1945年 7月3日 『攻撃を受けた疎開民』

米軍の動向

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マッキーニー軍曹に銀星章を授けるスティルウェル将軍(1945年7月3日撮影)

General Joseph W. Stilwell, presents the Silver Star to Sgt. John C. McKinnie.

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〝沖縄〟という米軍基地の建設

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第14海兵航空群が使用する泡瀬飛行場運用区域の全景。沖縄本島にて。(1945年7月3日撮影)

Panorama of Awase Airstrip operating field for MAG-14 on Okinawa in the Ryukyus. MAG-14-017-8

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通行路作りの様子(攻撃後)。同路は、水陸両用装軌車や中型揚陸艇のために使用される。(1945年7月3日撮影)

Channeling job (post-assault) at Okinawa. Channel was to be used by LVTs and other smaller craft (LCM).

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物資の受取と荷下ろしをする補給部のクラスII,クラスIVのコンベヤラインとプラットホーム。(1945年7月3日撮影)

Receiving and unloading platform with conveyor line, Class II and IV, Ordnance section.

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第87野戦病院玄関。これらの建物のほとんどは旧日本軍の兵舎跡に建てられた。(建物は沖縄県立第3中学校図書館(1945年7月3日撮影)

Entrance to the 87th Field Hospital, most of which is established in a former Japanese Military School.

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戦利品

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捕獲された日本軍兵器(1945年7月3日撮影)

Okinawa-Capt Equip & Mat. Japanese.

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第96歩兵師団(1945年7月3日撮影)

Okinawa-Div. 96th Inf. O/S.

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沖縄戦での戦利品を見せるボーウェン上等兵とデービットソン上等兵。二人とも第96師団第383歩兵部隊、K中隊所属。(1945年7月3日撮影)

Pfc. Walter E. Bowen, 632 Parc Road, Washington, D. C., and Pfc. James C. Davidson, 159 Hill Ave., Portsmouth, Va., display their souvenirs of the Okinawa Campaign. They are both members of Company K, 383rd Inf., 96th Division.

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第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵 

船舶工兵第23聯隊に所属した兵士の体験談:

沖縄戦では中部嘉手納の比謝川(製糖工場)から南部まで銃火に追われ、聯隊が大里村仲程から嶺井の線で全滅した後は南部を転々とさまよっているうちに6月30日ごろ、喜屋武岬よりの米須の海岸で5人が捕虜になった。…一列隊になり手をあげて米兵に向かって歩いて行くと彼等は後ずさりしながら自動小銃を向け発砲の構えをしていた。…身体検査を終えると水呑み場に連れていき、腹一杯水を飲まし、菓子などを呉れた。彼等はどの兵隊も赤ら顔をして盛んに英語で話しかけてきた。どの兵隊も同じ顔に見え、…片言の英語が通じ大変嬉しかった。

水呑み場は道路に面していて、時折り戦車が通りすぎ、日本兵が褌一本で投降してくるものもおり、その数は次第に増してきた。われわれは最初豊見城村伊良波に連行された後、簡単に職業等のじん問をうけた。そこで軍人、一般民間人によりわけられた。』(80頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80頁より》 

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投降した日本人捕虜を身体検査する海兵隊員。

Marines search a Jap prisoner who surrendered.

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前線の収容所で最初に配給された水を口にする日本兵捕虜。

Jap POW's in forward stockade drinking their first ration of water.

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『じん問をうけたとき私は学生だと答えた。するとハワイ帰りと称する50歳がらみの背の低いヘルメットを被った男に裸になれといわれ、着物をとると顔を一発ぶたれた。「君は防衛隊だ」と一方的に決めつけられてそのグループの中に入れられた。その日に同村与根に移され、1日は終わった。

その夜は近くで日本の敗残兵と米軍の交戦があり、間だんなく銃声がきこえて、曳光弾が尾を引いて何度も頭上をかすめていった。2世の米兵が日本語で絶対に頭をあげるなといっていた。生きた心地はしなかった。

7月3日ごろ、行き先を知らされないまま屋嘉収容所に着いた。驚いたことに周囲を有刺鉄線で囲われ、その中に夥しい人の群れがうごめいているのが見えた。車から降りると男達が右往左往し、頭髪、ひげは伸びほうだい、目はくぼみ、頬はこけ、軍服、着物を着るもの、つっ立っているもの、坐っているもの等々異様な光景であった。

…折からの7月の陽光はギラギラと輝き、熱砂の照り返しと相俟ってうだるような暑さだった。屋敷跡の井戸があちこちにあって人々は水を求めてうろついていた。食事に配られたレーションの空箱(紙)を丁寧に延ばし、それを頭にのっけて紐で顎に結わえて猛暑を避けた。夜になると収容所の周囲を取り巻いていた戦車が一斉にライトをつけた。収容所はその騒音に混じってまるで真昼のようであった。』(80頁)

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記 戦後・海外篇」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 80頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ④

西表島の船浮(ふなうき)港を出た第一千早丸(友福丸)と第五千早丸(一心丸)は、尖閣列島を経由する航路で台湾へと向かっていた。石垣島からの疎開民を乗せた2隻の船は、7月3日午後5時頃に基隆(キールン)港に入る予定だった。この日は波もなく、風も静かで、船内からは楽しそうな歌声も聞こえた。

ところが、そんな平穏な状況が一変する。入港予定間近の3日午後2時頃、米軍のB-24爆撃機が2隻の疎開船を機銃掃射し始めた。大きな爆音と同時に機銃が乱射された。船内にいた老婆は、一声叫んだままうち伏してしまい、子どもたちもやられ、重傷を負った者たちが唸り声をあげていた。甲板では、息を乱して絶命している者もいれば、手首を失って呻きもだえている者などがあちこちにいた。大洋の真っただ中にいた疎開民たちには、防空壕もなければ身を隠す草むらもない九死に一生の望みも薄く一同は絶望のふちに沈む。

B-24爆撃機は、2隻を繰り返し攻撃した。第五千早丸(一心丸)は火災を起こし、逃げ遅れた者は生きながら焼かれた。火から逃れようと、皆、次々に海へ飛び込んだ。

幸いに炎上しなかった第一千早丸(友福丸)から小伝馬舟が出され、海上を漂流していた人々を収容した。だが、年寄り、子供、女性の多い疎開民だけに、水死した人々が多かった。第一千早丸の機関長は即死したが、炎上沈没した第五千早丸の機関長は無事で、懸命の機関修理が続けられた。この攻撃で、疎開民約70人が死亡した。(八重山の戦争/尖閣諸島遭難・2、3)

《「八重山の戦争」(大田静男/南山舎)  214-215頁、[70 尖閣諸島遭難(2)]米軍機の機銃浴びる - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [71 尖閣諸島遭難(3)]餓死者の死臭 島覆う - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、一部要約》

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail60_img.jpg

沖縄戦の絵】「尖閣諸島近海  疎開船への攻撃」

石垣島から台湾への最後の疎開船・第一千早丸に家族で乗っていた時の体験。よく晴れた日、魚釣島近海にさしかかった時、米軍戦闘機が現れて同じ船団の第五千早丸を攻撃、船は炎上して沈没した。戦闘機はその後、第一千早丸の上を何度も旋回して機銃攻撃を繰り返し、機関室は破損、船底も破壊された。女性や子どもなど約90人が乗船していた船内は、叫びやうめき声で騒然となった。…頭の左側に弾がかすり、血が噴き出した。姉が海へ飛び込もうと言ったが、「死ぬなら家族一緒」と考えた母親は、末の子のおぶいひもを家族8人全員にくくりつけ船内に留まった。船はその後、魚釣島に着いたが、50日間食糧はなく餓死寸前に陥った。その後家族は全員石垣島に戻ることができたが、7人きょうだいのうち下の2人は栄養不足などがたたってまもなく亡くなった。』

尖閣諸島近海 疎開船への攻撃 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

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