1945年 3月25日『慶良間列島への上陸作戦前夜』

米軍の動向

1945年(昭和20) 3月25日は、 日本で唯一の「住民を巻き込んだ地上戦」が沖縄で始まる前夜だった。

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攻撃へ---第2海兵師団を乗せ、群青の太平洋を横断して沖縄へ向かう輸送艦隊の一部。(1945年3月25日撮影)

TO THE ATTACK --- Part of the convoy taking the Second Marine Division toward Okinawa is pictured as it cuts through the blue Pacific.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

空爆 / 艦砲射撃 / 掃海 

慶良間(けらま)列島

『米軍は1945年3月23日の空襲開始に続き3月25日慶良間諸島に上陸前段の大規模な艦砲射撃をした。』(85頁)

《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 85頁より》

 

沖縄島

沖縄本島西側の沖合に腰をすえた米艦隊は、25日から艦砲射撃を開始した。同時に機雷掃海隊が沿岸の掃海を精力的に進め、特に渡具地海岸一帯の強力な水雷の除去につとめた。それは「前代未聞の大掃海作戦」とも呼ばれ、その海域は4800平方キロメートルにおよんだ。』(82-84)

《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社)82-84頁より》

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Taking part in the prelanding bombardment of Okinawa was the Idaho (BB 42), blasting away at the island with her 14-inch guns at preselected targets. As the troops landed, naval gunfire ships let loose with rolling barrages which cleared the way.
Department of Defense Photo (USMC) 116412

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

慶良間列島への上陸準備

水中事前調査

慶良間諸島の水中事前調査は、上陸を目前にした3月25日未明、ジョイ提督(Rear Admiral C. Turner Joy)指揮下の2隻の巡洋艦と3隻の駆逐艦の砲撃で開始された。午前6時、水中爆破チームが搭乗する巡洋輸送艦や機雷掃海艇が同諸島沿岸に到着し、間もなく水中爆破チームが各島の上陸予定地点で調査活動を開始した。…上陸用舟艇(LCVP)で乗り入れた水中爆破チームは、本隊の上陸に備えて、各上陸予定地点の湾内の障害物、水深、リーフなどの状況を詳細に調査した。…調査の結果、久場島屋嘉比島は湾内のリーフの状況や水深の関係上、上陸用舟艇が使用できないことが分かった。…これに基づき、最終的な上陸作戦が決定された。』(66-67頁)

『同25日にはW.H.ブランディー海軍中将(Vice Admiral William H. Blandy)が率いる水陸両用支援部隊も同海域に到着し、掃海作戦は一層強化された。その日の夜までに慶良間諸島の南方の海域から同諸島に至る巾約7マイル(約11キロ)の海域で、また同諸島南西方面ではより広い海域で、それぞれ掃海が実施された。しかし、同作戦では機雷は発見されなかった。』(67頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 66-67、67頁より》

 

慶良間列島の観察

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外地島(上) 

TERRAIN IN THE KERAMA RETTO was rugged. In particular the coastal terrain was precipitous, appearing formidable to the 2d BLT, 306 Infantry, 77th Division, as it approached Hokaji Island on 26 March. Below is an aerial view of Tokashiki Island.

渡嘉敷島(下)

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

『水中爆破隊が慶良間への接近路を調べている間に、第77師団上陸部隊の観測班は、目標の慶良間を観察研究していた。ごつごつした珊瑚礁が、雑然と島のひとつひとつを取り巻いている。海岸はおおむねけわしく、一定していない。幅が狭く、ベンチに似た岩石が海岸線のあちこちにならんでいる。海岸自体は幅がせまく、高さ1メートルの護岸でかこまれている。適当な長さと思われたただ一つの海岸は、けわしい谷間にはさまれた河口にあった。どんな小さな岸でもたいていが、勾配のはげしい岩の塊りでできており、その表面は草木でおおわれ、高さも120メートルから240メートルもあった。住民は、耕せるところならイモを植え、海岸線近くの台地や、山のスロープを利用して段畑をつくり、イモを植えていた。道らしい道もなく、見えるのは動物の通る小径だけである。どの島を見ても、滑走路をつくったり、大部隊や大規模な基地施設をつくれそうもない。』(61頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳 / 光人社NF文庫) 61頁より》

 

上陸前のオリエンテーション

『昭和20年3月25日慶良間列島付近に蝟集した米機動部隊の一艦上では、明日に迫った沖縄作戦について諜報将校の S.R.サトフィン海軍少佐から従軍記者たちに説明があった。かれは今次の作戦は、太平洋作戦で最大の規模を持つだけでなく、「日本帝国に最後の止めを刺すために、その戸口へ一歩踏み込むもの」だということ。また、米海軍にとって慶良間列島は、弾薬補給や燃料補給基地としてすぐにも使用できるので、同列島の占拠は、沖縄本島作戦を敢行するうえから不可欠の前提だと強調した。当初、襲撃程度の計画だったのが「狐」作戦と呼ばれる大規模な上陸作戦なったのである。』(16頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 16頁より》 

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護衛空母サンガモン(CVE-26)の士官室で、士官に対して説明が行われているところ。沖縄本島へ向かう途中。

Briefing of officers in wardroom of USS SANGAMON (CVE-26) enroute to Okinawa Shima, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…船上では事前に準備された研修などが行われた。研修の内容は任務遂行に関わるオリエンテーションが主であった。例えば、初めて上陸作戦に参加する兵員の教育もその一つだった。加えて、琉球諸島の地図(1/25000)、住民政治習慣歴史地理気候地形などについての講義も行われた。南西諸島に関する冊子(極秘扱い)も10人に1人の割合で兵員に配布される。オリエンテーションなどは、ほとんどの場合、船内のメスホール(食堂)や、コンパートメント(兵員室)、甲板などで予告なしに行われた。』(70-71頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 70-71頁より》

 

 

日本軍の動向

3月25日、5航艦から艦爆2、艦攻7、台湾の1航艦から艦爆5、陸爆(銀河)4を集めて、米機動部隊を攻撃駆逐艦2、輸送船2に損傷を与えた。』(135頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 135頁) より》

 

 

第32軍の動向

軍司令部

八原高級参謀の回想:

25日、南部住民の北方国頭地区への撤退と、北、中飛行場地区にある軍防空部隊の軍主陣地内の地上戦闘配置への後退が命ぜられた。同時に台湾軍から北、中飛行場地区増加予定の教導連隊の派遣中止の電報を受領した。』(161-162頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 161-162頁より》

 

嘉手納(かでな)飛行場 (別称: 中飛行場): 第44飛行場大隊

部隊本部付有線分隊長の回想:

『夜通し遠雷のような艦砲射撃の音がとどろき、地震のように揺れる洞窟内でまんじりともせず過ごした私たちに、明くれば25日、また、米海空のいままでにない激しい砲爆撃がはじまった

一晩のうちに部隊将兵の顔つきが変っていた。あまりにも物凄い戦慄で、水汲み、排便、飯上げ、保線など洞窟から一歩でることは命がけとなった。用をすませると思わず壕内にもぐりこまざるを得ないほどである。

…北部にあって、巨大な飛行場と西側につづく嘉手納海岸には本島一の揚陸に適している平坦地を抱えているわが部隊では「いよいよ敵上陸近し」と身内がひき締まるような緊張感のうちにあった。激しい砲爆下を、わが警備中隊の1個小隊(軽機、擲弾筒、小銃で武装した50名)が水釜(嘉手納海岸)の海岸線に緊急配備についた。

…地形偵察程度に上陸してくる米小部隊を撃滅するための任務であった。果たしてこちらの要求どおり米軍が行動してくるかは判らない。正に決死隊である。

また同じく警備中隊の藤波晴喜少尉…指揮下の1個小隊(50名)が、滑走路の南側にある石山の洞窟陣地に拠り、米軍上陸と同時に秘密兵器である桜花(人間爆弾)を爆破する重要任務についた。一方、比謝川畔の自然洞窟内に貯蔵中にあったわが部隊の食糧、弾薬などの軍需品が栄橋を渡ってゆく後方の倉敷陣地(220高地東南麓)の最後の抵抗線まで急送されることになった。

この激しい砲爆撃下のトラックによる決死輸送任務は、尚謙少尉の率いる沖縄県立農林学校生徒隊で編成した(鉄血勤皇隊170名たちであった。跳梁する敵機の間隙をぬっての、長途10キロほどの道のり、土埃を上げて疾走しているトラックがグラマンに銃撃されて早くも若い犠牲がつぎつぎと出ていた。

いまや全島十里、火の雨を浴びつつ地表に身を挺しているのは、ひとり高射砲隊と鉄血勤皇輸送隊そして保線任務の通信隊だけである。』(113-114頁)

『この日の午後のこと、その警備中隊の1個小隊が水釜の海岸線に布陣している重要通信線が断線したので、私は分隊員15名をひき連れて決死の保線に向った。

…敵艦は昼も照明弾を打ち上げ、弾着を測定してから巨弾が飛んでくる仕組みだ。だから照明弾が頭上にパァーときたときが一番危険でこれさえ気をつけていれば大抵破片にやられることはない。

…砲弾の合間をみて、…部落にとりつくと、もの凄い砲爆撃の炸裂で、あれだけ屋良部落に繁茂していた樹木がきれいに吹き飛ばされて、四囲有様はまるで勝手がちがっている。あまりの変貌に驚く。

…鉄片が頭上に飛び交い、焦げ臭い匂いが鼻をつくなかを歯をくいしばりながら海岸に向って保線していくとき、ついにわれわれは見るべきものをみた。

「オイ!あれをみろ!」

分隊のひとりが指す眼前には水平線を埋めつくすばかりの米艦隊が、…悠々と浮かんでいるではないか。そして閃々と砲火を吐いている。閃光をみてから、その轟音が耳にとどくまで30秒あった。直距離1万メートルである。紺碧の海に浮かぶ真白な戦艦や巡洋艦はまるで絵葉書の絵を見ている感じだった。

…わが連合艦隊の健在を信じ、日本空軍の健在を信じていた私たちには、こうして白昼堂々と目の前に姿を現している米艦隊がうそのように見えてならなかった。』(114-116頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 113-114、114-116頁より》

 

慶良間における日本軍の戦力

海上挺進基地大隊と挺進戦隊

那覇の西方に浮かぶ島々である慶良間列島には、「マルレ」と呼ばれた特攻艇が配備されていた。これは、長さ5メートル、幅2メートルほどの1人乗りのベニヤ板製の舟で、120キロ爆雷2個または250キロ爆雷1個を付けて、敵艦に体当たりするという、陸軍が開発した特攻艇だった。敵艦の直前で爆雷を投下し急転回して逃げる方法も考えられていたが、事実上は特攻隊だった。』(19頁)

『慶良間にマルレが配備された理由は、沖縄本島の西海岸に上陸してくると予想された米艦隊に背後から奇襲攻撃をかけるためだった。』(21頁)

『100隻のマルレを一つの戦隊(140名)とする海上挺進戦隊が、慶良間列島座間味島(第一戦隊)、阿嘉島(第二戦隊)、慶留間島(第二戦隊の一部)、渡嘉敷島(第三戦隊)に、またそれを支える地上部隊である海上挺進基地大隊もそれぞれ1944年9月に配備された。なお基地大隊の主力は、45年2月に沖縄本島の兵力を補うために本島に移動し、米軍上陸時には、勤務隊・整備中隊・特設水上勤務中隊などがいた。水上勤務中隊は朝鮮人軍夫(軍の労務者)が主力の部隊だった。海上挺進戦隊長が島の最高指揮官であった。』(19-21頁)
《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 19-21頁より》

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日本軍の特攻艇と破損した荷船。座間味島にて。特攻艇。

Jap suicide boats and wrecked barges at Zamami Shima, Ryukyu Islands. Suicide boat.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『沖縄守備軍は、敵が沖縄本島南部の西海岸に上陸することを予想し、上陸前夜に輸送船団を背後から強襲する作戦をたて慶良間に特攻部隊(海上挺進基地大隊と挺進戦隊)を配備した。しかし、米軍の慶良間上陸直前にその主力を沖縄本島に移してしまい、残置されたのは、特攻隊員の一部と600名の朝鮮人労働者だけで地上戦力は微弱であった。』(14頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 14頁より》

 

第32軍司令部への報告ミス

25日、早朝5時45分ころから、もう空襲がはじまった。8時ころから、昨日と同じように、島尻地区への艦砲射撃。違っていたのは、艦艇がすこしふえ、34隻が見えたことと、慶良間列島に対しても砲撃していたことであった。…その日、慶良間の部隊から、「0730、米軍が慶良間列島の渡嘉敷、阿嘉、座間味の各島に上陸中」という誤報がとびこんだ。…水道の掃海をはじめたのを見誤ったのか。…おどろいた牛島軍司令官は、早速、慶良間の海上挺進隊に対し、「慶良間列島付近ノ敵ニ対シ打撃ヲ与フルトトモニ、状況有利ナラザルトキハ、那覇ニ転進スベシ」と命令した。ところが午後になって、渡嘉敷島にいる第3戦隊から、敵上陸は誤報であることを伝えてきた。しかし、あとの二つの島からは、何ともいってこない。…海上挺進隊の装備をよく知っている司令部では、首里の丘にのぼり、南西の海上に大きく浮んでいる慶良間をみつめて、気をもんだ。』(105-106頁)

 《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 105-106頁) より》

 

 

そのとき、住民は・・・

慶良間列島

上陸前夜3月25日夜)、慶良間諸島空には十三夜の月が浮かび 、美しい夜だった。海上は波静かで、気温は華氏61度(摂氏16.1度)。』(71頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 71頁より》

 

阿嘉島(あかじま)

午前、最も恐れていた艦砲射撃が始まった久場島の西方海上に現れた米艦艇が阿嘉島や周辺の島々に砲撃を加えている。時々壕が崩れんばかりに鳴動した。そのつど、おばあさんらは島の氏神様にお祈りを捧げ安全を祈願した。この様子では、米軍の上陸は必至だ。壕内は緊張と不安で話も湿りがちだった。』(95頁)

『米軍が上陸する前の(25日)、住民の多くは、家族や親戚同士で野田山の背後のシジヤマに避難した。その数は400人近くだったと言われている。』(104頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 95、104頁より》 

 

座間味島(ざまみじま)

『米軍の砲撃によって島の中心であった座間味集落は焼け落ち、壕(ガマ)での避難生活が始まった25日夕刻には砲撃が激しくなるなか、村役場の職員が各壕を回り、非常米の配給があるから農業組合の壕に取りに来るように伝えられた。島の周りは米艦船に囲まれているのが見えた。(21-22頁)

《「沖縄戦 強制された「集団自決」」(林 博史/吉川弘文館) 21-22頁)》

『…米軍上陸前夜、壕などに避難していた住民たちに「忠魂碑に集まれ」という伝令が回った。砲撃が激しさを増し、住民たちは集まるこ とができず、近くにあった壕などで手榴弾などを用いて死に急いだ。』

家族と共に教員関係者の壕にいた女性の証言:

『暗闇の中、手榴弾が炸裂し、2人の若い女性が致命傷を負ったが、ほかは無傷。それが壕内の混乱に拍車をかけた。国民学校の校長が妻の首をカミソリで 切り、自らも「自決」。…カミソリを手にした母を前に暴れ、「死ぬのは嫌だ」と叫んで壕を飛び出した。』

慶良間諸島「集団自決」の悲劇から70年 1「死ぬのは嫌だ」と叫んで壕を飛び出す – アジアプレス・ネットワーク

 

沖縄島

名護(なご)

ある少年の体験:

『…あまり米軍機が飛ばない日だったので、母と姉は空襲の合間に海岸近くにある畑に出かけて、野菜を摘んでいたら、いきなり米軍機が低空でやって来て、大きな爆弾を落としたので、2人は必死になって家に逃げ帰った。母はこれはてっきり自分たちを狙った爆弾だと思ったようだ。

夕方、空襲も止んだので家に帰ったら、少年たちが大声で叫びながら浜の方へ行くのでついて行くと、何と広さ10メートル、深さ2〜3メートルもあり、底からは海水が湧き出ている大きな爆弾の穴ができているではないか。その大きさにみんな唖然としていた。警防団によると、これは500キロ爆弾渡波屋を目がけて落としたのだろうとのことだった。母と姉は渡波屋と爆弾のちょうど中間にいたのである。』(43-44頁)

《「軍国少年がみたやんばるの沖縄戦 --イクサの記憶 --」(宜保栄治郎/榕樹書林) 頁より》

 

 

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www.qab.co.jp

渡嘉敷島の家族壕(渡嘉敷村)【放送日 H22.5.12】

www.nhk.or.jp

 

家族壕を残す(渡嘉敷村)【放送日 H22.7.21】

www.nhk.or.jp