〜シリーズ沖縄戦〜

Produced by Osprey Fuan Club

1945年8月16日 『戦争は終わったのか?』

戦利品への執着 / 赤松隊の住民虐殺 / 終わらない苦しみ四人の敗残兵が日本刀をつきつけ / 破れた天幕

 

米軍の動向

戦利品への執着

米軍は計り知れない犠牲を伴い沖縄を占領したが、その占領政策に関しては米国政府と米海軍と米陸軍のあいだで長期にわたって調整に難航した。そもそも国務省は沖縄の占領継続に関して懐疑的であり、沖縄を日本に返還すべき方針を打ち出す。しかし米軍は戦利品としての島の占領を強く主張した。

バーンズ国務長官は、琉球を非軍事化し、日本の支配下に戻すことにより、国際論争の可能性を最小限に抑えようとした。一方、統合参謀本部国務省の立場に迅速かつ否定的に反応した。… 米軍は、国務長官琉球、特に沖縄の軍事的価値を過小評価していること、島の占領を継続するためのコストは、沖縄を占領するために費やされた人命と国の財務、または敵対勢力から島を再び奪還するためのコストと比較し最小限であると主張した。

Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Ryukyu Islands 1945-1950, (1988) p. 70-71.

しかしながら、それでは陸軍海軍、どちらが沖縄の占領政策を担うかについては、後の5年間にわたって長期的に混迷した状態が続く。

7月18日、特定の海軍拠点を除いて、沖縄占領の任は陸軍にゆだねられたが、日本の降伏により、米陸軍の軍政将校は深刻な人員不足となる。

【意訳】この取り決めは7週間しか続かなかった。日本の突然の降伏により、米陸軍は沖縄の軍政府を遂行するほどの余裕がない状態にあることが明白となる。沖縄の数百人の民事将校は、第10軍の韓国や第8軍の日本占領任務のために必要とされ、深刻に人員不足の状態となった。

Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Ryukyu Islands 1945-1950, (1988) p. 70-71.

手に入れた沖縄を手放したくはないが、余力はない。陸軍公刊史は、初期の沖縄占領の実態を、「無関心とネグレクト」と表現している。

米国海兵隊: Two Connecticut Marines proudly show the Jap rifles, flag and helmet they captured on Okinawa.

沖縄戦戦利品である日本軍のライフル銃、16条旭日旗、ヘルメットを誇らしげに見せるコネチカット州出身の海兵隊員2名。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

過熱した戦利品ハンティングの背後には、レイシズムが見え隠れした。

戦利品ハンティングの兵は、彼らの収穫を戦場に持ち込んでは規則を破り、時には自分の荷物を軽くするために、装備として必要なものまでも処分して、また規則を破った。戦闘の緊急事態で持ち物を捨てなければならなかった者は、非常に残念がりながら従った。略奪に対する不合理な執念は、ある程度は自分の生存確認のためでもあった。「収集家」は配置換えになっておびえている若い兵だった。目標にしたものは、そこに行ったこと、また恐ろしい日本兵との戦いという地獄からの生還を立証するものであった。それはまた、日本人が完全な人間ではないという見解に由来するものであった。

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 318-319頁より》

 

第32軍の敗残兵

渡嘉敷島の赤松隊、住民2人を殺害

繰り返し住民や朝鮮人軍夫を虐殺している渡嘉敷島の赤松隊 (赤松嘉次隊長) は、「玉音放送」後の8月16日にも住民男性2人を虐殺した。

8月16日早朝、米軍の投降勧告文を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の 2 人が捕えられて殺された。

《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 237頁》

1945年8月15日、米軍からの投降勧告を受け、山にこもっていた多くの住民が一斉に山を下り始めた。徳さんは、高齢の祖父母を山中に残し、集落の安全を確認してから迎えようと、家族を連れて先に下山した。翌日、祖父母を迎えるため、徳さんがほかの三人の住民と山に入ろうとした時、米軍に日本軍への投降呼び掛け文を持たされた。防衛隊員が含まれていると戦線離脱を理由に日本軍に処刑される危険があるとして、防衛隊員ではない中年男性を中心に構成されていた。その後、二人の男性が山から戻っただけで、徳さんともう一人の男性は、戻ってこなかった。… 家族や親戚で山中を探し回ったが、徳さんたちを見つけることはできなかった。

三年後、村民が山中で草木が異常に繁殖した不自然な場所を見つけた。霊感の強い女性が、徳さんがここに埋まっていると話したため、家族は半信半疑でそこを掘り返した。土中には縄で縛られた二人の白骨死体が埋められていた。金歯と帽子、腐ったベルトで、一人が徳さんだとわかった。投降呼び掛け文を持っていた徳さんらを、日本軍は殺害していた。

《謝花直美『証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書 (2008) 74-75頁》

赤松隊の知念少尉は、赤松隊が既に日本の降伏を知っていた事、2人の男性を「処刑」したことを証言している。

赤松隊の副官であった知念朝睦の証言

8月17日、米軍の投降勧告文書を持って陣地にやって来た二人の男が処刑されました。この投降勧告文書について早速将校会議を開いて、私が軍使となって、投降の交渉をすることになりました。私たちは二日まえ、ラジオで日本が無条件降伏したことは知っていました

「副官の証言」 (知念朝睦) 沖縄戦証言 慶良間諸島 (3) 渡嘉敷島 - Battle of Okinawa

知念は赤松隊で唯一の沖縄人将兵であった。この日、赤松隊は米軍の勧告文を持ってきた住民を残虐に処刑しておきながら、翌日すぐに沖縄出身の知念を下山させ米軍との投降交渉をはじめる。沖縄人将校を送り出すことで、安全かつ有利に米軍と交渉できると考えたようだ。8月18日の投降交渉後、赤松隊は27日に武装解除する。

 

恩納岳に潜伏する敗残兵

恩納: 第44飛行場大隊

…すでに8月15日もすぎていたと思うが、ある夕暮どき、山麓近くの田んぼで穂をつむ戦友を残して、私は大胆にも、あたりはまだ明るいというのに、1人で蟹を捕らえるために海岸への軍用道路を飛びこえた。このとき那覇方面からジープが1台疾走してくるのに出会ってしまった。危い!距離300メートル、しまった!と思ったがもう戻ることは不可能だ。「見つかったら殺される」わたしは突嗟にブルドーザーで海中に横倒しされている松の枝の中に退避した。… 

谷茶の浜に再三出没する日本敗残兵はきっと米軍のリストにも載っていた筈だ。やがてこうした大胆な行動は、みずから敵の掃討戦をまねく結果となった。それから1週間くらい経ったある日の朝、静寂だった谷茶部落の山麓一帯にかけて、自動小銃の音がけたたましく鳴りだした。

パパパパーン、ダダダダー

… この掃討戦で麓の方の谷間にいた敗残兵は全滅した。私たちがいつか月夜の晩に田圃の穂つみで出会ったことのある石部隊の兵隊も全滅をくった。その中で籾干しに小屋を離れた1人だけ奇蹟的に助かった。その晩に、暗がりの中をその兵隊は、私たちの小屋の灯りをたよりに沢の下方からよろめくようにざわざわと登って、助けを求めてきたのである。その兵隊はまるで悪夢から醒めきらぬように、恐怖が抜けきらない表情で黙りこくっていた。

「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 254-256頁より

 

そのとき、住民は・・・

敗戦の知らせ - 米軍野戦病院

米軍野戦病院: 久志村沖に設けられた米軍の野戦病院に入院していた民間人は、戦争が終わったことを知って泣いていた。

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《AIによるカラー処理》Japanese patients in a Military Government hospital on Okinawa, Ryukyu Islands.

軍政府病院にいる民間人の患者。沖縄本島にて。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

その日を境に病棟にしんみりした空気が漂うようになった。夜、消灯後、闇が恥とか外聞とかいう余分なものを塗りつぶしていた。

Aさん 「一人息子が入った部隊は全滅という。でも、私は息子が元気でいると信じている」

Bさん 「島尻へ逃げる途中、母とはぐれた。さがしに戻ろうとしたが、迫撃砲の集中射撃で、それができなかった。私は母を捨てたのではない。はぐれてしまったのです」…

Cさん 「夫が防衛隊で伊江島行ったがどうなったか。悪い夢ばかり見ているが、死んでしまったのですかね」

Bさんの話が私の胸に突き刺さった。私も祖母とはぐれた。しかし、さがしにいかなかった。私は意識的に寝返りをうった。それで祖母への思いから身をそらそうとしたのだ。

《「狂った季節」(船越義彰/ニライ社) 116-118頁 より、》

米国海軍: Native woman by an old fashioned well at Okinawa, Ryukyu Is. / 昔ながらの井戸のそばにたたずむ沖縄の女性。    

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

沖縄の終わらない苦しみ

四人の敗残兵が日本刀をつきつけ

家族九名、幸せに暮らしていたのに、この戦争で地獄の底につき落とされてしまいました。母が (米軍に) 射殺されたショックで父は記憶を失い、生きているのか、死んでいるのかわからないほど無気力になっていきました。私も幼い妹達や娘のために命がけで食糧を探し集めたその帰り道、壕に戻る途中で四人の敗残兵に強姦されてしまいました。日本刀をつきつけてのことです。命がけで食べ物を探してきてどうにもならない現状に、私は悲しみとも怒りともつかない声をあげて泣きました。

… (収容所に入った後) 泣くだけ泣いて『もう生きていてもしょうがない』と二人の妹を抱えて、死ぬ決意でテント小屋を飛び出しました。全てに絶望し、死ぬ気になった人間に何の恐れがあるでしょうか。生きていくためならどんなことでもできると思ったのです。父には薬を、娘や妹達には食べるものをと、仲尾次 (なかおじ=地名のこと) にある軍病院の看護兵のオンリーになりました。体を提供した報酬は、缶詰、肉類、ソーセージ、毛布等でした。...戦争は、地位も名誉も学歴も、そして人間としてほんの少しでも持っていたかった羞恥心までも、奪ってしまうものなのです。… 私は、二十三歳、青春なんてとうになくしてしまったオンリーだったのです。… (妹が麻薬に走り) 多額の借金のため、私はそのバーの経営者から借金の肩代わりに人質にとられることになりました。それからは借金返済のため、私は兵隊 (米兵) に身も心もボロボロになるほど体を売りました

《保坂廣志『沖縄戦のトラウマ: 心に突き刺す棘』(2014年) 118-119頁》

 

破けた天幕での生活

沖縄戦が終わり、1946年に収容所から解放されても、米軍基地に土地や家を奪われた多くの人々が長くテント暮らしを強いられた。

17歳の一中鉄血勤皇隊沖縄戦とその後

あれはね、実はね、昭和25年か24年です。(東京に) 行ったときに、...  (中略)  ... そのときに、確かどこそこだったなと思って探しに行ったら、今の豪徳寺というところかな、あの辺だったと僕は思う。はっきりしませんけど。そうしたら、玉砂利の敷かれた道なんですよ、きれいな。松の木が横から大きな塀のあるところから松がのぞいているでしょう。そこの屋敷からピアノの音が聞こえるんですよ。あのときは僕はエリーゼのためになんて知らなかったんですよ。聞いたことないし。タンタン…って鳴るでしょう。そうしたら僕は一瞬立ち止まりましたよ。玉砂利の敷かれた立派なところですよ。

いったい誰が戦争したんだと。俺がこんなみじめなかっこして、あんなみじめな思いして、振り返ってみて。僕が1週間前に出てきた石川は、ネズミ、シラミの生活で、みんな虫みたいにうごめいた生活をさせられているんですよ。やぶけた天幕の中で。ああいうことをさせられている沖縄の人間。いったいここで、こういうピアノを弾いている。いったい誰が戦争をしたんだと。悔しいやらなんやらで、一瞬立ち止まっていましたよ。それから、わたしは当時はやまとぐち、日本語があまり話せない、話せないっておかしいけど、受け答えぐらいしか。だって家庭で日本語で話するところないですから。そうしたら、そこにまた差別というのがあったんですよ。僕は知らなかったの。差別というのがあって、お前、琉球人かなんて言われたら、あれっと思ったんですよ。なんだろうと思った。

そういうのが重なって、僕はそのピアノの音を聞いたとき一瞬立ち止まって、「いったいどうなっているんだ、この国は。誰が戦争して、なんのために僕はこんなみじめな格好してここに立ちすくんでいるんだ」って。悔しいやらなんやらもう複雑な気持ちだったですね。誰のために、誰が戦争して、誰のために俺はこんなになったんだって。それから当時、大学の掲示板には、一流企業あるいはどこそこの企業からいっぱい求人募集がありますよね。第三国人と書いてあるんですよ。カッコして琉球を含むと書いてあるんですよ。お断りしますと書いてある。そんなだったですよ、そのころ。

17歳の一中鉄血勤皇隊 ~ 親友との別れ ~ 戦争とは - Battle of Okinawa

日本軍が構築した基地は沖縄に生き地獄の戦争をもたらし、米軍はおびただしい基地を構築して占領統治した。1972年の「沖縄返還」で幾つかの米軍基地が自衛隊に移管され、基地負担軽減と言われながらも、両軍の基地昨日は拡張され基地建設が強行されている。

道もよくなったし、生活水準もよくなった、ところが依然として、あの、軍事支配の状況というのは変わらない。だから後悔してるわけ。… 復帰運動すべきじゃなかったって思ったよ。… あれだけのことを言えば、日本国憲法が沖縄にもう完全に適用されて、日本と同様に基地の縮小整理縮小がされるという感じを持っていましたね。ところが基地がますます強化されてるでしょ。

普天間で生きる 普天間基地と戦後 - Battle of Okinawa

父の元には、全国から何人もの記者が話を聞きにやって来たが、父は、どの記事にも満足していなかった。

「メディアは、親友に手榴弾を手渡した壮絶な体験には興味を寄せるけれど、その後、沖縄が受けた差別や、自分たちが味わった悔しさは書いてくれない」 

一中鉄血勤皇隊 手榴弾と沖縄 - Battle of Okinawa

 

 

 

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