIONS personnel are shown in front of the Okinawa Press Club which is operated for war correspondents and photographers by the public relations section of Colonel John C. Munn's Marine Aircraft Group. 海兵隊広報担当職員。海兵隊飛行部隊マン大佐以下広報課の通信員、カメラマンで運営されている沖縄プレスクラブの前にて (1945年 4月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

一方、日本の記者はどのように沖縄戦を報道したのだろうか。

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This is another picture that would be hard for the emperor's propaganda officials to explain to the Japanese. Two Marine Corsairs fly low over a Jap memorial on Yontan airfield at Okinawa. 天皇の広報係はこれを国民に何と説明するだろうか。海兵隊所属コルセア戦闘機が読谷飛行場の忠魂碑*1 をかすめるように低空飛行していく (読谷村: 1945年4月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

沖縄にいる日本の記者たちは ・・・

沖縄戦直前の緊迫した情況を伝える沖縄新報の記事 : 那覇市歴史博物館

1930年代に入り、政府・軍部の台頭とともに言論が圧迫されるようになり、沖縄の新聞も毎日のように特高課を通して記事の差し止めを受けていました。1937年(昭和12)の日中戦争開始以後1945年(昭和20)の敗戦までの間は、政府・軍部の統制下におかれるとともに、取り締まりを容易に行うことを目的として全国的に新聞社の統廃合が進められました。沖縄では1940年(昭和15)12月、『沖縄朝日新聞』『沖縄日報』『琉球新報』が『沖縄新報』に統合されました。 

琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ | 近代沖縄と新聞

新聞は、第32軍司令部壕に隣接する壕で、そこから外に出ることなく軍からの情報を活字にした。

『沖縄新報』は、1945年(昭和20)4月1日の米軍の沖縄島上陸後も首里城内の留魂壕隣りの壕で「砲煙弾雨をくぐって」発刊が続けられました。

琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ | 近代沖縄と新聞

 

第32軍の動向

暴走する宇土部隊 - 連続する住民虐殺

USMC-OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

本部半島: 八重岳が包囲され、16日の夜、全滅を恐れた国頭支隊は撤退を決める。宇土大佐が愛人とされる女性たちと共に多野岳に退却するなか、防衛隊員や学徒兵を寄せ集めて編成された各部隊は多くの犠牲者を出す。

八重岳など本部半島にいた将兵たちは転進命令を受け、17日ごろから多野岳方面に脱出を図ったが、途中の薬草園付近で多くの犠牲を出した。(93-94頁)

宇土部隊の夜間移動は、何度も米軍と遭遇し、その度に蜘蛛の子を散らすように“散っては集まる”という状態での移動だった。(218頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 93-94、218頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/110-30-1.jpg

Enemy casualty of battle on Okinawa in Ryukyus. 17 April 1945. 沖縄本島での戦闘における日本軍の犠牲者。(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

本部国民学校 照屋忠英校長の虐殺

その頃、二人の住民が日本軍によって虐殺されている。それぞれ日本軍に協力的であった国民学校校長と伊豆見の商人であった。

住民は、「宇土部隊は一体、何をしているのか、こんなことでいいのか」と、不満をもらすようになり、不信の念を抱きはじめた。

本部国民学校長の照屋忠英氏(五十四歳)は、宇土部隊に対する不信の声を、沈痛な面持ちで聞いていた。彼は、宇土部隊の要請で、青年学校の生徒たちを戦陣へ送っていた。米軍上陸の直前まで、特攻精神を鼓吹し、年端の行かぬ少年たちまで戦野にかり出したので、彼はじっとしていられなくなった。宇土部隊へ行って連絡してくる」と、彼はたびたび言った。

山川泰邦著 『秘録・沖縄戦記』 (1969年)

「父は、家族用の食糧も、日本軍にはすべて提供するほど、最大限の協力をした。だのに、なぜ軍は矛先を向けたのか」  

沖縄タイムス日本兵「スパイ殺害」記述 / 沖縄戦 住民虐殺裏付け』(2005年12月28日)

事件の後、地域の指導者だった忠英さんの兄忠助さん(故人)も日本軍に狙われた。「毎夜、日本兵が戸をトントンたたき、ひそひそ声だが、威嚇する調子で、『照屋忠助はいないか』と尋ねた。伯父は恐れて、家で寝ずに、朝になるまで山中で過ごした」という。

1945年4月17日、あれだけ軍に貢献したのに・・・、国民学校 照屋忠英 校長の虐殺 ~ 日本軍「今帰仁の整理」の最初の犠牲者 - Battle of Okinawa

 

 

伊豆見の商人、太田守徳の虐殺

伊豆見の商人も虐殺される。後の6月18日に死亡した白石隊の兵士の手帳には、「スパイとして処刑」したことが記録されていた。

四月末ごろのある夜のことであった。どしゃ降りの雨の中を、本部町伊豆味の山間の、とある一軒家に忍び寄る五つの黒い影があった。一軒家には、太田守徳氏(当時五〇歳)の家族が避難していた。黒い影がトン、トンと、雨戸をたたいて、「太田さん、太田さん!」と呼んだ。太田夫妻は、この雨の夜の訪問者に不安を感じ、だまっていた。「太田さん。○○に行く道を教えてください」――守徳氏は不安を抱きながらも、仕方なく雨戸をあけた。姿を現したのは友軍の兵隊だった。…  守徳氏は伊豆味の内原の路傍で、死体になって横たわっていた。死体は背後から銃剣か日本刀で刺され、うつ伏せになり、朱に染まって倒れていた。これを知って村の人たちは、悲憤の涙をのんだ。そしてこんなことをささやき合った。「守徳さんはねらわれていたらしい。何しろ守徳さんは、肉や豆腐を部隊に納めるために陣地(壕)に出入りして部隊の地形に通じていたから、生かしておけぬと、殺してしまったのだ。友軍の陣地に出入りしたものは守徳さんのようにやられるぞ!」村人たちは、暗い顔でこんなことをひそひそ話し合い、恐れおののいた。

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』 (1969年) 》

太田守徳という人も、道案内をしてくれと誘い出され、斬殺されていたので、私たちは、昼は米兵に見つからないように逃げ隠れし、夜は夜で敗残兵の出現におびえるという恐怖の日々が続いた。ほかの地域の人々が羽地などにひっぱられて行ったあとも、伊豆味ではこんな状態がなおしばらく続いていたのであった。 

「日本兵による虐殺 - 伊豆見」 沖縄戦証言 本部半島 (1)

 

 

八重岳野戦病院となごらん学徒隊

八重岳野戦病院からの撤退

八重岳の麓に「芭蕉敷」と呼ばれた地域がある。国頭支隊(宇土部隊)は、その芭蕉敷を流れるチンダガー(金田川)上流の湧水口(ワクグチ)域に宇土隊司令部を置き、その下方のチンダガー沿いにあった2戸の屋敷周辺に兵舎や炊事場などを置いた。そして、その約100m上部の谷間を利用して八重岳野戦病院陸軍病院名護分院)を設置した。(230頁)

八重岳野戦病院陸軍病院名護分院)は、米軍上陸による戦闘が激化すると、負傷兵も日に日に増え兵舎も病棟に替わり、衛生兵や看護婦、三高女の学生は病棟横に手で掘られた壕に移ることになった。そこは敷物もなく、彼女たちは冷たい土の上で仮眠をとったという。4月9日頃から負傷兵が次々と運び込まれてきた。病室に入りきれない負傷兵は道路に並べられ、治療する前に息絶える兵隊も増えていったという。看護要員だった三高女の生徒は、チンダガーの炊事場からの飯上げや病棟に溢れかえる負傷兵の看護など、不眠不休で働いた。(231-232頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 》

沖縄陸軍病院名護分院も、4月16日夜に八重岳の山下りをした。軍医、衛生兵、看護婦、なごらん学徒隊、歩行可能患者らおよそ70人が列を作った。歩けない多くの重症者の枕元に、自爆用の手榴弾を置いて去った。寝床の上で患者たちは、「海ゆかば」をか細く口ずさんだ。翌4月17日、夜明けとともに山下り集団が米軍の迫撃砲で狙い撃ちされた。この日、4月17日に米軍は八重岳の占領を終えた。そして多野岳の攻防へと移った。

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 99-100頁より》

なごらん学徒の少女は、命令通り兵士の枕元に手榴弾を配ってまわった。一兵士から問われたとき、「よくわかりません、配れと言われた」としか返事できなかった。

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本部町、標高453メートルの八重岳にある野戦病院跡です。病棟は壕ではなく、切り出された丸太を使って建てられました。昭和20年4月8日、アメリカ軍は八重岳への攻撃を開始しました。負傷した兵士が次々とこの野戦病院に運ばれてきましたが、次第に麻酔が足りなくなり、意識があるまま手術が行われることもありました。
戦況が悪化し、部隊は撤退することとなりました。八重岳で戦闘が始まってから8日後、歩くことができない兵士に、手りゅう弾を1発ずつ渡されました。撤退を前に、負傷兵を置き去りにする軍の決定でした。本部町の記録では、300人近くの兵士がこの場所に取り残されたといわれています。

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沖縄県本部町 八重岳の野戦病院壕|NHK 戦争証言アーカイブス

なごらん学徒隊とは

艦砲射撃の集中砲火をあびせて来た。夜になると負傷兵が運びこまれ、手足を切断する大手術も麻酔なしだった。手術室では足の切断するんですよ。膝から骨が少し残っていてぶらさがっていましたから。掘っ立て小屋で電気なんかないですから、そうめん箱にろうそくを立てて、軍医の手元を照らして糸ノコでガサガサ切るんですよ。(232頁)

4月16日の夕方ついに命令が出た。「全員、この場所から移動して多野岳に集結せよ」と。私たちの病院は、南風原陸軍病院の分院だったので宇土部隊とは別行動だった。隊長の渡口精一中尉の命令で、歩けない重傷兵に手榴弾2個と乾パンの袋を配った。(233頁)

《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 229、232、233頁より》

沖縄戦の絵】艦砲射撃を受けるなごらん学徒たち

上原さんは名護市にあった第3高等女学校の女学生で組織された看護学徒隊(なごらん学徒隊)に動員され、沖縄本島北部・本部半島の八重岳の陣地の日本軍部隊に従軍した。絵は部隊に解散命令が出た後の4 月17日八重岳から多野岳に行く途中の山中で砲撃を受けた様子。右上に倒れているのが上原さん自身。腹から血が噴き出しているのは日本兵。左下で頭を抱えているのは同級生、その上に足がちぎれた日本兵、さらに端には逃げる同級生の姿がある。 上原さんは砲撃で飛び散った破片が右足の甲を貫通、歩けなくなった。砲撃に続く激しい銃撃に、そばにいた日本兵のように自分も死ぬのだと思ったが、同級生2 人に抱えられ、避難することができた。

艦砲射撃を受けるなごらん学徒たち | NHK 沖縄放送局

なごらん学徒隊の証言 ③:

4月17日八重岳野戦病院を撤退して、隠れていた山中に、突然砲弾が所構わず飛んできた。多くの仲間が砲弾を受けて、無残にも命を落としていった。看護婦や学徒たちは、その場で応急処置を行なった。私も右足の甲に破片がくい込んでいた。抜き取ろうとしたが、びくともしない。消毒だけして三角巾で包んだ。怪我人の応急処置が終わると、みんな我先にと安全地帯を求めて逃げて行った。(134頁)

私は学友2人に両脇を抱えられたり、四つん這いになったりしながら必死で後を追った。土地勘のない集団だったので、うまく前進できない。いらいらした兵が私に銃を向け、「女は邪魔だ。ついて来ると撃つぞ」と脅した。幸いに仲間の班長がかばってくれて難を逃れた。…竹藪を突っ切ると、民家の焼け跡に出た。そこを通り過ぎ墓地に着いた。そこは伊豆味の石水という集落だった。…これ以上この集団と行動を共にすることはできないと思い、防衛隊員の方に頼んで墓を開けてもらい、…7人が中に入った。外に残っていた兵隊たちは、「安全地帯を見つけたら、迎えに来るから。」と声をかけて立ち去った。私はその言葉を信じなかった。どうせ気休めを言っているのだと思った。(136頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 134、136頁より》

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大城さん「女学生まで国のためにつくせ。死んだら靖国に祀られる間違った教育」そんな教育は二度とされないように。大城さんは学校の防衛要員として大宜味村の山中で3ヶ月過ごし、上原さんは爆弾の破片で足を負傷し、日本軍に何度も自決を迫られる中、なんとか山を降りたということです。

特集 島は戦場だった なごらん学徒の戦争体験 – QAB NEWS Headline

公文書館には一人のなごらん学徒の調書が記録されている。19日、多野岳に移動する際、兵士五人は射殺され、彼女一人が捕虜となった。

彼女は、鬼畜米軍 (Murderous Americans) から身を守るため、手榴弾を使おうとしたのを認めている。彼女は、すっかり日本の宣伝を守るべくたたき込まれている。今なお岸本は、恐怖におびえ尋問は困難である。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版、2015年 p. 120》

 

伊江島の「六日戦争」- シキミズ池東軍隊壕

伊江島:(国頭支隊・井川少佐)

伊江島には、国頭支隊所属伊江島地区隊井川正少佐が指揮する第2歩兵第1大隊と独立機関銃中隊、速射砲中隊、野砲小隊などの約7,000名 (米軍記録、日本軍の記録では約2,700名) の兵員が守備にあたっていた。ほかに、婦女子をふくめ地元住民がおよそ4,000名 (防衛庁の記録では3,000名) いた。(106頁)

伊江島には、6800名の住民がいた(防衛庁記録)。そのうち守備軍の督促を受けて1944年3月末までに約3000名が沖縄本島疎開した。が、14、5歳以上の者の避難は許されなかった。いざ戦闘が始まると、住民は、女子救護班女子協力隊青年義勇隊、あるいは防衛隊員として招集されるか、自ら志願するかして戦場に出た。(107頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 106、107頁より》

伊江島の防衛隊

伊江島の防衛隊員は昭和19年の10月に500人、11月に200人、沖縄戦直前の3月に100人増強されて計800人が名護町(当時)屋部出身の宜保豊猛中尉に率いられて3個中隊に分かれ、島の中央部にあった飛行場から西側の守備に当たっていた。主な任務は飛行場の整備保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾竹ヤリが武器のすべてだったという。

同部隊には、米軍上陸が迫る3月、飛行場破壊命令が出され、終了後は本島に引き揚げるよう軍命があったというが、本島へ渡ろうにも船はなく、そのまま島の防衛につくしかなかった。「米軍は上陸後、飛行場を中心に島を占領。島は東西に分断されてしまって、東側を守備していた日本軍主力との連絡も途絶え、何も分からないまま戦闘を続けていた」。同防衛隊は恩納村以北の各部落かた召集された人らで編成されていた。(168頁)

防衛隊員の証言:

「上陸したその日のうちに、戦車を先頭に押し寄せてくる米軍にじゅうりんされ、部隊はほとんどが壊滅した。それ以後は山のりょう線に沿って掘られたたこ壷に身を潜め、夜になってからはい出し、各自に2個ずつ配られていた手投げ弾だけを頼りに夜襲が行われた」。(168頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 168頁より》

4月17日、米軍は、伊江村西江前(にしえまえ)のシキミズ池東軍隊壕に攻撃を開始する。この壕は、防衛隊員らが米軍上陸の10日ほど前から昼夜を問わず4、5日かけて掘ったもので、海岸から数百メートル離れた小高い丘にあり、田村中隊の守備区であった。

米軍は上陸の翌日、17日には同壕への攻撃を開始。正面からも、丘の上に通ずる抜け道からも攻めて来た。当時、壕内には、14、5人の日本兵が潜んでいた。米軍の侵入を防ぐため、正面入り口付近に置いてあったダイナマイトを爆破してふさいだ。全員が爆風で服はボロボロ。鼻からは血が噴き出し、惨々な状態となったが、これ以上はなす術を知らない。「首をすくめた亀の子と同じ」で、どうにもできなかった。(172頁) … 正面入り口が爆破されたことから、米軍は裏に回って“馬のり攻撃”。ガソリンを注ぎ、火炎放射器で攻め寄せた

1984年 琉球新報「戦果を掘る」~ 伊江島の防衛隊 / 伊江島の女子救護隊

火炎放射器はもっとも残虐な兵器として恐れられ、それは使用する側の兵士にも深いトラウマを刻み込んだ。1978年から米軍は炎放射器の使用を禁止した*2

火炎放射器で洞窟陣地を攻撃する海兵隊(撮影場所は不明)

US Marines - Flamethrower on Okinawa

馬乗り攻撃とは

守備軍将兵は、友軍の2、30倍もの優位な戦力と無尽蔵を思わせる物量で押しまくってくる米軍にたいし、洞窟作戦で対決したものの、かれらにとってこわいのは敵の〝馬乗り攻撃〟であった。敵がその強烈な火力を動員して防衛軍に地下陣地から攻撃に出るスキも与えず、穴に閉じこめたまま洞窟陣地の上に狙撃兵を配備、攻撃をかけるのが〝馬乗り〟である。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 50頁より抜粋》

 

そのとき、住民は・・・

デテコイ、デテコイ

ある母親の体験談: 今帰仁(なきじん)

4月17日だったと思います。1人の兵隊が近所の67歳になる老人を追いかけて、田んぼのあぜ道を走って来るのを見て驚きました。その時老人はつまずいてころんだのです。ところが米兵は親切に起こしてたばこをつけて老人に渡しその肩をたたきつつ手を取って私達の壕の所に近よってきます。私は今日までの運命だとぶるぶるふるえていると老人の後ろから又米兵が3人ついてきます。そして二世の兵隊が大きな声で「デテコイ、デテコイ心配するな。早く山からみんな下りてこい」と叫んでいたのです。それで実家の祖母、父母が真先に山から下りて、「皆助けてください」と手を合わせつつ米兵の所へ行きました。私も赤ちゃんをだいて、後に続きました。すると私と握手しつつ何とかペラペラしながら赤ちゃんを見て「カワイイ」と頭をなでて見ていました。1人の兵はポケットから自分の子の写真だったのかみんなに見せていたので私はホッとしました。すると老父母らには「タバコ」子供らにはお菓子やまだ見たこともない「チュウインガム」や缶詰も分けてやっていたのでもう殺される心配はないと思いやっと安心しました。

《「母たちの戦争体験 平和こそ最高の遺産」(沖縄県婦人連合会) 70-71頁より》

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New Okinawans arriving from hills to be given lodging, etc. 新たに山から下りてきた人々。彼らには住む場所が与えられる(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

田井等収容所の設置

4月7日に羽地村に米軍部隊本部が設置され、住民の収容が始まった

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 メイヤーとヘッドマン

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The mayor of the newly formed Civilian Relocation Center pointing to the map of Taira and explaining certain things about it to his counsel or headman. 新しく作られた民間人収容所の所長。田井等の地図を指差し、現場監督に何かを説明している。名護市 (1945年 4月17日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

民間人収容所の目的

中部で基地建設を進めるため収容所を続々と北部に移設した。

地上戦の渦中で保護した民間人を管理するために設けられた収容所は、戦場を生き延びた住民の生活を支える場となると同時に、基地建設工事が展開される地域から住民を隔離する役割を担っていた。

鳥山淳『沖縄/基地社会の起源と相克 1945-1956』勁草書房 (2013年) p.13

4 月下旬、軍事的必要性により、楚辺、長浜、喜名、儀間から石川―仲泊ラインより北側の収容所へと民間人を退去させるよう要求された。

Memorandum “Military Government Operations in Northern Okinawa from 21 April to 28 May 1945” ( No Date)『沖縄戦後初期占領資料』第 17 巻 緑林堂 1994 年 p.44

軍政による「住民の厳格な管理」

民間人収容所における軍政の本来の目的は、軍政府自らが報告するように、収容した人々を保護することにあるのではなく、あくまでも統治することにあった。・・・

「全ての民間人は 18 時(午後 6 時)から翌朝 7 時 30 分までは家にいること。この規則には厳格に従うこと」、「19 時(午後 7 時)に全て消灯し、翌日朝日が昇るまで家屋で点灯させてはならない」、「民間人はキャンプの周りを徘徊してはならない。家の近隣に留まること」など、人々が家屋や収容所から外出することは厳しく制限されていたこともまたうかがえる。また、「ヘス少佐や他の軍政府将校が民間人に指示を出すために出席しているとき、headmanや作業隊は一列に並び、静かに“気をつけ”の姿勢で立ったままでいること。このやり方は厳格に適用する」との記述も、軍政が「厳格な管理」を民間人に向けて求めていたことを示す一例として注目されよう。

清水史彦『沖縄戦下の民間人収容所の展開に関する考察 : 米軍基地建設計画と関連して』(2017)

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Lt(sg) Owen R. Loueless, 1002 W. 8th Street, Junction City, Kansas, with the town mayor and his new town council which the mayor and officers picked out of all the men in Taira. ルーレス大尉と田井等市民から選ばれた市長と役員(1945年4月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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センターに集められた人々は年齢、名前、職業によって振り分けられ、住む家を与えられる(1945年4月17日撮影)

At same reception center where they will be classified for age, name, occupation and then given a home to live in.

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Okinawan women washing themselves and family clothes at stream that runs along the farside of Taira. 田井等区のはずれから流れる川で、体を洗ったり、家族の衣服を洗濯している地元の女性。(1945年4月17日撮影)

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*1:読谷村の忠魂碑「もともと、その辺りは読谷山国民学校(読谷山尋常高等小学校)があったところで、忠魂碑は学校敷地内にあったのです。(慰霊碑と異なり) …「忠魂碑」は、国のため、天皇陛下のために戦って死んだ軍人や軍属の「忠義」の魂を顕彰するための碑なのです。そのような死者の魂を英霊といってほめたたえる風潮は、やがて多くの国民に戦争への道が大義天皇や国に対して果たすべき道)として叩き込まれ、多くの若者を戦場に送り、その命を散らさせ、あげくは敗戦という憂き目にもあったのです。」読谷村20 忠魂碑

*2:日本の自衛隊では今も火炎放射器の禁止条項はない。