1945年4月8日『首里の攻防・第1線』
中部戦線の始まり / 反斜面陣地とは / 糸満海人の犠牲 / 日本軍のいる場所いない場所 / 命をしのいだガマ
米軍の動向
北進する米軍、本部半島
本部半島 (もとぶはんとう): 姿を消す日本軍
4月の8日から11日にかけて、海兵第29連隊は、本部の日本軍の所在を確かめるために、八方、手をつくした。… 半島は、まったくの田舎であった。住民もほとんどが農夫で山腹にそれぞれの畑をもっていた。全体としての本部は中央部に一連の山々があって、一番高い山が海抜およそ450メートルの八重岳で、その峰はくねり、奇岩が塊をなし、狭谷を控えていた。この群山は、半島では地形上最も危険なところである。
今帰仁村の運天港とその周辺の日本軍基地は、米軍が上陸前の3月28日から29日にかけて既に空爆で壊滅させていた。
米軍基地 - 読谷飛行場の運営
上陸4日目から本格的に北・中飛行場を使用しはじめた米軍は、そこに戦闘機隊を駐留させ、4月8日からはC45型機が負傷者をマリアナ群島に運んだり、DDTを散布するまでになった。(61頁)
読谷飛行場 日本軍が自壊した北飛行場 (読谷飛行場) の片づけ。
残骸と疑似飛行機
Wrecked Jap planes on Yontan airfield. 読谷飛行場にある日本軍機の残骸。1945年4月8日
Two soldiers from an Aviation Eng., group working on the restoration of Yontan air field on Okinawa, pause to inspect a dummy Jap plane on the field. Scores of the dummies were left scattered about the field when the Japs pulled out. The bike parked by the plane also is Japanese. 読谷飛行場の復旧作業をする航空工兵隊の2人の兵士。疑似日本軍機を調べるために作業を中断している。日本軍が撤退する際、いくつもの疑似飛行機が飛行場内に散乱したまま残された。軍機の横に置かれた自転車もまた日本軍のものである。(1945年 4月 8日)
日本軍の北飛行場はいまや米軍の飛行基地である。
《AIによるカラー処理》新たに獲得した読谷飛行場での作戦の暫定部隊長、海兵隊ウェスト中佐(オクラホマ州出身、中央座席)。第2海兵航空団飛行中隊のパイロットに、この元日本軍航空基地からの作戦について説明する。パイロットは、この航空基地からの作戦を行う第1陣である。(1945年4月8日)
南進する米軍 - 嘉数
南進する米軍はついに日本軍が反斜面陣地の第一線を構築している地点に到達する。
行軍(1945年4月8日撮影)
Troop Movement. Marching.
ついに待ち構えていた第62師団の重砲の火ぶたが切って落とされる。
沖縄本島には南北に三本の幹線道路が走っていた。西海岸道・中街道・東海岸道せある。米軍は2個師団を東西にならべ、第96師団が西海岸・中街道に沿い、第7師団が東海岸道に沿って南下してきた。対する日本軍は第62師団である(他の部隊は首里以南にあり)。第62師団は牧港(西海岸)ー嘉数ー我如古ー和宇慶(東海岸)を結ぶ線に堅固な陣地を構築して三つの幹線を遮断していた。4月8日、この線に到達した米軍は日本軍の猛烈な抵抗にあう。この日まではほとんど沈黙していた日本軍の重砲約100門がいっせいにひをふき、機関銃と迫撃砲の集中砲火により、陣地に接近しようとした米軍歩兵はたちまち身動きがとれなくなってしまった。硫黄島の戦闘の際に、米兵にたいへんな恐怖感と損害を与えた320ミリ臼砲(重量300キロの砲弾をとばす98式臼砲)がここでも大音響とともに出現し、米軍の前進をいやおうなく慎重にさせた。
嘉数高地西側(北側から撮影)KAKAZU WEST and the west end of Kakazu Ridge, viewed from high ground north of the gorge. tombs used by the 1st Battalion, 381st Infantry, 96th Division, and a Japanese cave position can be seen. 渓谷北側の高台から見た嘉数西と嘉数尾根西端。第96師団第381歩兵第1大隊が使用した墓や日本軍の洞窟陣地が見える。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 5]
日本軍 - 天一号作戦を続行
日本に残る唯一の戦艦大和の沈没 (4月7日) は、ほとんど報じられることなく*1、特攻作戦は続行された。
守備軍が総攻撃を中止し、連合艦隊の誇る「大和」以下の特攻部隊による玉砕戦法が失敗に帰したにもかかわらず、大本営海軍部は戦勢は日本軍に有利に展開しつつありと判断して総追撃の命令を下した。「我ガ猛攻撃ニヨリ敵ノ陣営ニ一大動揺ヲ投入総追撃ヲ以テアクマデ天一号作戦ヲ完遂セントス」と命じたのである。
第32軍、首里攻防の第一線
反斜面陣地 (reverse slope defense) とは
首里の攻防: 沖縄守備隊第32軍は持久戦のための反斜面陣地で防御を固めていた。
傾斜の裏側に逆向きに地下壕を掘ることで、相手の攻撃から防御、長期間攻撃態勢を維持できる。
沖縄の作戦参謀 八原博通は、沖縄中部の波打つような地形を利用し、戦略的に三線の反斜面陣地を構築した。無血上陸で米軍を引き入れ、これらの地上戦で持久戦に持ち込んだ。後方支援の乏しい沖縄守備隊にとって、陣地構築に住民の徴用と供出は不可欠であったため、住民を最大限利用したが、戦争が始まれば住民は足手まといとして壕から追い出しをかけられたため、多くの住民が命を奪われた。
沖縄戦のヤマは首里の攻防であった。この戦いには3つの線があった。
第1線は宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶の線だ。いまの宜野湾市が中心である。1945年4月8日ごろから24日ごろまでの主戦場。
第2線は城間ー屋富祖ー安波茶ー仲間ー前田ー幸地の線だ。4月24日ごろから5月5日ごろまで激戦が続いた。
第3線は安里の北ー沢岻ー大名ー石嶺ー弁ケ岳ー運玉森ー我謝の線だ。那覇、首里両市が中心をしめる(戦後、両市は合併した)。首里城の第32司令部を直接守る戦線だ。5月5日ごろから司令部が撤退する27日ごろまで。
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 83頁より》
第1線: 宇地泊ー牧港ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶
米軍は4月1日上陸後、日本軍の無抵抗におどろき、何かトリックがあるのではないかと不安を抱き、警戒を強めた。実際4月4日までは発砲を禁止されていた。ところが、4月8日から俄然抵抗を強めた。第1線から第3線までわずか4キロ、この間を日米両軍は一進一退をくりかえした。米軍は1日平均100メートルの前進もできず、一時は沖縄攻略を断念しかけたこともあるという。
《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 83-84頁より》
米軍は、守備軍が戦略持久態勢に戻るのと軌を一にして4月8日の早朝から宇地泊ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶の主陣地を結ぶ全線にわたって攻撃をかけてきた。
8日、軍砲兵隊主力が、湊川の予想上陸地点に向けていた火線を、北正面に方向を換え、その威力を発揮しはじめた … 32軍の特長の一つは、太平洋戦争はじめての大砲兵威力を備えていたことだったが、7日までは、その大部分が激戦地に背を向けており、62師団の砲撃要請にも、砲の位置を敵に暴露するからという理由で、沈黙をとおしてもきた。それが、いっせいに火を噴き出したのである。ことに、独立臼砲第1連隊の98式臼砲8門(炸薬40キロ、威力は30センチ破甲榴弾とほぼ同じ)には、米軍の受けたショックは大きかった。戦線は、日本軍の最強陣地の一つである嘉数に迫っていた。(187頁)
このころまでの米軍は、上陸以来、日本軍の本格的な猛反撃を一度も受けず、躍進また躍進、一気に嘉数一帯の主防禦地帯に突っこんできた。(187頁)
そこには強豪62師団が、牧港から嘉数、西原、上原、棚原の高地を連ねて、東海岸の和宇慶にいたる堅固な陣地に入って、手グスネをひいていた。…この線が主陣地であり、… 独立臼砲1連隊(33センチ臼砲24門)と独立迫撃2コ大隊(8センチ迫撃砲96)が要点を固め、それを支援する野戦重砲兵1連隊、同23連隊(15センチ榴弾砲計20門)が、その主陣地と首里高地との間に展開。後詰めとして、独立重砲兵100大隊(15センチ加農長射程砲6-8門)が、中飛行場制圧のため2門を上原に出した残りと、野戦重砲兵23連隊2コ大隊(計約22門)をもって北に備え、濃密な重砲の火網を送り得るように配備されていた。だから勢いよく突進してきた米軍は、たちまち射すくめられ、身動きができなくなった。
… 米軍の方から見ると、ズウッと太平洋岸から東シナ海岸にわたって一望のもとに入る標高100米前後の、いわばたいして高くもない丘が、高く低く連なっている。砲爆撃をくり返して、日本兵はほぼ完全に死滅しているであろうと考え、その丘の手前まで来て、さて登ろうとしたとき、突如として猛烈で、適確な十字砲火を浴び、外径33センチの二分、ヒレのついた化物のようなタマが二分、シュルルルと、身ぶるいするほどイヤな音を立てて降って来、とたんに人も物も、およそ地上にあるものことごとくを吹き飛ばしてしまう。どこから飛んでくるかわからない。… あッと気付いたときには、誰もかれもがスクんでしまって、身体中から血の気がなくなり、生命が地面にメリこんだと思うとき、ものすごい音と閃光が走り、つぎの瞬間、地が揺れ、あたりはまっ暗になり、その暗さが元に戻ったときには、そこにいるほとんどの兵士が虫の息になっていた。
慶伊瀬島 (神山島) - 糸満海人を斬り込み隊に
1945年3月31日、米第420砲兵大隊が慶良間と那覇の間にある無人島の慶伊瀬島(けいせじま: 通称チービシ)に上陸、155ミリ砲24門を据えつけて以来、首里および那覇を昼夜の別なく撃ちまくっていた。
投稿者註: 船舶工兵連隊による神山島への切り込み攻撃は、4月8日あるいは9日とも。
たまりかねた船舶工兵第26連隊長佐藤小十郎少佐は、4月8日夜、部下の西岡健次少尉以下約50名(半数は糸満の漁夫)の決死隊を9隻の刳舟に乗せ、〝斬り込み〟攻撃をかけさせた。その結果、砲3門と重機関銃2を爆破し、三日間は米軍の砲撃を沈黙させることができたが、生還者は十数名だけであった。
八原高級参謀の回想:
上斬り込み部隊のうち、生還した者はわずか10余名で、わが方の犠牲も大きかったが、爾後三日間神山島の敵砲兵は一発も発射してこなかった。全軍大いに溜飲を下げ、心から西岡少尉らの英雄行為に感謝した。
《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 177-178頁より》
しかし、実際の神山島の切り込みは、糸満の漁夫を防衛招集し、西岡少尉を怒鳴りつけ無理やり決行させたものだった。西岡少尉は島に上陸するやいなや信号弾を上げ、それにより上陸した斬り込み隊は米軍の一斉攻撃を受け、西岡少尉と十数名を除き全滅した。
決行前に、なぜ西岡少尉は信号弾をあげたのだろうか。そのため発見され、防衛隊員をふくむ戦死者22人*2 を出してしまったのだ。少尉が、部隊で命令をうけたのは、三日前である。三日たっても、神山島からの砲撃がやまない。連隊や司令部では切り込み隊の行動に疑惑を感じているだろう。事の成功、不成功よりまず、神山島に到着したことを知らせよう ― そう考えたのかもしれない。
北海タイムス「ああ沖縄」1965年4月24日
長参謀長の夜襲計画
4月8日、沖縄守備軍の第1線に布陣していた部隊が南進する米軍と戦闘を開始した。司令部壕の長参謀長は無謀な夜間攻撃計画を強行する。
しかも沖縄方面根拠地隊司令官から「小禄飛行場付近ニ敵上陸ノ気配アリ厳戒中」という電報が司令部に舞いこむなど容易ならぬ事態となった。たまりかねたのか、長参謀長は、4月8日、4月12日夜半から少なくとも歩兵一旅団を投入して大規模な夜間攻撃をかけることを主張、作戦参謀に計画の策定を命じた。長参謀長の決意は固く、攻撃の当否について参謀たちが議論し合う余地はなかった。今回の攻撃には、勝敗以上に沖縄守備軍の名誉がかかっていたからである。(92頁) … 八原参謀は、長参謀長の命令で夜間斬り込み作戦を策定したが、この作戦は、「必ず失敗する」と判断していた。古来、夜襲が成功したのは、一高地とか村落など限られた目標にたいしてで、十余キロにおよぶ全戦線で特定の目標もなくされる夜襲は、「全くむちゃ」だと考えたのである。
総攻撃を中止した32司令部では、62師団に、陣地から前に出て、夜間攻撃を正面の敵に加える(陣前夜襲)ことを命じた。とび出していったのは、選ばれた、約2コ中隊の兵士たちで、1コ中隊は目ざす85高地を斬込みをつづけながら奪還したが、翌朝、敵の集中砲火を浴び、大部分が戦死。他の1コ中隊は120高地の奪還に向かったが、米軍に阻止され、中隊長以下戦死し、攻撃はどちらも成功しなかった。(189頁)
そのとき、住民は・・・
楚辺区民。洗濯に出かける途中(1945年4月8日撮影)
Natives of Sobe village on Okinawa enroute to wash clothes.
日本兵と記録されるが強制召集された少年兵であろう。傷を負っている。
Jap prisoner given first aid. L to R: PhM1/c F. M. Dish, USN, prisoner, Cpl John S. Rachuneh and center back to camera, Lt. J. H. Murphy, M. C., USN.
救急処置を受けた日本兵捕虜。左から、米海軍ディッシュ衛生兵、捕虜、ラシュネ伍長、中央後方に米海軍衛生兵マーフィー大尉。(1945年4月8日撮影)
嘉数、前田、宜野湾 - 軍の有無による死亡率の違い
日本軍不在/撤退した具志川や宜野湾と、日本軍が陣地を構えた嘉数、前田の違い。
嘉数、前田、宜野湾 - 軍の有無による死亡率の違い
集落名 人口 戦死数 死亡率 一家全滅率 日本軍戦闘陣地有無 嘉数 695人 374人 54% 33% 日本軍いる 前田 934人 549人 59% 29% 日本軍いる 宜野湾 1036人 207人 20% 6% 日本軍いない
ヌチシヌジガマ - 住民の命を救った区長
うるま市嘉手苅のヌチシヌジガマは Cave Okinawa として美しく整備され観光客も受け入れている*3。
ヌチシヌジガマは、メーヌティラ、ナカヌティラ、クシヌティラと言われる3つの
壕口があり、ガマの中では1つにつながっており、全長約 200m あります。沖縄戦
当時、メーヌティラには嘉手苅の住民 160 人余り、ナカヌティラとクシヌティラに
は伊波の住民が避難し、多くの住民が救われた「命をしのいだガマ」として知られ
ています。うるま市「うるま」令和2年(2020年)No.185
避難した人たちが生き延びることが出来たのは、ある人が起こした行動があったからです。当時の集落の取りまとめ役、山城政賢区長です。山城区長は、農業や畜産を手がけ、まじめな性格から、住民からの信頼も厚かったといいます。4月はじめ、ついにこのガマにもアメリカ兵がやってきました。投降することは恥だと教え込まれていた住民たちは動揺しました。その時、山城区長は、みんなで投降しようと説得を始めます。それでも動かない住民たちを前に区長は、「自分が殺されたらここから出ないように」と言い残し、ガマの外に出て行きました。ふたたび戻ってきた区長を見て、住民たちはようやく、ガマを出ました。
Marines of the Fifth Regiment assist Okinawa civilians across a blasted bridge on the Tengankowa River.
民間人が天願川に架かる破壊された橋を渡るのを手伝う第5連隊の海兵隊員 (1945年 4月8日)
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