1945年 5月9日 『島の激変ぶり』

 米軍の総攻撃・2日前

『バックナー中将は、5月9日、第10軍に対して、11日に総攻撃を開始するよう命令を下した。』(334頁)

『現時点における第24軍団の作戦区域は、東は第1海兵師団との境界線から与那原の戦線にまでのび、西から東へ第6海兵、第1海兵、第77歩兵、第96歩兵の各師団が、それぞれ散兵線をしいていた。第7師団は第24軍団の予備軍として戦いの疲れをいやしていた。

バックナー中将の第10軍の作戦計画は、第3上陸軍団を右翼に、第24軍団を左翼にして、まずこの両軍団を先鋒に、日本軍の首里防衛線に新たな攻撃を加える、というものだった。そして、この原案では、これに中央部で猛烈な攻撃を加えて、首里を包囲していこうというものだった。』(335頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 334、335頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-34-2.jpg

第3水陸両用軍団司令官のガイガー少将(左)と米第10軍総司令官バックナー中将(右)

(第3水陸両用部隊本営にて、1945年4月11日撮影)

Major General Roy S. Geiger Lt. General Simon B. Buckner with helmet, commanding general 10th Army, as they met at Headquarters of Amphibious Corps III.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『これがうまくいけば首里防衛線に突破口を開けるかもしれなかった。バクナーの攻撃計画によると、攻撃は2個軍団で実施され、右翼を第3水陸両用軍団、左翼を弾24軍団による両翼攻撃であった。作戦の枠組みは首里を中心に包囲するように西側を海兵隊の部隊が、東側を陸軍の部隊が担当し、中心部分の首里城にたいして強い圧力をくわえる計画になっていた。東から西に向かって第24軍団所属の陸軍第7、第96、第77歩兵師団が、つぎに第3水陸両用軍団の第1、第6海兵師団が並んだ。』(60頁)

『バクナーのコメントは希望に満ちているように見えた。「攻撃方法は、これまでと同じ方法を継続させる」とし「かりに前進が拒まれるような事態におちいった場合、すぐに予備部隊と交替させる。我が軍には絶大なる火力支援と、豊富な予備兵力があり、つねに1個師団が予備部隊として待機できる」

しかし、だれの目にも明らかだったのは、もともとの侵攻作戦計画では、沖縄全土の占領は5月10日の予定であり、その計画はすべて甘い夢であった。』(62頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 60、62頁より》

 

南進する米軍

安謝(あじゃ)

5月9日、第22海兵連隊K中隊に属している、ポール・ダンフィ小隊長が率いる45名の小隊が上陸地点から10マイル(16キロ)南に位置する、安謝川が曲がりくねりながら、東シナ海にゆっくりと注ぎ込んでいる河口付近に向かって進んでいた。…第6海兵師団の作戦上の役割は、安謝川を強行渡河して橋頭堡をきずき、那覇市へ通じる平野部への進出をはかることであった。ダンフィの部隊の任務は、この総攻撃に先だって川の対岸への偵察活動であり、そのため火器中隊から17名の応援がくわわっていた。ダンフィは渡河地点を河口部と破壊された橋の中間地点のやや上流に決めた。海兵隊員たちは潮の香りがする、ゆっくりと流れる川を歩いて渡ると、対岸にある護岸と土手にのぼっていった。』(62-63頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 62-63頁より》 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/123499.jpg

安謝川を南に眺める

Asa Kawa-River view looking south; Note the seawall, soft bottom and the general ground rise to the south beyond which lies the two outskirts of Naha.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 

『この偵察隊の中にレイ〝ドク〟ジレスピー軍曹がいた。…丘陵のすそ野に近づいたジレスピーは大きな横穴の入り口に気がついた。薄暗い中をのぞくと、鉄道の軌道が引き込まれており、奥では、いくつかの坑道が交差しているようだった。これと同様の入り口が、斜面の上部に少なくとも3つは見えた。この横穴の爆破任務はあとにして、海兵隊員たちが丘陵の斜面をのぼりだしたその瞬間、日本軍の銃撃が正面からはじまった。

突然、あらゆる場所から日本兵があらわれ、真下からも興奮した日本兵の叫び声が聞こえだした。日本軍の部隊が、海兵隊員にたいして正面から向かってくる間に、さらに別の部隊が右手にもあらわれた。』(63頁)

 《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 63頁より》  

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/93-07-3.jpg
安謝川の真南にある丘陵地帯の珊瑚を掘り抜いた安謝ラインの陣地壕

ASA LINE-Cave position in ASA LINE dug into high ground and into coral sides of the hill mass directly south of the ASA KAWA.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『…周囲の音から相当数の日本兵が丘陵の向こう側にひそんでいると推定され…すでに日本軍の迫撃砲弾が背後に落下しはじめており、…ダンフィは「全員、丘から退去させろ、ここから脱出するぞ!」と叫んだ。 海兵隊員たちは急いで、丘を駆け下りはじめた。

…数時間後、ダンフィ中尉は第6海兵師団の司令部に呼ばれていた。この司令部は以前、日本軍がつかっていた地下の巨大な壕の中にあった。開催されている会議は、高位レベルの会議であり、30名以上の将校が参加していた。その中には、レミュエル・シェファード師団長や、サイモン・バクナー第10軍司令官の姿もあった。ダンフィは、マーシャル諸島攻略戦やグアム島での戦闘経験があったが、彼が今日、安謝川の南側で見たような防御陣地は、これまで見たことがなかった。横穴や、銃眼が丘のあちこちに開いており、大きな横穴には明らかに火砲が隠されているようだった。それ以外にも斜面の正面や、反対側にも開口部が見てとれた。ダンフィは、今日の偵察任務で見てきた敵状に関してさまざまな質問に答え、最終的に解放された。

…川を渡ってもどってきた複数の偵察隊からは、楽観的な情報はほとんど得られなかった。彼らの情報によると川をまたぐ橋は、米軍の準備爆撃によって深刻なダメージをうけており、車輌が通行できないと報告された。河口付近であるため、波は高いが、浅いところでは深さは1メートル20センチほどだった。しかし川底はぬかるんで、ヘドロ状になっており、戦車の重さに耐えられそうになかった。必要であれば、突撃兵は歩いて渡河は可能であるが、戦車やトラックは浮き橋がかかるのを待つ必要があった。こうした情報をもとに、攻撃に参加する連隊を工兵中隊が支援し、さらに徒歩橋が架橋されることになった。』(64-65頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 64-65頁より》

 

屋富祖(やふそ)・勢理客(じっちゃく)

海兵隊は、いまやナン高地を一気に撃滅しようと考えた。だが、この任務はきわめて危険であり、しかも結果も思わしくないことが多かった。彼らは、洞窟の一つにダイナマイトをしかけて、爆破作業に入った。だが、それは、しばしばトンネルになっている別の壕までも爆破する。しかもその壕には、ダイナマイトをしかけた当の海兵隊員が隠れているかもしれないのだ。

こうして、壕を爆破したとはいうものの、数カ所で日本軍は内側から壕の入口をあけていった。海兵隊はあきらめず、壕封鎖作戦をつづけていき、効果もしだいに現れてきた。戦車隊についで、火炎砲戦車の攻撃、そして壕爆破、さらに何百ガロンのナパーム弾をつぎつぎに注ぎこんで、ついに5月9日には、ナン高地をきれいに片づけた。

ナン高地を完全に片づけてから、その同じ日に海兵隊は、60高地を攻撃した。第1大隊が浦添村沢岻高地の北西部を攻撃しているあいだに、第2大隊は60高地に進撃し、戦車隊と歩兵ならびに掩護砲火が、緊密な連絡をとったので結果は早く、その日の夜までには、60高地は完全に海兵隊の手中に帰した。』(328-329頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 328-329頁より》

 

牧港(まちなと)

5月9日、第29海兵連隊は牧港飛行場の西翼にそって防御陣地を構築するために移動した。第1海兵師団は東側の防御を担当していた。』(55頁)

《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 55頁より》

 

 

第32軍の動向

『米軍はジリジリと迫ってきた。たとえば、彼我相討ちで、同数の戦傷死者が出たとしても、米軍は、すぐにそれを補充し、新手の将兵と兵器を揃えて再び襲ってきた。日本軍は、それが補充されず、確実な戦力減少となり、生残りの将兵に、前に数倍する負担をかけ、その上、さらに損耗をふやした。もはや、いくさに強い将兵であるとか、弱い将兵であるとかいう問題からハミ出していた。悪循環するものと、そうでないものとの、戦さにならぬ・・・はずのいくさであった。

このようなセッパ詰った状態になると、那覇の南のはずれ、…小禄、そこに備えを固めている海軍部隊、沖縄方面根拠地隊(沖方根と略す)の、司令官大田実海軍少将の率いる将兵など約1万名を、首里防衛陣の強化に使いたくなる。』(254頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 254頁より》 

軍司令部

『日本軍が首里の軍司令部壕をかばうように北西乃至北から東方1〜3キロに設定した最終防御線(天久ー真嘉比ー沢岻ー末吉ー平良ー弁ヶ岳ー運玉森)へ、米軍は迫った。兵力不足に悩む第32軍司令部は5月9日小禄半島を守っていた海軍沖根に対し、麾下の沖特陸5個大隊と斬込隊100組、計約2500人を首里戦線に投入するよう大田司令官に要請した。』(295頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 295頁より》

『しかし、沖縄に配備された海軍兵力が、もともと陸上戦闘をするためにおかれたものでなく、陸上の防衛には、もっぱら陸軍(32軍)が当たることに協定されていたため、問題が起こった。』(254頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 254頁より》

 

安謝(あじゃ)・天久(あめく)

『5月5日、軍の攻勢断念に伴い、混成旅団は6日以後逐次弁ケ岳付近より、再び天久台の旧陣地に転進復帰しつつあった。そのころ第62師団の左翼有川旅団はアメリカ海兵軍団に圧せられ、辛うじて沢岻北方高地より内間を経て、勢理客の線に踏み止まっていた。天久台の戦闘は、内間、勢理客の陣地を突破し、安謝川を渡って南下するアメリカ海兵軍団と、弁ケ岳付近より駆けつけたばかりのわが新鋭混成旅団との間に、半遭遇的に始まったのである。』(300頁)

『凡そ、野戦陣地の防御ならば、2、3日の間に守備地域の地形を理解し、一応の火力組織を概成し、かつ上下左右の協同連繋の関係を律し得る。しかし、軍の主陣地帯の如く、地下洞窟を拠点として、編成された複雑な陣地に、新来の部隊が配置についても、これをマネージするためには、一週日以上の日子を要する。況や敵の砲爆のために昼間は地上の行動不可能なのはもちろん、四囲の地形を目視することだに困難である。わずかにわが行動自由な夜間といえども、海陸両方面よりひっきりなしに飛んでくる敵砲弾の中なので、これまた容易ではない。各小、分隊が命ぜられたそれぞれの洞窟陣地を探し出すのでさえ一夜を要するのだ。混成旅団の陣地占領のむずかしさは、実際かかる戦場に臨んだ者でないと容易に想像しがたい。』(301頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 300、301頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/92-05-1.jpg

安謝川--“安謝ライン”内の壕からの眺め。安謝ラインから安謝川まで射界が拡大していることに注目。写真は北東の様子。

ASA KAWA - As seen from a cave within the ”ASA LINE”. Note the field of fire extending from ”ASA LINE” to the river. The view is northeast.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

「デデコイ」役 ①

米軍は、沖縄本島北部の田井等に収容所を設置し、4月下旬には800人近くの住民が収容されていた。米軍は、その中から10名ほどの男性住民を選び、2、3人で一組のグループに分け、それぞれ米軍の部隊に随伴させ、投降を呼びかける任務を与えた。

『5月1日、日本語のうまい一人の米将校が収容所にきて、「男子10人を即刻出すように」と言った。…都合13人の沖縄人がこれから米軍の直接指揮下に入ることになり、或る特殊任務に就く、というのである。目的地は南部戦線、30分後には出発、と発表されただけで、任務の内容に関しては一切秘められた。…名護町にある、MP部隊に1泊、翌日仲泊、それから東恩納を経て愈々最初の目的地、米マリン部隊第6師団本部(美里村登川)に到着した。…他の任務を帯びた人達と共に、米海兵隊の自動車で、平良川にあるマリン第29連隊本部に送られた。途中、知花から平良川に通ずる道路は、幅員十米近い大道路となっており、カマボコ型の丸味を持った大道が、坦々と身をくねらし乍ら南へ延びていた。米軍上陸直後早くも迅速な道路網の拡大整備に着手したことを物語って、車上の沖縄人の、度胆を抜いた。だが、なんという周囲の風物の変りようであろう。山小屋から、山中の壕へとやもりのように陰惨な避難生活を続けた彼らの眼前に、急に明るく、颯々とひらける人工的に変った、島の激変振りに、彼らはさらに驚嘆の叫び声をあげた。』(168-169頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 168-169頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/97-08-1.jpg

平良川集落の左手にある司令部前の通り

Street in front of CP, which is on the left town of Deragawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『マリン第29連隊本部に着くと、ネルソン中尉の指図で、直ちに次の目的地を目指すための準備に取りかかった。巨人の着けるような、マリンの青い制服や、シャツ、靴、帽子、鉄兜などが与えられた。ネルソン中尉は彼らが、これを、着用する前に一場の訓辞を説明混じりに行った。「諸君はこれから、米軍に従い、南部戦線へ出発する。目的は、南部で、諸君の同胞を、戦争の犠牲から救出することだ。日本軍のデマに迷わされ、徒らな抗戦をつづける沖縄住民は可哀想であり、諸君はその重大任務を帯びて出動する米軍に、協力して貰いたい。諸君の活動が大きければ大きいほど死のまきぞえを喰う沖縄住民を、犬死から救い出すことができる」と初めて彼らの目的を明らかにした。…ネルソン中尉を隊長とする、…沖縄人と米兵で構成された、壕捜索救助班はいよいよ南部戦線へ出動することになった。』(169頁)

5月9日壕捜索班は、マリン第29連隊と共に牧港へ移動を開始、通称ユクイ岳と呼ぶ丘の麓に投宿した。日本軍の砲弾に備え、地上に穴を掘り、露営の準備を終わった時は薄暮だった。もう戦線に隣り合わす地点だけに、日本軍の砲弾に対し警戒が払われた。…日本軍の射つ野砲弾が附近に飛び込んできては炸裂した。…その真夜中、…海岸に面したところで激しい機関銃の発射音を耳にした…午前2時頃、激しい機関銃音が絶えて、恐怖の夜がしだいに朝を迎えた。』(170-171頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 169、170-171頁より》

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■