1945年 4月8日『首里の攻防・第1線』

北・中飛行場

『上陸四日目から本格的に北・中飛行場を使用しはじめた米軍は、そこに戦闘機隊を駐留させ、4月8日からはC45型機が負傷者をマリアナ群島に運んだりDDTを散布するまでになった。』(61頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 61頁より》

  

北進する米軍

本部(もとぶ)半島

4月の8日から11日にかけて、海兵第29連隊は、本部の日本軍の所在を確かめるために、八方、手をつくした。』(130頁)

『半島は、まったくの田舎であった。住民もほとんどが農夫で山腹にそれぞれの畑をもっていた。全体としての本部は中央部に一連の山々があって、一番高い山が海抜およそ450メートルの八重岳で、その峰はくねり、奇岩が塊をなし、狭谷を控えていた。この群山は、半島では地形上最も危険なところである。わりに低い山脈は密林に覆われ、高い所は草が生え、がっしりした木がわずかに数本立っていた。小高い山脈は西端で半島の境界をなし、ただ渡久地のある入江に流れ込む満名川で切られていた。

北部の方には小島の群れが避難港をつくっていた。ここに日本軍は小型潜水艦や魚雷艇、海上挺身隊の基地を設けてあった。海岸線に沿って行くと平地になったところに、もっと重要な町があって、奥の方にある二つの町は作戦上から見ても重要だった。満名は渡久地の東0.8キロのところにあり、伊豆味は八重岳の北東方3.2キロのところにあった。』(131頁)

『第2大隊は半島の北岸を偵察したが、ここでも日本軍の陣地らしいものに出会わず、時たま出没する日本兵に会うぐらいのものであった。』(130-131頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 130、130-131、131頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/maps/USA-P-Okinawa-18.jpg

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]

 

南進する米軍

牧港(まちなと)・嘉数(かかず)・我如古(がねこ)・和宇慶(わうけ)

沖縄本島には南北に三本の幹線道路が走っていた。西海岸道・中街道・東海岸道せある。米軍は2個師団を東西にならべ、第96師団が西海岸・中街道に沿い、第7師団が東海岸道に沿って南下してきた。対する日本軍は第62師団である(他の部隊は首里以南にあり)。第62師団は牧港(西海岸)ー嘉数我如古和宇慶東海岸)を結ぶ線に堅固な陣地を構築して三つの幹線を遮断していた。

4月8日、この線に到達した米軍は日本軍の猛烈な抵抗にあう。この日まではほとんど沈黙していた日本軍の重砲約100門がいっせいにひをふき、機関銃と迫撃砲の集中砲火により、陣地に接近しようとした米軍歩兵はたちまち身動きがとれなくなってしまった。硫黄島の戦闘の際に、米兵にたいへんな恐怖感と損害を与えた320ミリ臼砲(重量300キロの砲弾をとばす98式臼砲)がここでも大音響とともに出現し、米軍の前進をいやおうなく慎重にさせた。』(79頁)
《新装版「沖縄戦 国土が戦場になったとき」(藤原彰 編著/青木書店) 79頁より》

http://www.ourwwiiveterans.com/okinawa/maps/USMC-M-Okinawa-18.jpg

Battle of Okinawa Chapter 07

『このころまでの米軍は、上陸以来、日本軍の本格的な猛反撃を一度も受けず、躍進また躍進、一気に嘉数一帯の主防禦地帯に突っこんできた。』(187頁)

『そこには強豪62師団が、牧港から嘉数、西原、上原、棚原の高地を連ねて、東海岸の和宇慶にいたる堅固な陣地に入って、手グスネをひいていた。…この線が主陣地であり、…独立臼砲1連隊(33センチ臼砲24門)と独立迫撃2コ大隊(8センチ迫撃砲96)が要点を固め、それを支援する野戦重砲兵1連隊、同23連隊(15センチ榴弾砲計20門)が、その主陣地と首里高地との間に展開。後詰めとして、独立重砲兵100大隊(15センチ加農長射程砲6-8門)が、中飛行場制圧のため2門を上原に出した残りと、野戦重砲兵23連隊2コ大隊(計約22門)をもって北に備え、濃密な重砲の火網を送り得るように配備されていた。だから勢いよく突進してきた米軍は、たちまち射すくめられ、身動きができなくなった

…米軍の方から見ると、ズウッと太平洋岸から東シナ海岸にわたって一望のもとに入る標高100米前後の、いわばたいして高くもない丘が、高く低く連なっている。砲爆撃をくり返して、日本兵はほぼ完全に死滅しているであろうと考え、その丘の手前まで来て、さて登ろうとしたとき、突如として猛烈で、適確な十字砲火を浴び、外径33センチの二分、ヒレのついた化物のようなタマが二分、シュルルルと、身ぶるいするほどイヤな音を立てて降って来、とたんに人も物も、およそ地上にあるものことごとくを吹き飛ばしてしまう。どこから飛んでくるかわからない。しかし、あらかじめ照準をきめてあるのか、それとも誰かがどこかで狙っているのか、不意に、空の一角から、黒い、イヤでも目に入るものが、シュルルルと降ってくる。小銃か拳銃かでも撃ち落とすことができそうに見えるのだが、あッと気付いたときには、誰もかれもがスクんでしまって、身体中から血の気がなくなり、生命が地面にメリこんだと思うとき、ものすごい音と閃光が走り、つぎの瞬間、地が揺れ、あたりはまっ暗になり、その暗さが元に戻ったときには、そこにいるほとんどの兵士が虫の息になっていた。(188-189頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 188-189頁より》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p114a.jpg

嘉数高地西側(北側から撮影)

KAKAZU WEST and the west end of Kakazu Ridge, viewed from high ground north of the gorge. tombs used by the 1st Battalion, 381st Infantry, 96th Division, and a Japanese cave position can be seen.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]

 

 

日本軍の動向

大本営海軍部

『守備軍が総攻撃を中止し、連合艦隊の誇る「大和以下の特攻部隊による玉砕戦法が失敗に帰したにもかかわらず大本営海軍部は戦勢は日本軍に有利に展開しつつありと判断して総追撃の命令を下した。「我ガ猛攻撃ニヨリ敵ノ陣営ニ一大動揺ヲ投入総追撃ヲ以テアクマデ天一号作戦ヲ完遂セントス」と命じたのである。』(92頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 92頁より》

 

 

第32軍の動向

首里攻防の戦線

 『沖縄戦のヤマは首里の攻防であった。この戦いには3つの線があった。

第1線宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶の線だ。いまの宜野湾市が中心である。1945年4月8日ごろから24日ごろまでの主戦場。

第2線は城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地の線だ。4月24日ごろから5月5日ごろまで激戦が続いた。

第3線は安里の北ー沢岻ー大名ー石嶺ー弁ケ岳ー運玉森ー我謝の線だ。那覇首里両市が中心をしめる(戦後、両市は合併した)。首里城の第32司令部を直接守る戦線だ。5月5日ごろから司令部が撤退する27日ごろまで。』(83頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 83頁より》

 

首里攻防・第1線での戦闘

米軍は4月1日上陸後、日本軍の無抵抗におどろき、何かトリックがあるのではないかと不安を抱き、警戒を強めた。実際4月4日までは発砲を禁止されていた。ところが、4月8日から俄然抵抗を強めた。第1線から第3線までわずか4キロ、この間を日米両軍は一進一退をくりかえした。米軍は1日平均100メートルの前進もできず、一時は沖縄攻略を断念しかけたこともあるという。(83-84頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 83-84頁より》

『米軍は、守備軍が戦略持久態勢に戻るのと軌を一にして4月8日の早朝から宇地泊嘉数我如古南上原和宇慶主陣地を結ぶ全線にわたって攻撃をかけてきた。』(92頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 92頁より》

8日、軍砲兵隊主力が、湊川の予想上陸地点に向けていた火線を、北正面に方向を換え、その威力を発揮しはじめた…32軍の特長の一つは、太平洋戦争はじめての大砲兵威力を備えていたことだったが、7日までは、その大部分が激戦地に背を向けており、62師団の砲撃要請にも、砲の位置を敵に暴露するからという理由で、沈黙をとおしてもきた。それが、いっせいに火を噴き出したのである。ことに、独立臼砲第1連隊の98式臼砲8門(炸薬40キロ、威力は30センチ破甲榴弾とほぼ同じ)には、米軍の受けたショックは大きかった。戦線は、日本軍の最強陣地の一つである嘉数に迫っていた。』(187頁)

『総攻撃を中止した32司令部では、62師団に、陣地から前に出て、夜間攻撃を正面の敵に加える(陣前夜襲)ことを命じた。

とび出していったのは、選ばれた、約2コ中隊の兵士たちで、1コ中隊は目ざす85高地を斬込みをつづけながら奪還したが、翌朝、敵の集中砲火を浴び、大部分が戦死。他の1コ中隊は120高地の奪還に向かったが、米軍に阻止され、中隊長以下戦死し、攻撃はどちらも成功しなかった。』(189頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 187、189頁より》

 

慶伊瀬島(けいせじま・別名:神山島)への反撃

3月31日、米第420砲兵大隊が慶良間と那覇の間にある無人島の慶伊瀬島(通称チービシ=渡嘉敷村)に上陸し、155ミリ砲24門を据えつけて以来、首里および那覇を昼夜の別なく撃ちまくっていた。

『ところが、これに対抗できる守備軍の砲台は、長堂西側高地の15センチ加農砲2門と小禄飛行場付近の一部の海軍砲台しかなかったが、それもいざ実際に砲撃してみたら届かず処置なしの状況。たまりかねた船舶工兵第26連隊長佐藤小十郎少佐は、4月8日夜、部下の西岡健次少尉以下約50名半数は糸満の漁夫)の決死隊を9隻の刳舟に乗せ、〝斬り込み〟攻撃をかけさせた。その結果、砲3門と重機関銃2を爆破し、三日間は米軍の砲撃を沈黙させることができたが、生還者は十数名だけであった。』(30頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 30頁より》 

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/wp-includes/images/tokasiki/sizen/gi25a_01.gif

渡嘉敷村の地勢 - 渡嘉敷村 公式サイト Tokashiki Island Official Web site

 

軍司令部

4月8日、  沖縄守備軍の第1線に布陣していた部隊が南進する米軍と戦闘を開始した。

『しかも沖縄方面根拠地隊司令官から「小禄飛行場付近ニ敵上陸ノ気配アリ厳戒中」という電報が司令部に舞いこむなど容易ならぬ事態となった。たまりかねたのか、長参謀長は、4月8日4月12日夜半から少なくとも歩兵一旅団を投入して大規模な夜間攻撃をかけることを主張、作戦参謀に計画の策定を命じた。長参謀長の決意は固く、攻撃の当否について参謀たちが議論し合う余地はなかった。今回の攻撃には、勝敗以上に沖縄守備軍の名誉がかかっていたからである。』(92頁)

『…八原参謀は、長参謀長の命令で夜間斬り込み作戦を策定したが、この作戦は、「必ず失敗する」と判断していた。古来、夜襲が成功したのは、一高地とか村落など限られた目標にたいしてで、十余キロにおよぶ全戦線で特定の目標もなくされる夜襲は、「全くむちゃ」だと考えたのである。』(93頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 92、93頁より》

  

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年4月8日

 

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