1945年 8月26日 『マイナスからの再建』

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ①

1945年8月26日午後6時43分、第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けた。最初にとった行動は全琉球列島の日本軍指揮官との連絡網を確立することだった。重要な島々に航空機からメッセージを落とすことになった。徳之島、宮古島石垣島西表島、喜界島、奄美島の指揮官あての日本語と英語の指示が用意された。』(226頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 226頁より》

 

 

米軍の動向

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[米海兵隊が]水泳プールの建設を進めているリーフダイナマイトを爆発させて、その結果を見守る米海兵第5連隊の兵士たち。爆破責任者であるフレンチ少尉が、「太平洋」より「プール」で泳いだ方が良いと決定。リーフは海岸から1マイル(約1.6キロ)にわたって延びている。(1945年8月26日撮影)

MARINES BUILD POOL IN OCEAN: Marines of the 5th Reg. watch the results of a dynamite blast in the coral reef off Okinawa where they are building a swimming pool. 2nd Lt. Harry D. French, 23, 207 North Oxford St., Indianapolis, Ind., in charge of the blasting, decided the pool would be better for swimming than the Pacific ocean. The reef extends a mile beyond the beach.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

屋嘉収容所: 阿嘉島の海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

『島にいた時の、食物についての危機的・絶望的状態からみれば、収容所の中は天国の生活であった。1日3回、定刻になると、〝Kレーション〟というボール紙箱に包んだ米軍の野戦用携帯食糧が1個ずつ配給された。その箱の中には、更に蠟で厚く包んだボール紙の箱に詰め合わせになっており、記号〝B〟(ブレックファスト)の場合には、ビスケット4枚、コーヒー1袋、角砂糖4個、煙草4本入り1箱、フルーツバー1本、卵の缶詰1個、チューインガム1枚が入っていた。

また〝D〟(ディナー)の場合は、缶詰はチーズ、コーヒーの代わりにレモネードパウダー、チョコレートかキャラメル、その他はBと同じ、〝S〟(サパー)の場合は、缶詰が豚のひき肉で、コーヒーの代わりにスープパウダーが入っていた。(後になると、これよりやや高級の〝Cレーション〟と呼ばれる、2個で1食分となっていて中味はKとほぼ同じだが、肉の方はいろいろな種類のある缶詰に変った。いずれにしても、日本軍の乾パンに金平糖という携帯食糧からみると比較にもならないご馳走であった)』(217頁)

《「戦争と平和 市民の記録 ⑮ ある沖縄戦 慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 217頁》

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慶良間列島で投降した日本兵。米陸軍の軍用食を座って食べている様子。

Japs that surrendered at Kerama Retto, Ryukyu Islands. They squat over US Army field rations.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

『私は身体が弱っていた上に、マラリヤのためのだるさがとれないせいもあって、チーズは口にできなかった(私としては、チーズなど口にするのは、はじめてのことであったが・・)ので、チーズ缶は他の者の卵かひき肉缶と交換してもらっていた。もっとも、日本兵でチーズを見るのもはじめてというのは、私だけではなく、従って新来の捕虜はいずれも入所当初にはこれをもて余していたが古参の捕虜達は慣れたもので、チーズはパクパク食い、またKレーションの内箱にある蠟を缶の蓋などで掻き落として貯めこれを燃料として大きな空缶の中に入れ、上に針金で作った五徳をかけ、手に入れた米軍の野戦用の金属コップまたはフライパンをのせて、肉缶とビスケットを一緒に煮たり、コーヒーを沸かして飲むなどしていた。(ただし米軍は、テントの中でこうした火を用いることを厳禁しており、抜打ちの検査で現場を発見すると3日間くらい〝食事止め〟の体罰を科した)

新参のわれわれは、とてもこんな技も道具もまたその余裕もなかったので、手数をかけることもせずに、そのまま生水をのみながら食うだけであった。』(217-218頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 217-218頁》

 

 

そのとき、住民は・・・

米軍将校が分析した沖縄人: ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐

『…日本との敵対行為が終了すれば、全沖縄住民に住居を供給せねばならない。沖縄住民はこれからの長期間、仮小屋に生活せねばならないだろう。その仮小屋さえもまだ手がついていない現状である。
どこの村や町でも公文書が破壊を免れた例はない。どうやら、日本軍はわれわれアメリカ兵が公文書を入手することを防ぐことには成功したらしい。もちろん、アメリカ軍も公文書破壊に手を貸してしまった。

住民が不動産権利証書税金支払証明書銀行預金通帳郵便貯金通帳などを健気に守ろうとしたことは歴然としていた。洞窟や防空壕の片隅、あるいは地中に埋めた壺や派手な金庫の中にこれらの書類がきれいに包まれているのを数多く発見した。住民は命からがら逃げ回り、大事に保存していた書類を最後には全部放り出してしまった。銀行はすべて破壊され、実際、通帳には何の意味もなかった。それよりも何よりも、戦争の恐ろしさに住民は自分の命さえ助かれば、という気になっていたのである。

こうして今、行政や経済の基盤となる全ての文書が失われたという事実にアメリカ軍は直面している。戦後の財産権争いの調停の基礎資料などどこにもなかった。議会記録、防衛召集記録なども失われていた。全く何もない所から始めなければならない。』(291-292頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」291-292頁より》

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民間人の家を建てるために使うロープを紡いでいる。那覇郊外の収容所にて。

Making rope to be used in building civilian houses in compound outside of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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那覇市近郊の収容所で家を建てる沖縄人

Okinawans building homes in compound near city of Naha, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月26日(日)