1945年 7月14日 『屋嘉収容所』

〝沖縄〟という米軍基地

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50口径機関砲(1945年7月14日撮影)

Okinawa-Guns & Weapons Machine Gun 50 cal.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

米軍の動向

米兵の行動 

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戦利品(1945年7月14日撮影)Okinawa-souvenirs.

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神社でナバホの太鼓を披露するヘムストリート二等兵古いインディアン響きを打ち鳴らす(1945年7月14日撮影)

Pvt. Leslie Hemstreet (936840) of Crystal, New Mexico, a Navajo Marine, is shown beating native drum at this shrine. He is beating out old indian calls.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

屋嘉収容所

班長を任された男性の証言:

7月14日以降については、私の手許に当時、毎朝の点呼をとった記録があるので収容所の出入りは判然としている。第三次ハワイ送り出しの時百人単位だったのが、7月14日は639人になっていてその日の夕方は663人に増している。入所者の送られた先の地名や人数、出て行った者の送り先、病院とか、日本兵柵内に移された者等が記されてある。日本兵が沖縄出身と偽り、それがばれて移されるものが随分いた。逆に沖縄出身で日本兵だと偽り本土へ送られることを期待して日本兵柵内にもぐり込んでいるのもいた。』(7頁)

 《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 7頁より》

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屋嘉収容所

www.visitkintown.jp

 

 

そのとき、住民は・・・

民間人収容所

大宜味村喜如嘉(おおぎみそん・きじょか)

沖縄本島北部の大宜味村喜如嘉周辺では、地元住民や本島各地から避難してきた人々が、7月になってもまだなお山奥に身を潜める生活をしていた。住民らは、保存していた芋を食べ、ハブ、セミ、ネズミ、ヤンバルクイナのような鳥なども捕まえて食べて飢えをしのいだ。しかし、1945年7月14日、ついに避難していた人たちは山を降りる決意をした。

米第六海兵師団は、4月12日に国頭村に到達し、翌13日には、沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬に到達している。米軍は、5月以降から北部地区での住民収容を始め、喜如嘉にも収容所が設置された

7月、米軍は国頭山地において、全面的な掃討作戦を開始した。度々の下山勧告に応じない住民らにしびれをきらした米軍は、隊を編成して山中に分け入り、勧告と探索を続け、日本軍の斬込隊を捕えると共に住民を収容している。

7月10日、数名の米兵が喜如嘉部落に入り、部落内の橋や道路、川などを測量し始める。12日には、戦闘部隊に所属する数十名の米兵がやってきて、喜如嘉国民学校に駐屯し始めた

さっそく部落の幹部で構成されていた戦時対策委員会が開かれ、委員10名が集まり対策を協議した。山中に確保してあった食料はとうとう底をつき、人々が餓死寸前となったこともあり、この深刻な問題に対して委員会が出した結論は、衆議一決、「全員下山」しかなかった。

こうして喜如嘉の住民は「すでに部落内に他部落の人たちが収容されているが、部落の人は必ず自分の家に入れること」という条件を出して、2日後の16日には全員が下山したという。

大宜味村喜如嘉の難民収容所に入れられたのは、国頭(くにがみ)村・大宜味村・東村の住民と、沖縄戦の直前に中南部から来た避難民であった。戦前8千人台だった大宜味村の人口は、収容者の増加により1万4千人に達したといわれている。さらに喜如嘉収容所では、マラリアの蔓延により7月から12月までのわずか5カ月のうちに、269名が病死している。(QAB/やんばるの山中へ避難/読谷村史)

《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月13日(金) 、戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2 「喜如嘉国民学校高等科2年、やんばるの山中へ避難」(http://www.jvvap.jp/fukuchi_hiroaki.pdf)  、読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争 および 読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所 より抜粋、要約》

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喜如嘉集落 | 沖縄の観光スポット | 沖縄の休日

 

ハンセン病患者と沖縄戦

『…愛楽園患者動態表をみると、1945年に119人が愛楽園に入所しており、翌年から1952年までの年次別新入所者数は順に109人、356人(本土療養所から218人が引き揚げ)、83人、150人、70人、68人、44人である。

…米軍政府がハンセン病隔離政策について指令の形式で法令を発布するのは1946年2月8日であり(海軍軍政府指令115号(癩患者の隔離)と同116号(屋我地癩療養所への立入り制限)---1953年11月に民政府指令12号により廃止)、またこの頃から破壊した愛楽園を再建するために建築資材を提供している。「癩病患者であることが判明した者全部を、現在復旧中の屋我地島癩療養所に隔離するよう指示する」、と患者隔離の絶対化を明言した海軍政府指令115号によれば、「軍政府医療施設に収容された癩病患者は、直ちに名護診療所に移し、同診療所を経て屋我地島に輸送」された。また軍政府軍医の監督下の沖縄人医師全員に同指令は伝達されるものとされた。』(181頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 181頁より》

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棺桶を火葬炉に置くハンセン氏病患者(1945年7月14日撮影)

Coffin being placed in crematory by Leper patients.

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『…絶対隔離政策について、1948年11月27日の第3回国会衆議院厚生委員会において厚生省医務局長東竜太郎は次のように要約した。これまでの隔離政策は、ハンセン病と診断された患者を「普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、らい療養所内に一生を送らせ」、「全部死に絶えるのを待つ根絶策であったと(第3回衆議院厚生委員会議六5号)。したがって絶対隔離政策を遂行するためには、東の言葉を借りると、まず、ハンセン病と診断された者が「一生を送る」場所である療養所を設置すること、次に、その者を「普通の社会から締め出して」療養所に入所させること、そして、入所した者を退所させず、所内で「死に絶えるのを待つ」ことが必要であった。つまり、全患者隔離を可能にする療養所建設と全患者隔離とその状態の継続が政策の目標とされた。』(28頁)

《「ハンセン病差別被害の法的研究」(森川恭剛 著/法律文化社) 28頁より》

www.yuunakyoukai.jp

 

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