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1945年 4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』

沖縄島北部を制圧

本部(もとぶ)半島名護(なご)

4月17日、ジーン・W・モーロウ中佐が指揮する第29海兵連隊の第1大隊が八重岳北東頂上を占拠する先陣となった。』(103頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p103.jpg

八重岳占領後に周辺を探索する海兵隊

ASSAULT TROOPS of the 4th Marines probe the hills of the peninsula after the capture of Mount Yae Take.

Chapter 06 | Our World War II Veterans

『翌18日、同隊は他の側から攻め上った第4海兵連隊と合流、敗走する日本軍を追撃して伊豆味ー満名の道を北上した。こうして守備軍側に2千数百名、米軍側に約250名の戦死者を出して攻防戦は終わった。その間、名護は師団本部として全部隊を指揮する中枢部となっただけでなく作戦用物資を陸揚げするための心臓部の役割をもはたした。』(103頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 103頁より》

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p93.jpg

NAGO, objective of the 29th Marines’ advance in early April, as it looked after the end of the battle for Motobu Peninsula. (Army Photograph)

Chapter 06 | Our World War II Veterans

『名護は、師団本部として全部隊指揮系統の中枢であった。作戦用物資は、この地域に至る道路がすべて放棄されていたのでそのままLST船で港に降ろすこちができた。名護南方の道路管理は海兵隊本部に移され、師団工兵隊は本部半島の架橋資材を集めはじめた。』(133-134頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 133-134頁より》

 

周辺離島の制圧 

伊江島(いえじま)

『米軍は援軍として、4月17日の朝、第307連隊2個大隊を島の南西海岸と東海岸上陸させた。』(260頁)
《「秘録 沖縄戦記」(山川泰邦著/読売新聞社) 260頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p161a.jpg

FIGHTING TOWARD IE, American troops were held up close to the town by strong Japanese positions. The morning of 17 April the 305th Infantry, 77th Division, paused while artillery pounded Japanese positions in the western outskirts (smoke-covered area).

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 7]

 

 

日本軍の動向

北部戦線

本部(もとぶ)半島: 八重岳(国頭支隊・宇土大佐)

『八重岳など本部半島にいた将兵たちは転進命令を受け、17日ごろから多野岳方面に脱出を図ったが、途中の武田薬草付近で多くの犠牲を出した。』(93-94頁)

宇土部隊の夜間移動は、何度も米軍と遭遇し、その度に蜘蛛の子を散らすように“散っては集まる”という状態での移動だった。』(218頁)

名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 93-94、218頁より》

  

八重岳野戦病院(陸軍病院名護分院)

『八重岳の麓に「芭蕉敷」と呼ばれた地域がある。国頭支隊(宇土部隊)は、その芭蕉敷を流れるチンダガー(金田川)上流の湧水口(ワクグチ)域に宇土隊司令部を置き、その下方のチンダガー沿いにあった2戸の屋敷周辺に兵舎や炊事場などを置いた。そして、その約100m上部の谷間を利用して八重岳野戦病院(陸軍病院名護分院)を設置した。』(230頁)

『八重岳野戦病院(陸軍病院名護分院)は、米軍上陸による戦闘が激化すると、負傷兵も日に日に増え兵舎も病棟に替わり、衛生兵や看護婦、三高女の学生は病棟横に手で掘られた壕に移ることになった。そこは敷物もなく、彼女たちは冷たい土の上で仮眠をとったという。

4月9日頃から負傷兵が次々と運び込まれてきた。病室に入りきれない負傷兵は道路に並べられ、治療する前に息絶える兵隊も増えていったという。看護要員だった三高女の生徒は、チンダガーの炊事場からの飯上げや病棟に溢れかえる負傷兵の看護など、不眠不休で働いた。(231-232頁)

名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 229頁より》

『沖縄陸軍病院名護分院も、4月16日夜に八重岳の山下りをした。軍医、衛生兵、看護婦、なごらん学徒隊、歩行可能患者らおよそ70人がれつを作った。歩けない多くの重症者の枕元に、自爆用の手榴弾を置いて去った。寝床の上で患者たちは、「海ゆかば」をか細く口ずさんだ。翌4月17日、夜明けとともに山下り集団が米軍の迫撃砲で狙い撃ちされた。この日、4月17日に米軍は八重岳の占領を終えた。そして多野岳の攻防へと移った。』(99-100頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 99-100頁より》

 

県立第3高等女学校(なごらん学徒隊)

『1945年(昭和20)年3月24日、第三高等女学校では、看護教育を受けた20名の中から10名に動員命令が出された。10名は3月26日、国頭支隊本部(第2歩兵隊本部)の陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)に看護要員として入隊した。』(229頁)

なごらん学徒隊の証言:

『艦砲射撃の集中砲火をあびせて来た。夜になると負傷兵が運びこまれ、手足を切断する大手術も麻酔なしだった。手術室では足の切断するんですよ。膝から骨が少し残っていてぶらさがっていましたから。掘っ立て小屋で電気なんかないですから、そうめん箱にろうそくを立てて、軍医の手元を照らして糸ノコでガサガサ切るんですよ。』(232頁)

『4月16日の夕方ついに命令が出た。「全員、この場所から移動して多野岳に集結せよ」と。私たちの病院は、南風原陸軍病院の分院だったので宇土部隊とは別行動だった。隊長の渡口精一中尉の命令で、歩けない重傷兵に手榴弾2個と乾パンの袋を配った。』(233頁)

名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 229、232、233頁より》

youtu.be

なごらん学徒隊 状況1 陣地構築作業 - YouTube

なごらん学徒隊の証言:

『八重岳の裏側あたりについた頃、夜は白々と明けかけ、周囲もはっきり見えるようになっていた。敵の軽飛行機が飛んできて偵察を始めたらしいと思うや、迫撃砲による一斉射撃が始まった。病院の大城軍医も、そこで戦死された。看護婦も何名か亡くなった。夕方には、敵は砲撃をやめるので、もしやこの辺に廻ってくるのではないかと、不気味な感が漂った。』(233頁)

 《名護市史本編・3「名護・やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会/名護市役所) 233頁より》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail70_img.jpg

沖縄戦の絵】艦砲射撃を受けるなごらん学徒たち

名護市にあった第3 高等女学校の女学生で組織された看護学徒隊(なごらん学徒隊)…、沖縄本島北部・本部半島の八重岳の陣地の日本軍部隊に従軍した。絵は部隊に解散命令が出た後の4 月17 日、八重岳から多野岳に行く途中の山中で砲撃を受けた様子。』

艦砲射撃を受けるなごらん学徒たち | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

伊江島(いえじま): (国頭支隊・井川少佐)

伊江島には、国頭支隊所属伊江島地区隊井川正少佐が指揮する第2歩兵第1大隊と独立機関銃中隊、速射砲中隊、野砲小隊などの約7,000名 (米軍記録、日本軍の記録では約2,700名) の兵員が守備にあたっていた。ほかに、婦女子をふくめ地元住民がおよそ4,000名 (防衛庁の記録では3,000名) いた。』(106頁)

伊江島には、6800名の住民がいた(防衛庁記録)。そのうち守備軍の督促を受けて1944年3月末までに約3000名が沖縄本島疎開した。が、14、5歳以上の者の避難は許されなかった。いざ戦闘が始まると、住民は、女子救護班女子協力隊青年義勇隊、あるいは防衛隊員として招集されるか、自ら志願するかして戦場に出た。』(107頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 106、107頁より》

伊江島防衛隊

伊江島防衛隊員は昭和19年の10月に500人、11月に200人、沖縄戦直前の3月に100人増強されて計800人が名護町(当時)屋部出身の宜保豊猛中尉に率いられて3個中隊に分かれ、島の中央部にあった飛行場から西側の守備に当たっていた。主な任務は飛行場の整備保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾と竹ヤリが武器のすべてだったという。

同部隊には、米軍上陸が迫る3月、飛行場破壊命令が出され、終了後は本島に引き揚げるよう軍命があったというが、本島へ渡ろうにも船はなく、そのまま島の防衛につくしかなかった。「米軍は上陸後、飛行場を中心に島を占領島は東西に分断されてしまって、東側を守備していた日本軍主力との連絡も途絶え、何も分からないまま戦闘を続けていた」。同防衛隊は恩納村以北の各部落かた召集された人らで編成されていた。』(168頁)

防衛隊員の証言:

『「上陸したその日のうちに、戦車を先頭に押し寄せてくる米軍にじゅうりんされ、部隊はほとんどが壊滅した。それ以後は山のりょう線に沿って掘られたたこ壷に身を潜め、夜になってからはい出し、各自に2個ずつ配られていた手投げ弾だけを頼りに夜襲が行われた」。』(168頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 168頁より》

4月17日、米軍は、伊江村西江前(にしえまえ)のシキミズ池東軍隊壕に攻撃を開始する。この壕は、防衛隊員らが米軍上陸の10日ほど前から昼夜を問わず4、5日かけて掘ったもので、海岸から数百メートル離れた小高い丘にあり、田村中隊の守備区であった。

『米軍は上陸の翌日、17日には同壕への攻撃を開始。正面からも、丘の上に通ずる抜け道からも攻めて来た。当時、壕内には、14、5人の日本兵が潜んでいた。米軍の侵入を防ぐため、正面入り口付近に置いてあったダイナマイトを爆破してふさいだ。全員が爆風で服はボロボロ。鼻からは血が噴き出し、惨々な状態となったが、これ以上はなす術を知らない。「首をすくめた亀の子と同じ」で、どうにもできなかった』(172頁)

『…正面入り口が爆破されたことから、米軍は裏に回って“馬のり攻撃”。ガソリンを注ぎ、火炎放射器で攻め寄せた。』(172頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 172頁より》

http://www.ww2incolor.com/d/309156-4/PICT5128

火炎放射器で洞窟陣地を攻撃する海兵隊(撮影場所は不明)

US Marines - Flamethrower on Okinawa

 

馬乗り攻撃とは


『守備軍将兵は、友軍の2、30倍もの優位な戦力と無尽蔵を思わせる物量で押しまくってくる米軍にたいし、洞窟作戦で対決したものの、かれらにとってこわいのは敵の〝馬乗り攻撃〟であった。敵がその強烈な火力を動員して防衛軍に地下陣地から攻撃に出るスキも与えず穴に閉じこめたまま洞窟陣地の上に狙撃兵を配備、攻撃をかけるのが〝馬乗り〟である。』(50頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 50頁より抜粋》

 

中南部戦線

嘉数(かかず)・牧港(まちなと)

『原大佐の指揮する精鋭独歩第13大隊、途中これに代わった独歩第23大隊、ならびにこれに協力する独立臼砲第1連隊および軽迫撃大隊等の奮戦により、敵は嘉数および75高地正面を突破する能わず、4月17、8日ごろより、わが左翼牧港方面に侵入を始め、わが虚に乗じ、48高地を奪取、さらに勢いに乗じ、東南進して伊祖城址に突入してきた。前田、仲間付近わが守備隊の左側背を脅威せんとするものである。』(228-229頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 228-229頁より》

 

 

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【特集 島は戦場だった】なごらん学徒の戦争体験

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 特集 島は戦場だった なごらん学徒の戦争体験

 

【戦跡と証言】八重岳の野戦病院壕(本部町)

www.nhk.or.jp

 

【証言記録】八重岳野戦病院からの撤退

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【戦跡と証言】沖縄武田薬草園跡(名護市)

www.nhk.or.jp