1945年 5月25日 『米軍、那覇に進撃』

首里に迫る米軍

米軍参謀たちは、日本軍は首里で最後まで戦うだろう、と信じていた。米軍が首里に着くまでに、あまりにも戦闘が長びいてしまったので、誰しもが、首里で最後の日本兵が殺されるまで、戦いはずっとつづいていくだろうと考えていたのである。

…第10軍の、ひっきりなしにもたらされる情報では、25日には、「捕獲した書類やPOW(捕虜)の供述、また空中写真からして、敵は最後まで、首里を防衛するものと推察される」と述べてあった。しかし、実際には日本軍は、かなり長いあいだ首里脱出を準備していたのだ。』(421-422頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 421-422頁より》

 

西部〜中央戦線

クレセント (米軍別称: ハーフムーンヒル)

5月末の数日間、われわれはハーフムーン左手の背斜面の洞窟に立てこもる日本軍から、小規模ながら痛烈な反撃を何度も食らった。そんなある朝、多数の敵兵が丘の向こうに集結しつつあるとの情報がもたらされた。集中砲撃に備えて…60ミリ迫撃砲3門の発射態勢をととのえ、左の稜線の背後に狙いを定めた。…迫撃砲3門で一帯に大量の砲火を浴びせ、逃げ場を失った敵を殲滅しようというのだ。

われわれは撃ちに撃った停止命令が出るまでに何百発撃ったことだろう。ひどい耳鳴りがした。疲れ果て、激しい頭痛に襲われた。三つの砲壕のわきには、砲撃の激しさを示す榴弾の空容器と弾薬箱が、うずたかく積まれていた。…下士官の話では、われわれの砲撃網にひっかかったらしい敵兵の死体が累々と横たわりその数は200を超えていたという。…そのあと、尾根の周囲では日本軍の戦闘行動がやんだ』(412-413頁)

《「ペリリュー・沖縄戦記」(ユージン・B・スレッジ: 伊藤真/曽田和子 訳 /講談社学術文庫) 頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/86-33-4.jpg

海外に派兵されて32ヶ月になる第6戦車大隊のフース大尉コロラド州出身)。彼は、海兵隊の戦車隊員にとって目新しい60ミリ迫撃砲バック・スクラッチャ—をウィリアムズ二等兵と一緒に調べている。

Capt. David Foos, 24, single, Wiggins, Colorado, Hq & Ser - 6th Tank Bn., 32 mos. overseas. Looking over Mortar Back Scratcher) 60mm, something new to Marine tanks and crewmen with Pvt Jack Williams.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

那覇(なは)

『5月24日に偵察分隊がなんらの抵抗をうけずに那覇にはいっていったことから、第6海兵師団の偵察中隊は、25日に安里川下流から同じように那覇にはいり、市を南北に二分する流れの西側奥深く進入した。

日本軍は見当たらず、時たまそれらしい姿が見かけられただけで、狙撃兵もまったくいなかった。破壊された町のなかに、まだ逃げかくれしている沖縄の人が2、3人いたが、彼らに聞いてみても、先週5、6人の日本軍の斥候を見たにすぎないといっていた。廃墟と化した那覇は放棄されていたのだ

米軍偵察中隊はこうも簡単に取ってしまった那覇で、土地確保のため、そこに装具もないまま塹壕を掘ってたてこもった。那覇は米軍にとっては南部へいく時の通路として以外は、なんの戦略価値もない。市は幅広い海岸沿いの平坦地で、国場川の河口にある。南部へ通ずるところには小禄の高台があり、さらに市の周辺や国場川の河口に沿って、北東から南西へのびる平地を見降ろす丘陵地帯があった。』(403頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 403頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/122243.jpg

那覇全景 / Panprama of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/86-20-2.jpg

那覇の通りを進む戦車 / Tanks move through the streets of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

一方、安里川上流(那覇北東部)にいた米軍部隊は、日本軍の抵抗にあっていた。

25日の夜までに、E中隊などは、兵隊40人と将校が1人しか残らないほど、さんざんにやられたのである。』(405頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 403頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/123203.jpg

日本軍狙撃兵が顔を上げるのを待ち構える海兵隊狙撃兵。那覇にて

Marine sniper waiting for Jap sniper to stick his head up in the city of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央〜東部戦線

南風原(はえばる)・与那原(よなばる)・コニカル・ヒル: (運玉森・うんたまむい)

25日午前2時30分、日本軍は与那原の西側に陣取っている第32連隊を攻撃、この地点で米軍戦線を突破した。戦闘は夜がしらじらと明けるまでつづき、日本軍は多くの戦死者を後方に残したままついに後退した。

5月25日か26日かに、日本軍の第62師団主力は首里を後にし、与那原下方で第184連隊と一戦を交えるため、南東に迂回してきた。先にさんざん敗北を喫して再編成された部隊なので、同師団の到着は、米軍にとってはたいした脅威とならず、ただ日本軍の大里村の戦線をいくぶんか強化したい、というほどの意味しかなかった。』(412-413頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 412-413頁より》

 

 

第32軍の動向

沖縄本島北部の日本軍

恩納(おんな): 第4遊撃隊

『5月20日ころ、東西両海岸道は米軍の南北移動が活発となり、米軍は国頭地区の日本軍の掃討を住民に公言し、恩納、屋嘉付近に兵力を集結すると共に、屋嘉ー屋嘉田道、金武ー安冨祖付近に陣地を構築し、恩納岳周辺に厳重な警戒態勢をとりつつあった。兵力6千という情報であった。

5月23、4日朝から、先ず観測機が数機、恩納岳陣地上を執拗に旋回して偵察したあと、25日には両海岸方面から迫撃砲を集中し、四囲から恩納岳攻撃の火蓋を切ってきた。敵の攻撃はまるで潮がさしてくるように、尾根伝いに、あるいは谷間を深く縫って包囲網をちぢめ、登攀をこころみる。東面の護郷隊と西側のわが隊との接触がはじまり、ドドドドドーッと機関銃が全面的に火を噴いた

おりから、沖縄にはこんど本格的な雨期がやってきた。灰色によどんだ雨雲からは、沛然と雨が降り、それが濃いガスとなって深い谷間をとざした。カビの生えた深山の腐葉土のにおいに、人間の死臭がかさなってただよい、戦いを一層陰惨なものにした。

両軍の間を逃げてくる避難民が、私のタコツボのすぐ前まできて敵弾を浴びて、悲しい最後を遂げた。なおも友軍をたよって陣地へ入ってくる住民はたえず、陣地はごった返しした。老人をかばい、子供の手をひき、食をもとめて恐怖におののきつつ、髪をふり乱し、濡れた体でさまよう住民の姿は、まさに見るにしのびない地獄絵図である。』(213-214頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 213-214頁より》

 

首里撤退・南部への移動

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

『小雨が降ったり止んだりの5月25日未明、荒井はまる二か月、島田はまる一か月暮らした真地の県庁・警察部壕を出発、約11キロ南に当たる東風平村志多伯の野重1連隊の壕を目指した

…秘書官によると、各自の装備は戦闘帽に鉄カブト、手榴弾、警察官はそれに拳銃、帯剣だけ。持ち物は着替えのシャツ類や日用品を入れたふろしき包みで、島田はそこへ常備薬と博多帯、手提げカバンに愛読書…を入れると、2つのトランクを壕に残した。秘書官らの負担を出来るだけ少なくしようとの心遣いだった。島田の服装は例によって、着た切りすずめで黒光りした詰め襟の乙号国民服に軍靴、荒井ら警察官も夏の白い制服は敵の標的になりやすいので国民服や作業衣に着替えた。

一行は夜間でも固まって行動するのは危険なので、三々五々分かれて行くことにした。』(316-317頁)

『一行は二か月間も狭い壕内に居て運動不足に陥っていたためか、気は急ぐが足の運びは遅かった。津嘉山の橋のたもとに軍用トラックが1台、横転していた。砲撃にあったらしく、首や手足をもがれた兵の死体がたくさん路上に投げ出されていた。橋を渡った土手の上では、おじいさんと孫娘らしい10歳くらいの少女が抱き合って死んでいた。疲れて休んでいるところを爆風にやられたようだ。鼻をつく異臭がすると、道端に必ず腐乱した死体が転がっていた。片付けてやりたくても警察官も歩くのが精一杯で、その余力はない。悲惨な情景に目を背けながら、一同は島田知事を守るようにして志多伯への道を急いだ。

負傷者が数人、一団になって行くのに追いついた。サトウキビをつえに足をひきずっているのは良い方、泥んこ道をはっている者もいた。ふろしき包みを頭にのせ、乳飲み子を背負った母親の後から、まだ手を引かれたい年ごろの少年が、学用品だろうか、一杯に膨らんだランドセルを背にトボトボとついて行く。一筋の道を皆が只、黙々と南へ南へと歩いて行く。戦いに追われる県民の悲痛な姿を見る度に、島田知事の顔は今にも泣き出しそうにゆがんだ。』(322-323頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 316-317、322-323頁より》

 

玉城村(現・南城市)糸数壕:(アブチラガマ)

軍医中尉の証言:

『糸数壕は天然の大きな鍾乳洞の壕で、負傷者の収容や艦砲の避難には格好の場所でした。南風原では艦砲や照明弾が激しかったが、糸数は静かであった。』
『戦争の激化と共に、前線の死傷者はおびただしく、第一線で応急措置を終えた患者は、昼夜を分かたずどんどん運びこまれた。にわか仕立ての分室で、寝台もなく、板や木材の資材も一切無しで、自動車も無く、本部からは一切、兵員資材の補給もなかった。』

『糸数壕の負傷兵は数えることができないほど多く、おそらく500~600名ぐらいはいたと思う。食事の場合多くの負傷兵へオニギリを一つずつあげるのに時間がかかった。糸数壕では全員死力を尽くして、救護活動に全力を尽くしました。』

『…5月25日になって、戦況の急変で南風原病院本院と共に、この方面の敵の襲来がすぐ近くまで来たため、火急に摩文仁方面へ撤退するようにと命令が下りました
本院からの命令は、つぎの通りでした。
戦況悪化のため、本院は摩文仁へ至急転進する。糸数分室も明日までに、早急に摩文仁に転進せよ。患者輸送については、輜重隊の全力であたるから、準備しておくように。」と、以上の命令が来たので私は、全員に知らせ朝から準備して、待機していた。しかし午後になっても、なんら協力の兵隊も来なかった。とうとうしびれをきらして、地元出身の地理にくわしい高嶺一等兵と長吉一等兵を弾雨の中・南風原本院へ至急の伝令として出発させた。本院ではちょうど庶務主任が大急ぎで撤退中で部屋から外へ出る途中で、少し用件を話しただけで「お前未だ撤退しないのか?早く摩文仁へ撤退しろ、敵はすぐ来るぞ」と言われたとの報告であった。私はそれを聞いて、戦況の急の悪化に驚いた。早速緊急に幹部を集め状況説明し、「今日中に摩文仁に撤退すべし。」との命令が下ったことを伝えた。兵員も少なく機材も輸送力もない、本院の輜重隊の協力も見込みない、分室としてどうしたらよいか?結局、自力で又は連れていける者はつとめて連れて行く。全然連れていけない者は、残って貰って、本院の応援を得てなるべく早く連れにくるようにする。長吉一等兵は自分の親戚の伯父さんが入院し、皆と一緒に撤退出来ないから、自分は伯父を見ながら、後に残るといったので、患者の連絡や後の事を託して皆は夜の12時頃歩ける負傷兵と看護婦、衛生兵、ひめゆり学徒隊は南部へ移動したが、各自めいめい歩いて行ったので何名の重症患者が残ったかわからない。』

西平守正さんの証言 | 糸数アブチラガマ

http://www.city.nanjo.okinawa.jp/tourism/assets_c/2011/11/abutiragamamap3-thumb-700x494-3926.jpg

糸数アブチラガマ(南部観光総合案内センター) | 南城市公式Webサイト

http://www.city.naha.okinawa.jp/cms/kakuka/heiwadanjyo/stuff/itirguti.jpg

アブチラガマ入口

糸数壕 | 那覇市 Naha City

 

 

そのとき、住民は・・・

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/123159.jpg

途方にくれた那覇市民の横を走り去る第3海兵軍団第22部隊の海兵隊

Marines of 3rd Battalion, 22nd Marines rush past bewildered citizen of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/120725.jpg

女性の死体。那覇にて

Dead woman in the capital city of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

abuchiragama.com