手榴弾戦 / 沖縄陸軍病院のひめゆり / コザの野戦病院
米軍の動向
後方で進む基地建設
米軍は、沖縄に上陸した直後から、前線では戦闘を、後方では基地建設に邁進した。沖縄島を日本本土への出撃基地とするため、また地上戦の足場とするため、米軍は航空基地建設、補給路確保のインフラ整備を進めた。
左は日本軍が構築した飛行場。右は米軍が沖縄戦の年に建設した飛行場。他にも小飛行場米軍は日本軍基地を接収し整備拡大して米軍基地を建築し始めた。
伊江島・読谷・嘉手納基地と、陸軍貯油施設の建設
沖縄と伊江島に基地を建設しようというその狙いは、もちろん、将来の作戦にそなえて、艦隊や航空隊の前進基地と補給基地にすることであった。とはいえ、最初のうちは、全建設作業は、進攻作戦遂行のほうに向けられた。幹線道路と、物資集積所への主要道路が建設され、読谷と嘉手納の飛行場は使用を開始し、海岸沖合のタンカーと連結したガソリン貯蔵施設の建設がはじまった。
嘉手納基地の拡張工事
米国空軍: A truck dumps a load of coral onto taxi strip which the 1878th Engineer Aviation Battalion is building on Okinawa, Ryukyu Retto.
第1878工兵航空大隊によって建設中の誘導路に石灰岩をどさっと降ろすトラック。沖縄。
伊江島飛行場の建設
米国陸軍通信隊: Control tower at Ie Shima airstrip. Crash trucks stand by ready for any emergency.
伊江島の滑走路の管制塔。緊急に備え、待機する空港用消防車。1945年5月15日
総攻撃5日目
An Officer directs Marines on front lines amidst wreckage and dead Japs.
瓦礫と日本兵の死体に囲まれて前線の海兵隊員に指示を与える将校。1945年 5月15日
Sick bay of the 1st Battalion, 29th Marines, right behind the front lines on the southern Okinawa front between Shuri and Naha.
南部戦線の首里-那覇間の前線のすぐ後方にある第29海兵連隊第1大隊の医務室。1945年 5月15日
前線の救護所で手当を受ける負傷兵。後方の裸の海兵隊員は火傷を負っている。(1945年5月15日撮影)
Wounded men are given aid at forward aid station. Naked Marine in background is suffering from burns.
第3水陸両用軍団(海兵隊)と第24軍団(陸軍)の作戦区域が境を接するその境界線の先には、日本軍の主力が守りを固めた首里高地があった。海兵隊は第1師団が第3水陸両用軍団の左翼、第6師団が右翼という位置を保ったまま、南へと進んだ。第1師団の作戦区域内では、第7連隊が左翼、第5連隊が右翼を占め、第1連隊は予備戦力という位置づけだった。
那覇全景(1945年5月15日撮影)
Panorama showing city of Naha, capital of Okinawa.
安里(あさと)・真嘉比(まかび): シュガーローフ(52高地)
日本軍の猛烈な迫撃砲弾、それに斬り込みで、ついにシュガー・ローフの海兵は、5月15日の未明には将校わずかに1人、それに疲れきった兵19人だけになってしまった。日中はなお危険だった。というのは、シュガー・ローフの南にある〝馬蹄ガ丘〟やその東側にあるクレセント(大道森)にたてこもっている日本軍は非常に正確な射撃を浴びせていたからである。
午前10時、救援隊が出発したむね大隊から伝令がとどいた。海兵隊はすでに幾分か後退していた。集中砲火はますますはげしく海兵隊のいる峰の上に加わり、反対側の洞窟からは、日本兵がにじり寄ってきた。
…すばやく、救援するには、高地奪回を目指して肉迫しつつある日本軍を攻撃する以外にないとさとり、小隊長ジョージ・マーフィー中尉はつけ剣で突撃を命じた。
小隊は丘の頂上まできた。そこではげしい手榴弾戦にはいり、もっていた350個の手榴弾がたちまちにしてなくなった。』(344-345頁)
すでに日本軍は大隊の勢力でシュガー・ローフ周辺を砲撃し、第6海兵師団の左翼を攻撃しつつあった。夜明けごろになって、日本軍は約800メートルの戦線に展開し、シュガー・ローフの戦闘やクレセントの高地前方での戦闘で、米第6海兵師団の全左翼戦線はおおいに弱まってきた。第2大隊はついに退却した。日本軍はあえてこれに追いうちをかけてこようとはしなかった。第2大隊は、3日間で約400人の死傷者を出していた。
大名(おおな)
安波茶ー沢岻(ダケシ)地区を過ぎると、今度は大名(ワーナ)高地が立ちはだかる。大名高地の尾根の向こう側が大名峡谷で、谷底を安謝川がくねくねと流れている。大名峡谷の南側にはまた別の丘陵があり、こちらは那覇市街から東へ行くほど高くなって、首里高地へと連なっている。この二つ目の尾根こそが、日本軍主力の防衛線の一つ、首里戦線を成しているのだった。
大名高地
WANA RIDGE, rugged barrier in the path of the 1st Division, is shown looking southeast toward Shuri.
1945年5月15日、大名攻撃に向けて、第5連隊は第2大隊を前線に投入、第3大隊を後続部隊として配した。さらに後方には第1大隊も控えていた。
第2大隊の攻撃が始まる前に、われわれ第3大隊は戦線後方の位置についた。そして、味方の戦車の75ミリ砲弾やM7自走砲の105ミリ砲弾が涸れ谷のいたるところで炸裂するのを、固唾をのんで見守った。だが敵の反撃もすさまじかった。猛烈な砲火に、戦車との連携突撃を命じられた第2大隊のライフル兵は、溝や穴に伏せて身を守り、離れたところから射撃するのが精いっぱいだった。立ち上がったが最後、戦車めがけて雨あられと浴びせられる砲弾の餌食になっていたことだろう。肝心の戦車も、ライフル兵の援護がなければ、前進することもままならない。捨て身の日本兵が自爆攻撃を仕掛けてくるからだ。ついに被弾した戦車がじりじり後退しはじめた。わが軍の砲兵隊や戦艦軍が、渓谷周辺の日本軍陣地にすさまじい砲撃を浴びせかけた。ほどなく、戦車部隊は退却し、空爆が始まった。激しい爆撃ではあったが、その後、谷間を制圧するのに要することになる猛攻撃に比べれば、まだ物の数ではなかった。
準備を整えて沢岻高台で待機する戦車。部隊は首里へ向けて進軍するつもりである。
Tanks stand by in readiness at Dakeshi Heights. Troops are attempting to move into Shuri.
大砲や迫撃砲による砲撃、艦砲射撃、空爆・・・目の前の大名渓谷と左手の大名高地を標的にしたわれわれの猛攻は続いた。日本軍の抵抗もすさまじく、戦場のあらゆる人間、あらゆるものに攻撃を加えつづけた。攻勢に出る戦車=歩兵部隊は残らず砲火にさらされた。それでも火炎放射戦車を含む合計30輛の戦車から放たれた砲弾が谷間に炸裂し、大地をこがした。それからふたたび敵陣めがけて地海空の総力を結集した砲撃・爆撃が仕掛けられ、その轟音と衝撃たるや、静寂という言葉の存在すら忘れてしまうほどだった。
幸地(こうち)・石嶺(いしみね)
『米第305連隊の作戦範囲は、187高地から首里にいたる変化に富んだ地形である。このあたりは首里の東部や北西部の、けわしい地形とは違って、突出した岩山が無数にあるかと思えば、谷間もあるという高台地で、ただでさえ不規則なこの地形に、砲弾で岩が裂け、兵隊の塹壕が掘られ、山腹には洞窟の大きな口があき、5月の中旬までには、すっかり山形が変わっていた。そこには生ける植物の一本とてなかった。
第305連隊は、そのまま押していった。だが、2、3メートル進むごとに殲滅しなければならない新しい陣地が、つぎからつぎへと現れてきた。連隊の損害はしだいに大きくなり、5月15日までには、もとの兵力の4分の1ぐらいにまでなってしまった。』(364頁)
石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺
5月6日以来の戦闘で、471人もの死傷者をだした第306歩兵連隊は、15日、ついに第307連隊と交替した。第307連隊は15日の朝、9時を期して第306連隊の前線を通り攻撃を開始した。
作戦では石嶺の大石森と、その右にあるチョコ・ドロップに同時攻撃を行うことだ。猛烈な小銃、機関銃、迫撃砲火の中を、彼らは目標めざして進撃をつづけていった。第96師団の各部隊は、同時に各担当地区内を進撃していったが、これはまた東翼にいる第77師団の進撃にも、大いに役立った。正午ごろ、第3大隊はチョコ・ドロップ北部のふもとに到着し、そこから大石森の北部斜面を攻撃していった。
第3大隊がチョコ・ドロップの北部を攻撃する一方、第2大隊のほうではその右側にまわり、約500メートルほど進撃したが、ここでもまた猛烈な迫撃砲火や機関銃火にあって、進撃を阻まれてしまった。
米軍は全体的にみて進撃を積み重ねることはできなかった。チョコ・ドロップと大石森の間で鞍形になっているところは、チョコ・ドロップだけからではなく、南側の全防衛陣地からも攻撃のまとになっていた。ここでさらに数輌の戦車が擱座した。しかし、第77師団の攻撃は、この戦闘で、進撃を開始してからはじめてチョコ・ドロップの真北や大石森北斜面の下のほうで、自己の陣地を確保することができたことになる。
その夜、日本軍は、チョコ・ドロップの下に陣取った第307連隊の戦線突破を試みてきた。山の裏側にある巨大な洞窟の中から迫撃砲などをもって、暗夜に乗じて二度も襲撃してきた。しかし、彼らは撃退された。その夜、日本軍はチョコ・ドロップ北の塹壕の中に米兵5人を発見した。前夜の米軍撤退のときに、隊にはぐれた兵たちであった。たちまち2人が射殺され、1人が負傷、2人がかろうじて生き残った。』(377-378頁)
『第383連隊G中隊の2個小隊は、連隊長メイ大佐の言葉をかりれば、「いままで見たこともないほどの勇敢さ」をもって、5月15日、日本軍のすさまじい弾幕の中を、西原村のキング高地からコニカル・ヒルに進撃し、頂上からそう遠くないところに塹壕を掘った。予備小隊の兵6人が、北側の山からふもとの中隊に連絡をとろうとしたが、たちまち日本軍の銃弾に撃たれ、下方に25メートルも転げ落ちてしまった。 』(391頁)
日本軍の動向
シュガーローフの手榴弾戦
A 12CM British gun in a concrets emplacements found along the seacoast. The installation is located in a coral mountains and has electric lights, ammunition storage space and communication lines.
海岸線で見つかったコンクリートの砲座にあるイギリス製12cm砲。この施設は石灰岩の上にあり、電灯、弾薬貯蔵庫、通信回線が備え付けられている 1945年 5月15日
1945年5月15日沖縄南部--日本軍の砲座入り口のクローズアップ。爆弾処理のための諜報写真。第3水陸両用軍団。(1945年5月15日撮影)
S. OKINAWA MAY 15, 1945--Close-up of entrance to Jap emplacements. Intelligence Photo for Bomb Disposal--III Phib. Corps, Pack #5.
天久(あめく)
天久台洞窟を死守していた独立混成第2大隊長古賀宗一少佐(少16期)以下の残存者は、無線をもって適時敵情を報告し、斬込みを実行していたが、15日夜残存者総員の斬込みを敢行し大隊長以下ほとんどが戦死した。軍は独立混成第44旅団に防衛築城隊(長牟田大輔大尉)を増加し、海軍から20組の斬込隊を天久、眞嘉比方面に派遣させ、那覇正面の米軍の攻撃力減殺に努めた。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 231頁より》
安里(あさと)・真嘉比(まかび): 52高地 (シュガーローフ)
15日、さらに米軍は、強引な攻撃を開始。わが歩兵15連隊も、正確な射撃を米軍に浴びせて、一歩も退かない。52高地では、はげしい手榴弾戦がつづく。米軍の一小隊は、60名が11名だけになった。米軍も頑張った。被害続出しても、退却しない。しかし、ついに米軍が押し負けた。米第2大隊は退却した。死傷400。わが15連隊1大隊が夜襲をかけ、大隊長みずから軽機を握り、仁王立ちで撃ちまくる奮戦が効を奏した。
15日朝安里東方の52高地の米軍は撃退したが、眞嘉比及び安里北側高地の一部は米軍に占領された。独立混成15聨隊長は52高地正面に増加配置した。…(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 231頁より》
南風原陸軍病院 - ひめゆり学徒隊
南風原の陸軍病院には軍医・衛生兵・看護婦の450名に加え、動員された沖縄師範学校女子部157人、沖縄県立第一高等女学校65人の学徒が壮絶な現場に動員されていた。この後、それぞれ過半数を超える81人と42人が命を奪われる。
沖縄陸軍病院南風原壕20号
南風原の黄金森に掘られた約30からなる手掘りの横穴壕の一つ。長さ70m、幅・高さ約1.8m。軍医、看護婦ら約350人に加え、3月24日に沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒 (ひめゆり学徒) 222人が看護補助要員として動員されました。1990年に戦争遺跡として全国初の文化財に指定されています。
沖縄県立第一高等女学校の女子学生証言
軍医部での看護活動は薄暗い壕内で軍医の指示に従って勤務していました。患者の包帯をはずすのに少し時間がかかりました。膿が包帯にへばりつき、くっついてなかなかはずせないのです。軍医に「さっさとはずすんだ」と怒鳴られて、強く引っ張りますと悪臭と共に無数の蛆が膿といっしょに流れ、傷口は大きく穴があいて兵隊は後ろにのけぞり、私はふらふらと倒れそうになりました。軍医は「これしきのことで、どうする」と前にもまして大声で怒鳴りました。ここでは死体を埋葬するのは兵隊がやっておりました。死体は担架に乗せられていました。昼は爆撃がひどいので夕方壕外に運ぶのですが、軍医が「あの壁に寄りかかっている兵隊は死んでいるか見て来い」と言ったので、もし死んでいたら担架に横たわっている死体と一緒に埋められるのかと思いながら近づいて肩に手をおきました。天井から雫が落ちて軍服は湿っていました。でもその兵隊はまだ生きていました。軍医に小さい声で「生きていました」と報告すると、「そうか」といかにも早く死ねばいいのにと言わんばかりの言葉で、私は「ああ人間の生命って地球よりも重たい。と言われているのに死んでしまえば犬や猫の死体みたいに簡単に捨てられるのか」と、すごく哀れになりました。… (中略)
5月15日頃だったと思います。入口の方で何やら怒鳴っている声が聞こえました。近づいてみると負傷兵を連れた兵隊が入れてくれと頼んでいました。「何部隊だ」「山部隊です」「ここは球部隊*1だ、山部隊*2は山部隊の方へ行け」。軍隊とは非情なものです。まして一般の沖縄の人など近寄ることすらできないのです。軍隊は軍隊を守るものかも知れません。
麻酔をかけない手術。
もう本当に見たことのない傷の人がいっぱい、どんどん来ますね。もう本当にその手術する先生は、本当に何かいろいろなもの、何か人間ではない、本当に何か物を処理するような感じで。もう一日何人も手足をボンボン切って行くしですね。… 第二外科ではね、エーテルかがせてたんですよ、麻酔かけないで、… でそれがもう、手術終わると同時にもう、終わるか終らないかの状態の時にもう覚めてしまって暴れるんですね。そのときに私たち学生が手足を押さえる役目なんです… でもこの人たちはちゃんと手術してもらってるからいいけど …
… 両手切断の兵隊がですね、いつも側を通るごとに「学生さん、学生さん」とね。…「学生さん、僕は北海道の出身なのよ」と。「今頃北海道ではすずらんの花が咲いているよ」とゆっくり言うんですよ。私、すずらんの花分かりませんでした。「僕の傷が治って北海道に帰ることができたら、すずらんの花を送ってあげようね。学生さん、ありがとう。ありがとう。」と言って「お母さん、お母さん」と言って息を引き取ったんです。私はそれを見たとき、「ああ、この兵隊さんもう死んでしまった」と思うと同時にですね、「どうしてこの兵隊さんは「天皇陛下万歳」と言って死なないんだろう」と思ったんです。私たちは小学校1年生のときから、兵隊が死ぬときは「天皇陛下万歳」と言って死ぬといって教えられてきたんですよね。だけどその兵隊さんは「お母さん」と言って死んだんです。それで、「ああこの兵隊さん「天皇陛下万歳」と言わなかったね」と私は思ったんですね。でもそれは間違いだったです。みんな、亡くなった人たちのほとんどが「お母さん」と言ったり、家族の名前を呼んで死んでいったんです。
そのとき、住民は・・・
キャンプ・コザの野戦病院
米軍は上陸後、4月2日に越来(ごえく)村嘉間良(かまら)に海軍の宣撫隊本部を設置し、住民を収容した。また4月4日には胡屋(ごや)に野戦病院が設置された。また孤児院も併設された。
米国海軍 G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #264. Primitive laundry.
コザにあるG-6区第61病院。原始的な洗濯施設。 コザ 1945年5月15日
9歳の少年が米軍にカービン銃で撃たれ、野戦病院と孤児院を転々とする。
上の方の墓には弟と祖父、叔母の三人が隠れていたのですが、その墓に手榴弾が2発投げ込まれて、三人は内臓や骨までもバラバラに吹き飛んで死んでしまいました。私たちがいた下の方の墓にも手榴弾は投げ込まれたのですが、雨水がたまっていたこともあって不発に終わりました。
私たちが隠れていた墓に手榴弾が投げ込まれた時、ケガをしていた母を置き去りにして父と二人で墓から逃げました。父と手をつないでサトウキビ畑を走って逃げているときに私はカービン銃で撃たれてしましました。ケガを負い、喉がとにかく渇いて「水が飲みたい」というと、父は「水を汲んでくる」と言ったきり、帰ってきませんでした。後で聞いた話では、父は火炎放射器で焼かれてしまったそうです。
… 薄らいだ意識の中で、向こうから米兵が4-5名やってきて、私のことを足で蹴っているのがわかりました。私がまだ生きているとわかった彼らは、私を担架にのせて米軍の施設に連れて行き、治療をしてくれました。… 現在の宜野湾市のコンベンションセンターの入口のところに米軍の陸軍病院があったんです。そこで治療してもらったんですが、その後、沖縄市の胡屋の難民収容所に移されて、さらに沖縄市嘉間良にあったコザ孤児院に送られました。まだ南部では戦闘が続いていたため、小さい子どもたちが毎日孤児院に送られてきました。私は当時9歳でしたが、その中で一番年長でした。孤児院の向かいに室川小学校があって、そこで運動会が行われたとき、私はかけっこで1番をとりました。その様子をたまたま首里の実家の近所の人が見ていて、私の身元が判明し、私は米兵の運転するジープに乗せられて宜野座に送られました。そこには墓に置き去りにして死んだと思っていた母がいたのです。嬉しいというより夢を見ているみたいでした。本当に言葉もでませんでした。戦争は二度と経験したくありません。また戦争を経験するくらいなら死んだ方がいいです。
米国海軍: G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #263. Infant patient.
コザにあるG-6区第61病院。幼児の患者。コザ 1945年 5月 15日
G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. ComPhibPac #262. Primitive well for hospital water supply.
コザにあるG-6区第61病院。同病院に水を供給するために利用されていた、原始的な井戸。(1945年5月15日撮影)
コザにあるG-6区第61病院。同病院の建設作業を行う地元労働者。(1945年5月15日撮影)
G-6 hospital 61 at Koza, Okinawa, Ryukyu Islands. Native workmen doing construction work for hospital.
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沖縄の今日
▶ 1972年5月15日 『沖縄返還』!? ~その時、沖縄は~