1945年 9月2日 『日本が降伏した日』

日本降伏の日

降伏文書調印式

昭和20年9月2日降伏調印の日がきた

東京、横浜地方は未明に小雨が降った。夜が明けてからも重い雲が空を覆っていた。

…海は鉛色であった。式場の戦艦「ミズリー」は、横須賀沖18マイル錨地に停泊している。横須賀沖といっても、浦賀水道を南下し館山または城ヶ島の沖合に近い洋上である。横浜港からは優に30キロ以上の距離があった。

「海軍の旗艦ミズリー号を調印の場所となしたことは、太平洋戦争に大いなる犠牲を払った海軍の感情を尊重したものと認められた。軍艦の名前のとられたミズリー州はトルーマン大統領の出身州である」重光葵著作集1『昭和の動乱』原書房刊)』(313頁)

『4万5000トンの戦艦ミズリーは、周囲に停泊する艦隊のなかでも、ひときわ威容を誇っていた。マストには星条旗がはためいている。舷側の手すりに沿って白い制服の水兵が隙間なく整列していた。

…やがて軍楽隊の演奏にのって、ニミッツ、ハルゼー、服装ですぐにわかるソビエト代表テレビャンコ中国代表徐永昌たちが式場に姿を現した。総勢4、50人、…連合軍代表はテーブルを半月型に囲んで立ち話をしていた。』(320頁)

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 313、320頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/USS_Missouri_Japanes_surrender_Marine_guard_company_and_Navy_band.jpg

The surrender ceremony between Japan and the United States aboard USS Missouri (BB-63). Date 2 September 1945
Source National Archives photograph SC#210628, from the Army Signal Corps Collection

File:USS Missouri Japanes surrender Marine guard company and Navy band.jpg - Wikimedia Commons

日本側全権委員一行は、午前9時すこし前にミズリー艦上に現れた。駆逐艦から艦載艇に移り、戦艦のタラップを昇ったのである。一行は直ちに甲板上の式場に導かれ、連合国各代表と相対する位置に整列して開始を待った。』

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg/1920px-Surrender_of_Japan_-_USS_Missouri.jpg

降伏文書調印式に派遣された日本代表団

Japanese representatives aboard the USS Missouri at the surrender of Japan on September 2, 1945

Victory over Japan Day - Wikipedia

定刻9時マッカーサーが姿を現し、中央のマイクの前に立った。約2分間の演説である。その後降伏文書の調印が始まる。日本側は調印に先立って、全権に対する天皇陛下の委任状2通と9月2日付けで公布する詔書マッカーサーに提出した。』

《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 頁より》

http://en.academic.ru/pictures/enwiki/80/Perry_flag_1945.jpg

写真左上の星条旗は、日本の開国を迫ったペリー提督が掲げていた旗であり、降伏文書調印式のために取り寄せた。

Commodore Perry's flag (upper left corner) was flown from Annapolis to Tokyo for display at the surrender ceremonies which officially ended World War II

Matthew C. Perry

『調印式に先だって、マッカーサー格調高い演説をした。

「・・この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の威厳とその抱懐する希望のために捧げられたより良き世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の熱望するところであり、また全人類の願いである・・」

降伏文書への署名は、日本国代表の重光外相から行われた。午前9時4分だった。

これで戦争は正式に終わった。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e5/Shigemitsu-signs-surrender.jpg

1945年9月2日、USSミズーリ艦上でリチャード・サザランド中将が見守る中、降伏文書に署名する重光葵外務大臣、右随行の加瀬俊一

日本の降伏 - Wikipedia

『続いて日本軍を代表して参謀総長梅津美治郎大将が署名し、マッカーサー連合国軍最高司令官として)、ニミッツ(米国を代表して)と署名し、連合国軍の各国代表が次々署名した。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

https://www.archives.gov/files/research/military/ww2/photos/images/ww2-198.jpg

" Gen. Douglas MacArthur signs as Supreme Allied Commander during formal surrender ceremonies on the USS MISSOURI in Tokyo Bay. Behind Gen. MacArthur are Lt. Gen. Jonathan Wainwright and Lt. Gen. A. E. Percival." Lt. C. F. Wheeler, September 2, 1945. 80-G-348366. National Archives Identifier: 520694

World War II Photos | National Archives 

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000094986.jpg

『上段から重光葵外務大臣梅津美治郎参謀総長の両全権、続いてマッカーサー司令官はじめアメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド各国代表が署名しました。』

外務省外交史料館 戦後70年企画 「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示 | 外務省

『いつの間にか雲が切れて、甲板に陽光がさしはじめていた。その雲の切れ間から爆音が聞こえてきた。400機のB29爆撃機と、第3艦隊の艦上機1500機による一大ページェントだった。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fa/USS_Missouri_%28BB-63%29_flyover%2C_Tokyo_Bay%2C_2_September_1945_%28520775%29.jpg/1920px-USS_Missouri_%28BB-63%29_flyover%2C_Tokyo_Bay%2C_2_September_1945_%28520775%29.jpg

祝賀飛行する米軍機編隊 / U.S. Navy photo 80-G-421130

ミズーリ (戦艦) - Wikipedia

調印式の最後を飾る空のショーが終わると、マッカーサーは米国民向けのラジオ放送を行なった。

「わが同胞諸君、今日、大砲は沈黙している一大悲劇は終わった。大勝利がかち得られた。空はもはや死を降らさない。海洋はただ通商のみに使用され、人々は、太陽の下をいずこに於いても闊歩できる。全世界は全く穏やかな平和に包まれた。神聖なる使命は完成された・・」

このマッカーサーの寛大さに感動した日本代表団の加瀬俊一随員の報告書をもとに、重光はその日のうちに昭和天皇に調印式の報告を行った天皇は「マッカーサー元帥の高潔なステーツマンシップ、深い人間愛、そして遠大な視野」に感動したと伝えられる。』(62-63頁)

《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 62-63頁より》

youtu.be

Japanese Surrender in Color (1945) - YouTube

『…ミズーリー号上での降伏調印式が終わると、東南アジア各地の日本軍の降伏が始まった。9月3日にはフィリピンの日本軍が降伏調印、9月9日には朝鮮の日本軍が降伏調印、9月12日にはシンガポールの日本軍が降伏調印した。またマリアナ諸島、キャロライン諸島アメリカ軍が上陸を回避したロタ、トラック、パラオなどの島々でも日本軍の降伏調印が行われた。』(225頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 225頁より》

  

降伏文書調印式までの動向

琉球列島の「降伏」 ④

第10軍司令官スティルウェル将軍は、9月2日以後、琉球列島の全日本軍の降伏を受諾せよとの指令を受けたため、8月28日宮古八重山奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。翌 29日以降、離島に駐留する日本軍部隊の司令官らと連絡がついた。

9月2日、高田将軍は本人が副官を伴って第10軍司令部に赴きたいと連絡してきた。これに対して、高田将軍本人が赴くまでもなく、捕虜2人を回収する航空機に代表を載せれば十分であると連絡した。その日、納見将軍は多賀大佐を代表として、村尾海軍大佐、一瀬大佐、杉本中佐、通訳2人、飛行士5人を派遣したいと連絡してきた。その97式重爆撃機には緑十字と赤い流しを付け、9月4日午後2時宮古北端の上空でアメリカ軍護送機と落ち合いたいということだった。

奄美群島海軍司令官加藤唯雄提督は9月2日になって初めて連絡してきた。無線技師が足りないことと英語を話せる者がいないので、今後の連絡には航空機からメッセージを落としてくれ、ということだった。そこで、その日航空機を飛び立たせて、他の指揮官同様、代表を航空機で派遣せよとのメッセージを落とした。加藤提督は航空機がないので、その代表を高田将軍の代表と共に沖縄に向かわせたいと連絡してきた。

日本側の代表は9月3日に沖縄に来てもらう予定だったが、その日、台湾北西の台風のため宮古からの代表者派遣は不可能となり、徳之島へのC-47機派遣も無理となった。』(228頁)

《「沖縄戦トップシークレット」(上原正稔/沖縄タイムス社) 228頁より》

 

 

米軍の動向

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/14-21-4.jpg

第308爆撃航空団の叙勲式。ハッチンソン准将から勲功章を受け取るために7人のうち最初に歩み寄るヘリング中佐。航空団の他の団員らは整列して受勲者を讃える。沖縄。(1945年9月2日撮影)

Decoration ceremony at the 308th Bomb Wing. Lt. Colonel Herring is advancing to be presented with the Legion of Merit from Brig. Gen. Hutchinson while six other members await their turn to be presented with their award. Members of the Wing are in formation honoring those who are receiving the awards.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

第32軍の敗残兵

捕虜になった日本兵

屋嘉収容所: 阿嘉島海上挺進第2戦に所属していた兵隊の回想

『…私は阿嘉島で味わった悪感がまた出てきた。一枚しかない毛布を巻きつけて、手足をちぢめて耐えた。翌日になるとそれはに変わり、汗が出たがそれを拭うものもなかった。2、3人先に寝転んでいる先輩の捕虜が、

「お前、汗臭くてたまらんぞ、水で体を洗ってこい」と、大声で私に言った。

2度目の震えと熱が引いた時、私はよろめきながら本部の衛生兵のところに行った。テントの奥の方に米人の軍医がいて、通訳の言葉に私の顔をじっと見ていたが、紙片にマラリアと読める字を書き、日本人の衛生兵に〝ハスピタ〟といった。最初は何といったのかわからなかったが、通訳が、

君をすぐ病院に送る」といったので、〝ホスピタル〟と理解できた。

こうした寄せ集めの中で、今までの仲間と離されて一人になることは、この先どうなるか、また、全く未知の連中との共同生活に入れられるかと思うと、非常に不安ではあったが、伝染病のマラリアと診断された以上この収容所には居られなかった。すぐテントに引き返すと、毛布と水筒を持ち、

「俺は病院に行く、すぐ帰れると思うが」と渡辺にいった。

こうして9月2日、もう1人の見知らぬ捕虜とジープに乗せられ、野戦病院に送られた。』(223-224頁)

《「戦争と平和  市民の記録 ⑮ ある沖縄戦  慶良間戦記」(儀同 保/日本図書センター) 223-224頁》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/12-44-1.jpg

病院へ向かうジーで日本人傷病兵に質問する海兵隊第1師団第7連隊ストゥープス中尉。

Lt. Charles W. Stoops (MC) USNR, attached to the Seventh Regiment of the 1st Mar. Div. Examines wounded Jap prisoner in ambulance jeep before his removal to a hospital.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

  

 そのとき、住民は・・・

 

 勝田さんは当時どんなことを考えていたのか思い出せないという。ただただ「生きて帰る」とばかり念じていた。
 掃討戦終了後の米軍は、夕方には仕事を終えて宿営地に戻った。だから、隠れている人々にとって夜は活動時間だ。勝田さんも、昼は警戒しながら浅くて短い眠りを繋いだ。ぐっすり眠った覚えはない。新兵の頃に歩哨に立った習慣もあって、細切れの眠り方をするのは今も習慣のようになっている。
 夜になると、食料を探して歩き回る。潜伏していた八重瀬の辺りは、今でも夜は真っ暗だ。フィリピンのルバング島で30年も潜伏していた小野田寛郎は、真夜中でも昼のように物が見えるようになったという。そういうものですか、と勝田さんに問うてみた。「まぁ、それほどじゃなかったけど、一回通った道は分かりますね。どこに何があるというふうに」。
 高台から見渡すと、濃い闇にぽつぽつと米軍の灯りが見えたそうだ。音楽が響いてくる時もある。たまに軍用犬の声も聞こえた。
 一度、米兵に遭遇したことがあるが、死体のふりをしてやり過ごした。恐ろしいのは軍用犬とピアノ線だった。犬に死んだふりは通用するまい。「見つかって追いかけられたら、もう終わりだろう」と想像した。
 犬には出会わずに済んだが、ピアノ線には何度か接触した。敗残兵を探すためにピアノ線のトラップが随所に仕掛けられていて、接触すると曳光弾が上がる。光に姿が浮かぶと無数の銃弾が降る。曳光弾の方角を確かめ、すぐ光の反対側に飛び込んで伏せたまま動かないのがコツだそうだ。
 飲み水は、砲弾であいた弾痕にたまった水を飲んだ。梅雨の時期は水たまりも多かったが、8月にもなると干上がってくる。安里(あさと)集落に大きな砲弾痕があり、貴重な水場になっていた。毎晩そこに、周辺に潜んでいた兵隊たちが20名から30名も集まってくる。

 水場では情報交換が行われる。米軍が撒くビラを拾って持参する者もいた。特に8月15日以後、日本の敗戦を伝えるビラが大量に撒かれるようになると、「日本はとうとう負けたらしい」と言い出す者が現れた。本当だろうか。罠ではないか。夜ごと話し合ったが、半信半疑で結論は出なかった。明け方、米軍の活動が始まる前に、皆それぞれのねぐらへと帰っていく。


 やがて、信じざるを得ない出来事があった。

 9月の2日になったら、飛んでいた飛行機も軍艦も、みんな煌々と電気を灯しているんですよね。それで、「日本は負けたんだな」と我々は信用した。「とうとう日本は手を挙げたんだなぁ」と……。

 それは東京湾に停泊する戦艦ミズーリで降伏文書調印式が行われた日だった。飛行機や艦船の明るさが、何より雄弁な勝利宣言と見えた。
 潜伏する人々への投降勧告に、米軍は先に投降した人たちからなる「宣撫(せんぶ)班」を送り込む。あの灯りを見た後だと、宣撫班の言葉にも説得力が感じられた。「日本は負けた。こんなところで命を捨てるのは損だ。明日トラックで迎えに来るから出てきなさい」と彼らは言った。翌朝、約束通りトラックが来て、勝田さんたちは外に出た。

 米軍がまとめた戦況報告を見ると、9月5日付でそれらしき記録がある。
「午前10時、摩文仁の南東で将校2人、下士官兵2人、日本兵25人、防衛隊員4人、住民15人が投降」
 規模といい場所といい、この「日本兵」の1人が勝田さんに違いない。
 一緒に隠れていたN姉弟は、民間人の収容所がある百名(ひゃくな)へ向かう。勝田さんたち日本兵は屋嘉の捕虜収容所へ送られるため、そこで別れた。徴兵検査の時は55キロあった体重は、収容所で測ると38キロになっていた。

終戦と投降 | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子

 

沖縄諮詢会の発足

この日沖縄では、アメリカ軍政府の諮問機関として生まれた沖縄諮詢会が北部の収容所を視察。すでに沖縄では、日本とは違った独自の統治が動き出していたのです。

琉球朝日放送 報道制作部 Qプラス » 65年前のきょうは1945年9月2日(日)

 

 

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