〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年4月4日『沖縄攻略のためのインフラ整備』

米軍基地の建設 / 消えた日本兵 / 二個ずつの手榴弾 / 楚辺民間人収容所

米軍の動向

1945年4月4日の地図 (クリックして拡大できます)

Chapter 05 | Our World War II Veterans

 

米軍、沖縄戦略のためのインフラ整備

米軍基地の建設: 沖縄の米軍基地建設は沖縄戦と共に始まった。

4月4日までに第10軍の占領した沖縄は、長さ24キロ、幅およそ5キロから15キロに及んだ。米軍が確保した橋頭堡には、きわめて重要な戦略価値をもつ二つの飛行場*1があり、貨物船から膨大な物資を運べる砂浜があり、物資集積所に十分な場所や、すぐ施設のできる広さの土地をふくんでいた。(101頁)

海岸にいろいろ施設をつくるほかに、さしあたっての作戦遂行に必要な基地施設を、早急に作らなければならなかった。既設道路は増員を広く改修し、そのほかに新しい道をこしらえ、二飛行場は修理して拡張する必要があった。なかでも沖合のタンカーとの関係から石油製品、とくに航空燃料用の巨大な貯蔵所建設がまっ先に必要とされていた。(99頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 99、101頁より》

 

燃料貯蔵施設とパイプライン

北谷沖合の輸送船からパイプラインを引く。現在の米空軍嘉手納飛行場に隣接する陸軍貯油施設のもととなる。びっしりと海岸を埋め尽くす戦艦と輸送船に注目。

f:id:neverforget1945:20200303211801p:plainhttp://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/248898.jpghttp://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/248902.jpg 

Men working on pipeline, tankers pumping gas to storage tank from shore, etc.

パイプラインで作業する兵士と海岸から貯蔵タンクへ石油を輸送するタンカー等(陸軍 1945年4月撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍の飛行場を接収 (読谷補助飛行場・嘉手納飛行場)

日本軍が北 (読谷)・中 (嘉手納) 飛行場の奪還・逆上陸を熱望する中、すでに上陸4日目から米軍は両飛行場を本格的に稼働させていた。

読谷飛行場

読谷飛行場では滑走路の幅9メートル、長さ900メートルがきれいに片付けられ、砲弾の穴も上陸のその日にすぐ埋められた。4月2日、CVE型船やLSTに積載されて、19機の急降下爆撃機が運ばれ、翌3日からさっそく作戦に従事し、さらにその翌日から、両飛行場の使用は本格的になりはじめたのである。4月7日陸軍戦闘機隊は読谷に飛来し、その2日後には嘉手納に飛来した。こうして、しだいに制空権を広げていくとともに、機数をふやし、空からの支援を増強した。C-45型機を特別機に仕立てて、負傷者をマリアナに運ぶ空輸作業は、4月8日から開始された。同時に、4月2日以来、空母艦載機がやっていたDDT散布を、C-47がかわって受け持つことになり、これも読谷飛行場に到着した。(100頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 100頁より》

嘉手納飛行場 

At work, after L-day, Okinawa, Ryukyu Islands. Leveling the runway on Kadena Airfield. 沖縄本島上陸後の作業。嘉手納飛行場の滑走路を平らにしているところ。(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

またこの日、米軍は大量の伊江島の空中撮影を行っている。

  

船橋と道路整備 - 軍道1号線(現国道58号)

桟橋

LSTからの陸揚げ作業のために船橋が予定地に設けられ、4月4日までには長さ90メートルの単車道で、頭部が9×50メートルのT桟橋、長さ150メートルの両車道で、頭部の広さ18×53メートルのU桟橋がビーチにできあがった。この二つの桟橋に6つの単車道船橋がくっつけられ、その日に長さ120メートルで頭部の広さ縦13メートル、横53メートルの単車道L型桟橋が完成した。そのほかに砂の桟橋もつくられた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 97頁より pp. 79-80

軍道整備: 合衆国一号線(現在の国道58号)

ほどなく沖縄西海岸の南部道路には、「合衆国1号線」の標識が各所に立てられ、道路が確保されるたびに、工兵隊の計画に従って、全主要道路に番号がつけられ、同じような方法で道路標識がうちたてられていった。沖縄の道路は、ほとんどが舗装されておらず、幅員も米軍の車両が、やっと1輌通れるか、あるいは、1輌半ぐらいの幅しかなかった。それでまず、上陸日に、海岸の出口と海岸沿いの物資集積所へ行く道路が改修され、つぎに各部隊への主要補給道路と、恒久、半恒久的な補給施設への道路が改修されたのである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 99-100頁》

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One of the many road signs on Highway No. 1, Okinawa, U.S.A.  1号線に数ある道路標識の1つ。(1945年撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

4月4日と5日、そして10日11日の大雨で、せっかく踏みならされ、固まっていたハイウエーは、延々とつづくトラックでめちゃめちゃにされ、泥沼となってしまった。かと思うと、今度は干天には道路の表土は粉末となり、はげしい軍車両の交通量は雲のようなほこりをたてて、時として前の車蓋もみえなくなるほどだった。工兵隊珊瑚礁を使い、あるいは新しく掘り起こして石をとり、砂利を運び、こわされた村落から砕石を採り、石灰岩を使って主要道路を拡張し、舗装した。橋で幅が狭すぎたり、アメリカのトラックや戦車を渡すには弱すぎるものは、臨時的に野戦用ベイリー・ブリッジで架橋した。これは簡単に組み立てたり、取りはずしたりできるものである。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 99-100頁》

 

大補給作戦: 悪天候で苦戦

4月4日の午後は、… 渡具知の浜に、高さおよそ2メートルから3メートルの高波が、白い歯をむき出しにして暴れ狂い、この嵐は一晩中吹き荒れ、翌日までつづいた。全陸揚げ作業は中止され、上陸用舟艇珊瑚礁にたたきつけられて、壊されてしまった。ふたたび4月10日、強風にあおられた波涛は、作業を休止状態におとしいれ、翌11日になって、やっといくらか良くなったようなものだった。これらの暴風は、雨をともない、道路を泥沼と化し、そのため補給問題をいっそう複雑なものにしてしまった。しかし、こういうハンディキャップにもかかわらず、上陸部隊の補給は、4月16日までに80パーセントを達成し、57万7千トンの物資渡具知の浜を通って陸揚げされた。これは予想以上の成果だった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 98-99頁》

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p82a.jpg

SUPPLYING AND DEVELOPING THE BEACHHEAD had by L plus 3 made substantial progress. Supply ships were run in to the reef's edge, where they unloaded into trucks or amphibian vehicles. Indentation in shore line is Bishi River mouth, with Yontan airfield on horizon beyond; (北谷・渡具知の) 海岸の供給と建設は、3日までに大幅な進歩を遂げた。補給船はサンゴ礁の端に入りこみ、そこでトラックや水陸両用車に降ろされた。海岸線のくぼみはの比謝川の河口で、水平線上に読谷飛行場がある。

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 3]

 

米軍の北進 - 石川・金武へ

恩納・石川・金武へと進軍

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Foot troops moving up to the front along the dusty roads of Nakadomari, Okinawa. Jeep brings back the wounded civilians from the front.《AIによるカラー処理》仲泊の埃っぽい道路を前線へと向かう歩兵隊と、負傷した民間人を前線から移送するジープ。(1945年4月4日撮影、恩納村仲泊)

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4月4日、第1海兵師団の全3個連隊は、沖縄の東海岸に位置をしめた。(94-95頁) … 4月4日の昼下がり、第6海兵師団の一隊は石川地峡を見渡す珊瑚礁岩の高い丘を降り、東海岸にある石川村落の海に面した方向へ進撃した。… 石川地峡進撃の先鋒には第22海兵隊があった。海兵隊戦車が、まず海岸沿いの道を進んで簡単な偵察を行い、高台の中央部にそって第1海兵大隊が徐々に進撃して、行く道を偵察したり、ときどき出没する日本軍を掃討していった。第22海兵隊が熱田原ーー金武の線に到達したとき連隊は進軍を停止し、第4海兵隊は東側を、第29海兵隊は西側を通過した。日本軍には時たましか遭遇せず、ただ4月の5日から6日にかけての夜、30名から40名ほどの日本軍が海兵隊の陣地に斬り込んできたが、いずれも殺されたり、あるいは退却させられた。(127頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 》

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I Company 4th Marines going through town of Ishikawa. 石川の集落を通過する第4海兵連隊I中隊。(1945年4月4日撮影)

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南進する米軍 - 普天間

松並木の街道を進軍する陸軍。

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Infantrymen of the 382nd Regiment, 96th Division, move forward over the roads under cover of our tanks.

戦車に守られて進軍する第96師団第382連隊の歩兵(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本兵と民間人捕虜の収容

日本兵と民間人をわけて収容。この時期、米軍は臨時召集された地元の防衛隊員を兵士とみなすべきか、民間人とみなすべきか迷っていた。(最終的に兵士とみなされる。)

1st Lt. Wm. E. Daugherty talks with an Okinawan  home guard.沖縄の防衛隊と話すダワティ中尉。(1945年4月4日撮影)

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Marine searches native for any concealed weapon. 地元民が武器を隠し持っていないか調べる海兵隊員(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

日本軍は壕から漏れ聞こえる赤ん坊の泣き声を押し黙らそうとしたが、実際には、赤ん坊の泣き声が民間人の壕のあかしとして住民を救うこともあった。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/116709.jpg

While advancing, I Co. 2nd Bn 4th Marines, heard a baby cry from a cave just off the path. They discovered a Jap family in the cave and assuring them that no harm would come to them, they surrendered. 道路わきの壕の中から赤ん坊の泣き声を聞き、すぐにそこに日本人家族が潜んでいることに気づいた海兵隊員は彼らに一切害を及ぼさないことを約束し、一家は降伏した。(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Civilians moving thru the town of Akina to the safety of the rear areas. 安慶名を通って前線から離れた安全な場所に向かう民間人(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

日本軍の動向

第32軍司令部 -「逆上陸」計画

第32軍は、天皇が攻勢を望んでいる、奪われた北・中飛行場を奪回し攻勢に転ずるべしとの要請を受け、前日の3日夜、持久戦略の継続を主張する八原参謀以外は、攻勢に出るべきとの意見で一致した。多数決により、これまでの持久戦略を変更して攻勢に出ることを決定、牛島司令官の決裁を経て変更を各方面に打電した。

この32軍の電報は、4月4日真夜中に大本営に着いたのだが、大本営陸軍部では、それと入れ違いになる形で、4日午後、参謀次長の名で、飛行場奪回の電報を打っていた。これには、沖縄作戦にたいする陛下の御心配の様子も伝達されていたので、32軍としては、どうあっても攻勢をとらなければならない立場に立たされていた。(158-159頁) … 軍司令官の攻撃決心は、作戦担当の八原参謀の手で計画化された。… 4月4日、軍司令官の決裁を経た攻撃計画は、「軍は4月7日夜、全力を挙げて攻撃に転移し、所在の敵を撃破しつつ北飛行場、同東側制高地帯に進出し、上陸した敵を撃滅する」という方針をもって、第一線が62師団、第二線が24師団、第三線が独立混成44旅団、そして第四線に小禄にある海軍陸戦隊が続く。それまで地中に潜んでいた龍が、いっせいに地表に姿をあらわし、北に向かって突進を開始するという、すこぶる壮大な作戦だった。(159-160頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 》

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1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。(1)大田実海軍中将、(2)牛島満第32軍司令官、(3)長勇第32軍参謀長、(4)金山均歩兵第89連隊長、(5)北郷格郎歩兵第32連隊長、(6)八原博通高級参謀

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

しかし4日の夜、計画は中止される。

一応、攻撃に賛意を表したものの、24師団長と62師団参謀長たちは、軍参謀に、「この攻撃の成功には確信がもてんぞ」と、ひそかに耳打ちした。低い声がつづいた。「はじめから十分準備していればともかく、やらんことに決めていた陣地を出ての進撃を、急にやろうというんだからな。(160頁)

4日夕刻、計画は各師団長に伝えられ、各部隊それぞれの準備にかかろうとするその4日夜半、航空部隊から那覇南方150キロに空母3、輸送船50の部隊を発見したという電報が入った。湊川正面に上陸する公算大であるという。下腹を衝かれたら、万事休する。4月7日の総攻撃は、4日夜半に急遽中止された。(164頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 》

 

日本海軍沖縄方面根拠地隊(海軍少将・大田實)

http://kaigungou.ocvb.or.jp/english/img/outline/ph02.png

大田實(おおた みのる)海軍少将

大田司令官は沖縄へ赴任して来た時、既に決まっていた陸軍の戦略持久作戦には否定的だった。

 《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 378頁》

大田司令官は3日、「沖縄周辺の敵航空母艦をすみやかに撃滅してもらいたい」旨の電報を関係者に発していた。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 68頁》

これを受けて五航艦の宇垣司令長官は4日午前、菊水作戦の図上演習を行なった
《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 378頁》

 

消えた日本兵

第32軍は持久戦の体力を温存させるため、主戦力を後退させた。

米軍が沖縄に上陸し、瑞慶覧に近づいてくると日本兵の姿が消えた夜に南部へ撤退したという。残された住民は空襲警報が鳴るたび、近くにあった自然壕「御願山の壕」に身を寄せた。

北中城村瑞慶覧 ~ 奪われた集落 今も帰れず - Battle of Okinawa

その一方で、遅滞作戦を追行する賀谷支隊は、女子挺身隊や特設警備隊などという名目で地元の少年や女性まで臨時召集し、女子挺身隊や特設警備隊として編成し前線に送り込んだ。

中部西海岸付近に配備していた賀谷支隊をはじめ各隊は兵力の不足から沖縄戦突入直前から多くの少年少女を含む民間人を恣意的に徴用し、義勇隊・女子挺身隊・女子炊事班・女子救護班という名で、地雷敷設・弾薬運搬・戦闘部隊への食事運搬・負傷者の運搬など、後方業務を越えた戦線業務に従事させていた。

北谷町「私の見た戦前・戦後の北谷」

北谷に孤島のように置かれた海軍第11砲台のおよそ40名は、二発を発射した後に集中砲火をうけ全滅するが、そこにも地元の若い女性20名が配置され、17名が犠牲となった。生き残った2名も手や足などを失った。

平安山の「海軍十一砲台」には喜友名小ヤードゥイから14名の女子青年が3月24,5日頃徴用され、海軍女子挺身隊として編成され、軍服も支給されて救護に当たった。また、越来村山内に布陣した「機関銃中隊」には3月27・8日の夜山内の集団壕に避難していた平安山ヌ上、下勢頭(シチャーシドゥ)の女子青年6名が、兵隊同様に俸給も出すし、死んだら靖国神社に祀るといわれ女子挺身隊に編成され、戦車破壊用の急造爆雷や弾薬運搬・炊事に従事させられた。20名のうち海軍挺身隊2名、陸軍挺身隊1名の3名だけが負傷しながらも生き残った。

北谷町「私の見た戦前・戦後の北谷」

 


具志川グスク壕の「集団自決」

具志川にいた歩兵第89連隊は南部へと移動したが、その際、日本軍は地元の青年男女で構成した警防団に手榴弾を手渡す。「二個ずつの手榴弾には意味が付随する。「敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜となる恐れのあるときには、残りの一発で自決せよ」という指令は、渡嘉敷島「集団自決」の例をあげるまでもなく、沖縄戦を通して一貫してみられるものである。

軍上陸後、グスクの西側端の壕には、南部へ移動した日本軍から、榴弾2個ずつ渡されたムラの青年男女が立てこもった。昭和20年4月4日23人の学徒、青年で構成する警防団は侵攻してきた軍と手榴弾で応戦したが、最後は残った榴弾で「自決」、13人が死に至る。現況は、壕は崩壊しており、火炎放射を受けたといわれる壕や周辺岩肌は、今なお黒い焼け跡がみられる。現地には集団死の説明板が建立されている。

うるま市 「戦跡が伝える沖縄戦」pdf

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若者たちの自決については、生き残った人や遺族が長く口を閉ざしてきました。ところが、現場でけが人の手当に当たった元アメリカ兵の男性が、平成7年、生存者の消息をたずねたことをきっかけに、旧具志川市が、聞き取り調査に乗り出し、自決から半世紀を経て、慰霊碑が建立されました。

うるま市 具志川城祉の壕【放送日 2010.3.3】|戦跡と証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

そのとき、住民は・・・

楚辺民間人収容所と病院

米軍の上陸地点となった読谷や北谷では、米軍はいったん楚辺や砂辺に臨時の民間人収容所と病院を設置する。(住民は後に他の収容所に移される。)

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Sick and wounded natives in hospital set up by Military government in Sobe after invasion of Okinawa. A mother bathing a child suffering from malnutrition.  病気やけがをした住民。沖縄侵攻後、軍政府が楚辺に設置した病院にて。栄養失調の子供の体を拭く母親。(1945年4月4日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Sick and wounded natives in hospital set up by Military government in Sobe after invasion of Okinawa. A four year old with a gun shot wound sitting in a Makeshift crib.
病気やけがをした住民。沖縄侵攻後、軍政府が楚辺に設置した病院にて。急ごしらえのかごの中に座っている、銃創を負った4歳児。(撮影日:1945年 4月 4日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Sick and wounded natives in hospital set up by Military government in Sobe after invasion of Okinawa. A group of older people.
病気やけがをした住民。沖縄侵攻後、軍政府が楚辺に設置した病院にて。年配の患者達。(1945年4月4日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Native woman who tried to commit suicide, by cutting her throat, is examined by Dr. J. W. Norcooss Lt.(MC) at Civil Affairs Hospital, Sobe, Okinawa. のどを切りつけ自殺を図ろうとした地元女性を診断するノーコス医師(海兵隊大尉)。楚辺の民政病院にて。(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Caring for wounded civilian at Civil Affairs Hospital at Sobe, Okinawa. Dr. J. W. Norcross, LT(MC) and E. Pollock, PhM3/c treating a baby with sulfa drugs. 楚辺の民政病院で、負傷した民間人の手当をする様子。ノーコス医師(海兵隊大尉)とポラック衛生兵が、赤ん坊にサルファ剤を塗る様子。(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Women pounding rice for cooking. Civilian internees prepare their own food to a large extent. 米をつく女性たち。民間人被抑留者は食事の用意はほぼ自分たちで行う。(1945年4月4日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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日本軍の基地から米軍基地へ

米軍の上陸目標となったのは日本軍が作った二つの基地、沖縄北飛行場沖縄中飛行場。占領後、その基地周辺のそのほとんどが米軍に接収されたままで、住民は帰村が許されなかった。

沖縄北飛行場  (読谷村) → 米軍 読谷補助飛行場

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読谷村の中心部を貫く1本の直線道路。南北にまっすぐ伸びています。戦時中の昭和18年、旧日本軍が建造した沖縄北飛行場の滑走路の跡です。沖縄北飛行場は、当時、県内で最大の飛行場で、2000メートル級の滑走路を2本備えていました。660人あまりの住民の土地が軍に接収され、建設には住民も動員されました。

読谷村 沖縄北飛行場||NHK 戦争証言アーカイブス

沖縄中飛行場 (嘉手納) → 米軍 嘉手納飛行場

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極東最大の空軍基地嘉手納基地。戦争の前は、畑や集落が広がるのどかな場所でした。そのうちのひとつ下勢頭地区。戦争が始まった時、集落には、780人が暮らしていました。花城可保さんもその1人です。アメリカ軍が上陸する直前、花城さんは家族とともに疎開しました。戦争が終わり収容所から戻ってきましたが、集落全体がアメリカ軍に占領されていました。ふるさとそのものを奪われることになった花城さん、自分が生きている間に戻ることはもう諦めているといいます。花城さんは特別な許可をとり、嘉手納基地の中に向かいました。基地の一部となってしまったふるさとを年に1度は、御願などのため訪れています。

嘉手納町 基地に消えた村|NHK 戦争証言アーカイブス

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*1:読谷飛行場と嘉手納飛行場