〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年8月11日 『歓喜に沸く連合国』

ポツダム宣言受諾の知らせ / 日本の新聞 / ボーロー飛行場 / 一人ぼっちの通信隊 / 「皇国の道」の教育

 

日本の降伏に世界が歓喜

知らぬは国民ばかり

8月10日の日本ポツダム宣言受諾のニュースは世界をかけめぐる。

日本政府の対外情報発信を担う「同盟通信社」が8月10日、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。翌11日アメリカ新聞各紙には「日本、降伏受け入れ」の活字が大きく踊った。連合国は歓喜に沸いた。しかしこのニュースは、日本国民には伏せられた

【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった | ハフポスト

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日本の降伏受け入れを知り、喜ぶ米兵たち(パリにて)
American troops on leave in Paris (France) wave copies of the extra editions of the Paris Post and Stars and Stripes published August 10, 1945, bearing the news that Japan was prepared to accept the surrender terms decided on by Allies at the Potsdam Conference. (Photo by Photo12/UIG/Getty Images)

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US troops stop the traffic in the Rue Royale in, Paris, after hearing the unofficial news August 10, 1945, that Japan was prepared to accept the Allied terms of the Potsdam ultimatum of July 20, The Madeleine church may be seen in background. (Photo by Photo12/UIG/Getty Images)

日本の降伏受け入れを知り、喜ぶ米兵たち(パリにて)

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VJ Day In London, 10th August 1945: Crowds of Londoners gather around Piccadilly Circus to celebrate the news of Japan's surrender. (Photo by Express/Express/Getty Images)

日本降伏のニュースに喜ぶロンドン市民。


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Chinese Rejoice. 10th August 1945: Joyful Chinese waiters join Londoners in celebrating the news of Japan's surrender. (Photo by William Vanderson/Fox Photos/Getty Images

ロンドン市民と共に日本降伏のニュースを喜ぶ中国人ウェイター

【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった

 

国内の報道 -「神州護持の聖戦」

日本国内の報道ではポツダム宣言受諾は伏せられた。

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戦時下、情報は厳しく統制され、国民に対して士気を下げるような報道、発言は禁じられていました。

【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった | ハフポスト

11日の新聞では「国体の護持」つまり天皇中心の社会体制を維持することの大切さを呼びかける下村宏・内閣情報局総裁の談話 (右上) の一方で、陸軍大臣布告として、徹底抗戦を求める訓示 (左上) が同時に掲載された。

断固、神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。たとえ草を食み、土をかじり、野に伏するとも断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず 

終戦までの一週間を新聞報道で振り返る 中編(昭和20年8月11日〜13日)|政治ドットコム

 

米軍の動向

ボーロー飛行場の完成

4月1日に日本軍の北飛行場と中飛行場が占領されて以降、4カ月で読谷村全域が米軍基地化された。米軍が新たにB-29大型爆撃機の滑走路として建設していた残波岬のボーロー飛行場は、この時期に完成する。

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第87海軍建設大隊の記録によると、ボーロー飛行場が完成して初めての着陸は、損傷したB-29緊急着陸だった。

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The first Boeing B-29 Superfortress “Look Homeward Angel“ to land on Bolo Strip, Okinawa, Ryukyu Retto. Based at Guam, the plane was returning from a bombing mission over Japan when it was forced down by damage to the #4 engine. (Flak cut the oil line, damaging elevator and stabilizer).

ボロ飛行場 [残波岬] に着陸した最初のボーイングB-29スーパーフォートレス「ルック・ホームワード・エンジェル」。グアム駐屯だが、日本への爆撃*1の際に第4エンジンに損害を受けたため飛来した(対空砲火によってオイルラインを切られ、昇降舵と安定装置もやられた)。1945年8月11日撮影

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米軍基地が読谷村全域を基地化したため、無事で残っていた家屋もほとんどが取り壊された。木材などは基地建設資材として利用され、また破壊される前に多くの戦利品が持ち去られた。

ボーロー飛行場などに携わった第87海軍建設大隊の記録

【訳】建設のための破壊。この素朴な住民の家は、幹線道路からキャンプ・ボロまで緊急に必要な道路のすぐそばにあった。大隊の大工たちが使用可能な木材をすべて回収した後(戦利品やノミの巣も一緒に!)、"ビッグ ジョン" ワインはすでに砲撃を受けたこの住居にブルドーザーを打ち込んだ。多くの住民の家は軍事上の必要性から取り壊されなければなりませんでしたが、決して司令部の許可なしに取り壊されることはありませんでした。すべての住民はずっと前にカンパン内に集められていました。

第87海軍建設大隊 (87th NCB) - Basically Okinawa

米陸軍の公刊史は、兵士による「現地の建造物に対する無差別かつ監視なき焼き討ち」*2、深刻な住宅不足を招いたことを記録している。

 

第32軍の敗残兵

戦場の学徒隊 - ひとりぼっちの通信隊

日本軍は沖縄の21の旧制中学から上級生を鉄血勤皇隊に、下級生を通信隊として召集した。通信隊は14歳前後からに配属された。中には13歳の学徒もいた。また陸軍中野学校直属の護郷隊に配属された学徒もいた。女子生徒は15歳から19歳で、従軍の看護助手として配属された。 十代半ばで連絡や偵察などを担わされた通信隊は、引率教師もつくことなく、危険な戦場で軍の連絡係として利用され、多くの学徒が亡くなった。

沖縄県立水産学校 - 水産通信隊

沖縄県立水産学校の上級生10数人は「水産鉄血勤皇隊」として、そして下級生22人は「水産通信隊」として編成された。摩文仁で司令部は生き残った兵士と学徒兵を含めて「肉薄攻撃隊」を編成する。最終的に水産通信隊の22人のうち、瀬底のほかは一人も生きて親元に帰ることはなかった。

具志堅という工業生 (注=沖縄県立工業学校) も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。

 「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。

小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。

沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還

水産通信隊で、摩文仁司令部壕の守備にあたらさせた「肉薄攻撃隊」の6人、摩文仁海岸で壕ごと火炎放射器で焼き尽くされた8人、戦艦だらけの具志頭から軍の重要書類を運ぶとしてクリ舟で送りだされた5人、いずれの学徒も亡くなる。

(瀬底さんは) その後三か月余り、昼は壕に隠れ、夜は壕から出て食物を捜し求め、やっと命をつないでいたが、10月の初め、CIDの宣撫に応じて投降した。

山川泰邦『秘録沖縄戦記』 - Battle of Okinawa

 

沖縄県立第一中学校 - 一中通信隊

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宮平盛彦さん「女の子なんかが、ところどころ潮だまりがあるでしょ、そこに浮いていたりして、本当に痛ましい状況でした」

糸満市喜屋武岬に立ち複雑な思いで海を見つめるのは、宮平盛彦さん。沖縄戦当時、わずか14歳で「通信隊」編入された宮平さんは、8月になっても戦争が終わったことを知らず、南部の険しい海岸べりや、アダンの林を必死に逃げ惑っていました。

宮平さんにはいまも忘れられない体験があります。北部を目指して、西原辺りを逃げていた8月中旬、突然、海の方から大きな音が聞こえたのです。宮平さん「打ち上げ花火みたいにずっと上空に大砲も撃つし、サーチライト、あれを上空に照らしていた、乱舞していた」後で振り返るとそれは8月15日。戦争の勝利を祝うアメリカ軍のセレモニーでした。

多くの仲間たちが捕虜になる中、彼が終戦を知ったのは11月のこと。しかし、そのときには彼の両親も兄弟も仲間の多くも戦死。宮平さんは一人ぼっちになっていました。

65年前のきょうは1945年8月11日(土) – QAB NEWS Headline

 

捕虜収容所の高級参謀

沖縄の少年兵たちが終わらない戦いを強いられている一方、本土決戦を引き延ばすため、沖縄を「寝技戦法」の土俵として利用した第32軍の作戦参謀八原博通は、6月26日に民間人になりすまし投降、7月26日頃、取調べ中に高級参謀であることがばれ、越来村の捕虜収容所に一軒家を与えられ破格の待遇で収容されていた。

八原参謀の回想:

私は心中深く脱走を期しつつ、表面は何食わぬ顔で皆と接触していた。苦しい日々であったが、間もなく驚天動地の大事件が相ついで勃発した。広島、ついで長崎に原爆投下ソ連の参戦、皆機を逸せずアメリカ第10軍の機関紙『バックナー』が報じた。さらに10日同紙は日本が皇位の問題を除いて無条件降伏を申し込んだ旨、大々的に報じた。ラモット中尉、それに衛兵たちは狂喜した。この夜沖縄全島に亘り銃砲声が鳴り響いた。欣喜雀躍したアメリカ軍が祝砲のつもりでめちゃくちゃに乱射乱撃したのである。「ホームタウン」「故郷の町」の歓声が銃砲声の間に間に絶えなかった。私は、祖国日本とその指導層が音もなく崩壊するさまを想像した。もう本土決戦に参加する必要はなくなった

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 481頁より》

 

そのとき、住民は・・・

「皇国ノ道」の教育 - 神州不滅論

石垣島 大浜村立青年学校の校長の証言

わたしも、戦争が終る前まで、日本国の神州不滅論生徒にとうとうと説き、励げましていました。そうしたら二、三日で終戦なりました。あの時の気持は複雑怪奇で自分でどう整理していいかわからない状態でした。今考えると恥しい、おかしい話ですが、ほんとにそう思っておりました。

終戦となり、もう一度教職に就こうとは思いませんでした。軍隊の手先となり、若い青年をだまして二度と教地に立つことができるのかと毎日良心の呵責をうけ、とうとう教員をやめることにしました。今は農業をしていますが、あの成長盛りに十分栄養もとらされることなく、炎天下でツルハシをふらされ、飛行場つくりに一生懸命になり、日本国の神州不滅を信じ、牛馬のように働かされた青年たちに、何とわびをしてよいやら、わびのしようもありません。いくら過ぎ去ったこととはいえ二度とあの悲惨な戦争をおこしてはならないと思います。

教育は人を殺すことも出来るし、また人々を愛させることも出来るものだと、今つくづくそう思います。どうかこれからの教育者は科学的真理に基づき真の歴史を教えてもらいたいと思います。そしてほんとうに平和を求める青少年を勇気をもって育ててほしいと思います。

青年学校生徒の白保飛行場建設『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

軍作業 - 死体処理

米軍の軍作業は、収容所生活の開始とほぼ同時期に始まった。つまり、日米最後の地上戦闘と同時平行的に実施されたのである。したがって、日本軍の敵情視察を目的とする潜伏斥候(米軍占領地の様子に日本兵が忍び込んでいき情報収集する行為)要員の目には、米軍保護下の沖縄住民はまさに “非国民” と写ったのである。そして、特に南部戦線では、沖縄人はみなスパイであるという噂が飛び交い、住民が日本軍にスパイ視されて虐殺される一因にもなった。

《戦後沖縄の社会史ー軍作業・戦果・大密貿易の時代ー(石原昌家/ひるぎ社) 32頁より》

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海兵隊: These five Nip POW's are busily engaged in burying their dead. Marines, rifles in hand, keep a watchful eye.
死亡した仲間を埋葬するのに忙しい5人の日本兵捕虜。ライフルを手にした海兵隊員が監視の目を光らせている。 1945年

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

米軍は、捕虜となった日本兵や民間人を様々な作業に起用したが、そのひとつが死体処理だった。死体処理の作業に駆り出された捕虜は、配られた藁縄、DDT、手袋を持って米軍のトラックに乗せられ、目的地まで連れて行かれた。目的地に着くと銃を構える米兵数名の前を歩かされ、一帯を歩き回った。米兵たちは、鼻をくんくんさせて死体を見つけていった。

死体の手足を藁縄で縛り引っ張って運ぼうとすると、その手足がズルッと抜けてしまう。そうなると、捕虜たちは米兵からDDTをまき、手袋をつけて死体を直接手で運ぶように命令された。たくさんの蛆がわいている死体を目の当たりにした捕虜たちに吐き気が襲う。それを見た1人の米兵は、自ら死体を運んでみせたので、その後は、いやでも死体の後片付けをさせられた。

大抵、一ヶ所に穴を掘り、見つけた幾つもの死体を埋めた。しかし、破壊された民家の内外に30体の死体を発見した時などは、一体一体運び出すのは大変な作業となるため、米兵がガソリンをまき、火をつけて一度に火葬した。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時 戦後体験記/戦時篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 380-381頁より》

 

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