1945年 5月11日 『警察別動隊の沖縄脱出』

米軍の総攻撃

5月11日米軍の総攻撃が開始された。はじめのうちは全戦線とも密接な連携がたもてた。だが、まもなく部隊間の連絡は断ちきられ、米軍は、西側、中央、東側で、それぞれ相当頑強な日本軍に出会い、熾烈な戦闘にはいった。』(336頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 336頁より》

『第1、第6海兵師団を加えた4コ師団、プラス予備軍1コ師団。米の本領である砲撃、銃爆撃、戦車(火焔戦車)を惜しみなく注ぎ込んだ、力攻めがはじまった。』(255-256頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 255-256頁より》

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前線へ移動する海兵隊の戦車 (1945年5月11日撮影)

Marine tanks move up to the front.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

西部戦線

安謝(あじゃ)・天久(あめく)

『第6海兵師団工兵隊は、5月10日の夜から11日に深夜にかけて、熾烈な砲火のなかを安謝川にベイリー・ブリッジ(浮橋)を架け、攻撃支援部隊の戦車や重砲類を渡河させた。』(339頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339頁より》

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ベイリー式組立橋

Bailey bridge, Naha, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

首里の高地から安謝の海岸はまる見えである。日本軍は、首里西部の丘陵地帯の砲兵陣地から、ずっと撃ちまくり、また歩兵も、砲兵と相呼応して激しく抵抗してきた。この砲火のなかを、海兵隊は進撃していかねばならなかった。第1大隊の一中隊長が、安謝の南方800メートルの地点にある丘の頂上に一分隊をひきつれて登ったが、防備は固く、ついに火炎放射器の射手1人をのぞいて全員が死傷した

このとき、海上の米艦砲射撃部隊の主力が、岸近くの日本軍陣地に砲弾を撃ち込んだ。さしもの丘がくずれ、巨岩が頂上から日本軍の頭上に転げ落ちた。しかし、これは大した効果はなく、日本軍陣地に大損害を与えることはできなかった。そこで、ついにC中隊の突撃隊が、戦車隊と密接に呼応して、攻撃を加え、はじめて占領することができた。だが、C中隊の兵はわずか8名だけとなり、その8名も日本軍の反撃にあって丘にしがみついていた。

その同じ日の夕方、第3大隊の海兵隊は、天久村落の北側にあたる海岸の岸ちかくを、戦車隊や火炎放射器を動員して占領した。この進撃で海兵隊は、天久の北側の丘陵地帯から、いまは廃墟と化した琉球の首都那覇市を、見降ろすことができた。』(339-340頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 339-340頁より》

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那覇の外れ、安謝川沿いにある製糖工場から100ヤード離れた場所で、日本軍の47ミリ対戦車砲の攻撃を受けた米軍戦車 (1945年5月11日撮影)

One hundred yards from Sugar Mill on Asa Kawa River, outside Naha, Okinawa Island, one of our tanks is hit by Jap 47mm Anti-tank gun.

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中央戦線

沢岻(たくし)

『5月11日の米第10軍の攻撃のなかでも第1海兵師団第7連隊の沢岻攻撃は、前日の熾烈な戦闘に引きつづいて、代表的なものであった。

5月11日には作戦をかえて、沢岻丘陵の地形を巧みに利用していくことになった。このあたりの地形は〝馬蹄ガ丘〟に似て、峰は北方にのび、第7連隊の境界線にそって走っていた。丘陵の端のほうには低地帯があるが、ここは砲火がはげしく近づきにくい。第2大隊は右翼から丘の西端を攻撃し、第1大隊は、左翼から、両大隊ともけわしい山道を通って進撃していった。

第1大隊のほうでは、戦車隊と歩兵隊との共同戦術で、沢岻東部の斜面を、日本軍の猛砲火をあびながら、一歩一歩進撃し、午後のうちには峰の上までたどりついた。第2大隊もまたその作戦区域内の丘の峰の上まで進撃したが、大名高地からの激しい日本軍の砲火に見舞われてしまった。いまやこれ以上進撃を続行することは不可能である。頭をもたげればかならず撃たれた。』(354頁)

『米軍は短い距離ではあったが退却した。攻撃中隊はまず中隊長がやられ、2個小隊とも各分隊長がやられてしまった。』(355頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 354、355頁より》

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戦車隊と歩兵隊が共同で攻めた沢岻丘陵

DAKESHI RIDGE was attacked by these tank-infantry teams of the 7th Marines, 1st Division, in attempting to reach the eastern slope. 

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

幸地(こうち)・石嶺(いしみね)

『米第10軍の首里攻略戦は、5月11日にいたって、ふたたび第77師団のほうで蝸牛の歩みにおちいった。師団の2個連隊が、宜野湾ー首里の第5号線道路から南東の方向にある長く広がった谷間を、それぞれ反対側の方から攻めていったが、距離がありすぎるため、両連隊が相呼応するというより、お互いともに、隣接師団と緊密な連携をとらねばならないような状況下にあった。

第77師団の右翼を担当した第305連隊が、どのていど進撃できるかは、第1海兵師団の沢岻丘陵攻略の如何に大きくかかっており、また師団右翼の第306連隊は所属師団と、というより第96師団と、密接な連絡をとりながらしか、幸地丘陵西側の高台は進撃できなかったのである。この第77師団の進撃を迎え撃つ日本軍は、第24師団(雨宮中将)、第32歩兵連隊の2個大隊、これに首里防衛隊や独立4個大隊が合流していた。』(363-364頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 363-364頁より》 

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石灰岩の岩陰から日本軍に向けて発砲する第77歩兵師団の3人の射撃手  (1945年5月11日撮影)

ADVANCE ON OKINAWA / Three Riflemen of the 77the division take cover behind coral rocks and fire on Japanese Positions, during an advance on Okinawa.

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石嶺(いしみね): チョコレート・ドロップ(130高地)周辺

首里の周りには、幾多の強固な陣地があったが、そのなかでチョコレート・ドロップ山は、一見、まったくなんでもないような山に見えた。この名前は、第77師団本部ではまだ130高地と呼んでいるころ、兵隊たちがいつの間にか、そうつけたものだが、…平地から、そこだけが急に盛り上がっていて、頂上の近くには茶色の山肌が見え、あたかも…チョコレートでつくったドロップ玉のように先がとがっていた。』(373頁)

『チョコ・ドロップの近くには、沖縄最大の地雷敷設地があり、その周囲には、丘陵の陣地をそなえていた。空いているところは、米軍が進撃してくる北のほうだけだった。

5月11日の午前7時、米軍歩兵はまず30分間の予備砲撃を加えたのち、進撃を開始した。第306連隊の第3大隊は師団左翼(東側)に全力を傾けることになった。ところが、約200メートルほど進んだと思ったら、雨あられのように降る砲弾に、進撃を阻まれた。一面に交差する砲弾は弁ガ岳の北側をおおい、ここでも米軍は進むことができなかった。午前9時には、一中隊は丘の北側のふもとで接近戦にはいり、他の部隊も左翼で日本軍の塹壕にはいり、進撃できなくなってしまった。

チョコ・ドロップ攻撃に際して米軍は、戦車、自動操縦砲、野砲、迫撃砲、その他、歩兵の重機などで攻撃を支援したが、これも丘陵裏側に構築してある日本軍陣地までは、届かなかったようだ。チョコ・ドロップを真正面から攻撃しようとした米軍の一小隊などは、最初の2、3分で12人もの戦死者を出した。日本軍の47ミリ対戦車砲は、広場を横切ろうとした米軍戦車隊に向けて発射され、2輌が撃破され、6輌に損害を与えた。その他の1輌は無限軌道をやられ、後でまた爆薬を投げつけられて、ついに擱座した。この日、米軍第3大隊は、とうとう33人の死傷者をだしたまま、前の夜の米軍戦線まで後退せざるをえなかった。(374-375頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 374-375頁より》

 

東部戦線

運玉森(うんたまむい / コニカル・ヒル)付近

5月11日、総攻撃がはじまった。まず迫撃砲で予備砲撃の後、B中隊はイージー高地をなんなく占領し、そこから谷間の道をつたって、フォックス山頂上の陣地を分捕った。

C中隊は飛び石づたいに日本軍の陣地を殲滅し、ついにチャーリー高地頂上に達したが、これは確保までにはいたらず、米軍は、2、3メートル離れた丘の裏側に壕を掘ってたてこもっている日本軍と、長時間にわたる榴弾を展開したのである。』(385-386頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 385-386頁より》

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HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 13]

 

日本機の襲撃

米軍が総攻撃を始めたのと同じ日、第6次神風特攻隊150機が、沖縄海域の米艦船と機動部隊を襲撃した。それは、さいごの賭けだった。神風機はほとんどが撃墜されたが、その特攻ぶりは一米軍医の表現をかりると、「まるで四方八方から飛行機の大旋風が襲いかかった」というほど果敢をきわめた。その結果、機動部隊指揮官のミッチャー中将は旗艦のバンカーヒルがやられ、司令官旗をエンタープライズに移したがそれも大破されたので、さらにそれをべつの航空母艦に移さなければならなかった。』(130頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 130頁より》 

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-320000/80-G-323712/_jcr_content/mediaitem/image.img.jpg/1439260587171.jpg

特攻機攻撃をうけた「バンカーヒル号」(1945年5月11日)

USS Bunker Hill (CV-17)  Scene on the carrier's flight deck, looking aft, while her crew was fighting fires caused by Kamikaze hits, off Okinawa on 11 May 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

80-G-323712

 

 

第32軍の動向

沖縄方面根拠地隊: 小禄(大田実海軍少将)

『この日、小禄の海軍部隊には、牛島司令官からの「有力なる一部をもって依然小禄地区を守備せしむるとともに、主力をもって陸軍部隊と一体となり、首里周辺の戦闘に参加せよ」という命令が来た。』(256頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 256頁より》

『大田少将は「残る兵力は重火器を使用する能力なく 槍を主体とする烏合の衆となる」と反対したが、結局、11日の出動命令に応じざるを得なくなった。』(295頁)
《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 295頁より》

 

沖縄島からの脱出

沖縄県: (沖縄県知事・島田叡)・沖縄県警察: (警察部長・荒井退造)

『島田と荒井が沖縄戦に敗色を感じ緊急対策を講じ始めるのはこのころからである。…当時、警察部壕内には元・防空監視隊の女子隊員や各課の女子職員、警察部員の家族など、非戦闘員の婦女子が約30人同居していた。島田と荒井はこれら婦女子と、宮古列島多良間島へ帰りそびれて警察部壕に身を寄せていた青木雅英県議を豊見城村字長堂の後方指導挺身隊本部壕へ避難させることにした。』(296頁)

『…島田や荒井の慌ただしい動きから見て、大田少将ら海軍側から切迫した戦況について情報を得たと思われる。なぜなら、…証言によれば、長参謀長はこの期に及んでも、戦況を聞きに来る警察部の情報連絡員や新聞記者に対し「もはや諸君は情報を聞く必要はない。そんな暇があれば、早くちょうちん行列の用意をしろ」とはぐらかし、島田や荒井に対しても、ありのままの戦況を腹を割って話すことはなかったからである。』(297頁)

豊見城村を目指す青木県議と女性たちは5月10日ごろ、…出発、同5時30分ごろ、…小川にかかる大石橋(長さ約4メートル)に差しかかった時、迫撃砲弾の集中攻撃を受けた。』(297-298頁)

『女子職員らの第一次脱出が失敗に終わった翌日の5月11日夜、…警部補は、「すぐ部長室に来るように」と呼ばれた。…次のような内容だった。

「戦況は米軍に空、海とも圧倒され、援軍はもちろん軍需物資の補給路も完全に断たれ、県民の必需物資の補給も全く出来ない状態に陥っている。陸上の戦闘でも、米軍の陸海空からの近代兵器による昼夜を分かたぬ砲爆撃が激烈で、我が第一線防衛陣地は日毎に後退し、最前線では混乱迷走の状況にある。首里の球部隊(第32軍)司令部の撤退も間近のようで、友軍の敗北は残念ながら確実のようだ

内務省への通信手段も制約され、わずかに電信で緊急重要事項だけでは発信しているが、これとて間もなく出来なくなる見通しだ。沖縄戦が始まってから今日まで、県民は砲弾の飛び交う中で時給自足のための食糧の増産に励み、日本軍の後方作戦にも協力し、我が国の勝ちを信じて献身的に働いて来た。この県民の姿を内務省に報告しておかなければならないが、現実はその手段がない」…荒井は思い切ったように、再び口を開いた。

「そこで、内務省への報告の重責を負ってもらう警察特別行動隊(通称・警察別動隊)を編成することにした。君は今、警備中隊の分隊長として活動しているが、別動隊の隊員として沖縄を脱出し、あらゆる手段で東京へ行き、内務省沖縄戦の戦況を克明に報告してもらいたい

…任務の遂行方法について…説明があったが、隊員が最も心強かったのは、「陸、海軍でも同様の任務を持つ行動隊を編成し、陸軍省海軍省への報告を行うことになっている。警察別動隊の脱出用舟艇や食糧は海軍司令部が調達してくれるので、緊密な連絡を取れ」という点だった。また、行動隊の任務については「警察部の直属上司、同僚にも話すな。表向きは住民地域に入り、民心の安定を図る特殊任務につくことにしておけ」、日程は急を要するので、明朗、警察部壕を出発」ということだった。」(300-304頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 300-304頁より》

 

西部戦線

首里の西側を守る日本軍は、独立混成第15連隊、独立混成第44旅団で、その他にも独立対戦車第7大隊、海軍迫撃砲中隊、および海上挺身隊の兵およそ700名からなる独立1個大隊が加えられていた。これらの部隊は、迫撃砲や機関銃、小銃なども十分に装備しており、戦闘が進展するにつれて、増援部隊が第44旅団からぞくぞくと送りこまれていた。』(340-341頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 354頁より》

『…52高地を中心にして、西側安里から天久へ、東側は真嘉比から末吉、大名へ、やや寸づまりのU字型をなして、洞窟や陣地が連なる。やはり表面の固い、隆起サンゴ礁地帯。ここを守ったのは、独混44旅団。といっても、実際は美田大佐の指揮する独立15連隊。5月4日の総攻撃に、後詰めとして弁が岳付近にいたものが、急いで駆けつけてきた。米軍上陸以来、知念半島にいて、南からの上陸に備えてきた新鋭部隊だった』(258頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 258頁より》

安謝(あじゃ)・天久(あめく)

『日本軍に不利であったのは、嘉数の場合と違って、天久台方面は、戦車が活動できる地形だったこと。そうなると、守備軍は、陣地に拠って動かないのに、攻撃側は、戦車、火焔戦車、その上に艦砲射撃まで加わり、44旅団が急いで陣地について、四日間に構築できた急造陣地の防御力を上まわる火力で攻め立てることができる。』(259頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 259頁より》

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“アンカー・ヒル”--安謝川向けの射界をもち、堅固に覆われ巧みにカモフラージュされた日本軍の塹壕と待避壕。

ANCHOR HILL--Japanese dugout and trench heavily revetted and well-camouflaged with field of fire toward ASA KAWA.

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『この付近一帯、すこぶる堅固な陣地帯を形成しているので、アメリカ軍がいかに強引に攻め立てても、当分大丈夫持ちこたえると考えていた。しかるに、この大隊は、例の海上挺進基地大隊を臨時改編した訓練装備ともに不十分な部隊である上に、陣地についたばかりだったので、期待に反し一挙に突破され、天久部落西側495高地の洞窟陣地に拠る大隊本部は馬乗り攻撃を受けるに至った。』(302頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 302頁より》

 

中央戦線

沢岻(たくし)・大名(おおな)

『…沢岻ー大名陣地を、牛島中将は、首里の円形防衛陣できわめて重要だとし、「あくまで確保せよ」との命令を下していた。

日本軍の第62師団は、まだこの地域にいて、5月11日から5週間にわたって、ずっと戦闘の成り行きを見守っていた。独立歩兵第11大隊が全滅し、第21、第23大隊もほとんど全滅に近い状態で、師団には、わずか600名だけがもともと同師団出身の兵として残っていた。

牛島中将は、第64旅団の残存部隊を第63旅団に編入し、これに飛行場設営隊、野砲隊、海上挺身隊などを合流させて、6700の兵力をつくった。

牛島中将は、第44旅団に沢岻を守らせ、最後の一兵まで戦いぬくよう命令を下した。』(353-354頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 353-354頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

「デデコイ」役 ③

米軍が設けた田井等収容所にいた住民の中には、前線で住民に投降を呼びかけるという任務を与えられた男性たちがいた。その中の数人は、数日前から米海兵隊の第29連隊とともに牧港付近にいた。この日から、壕を巡ることになった。

『潮の退いて行ったような戦線は、唯荒涼たる破壊の跡が目につくだけで、附近の壕という壕の中は日本軍の敗残兵も、住民の姿も無かった。ただ仲西飛行場附近の自然壕が、いかにも怪しいので先ず一行の注意を惹いた。「出て来い」…声が虚ろな空洞に空しく響くだけで、一向手応えらしいものがない。…片足を壕内に踏み入れた時、生温かい空気に混じって激しい死臭がプンと鼻を衝いた。死臭は、壕の中の横穴に、無数に転がっている死体から発していることが解った。

勢理客及び沢岻の線に、最前線を布いていた米軍が更に前進したので、第29連隊本部は間もなく勢理客と沢岻間の丘の蔭に駐屯した。日本軍の拠っていた陣地は、米軍に押されるままに、首里那覇の線に後退したため附近の陣地は何れも藻抜けの殻にすぎなかった。勢理客では、人の潜んでいそうな壕を発見した。そこでも、「出て来い」と叫ばれた。つい2、3日前までは日本軍の陣地であっただけに、そこでは細心の注意が配られた。…壕は深くて、奥につきあたって尽きたかと思うと、更に右に折れて続いていた。「出て来い」…と叫んだ。不気味な沈黙を破って、微かに「はい」という声がきこえた。全身を耳にして両人がなおも進んでいくと、人の声が急に下の方から響いてきた。「明かりをつけろ」とどなると、「負傷して一歩も動けぬから、済まぬがそっちで明かりをつけてくれぬか」と弱々しい声で答えた。じっと息を殺して内部を窺っている、と、パッと前の壁に灯りが反射した。そこは壕の中に井戸のように垂坑道があり、灯りはそこから反射していた。負傷兵らしいのがうずくまっていた。…彼は足をやられたために日本軍から置き去りにされていた。負傷兵は壕外で、米兵の応急手当を受け、後方の野戦病院へ送られた。(172-173頁)

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 172-173頁より》

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民間人の助けを借りて日本軍陣地を調査する海兵隊将校

With the aid of a civilian agent, a Marine officer surveys enemy positions on Okinawa.

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