1945年 5月27日 『さらば、首里よ』

首里に迫る米軍

移動する日本軍への攻撃命令

『5月26日の日本軍の移動が、空中からの観測で報告されたので、バックナー中将は、27日、命令を発し、両軍団(第3上陸軍団と陸軍第24師団)とも、「ただちに強力な攻撃を加え、日本軍を、支離滅裂になるまで攻撃せよ、敵をして、わずかといえども新たな陣地を確保することを、許してはならない」と指示した。この命令は明らかに、万一を予想しての措置で、米軍本部としても、実際には日本軍が首里を撤退した、などとは思ってもいなかったのである。』(426頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 426頁より》

27日、トラックや戦車隊の南下をみとめると、砲兵隊や海上の艦船に連絡して猛砲撃を誘導し、たちどころに500名の将兵をなぎたおした。』(150頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 150頁より》

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首里那覇線を砲撃するロケットトラック / Rocket trucks firing on Shuri-Naha line.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

5月27日、…強力な威力偵察部隊が、戦線全域にわたって送り出された。頑強な日本軍の抵抗にあった偵察隊からの情報で情報部は、日本軍は依然として首里防衛線を維持しているとの結論に達した。この日の偵察隊の典型的な報告は「日本軍が撤退した兆候は見られない」あるいは「抵抗はまったく衰えていない」と記されていた。』(391頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 391頁より》

 

西部〜中央戦線

那覇(なは)

5月27日那覇市へ侵攻した第6海兵師団は、市街地が完全に放棄されているのを発見した。』(392頁)

『第22海兵連隊第2大隊の1個中隊が、5月27日、安里川を渡り、偵察中隊のいる前を通って那覇西側を奥深く進んでいった。』(404頁)
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 392、404頁より》

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第6海兵師団の那覇占領後、市内に残った操車場跡。写真の車両はガソリン動力車。沖縄の鉄道は、那覇から首里や嘉手納間を運行していた。

Remains of rail yards in Naha after the conquest of the city by Marines of the Sixth Division. The car shown in the photograph was gasoline powered. A railway existed on Okinawa running from Naha to Shuri to Kadena.

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第32軍の動向

首里撤退・南部への移動

『この時期、沖縄は本土より約1カ月早い梅雨入りの季節だった。平年の梅雨の総雨量は530ミリ前後で、6月中旬にもっともよく降るのが通例だが、この年は4月下旬から〝走り梅雨〟現象が現れるなど、一段と早かった。5月7日ごろから降ったり止んだりしていた雨は同21日から本格的になり、5月の最後の10日間だけで、総雨量の6割に近い約300ミリもの雨が降った。南部・島尻への撤退と避難は、そんな大雨と泥濘の中で行なわれ、敗残の将兵と県民をいっそう惨めにした。まさに涙雨であった。』(318-319頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 318-319頁より》

『沖縄守備軍将兵が、五つの小隊に分かれて首里城地下の洞窟司令部を出たのは、5月27日の午後7時半から9時にかけてであった。第一小隊から第三小隊まではまっすぐに摩文仁へ向かったが、牛島司令官と八原作戦参謀ら約50名から成る第四小隊と長参謀長ほか長野参謀らをふくむ第五小隊約50名とは、ひとまず津嘉山に戦闘指揮所を移すことにして津嘉山へ向かった。』(149頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 149頁より》

軍司令部

八原高級参謀の回想:

『かねて、最期の地と思い定めていた首里山に、別れを告げるときはきた。
5月27日、薄暗ごろから第1ないし第5梯団に区分された司令部将兵は、梯団順序に次々と首里洞窟をあとにする。第1ないし第3梯団は、直路摩文仁へ、直接戦闘指揮に必要な人員より成る第4、第5梯団は、まず津嘉山に向かう。第4梯団は軍司令官、高級参謀その他約50名、第5梯団は参謀長、長野参謀ら同じく約50名である。

混成旅団司令部は、同時刻ごろまず識名に、第24師団司令部は、28日まず津嘉山に、それぞれ後退することになった。木村、三宅の両参謀は、残務処理のため今夜首里に残留し、明28日夜摩文仁に直行する予定だ。さしも諸施設完備した軍司令部の大洞窟も、数日来の豪雨で、すっかり水攻めにされ、深いところは膝を没するほどだ。所々に、まだ残る電灯の光で、わずかにその陰惨さが救われている。

薄暗になっても、敵の砲撃は衰えない。恰も、退却せんとするわが軍を、追い立てるかのように、巨弾は首里全山を揺るがして、炸裂している。「第4梯団は、第5坑道に集合!」の声に、軍司令官は地下足袋、巻脚絆の軽装で、扇子片手に自室を出られる。私、吉野専属副官も遅れじと続行する。参謀室に残るのは、木村、三宅の両参謀のみ。向かい側の旅団司令部は、全員引き揚げて、付近一帯がらんとしている。両参謀は、残ったビールを処理するのも、残務処理の一つだと、盛んに飲み、かつ気焰をあげている。

一切の書類を整理し、そしてアメリカ軍の手に渡った際、あまりに見苦しくては、名誉にかかわるとばかり、注意してきちんとあと始末を終わった参謀室よ、さらば!

じゃぶじゃぶと、水浸しになった坑道を思い切って歩く。…第4、第5坑道の分岐点の所は、水脈にあたるのか、地下水が滝のように、天井から勢いよく流下している。第5坑道の階段を降りたあたりから、出発を待つ将兵が充満している。各梯団の出発は、混雑せぬよう、時間で規制してあったが、砲弾の間断を見ての出発だから、なかなか計画通りにはゆかぬ。将兵らは完全武装したうえに、弁慶の七つ道具よろしく持てるだけの物を持っている。屈強な兵士は、一人で23貫も背負っている。摩文仁では、弾薬、糧秣、日用品等すべて思うようにならぬと知らされているからである。』(344-345頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 344-345頁より》

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壕の中の日本軍第32軍の元司令部 / Former headquarters of Jap 32nd Army in cave.

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『1915(午後7時15分)出口付近に盛んに落下していた砲弾が、やや間遠になったのを機に、牛島将軍は決然として進発され、第4梯団の相当数はこれに続行した。…出口に接近する刹那、突如十数発の迫撃砲弾が、轟然至近のところに破裂した。同時に2、30名の兵が後退してきた。私の前進は、…不可能になった。時間的に考え、将軍は難を免れておられるはずだ。…さらに好機を見て出発することとし、出口に近い側室にはいった。この室には長参謀長、長野参謀、それから鈴木将軍以下混成旅団の幹部の姿が見える。皆乾パンを食いながら、雑談の真っ最中である。敵の砲撃状況を統計的に観ると、各時間の最初の15分ないし20分間は、概して緩徐である。そこで参謀長以下2010(午後8時10分出発に決めた。

とかくするうちに時間がきた。あんのじょう砲撃がやや衰える。…洞窟より直ちに左に折れ2、30メートルの緩斜面を登る。一行が登り切ろうとする瞬間、右斜面前方近く、例の耳をつんざく迫撃砲の集中爆裂音だ。…坂口副官が決然たる態度で、閣下早く!と声を励まし、参謀長を斜面の上に引きあげている。参謀長の口を引き緊めた俯向き加減の無言の顔が、つと傍を過ぎて行く。

私は、身を伏せながら、こんな密集縦隊の中で前進するのは、地形地物の利用が不便と判断し、かつ任務上1分1秒を争って、津嘉山に到着する必要もないので、縦隊をやり過ごし、例の側室に引きあげた

2110(午後9時10分)、今回は、いささかの躊躇なく出発する。一気に先刻の斜面を駆け登る。敵の砲弾は、今首里山頂と識名の台上に落下しつつあり、繁多川台地は案外に平静である。

さらば首里城趾よ、と仰げば、雲間にもれる月影に、硝煙に黒ずんだ峯が、威厳に充ちて、聳え立っている。』(346-347頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 頁346-347頁より》

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円鑑池・龍潭首里城付近)/ Moat around Shuri Castle.

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沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

戦闘概報:

5月27日   陸軍部隊の転進支援のため、小禄地区に有力な一部兵力を残した以外は、ほぼ転進を完了する。』(91頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 91頁より》 

『護部隊は5月27日海軍記念日、羽田司令をはじめ本部の一行が伊敷に転進した。そのころから、部隊移動を察知した米軍トンボ偵察機通報で、艦砲射撃や艦載機の爆撃がひどくなったという。』(393-394頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 393-394頁より》

 

鉄血勤皇師範隊: 沖縄師範学校男子部

龍潭池畔にあった沖縄師範学校の職員と生徒は、1945年3月31日に「鉄血勤皇師範隊」となり、斬込隊、千早隊、野戦築城隊、自活隊、本部等に隊編成され、第32司令部壕から300メートルほど離れた場所に留魂(りゅうこん)壕と名付けた、師範学校生らで掘った陣地壕にいた。

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5月27日最悪の事態がやってきた。「千早隊は全員、軍司令部の壕へ集れ。各人の装具は携行せよ」との命令が壕内に伝わった。「いよいよやるぞ」「何事だろう」・・決意と不安が相半ばして、隊員は顔を見合わせた。そして無言のうちにも私たちは、最後の決意を固め、次々と軍司令部へ急いだ。…軍司令部の壕に着くと、壕内はいつになくざわめいて何事かただならぬ気配がする。

「大いに飯を食っておけ」という下士官の言葉に、千早隊は初めて軍の炊事場でおいしいおにぎりやおかずを十分に与えられた。「いよいよやるのだ!」隊員は目と目でうなずき合った。…緊張の中に私たちは装具を整備した。

やがて準備はととのった。すっかり張り切っていた気持ちも、「作戦上、軍司令部は、摩文仁へ転進する。それで千早隊は先発隊として、今夕6時摩文仁にむかって南下せよ」との命令を聞いた時には、いっぺんに気抜けがした。「首里を下るのですか」耳を疑うように聞き返す者もいた。気負い立った気持ちの遣り場がなかった。

首里を去る・・。最後まで死守と、あれほど誓ってきた首里を放棄する。転進とはなんだ!転進とは態のいいい退却ではないか。それは沖縄の敗北を意味するのではないか。そしてそのことは、日本の本土決戦に持ち込むこちではないか?〉

…がっくりとなった隊員の中にまじって、ホーっとした顔色も見られた。なぶり殺しにされずに済むというかすかな生への可能性が、その胸をよぎったのだろう。

一応南部へ下って兵力をまとめ、時機をえらんで再び攻勢に転ずるという釈明も、私たちは上の空で聞いていた。…軍命である。私たちには一片の批判も許されるものではなかった。私たちは各自の装具のほかに、電信機具や軍の機密書類が入っている巨大な木箱、そして将校行李等を運ぶよう命じられた

…こうして出発の時刻はきた。千早隊の21名は、折から他の任務を帯びて他所へ出ていた4、5名を除いて全員、酒井曹長ほか2名の下士官の指揮で南下することになり、第4坑道入口で砲撃の間隙を待った。やがて、約5メートルの距離で縦隊に散開し、次々と壕を出た。…原形も留めぬ首里城趾には依然として砲弾が炸裂し、照明弾が古城の廃墟を冷たく照らしていた。〈さらば首里城よ、母校よ、その残骸もこれで見おさめか〉このような状況下にあっても、在りし日のその壮麗な面影を偲んで、尽きぬ想いは低徊する。私たちは、振り返り振り返り、感傷に沈む心を引きずりながら、夕闇に包まれた首里古城を後にした。 』(63-66頁)

《「血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦」(大田昌秀/那覇出発社) 63-66頁より》

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校舎跡首里 / Ruins of school building in Shuri.

(投稿者注: 学校名の記載なし。2017年5月現在、リンク先に掲載された「撮影日」は、誤載と思われる)

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沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

豊見城村字長堂にいた沖縄県庁職員からなる後方指導挺身隊は、前日の26日、知事命令で長堂から高嶺村与座(志多伯の南約3キロ)方面へ撤退を開始した。27日は、兼城村座波方面へと歩いていた。

後方指導挺身隊本部・企画班長の証言:

『挺身隊の一行は降り続いた雨で泥の海となった農道を、ひざまで泥に浸しながら進んだが、雨と砲弾でその夜は一睡もできなかった。翌日、兼城村座波(志多伯の西南西約3キロ)へ向かったが、道中は前夜までの猛砲撃の犠牲らしい、おびただしい兵や民衆の遺体で覆われていた。それに通りかかった部隊や避難民がはねた泥がかかり泥のてんぷらのようになっていた。中には首は吹っ飛んでいるのに、胴体と肢体とで空箱にちゃんと腰かけている奇怪な遺体もあった。だが、人々はすでに不感症になっていたのか、道中見かける遺体の群像にも平気な顔をしていた。遅かれ早かれ自分らもこのような姿に変わり果てるだろう、とのあきらめとも見えた。』(323頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 323頁より》 

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail14_img.jpg

沖縄戦の絵】「てんぷらのように見えた死体」

『…5月下旬那覇市の真玉橋のたもとの光景。降り続く梅雨の雨でどろどろになった道に、折り重なるように倒れている死体の山。南に逃げようとして犠牲になった住民たちだった。米軍の激しい砲弾はその上にも容赦なく降り注いだ。雨でぬかるんだ泥に折り重なった死体は、まるで人間のてんぷらのようだったという。』

てんぷらのように見えた死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

南部を目指した負傷兵たち

『…悲惨なのは、自決も望まず、解隊した医療施設に残されたままの重傷者であった。彼らが与えられた命令は、自分の部隊に合流せよというものだったが、部隊のいる方角も位置も彼らにはわからず、実際に知ることは不可能であった。両足を負傷しているのはふつうであった。重傷者の中でもっともしっかりした者は、転がったり這ったりしながら、または両腕で身体を引きずりながら休みなく少しずつ進んだ。しかし、多くの者は動くことができず、自分で作った松葉杖で身体を支えるにも全力を必要とした。いちばん弱っている者は、道路を短い距離進んだ後は、座ることもできず、うつ伏せになって、見逃されるのを待っていた。』(270-271頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 270-271頁より》

第5砲兵司令部指揮班にいた学徒の証言:

『「…南風原村の喜屋武では、陸軍病院壕を脱出した何百人という手足のない傷病兵が、道の両側を埋めつくしていました。病院壕に居たら〝善処〟されるから、助かりたい一心で、イモムシのように泥んこになって這っていたのです。そんな傷病兵が僕の痩せた足首にしがみつき、『連れて行ってくれーッ』と哀願しますが、ふらつく僕にはそんな体力的余裕はない。心の中で『勘弁してくれーッ』と詫びながら、足で蹴り飛ばし、振りほどかねばならなかった。辛い行軍でした。」』(327-328頁)

《「沖縄一中鉄血勤皇隊 学徒の盾となった隊長 篠原保司」(田村洋三/光人社NF文庫) 327-328頁より》

 

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