〜シリーズ沖縄戦〜

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1945年6月9日 『米軍、粟国島に上陸』

尋常ならざる上陸 / 赤ん坊の泣き声 / 粟国島の基地建設

 

米軍の動向

連合軍の多くの犠牲者をだしたノルマンディー上陸 (1944年6月6日) から一年目。日本の忠魂碑の前でミサを行う。

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Chaplain Arthur McGratty, USNR, holding Catholic services on D-Day plus One near Japanese memorial.

日本軍の忠魂碑の近くでノルマンディー上陸から1年を記念したカトリックのミサを行うマグラッティー牧師 (1945年6月9日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

粟国島の侵攻 - 尋常ならざる上陸

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USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

6月9日、米軍は人口4千人粟国島に激しい砲撃を浴びせ、4万人部隊で侵攻した。激しい攻撃で、島民90人が犠牲となった。

機動部隊の艦艇は島を包囲し、正規の戦闘体制で先ず艦砲射撃を行い、艦載機で警戒掃射し、東海岸から戦車で歩兵地上部隊と共に上陸を6月9日午前5時決行した。島に抵抗の部隊が皆無であることを知り、全機動部隊約4万人が上陸して来たのである。不意を打たれた村民は生か死かの混乱状態に陥った。食料も蘇鉄より外なく飢餓寸前のこともあった。米軍は上陸するや要所要所に防御陣地を構築し、住民に安堵の念を与え軍兵占部から軍食糧の米や缶詰を配給する等喧撫工作に主力を注いだ。米軍約六ヶ月駐屯して引揚げた。

《「粟国村史」 (粟国村村史編纂委員/粟国村) 256-257頁より》

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Second Division Marines stormed ashore at Agne Jima, 30 miles west of Okinawa. 9 June 1945. 40 MM guns of an LCS hammer the beach prior to the invasion strike. The tiny island is wreathed in smoke from the pre-invasion bombardment of Pacific Fleet units.
1945年6月9日、沖縄の西方30マイルに位置する粟国島の海岸に猛然と上陸する第2海兵師団。侵攻の前に、上陸支援艇(LCS)の40㎜機関砲で海岸を激しく攻撃する。太平洋艦隊による進攻前の爆撃で、小さな島は煙に覆われている。撮影地: [Aguni]

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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《AIによるカラー処理》Amtracks (LVT's) approaching beach at Aguni, Ryukyu Islands. Third wave.

粟国島の海岸に上陸する水陸両用トラクター(LVT)。第3陣。(1945年6月9日撮影)

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なぜ米軍は6月3日の伊平屋島上陸に引き続き、民間人だけの島を猛攻撃したのか。

上陸数日後、(駐屯軍の) 隊長ペーイン少佐は村長末吉達幸氏と対面して次のように伝達す。… 伊平屋に上陸したら粟国島には日本兵が400人駐屯していると聞いたので4万人上陸させた。

粟国村『粟国村史』アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理 (1984年) - Battle of Okinawa

また、粟国島には日本の部隊は配置されておらず、在郷軍人が、海岸に偽の砲台をずらりと並べていた。このため米軍が猛襲してきたと考えることもできる。

偽砲というのは在郷軍人会会長の○○先生などを中心に海岸線に丸太の偽砲を備えつけておいたのですが、… 案の定粟国の場合は米軍の大部隊が上陸してきて、後で○○先生は在郷軍人会長として非難される目にあいました。

『沖縄県史』沖縄戦証言 粟国島編 - Battle of Okinawa

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島の西の端にあるマハナ展望台、こんもりと草が茂る一角に、偽の大砲が設置されていました。台座の上に、直径およそ40センチの大木が、大砲に見立てて備え付けられました。偽の大砲は、マハナ展望台のほか、島の反対側にもあわせて10台以上設置されていたといいます。
昭和20年6月9日、アメリカ軍が島への上陸を開始。その数は4万人で、当時4000人だった島の人口の10倍という圧倒的な規模でした。上陸の翌日には、壕に逃れた住民に、アメリカ軍が投降を呼びかけ、多くの住民が捕虜となりました。アメリカ軍の上陸で、90人あまりの住民が兵士と間違われて撃たれるなどして亡くなりました。

沖縄県粟国村 偽の砲台跡【放送日 2009.3.18】|NHK 戦争証言アーカイブス

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《AIによるカラー処理》Amtracks on beach at Aguni, Ryukyu Islands.

粟国島の海岸に上陸する水陸両用トラクター。(1945年6月9日撮影)

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離島制圧の場合、偵察で情報収集し、敵がいない場合には素通りする、或いは、いても日本軍拠点との間にバッファエリアを設けるような他の離島制圧と異なり、伊平屋・粟国上陸作戦 (Iheya-Aguni Operations) では、a. 偵察をした記録がなく、b. 非武装の島に不相応な猛攻撃をしかけて多くの民間人の犠牲を出し、さらに伊平屋では同士討ちによる米兵18名の死傷者をだす異常ぶり、c. また多くの記録写真を残している。この二つの作戦に共通して言えるのは、はなから日本軍掃討という目的ではなく、基地建設のための上陸作戦であり*1、また、新規に沖縄に派兵された増援部隊である第8海兵隊連隊沖縄戦に参入する前の上陸演習だった可能性もある。

作戦前に第10軍から受けた指示に従い、第8海兵隊は二つの上陸作戦の完了をもって、沖縄における即時参戦の準備を整えた。喜屋武半島の塹壕に立てこもる日本軍に最後の攻撃を推し進めるにあたって新たな部隊が必要だったとき、ウォレス大佐とその部隊そこにあり、というわけだ。

Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]

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Demolition team laying charges to blast clear channel for small craft to beach at Aguni, Ryukyu Islands.

破壊工作部隊は爆薬を仕掛けて侵入路を作り、揚陸艇が粟国島に上陸できるようにする。(1945年6月9日撮影)

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海岸への侵入路を作るため爆破作業を行う水中破壊工作部隊。粟国島にて。(1945年6月9日撮影)

Underwater demolition team blasting to make channel to beach at Aguni, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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水中破壊工作部隊が侵入路を確保した海岸に上陸する水陸両用装軌車粟国島にて。(1945年6月9日撮影)

An LVT on beach which had been cleared by underwater demolition unit at Aguni, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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Second Division Marines stormed ashore at Agune Jima, 30 miles west of Okinawa, 9 June 1945. Men are advancing along the sandy beach as units of the U.S. Pacific Fleet cover the invasion of this tiny island. LANDING OPERATIONS
1945年6月9日、沖縄の西方30マイルに位置する粟国島の海岸に猛然と上陸する第2海兵師団。この小さな島の侵攻を米太平洋艦隊が掩護し、兵士らが砂浜に沿って進軍する。上陸作戦。撮影地: [Aguni]

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南進する米軍 - 八重瀬岳 (ビッグアップル・リッジ)

八重瀬岳の戦い

Chapter 10 | Our World War II Veterans

第7師団のアーノルド少将は、…6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。さしあたってとるべき目標が2つあった。玻名城の95高地と、ごつごつした珊瑚礁の岩山は、フォールトン中佐の率いる第32歩兵連隊第1大隊の責任となり、ウォーレス中佐の率いる第7連隊第3大隊は、安里村落の真北で八重瀬岳のふもとの平地に足場を固めることになった。暁の偵察隊は、95高地の前にある岩山まではなんら邪魔されることなく進撃した。ところが、第3連隊C中隊の攻撃主力が100メートルも進撃すると、日本軍は激しい抵抗を示してきた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 471-472頁より》

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One rifleman reloads and another fires, in the 96th Division's advance to capture Big Apple Hill, the scene of intense fighting. 

激しい戦闘が繰り広げられた“ビッグアップル・リッジ“の攻防戦の様子。一人の兵士は弾を詰め直し、もう一人は発砲するところ。(1945年6月9日撮影)

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他の分隊も、1時間後には丘の頂上に着いたが、着くと同時に三方から機関銃火を浴び分隊員8人が全員とも殺された。だが、そのうちの2、3人が丘の上に上がってきて、夕方までにはI中隊の兵20人が丘陵頂上の端のほうに、わずかながら地歩を確立した。…K中隊も同じことだった。…目的地から2、3百メートルのところで進撃を阻止された。およそ45分間ほど攻撃は停頓した。…曹長が8人の兵をひきつれて、銃火の下を進撃してきた。曹長らは高台を占領すると、中隊の一部を攻撃していた日本軍の機関銃座めがけて集中射撃をあびせた。これで機関銃を黙らせることはできなかったが、敵の機銃手のねらいをくるわすようになったので、後方の中隊につづいて前進するよう合図した。こうして、6月9日の午後1時半までに、K中隊は八重瀬岳の南東端を確保することができた。その夜、日本軍は少人数ながらも決死の3個小隊が、手榴弾戦の合間を利用してI中隊に対して3回も反撃してきた。I中隊はこれを軽機関銃自動小銃で迎えうち撃退した。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 473頁より》

《AIによるカラー処理》The guns firing in support of the Seventh Army Division on the southernmost part of Okinawa Shima are aboard the light cruiser USS Vincennes, veteran of all the latest Pacific bombardments from the Marshalls to Okinawa, including a raid on Tokyo harbor. T

沖縄島の最南端にいる陸軍第7師団を援護するための砲撃。この大砲は、東京湾空襲を含め、マーシャル諸島から沖縄にかけての地域での砲撃における歴戦の米軽巡洋艦ヴィンセンス号に搭載されている。この大砲は、沖縄戦の早い段階から第6海兵師団の援護に使用され、司令部から何度も賞賛を得ている。(1945年6月9日撮影)

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第32軍の動向

狭まる包囲

小禄半島 - 海軍司令部壕

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https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-9.html

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6月9日、司令部壕の東正面の宜保は朝から激戦となり、午後3時20分遂に占領された。他地区でも米軍が相当進入してきた。米軍の包囲網は、確実にせばまりつつあった。海軍部隊は肉弾攻撃で対抗した。

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 111頁より》

9日、沖根の陣地は直径2キロ余の小さな円に狭められ、米軍の猛攻は四方からこの狭い地域に集中した。74高地の西・数百メートル、…司令部医務隊壕にも、馬乗りの危機が迫っていた。(434頁)

衛生兵長の証言:

「戦闘で負傷した者や、敵がほとんど夜通し上げている照明弾の灰で火傷した人など、患者は約30人程居ました。そのうち、少なくとも足腰の立つ者、這ってでも歩ける者には肉薄攻撃、つまり肉攻隊への出撃命令が出ました。敵の戦車が通りそうな道路の要所要所に、夜のうちにタコツボ壕を掘っておく。そこへ爆雷を持った肉攻隊を潜ませ、敵が現れたら爆雷に点火して飛び込めと言う訳です。そんな陸上特攻に、20名は出ました。私もそのうちの何人かをタコツボへ連れて行きましたが、皆それっきり帰りませんでした。医務隊として誠に辛い任務でした」(434頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 434頁より》

 

喜屋武半島

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US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 17]

具志頭(ぐしちゃん): 独立高射砲第27大隊第1中隊

通信班・陸軍二等兵の回想:

6月9日の早暁、眠りから醒めた私は、洞窟を出て用を足そうと岩の上にまたがった。…前方500メートルほど先の芋畑を眺めていた。そこには青い服を着た大きな男が数十人、つるはしやスコップで畑を掘り起こしていた。いささかの警戒心もない悠々たる作業ぶりである。…その男たちが、鬼より怖いアメリカ兵だと気づいたのはしばらく経ってからであった。とたん、足の関節がガタガタと鳴り、軍袴を上げるのももどかしく、一目散にとって返し指揮班に報告した。

「何ッ」というなり双眼鏡を手にした玉利少尉があわてて洞窟を飛び出した。少尉は山蔭に身を寄せ、木の葉越に覗いていたが、「迫撃砲の陣地構築をはじめたな」とつぶやき、振り向きもせずに洞窟内にとって返した。

4月1日、敵が嘉手納湾に上陸して2ヵ月余り、連日砲爆撃は受けてきたものの、眼前に敵の姿を見たのはこれがはじめてである。

…突如現れたグラマンの編隊があっという間に急降下、私たちの潜んでいる洞窟をめがけて爆弾を投下した。洞窟内はただならぬ気配になり、直ちに中隊長命令が伝達された。

「何人といえども、洞窟内から出ることを禁止する。そのままの姿勢で次の命令を待て」

グラマンが飛び去ると、待っていたとばかりに艦砲弾が頭上の岩盤に命中し、大きな破片と打ち砕かれた岩石が、ガガーン、ザーッと出入口付近に落下する。…洞窟内に閉じ込められたまま、一歩も外に出られなくなってしまった。切迫した空気のなか、間もなく中隊総員に集合命令がかかった。…「ただいまより、中隊長命令を達する。中隊は今夜半洞窟を出て美田部隊と協力して、具志頭を死守する。覚悟は出来ているだろうが、いまこそお国のため、天皇陛下の御為に一身を捧げるときが来た。わが中隊の名誉をかけて、一兵となるまで戦うのだ

続いて若月少尉が戦闘上の注意をのべた。

「洞窟を出たあと、各分隊はただちに小隊長の指揮により準備してある歩兵壕に入り、翌朝攻撃して来る敵を迎え撃つ。移動命令の出るまで洞窟から一歩も出てはならぬ。分隊長は兵をしっかり掌握しておけ」

美田部隊は前線から退って来た歩兵部隊で、残存将兵わずか一割程度しかないという。私たちはこの生き残り兵とともに俄歩兵となり、小銃と手榴弾で抵抗せよというわけである。が、太平洋を背にしたこんな断崖に追いつめられては、もはや袋の鼠であった。』(105-107頁)

《「逃げる兵 高射砲は見ていた」(渡辺憲央/文芸社) 105-107頁より》

 

沖縄島からの脱出 - 航空参謀の沖縄脱出

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ④

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神直道航空参謀は、5月30日、防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人が漕ぐ刳舟で、ようやく沖縄島から脱出した。

神少佐は、沖縄脱出にかれこれ努力をしていたが、なかなかその方策がたたず、荏苒日を過ごしていた。今から本土に帰還しても意味をなさぬというので、三宅参謀の起案した中止命令が軍司令官の決裁を得たのは、軍司令部が摩文仁に後退する直前であった。この中止命令といき違いに神は刳舟に帆をかけて名城を出発していた。そして幸運にも、日々北方への脱出に成功し続けた。与論島から徳之島へ、そしてここから飛行機で東京に飛んだ。神が徳之島に到着した旨の電報を入手したのは6月9日のこと記憶する。この電報を入手した瞬間、参謀部洞窟にいる将兵は、皆しーんとなった。参謀長は電報を手にしたまま大声で、「神を呼び戻せ!」と叫んだ。誰も応答するものはなかった。参謀長の残留将兵に対するジェスチュアに過ぎなかったのである。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 381-382頁より》

 

壕からの追い出し

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《AIによるカラー処理》Two Jap soldiers are captured in a cave, trying to dig their way out of other side of cave.They are dirty and muddy, and seem stunned by capture.

洞窟の反対側へ出ようと掘っていたところを捕らえられた二人の日本兵。二人とも泥まみれで、海兵隊員を前に呆然自失となっている。(1945年6月9日撮影
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

上の写真について、防衛隊員として召集された住民は次のように証言している。

壕からの追い出し

「顔半分写っているのが私です」

防衛隊員として昭和20年3月、東風平で山1207部隊に入隊した。主な任務は弾薬運搬。東風平の部隊から、首里に重砲弾を運び、帰りは野戦病院のあったチンバルモー(東風平)に負傷兵を運んだ。

「昼は危ないので、夜、行動しますが、文字通り“爆弾”を抱えてますから、毎日大変でした」。弾を背にかつぎ、サトウキビ畑に身を隠しながら、首里に向かった。

戦火が激しくなるにつれ、日本軍はじりじりと追い詰められ、各部隊は南下を始めた。…部隊も、糸満の新垣まで後退した。そのころには兵もバラバラ。…軍曹以下7人の班と行動をともにした。まず、壕を確保しなければならなかった

そこで、軍曹は「軍命」ということで、民間壕に入った。「中には民間人が15人ぐらいいました。軍命といわれ、住民はしぶしぶ出ていきました。朝だったと思います」空にはとんぼと呼ばれる米偵察機が飛んでいた。その日の夕方、…水をくむため壕近くの井戸に行くと、そこにおじいさんと娘らしき2人が死んでいた。「顔に見覚えありました。壕にいた民間人に違いありません」

部隊が住民から接収した壕になぜか防衛隊員と少年兵は入れてもらえなかった。

…「軍曹に『ほかの壕を探せ』と言われて、仕方ないので、石をつみ、しゃがんで1人身を隠せる程度の囲いをつくりました。その時には、写真の少年兵もいました」手製囲いの天井にはふとんを使った、という。

こんな囲いで夕立のような砲弾が防げるはずはなかった。「それで、写真後方にあったひめゆりの塔近くの壕に入ったわけです。その壕には、民間人や負傷兵がたくさんいました」。

入ったその日に米軍が“馬乗り”、3日後にはガス弾が投げこまれた。「もうだめだと思いました。どうせ死ぬなら、外でいい空気でもすってから、と思い、天井にあいていた小さな穴から、抜け出しました」。穴から顔を出すと、外には銃口を向けた米兵が10人ほど立っていた。少年兵も…出てきたため、同じく銃口を向けられた。写真はその時、写されたもの。写真に写る2人の服が、所々白いのはガス弾のため、だと言う。

琉球新報『戦禍を掘る』神谷金栄さん証言 ~ 防衛隊員と少年兵 - Battle of Okinawa

少年兵はその場で米兵に連れていかれた。「名前さえも聞かなかった。私より二つほど下と思った」…数時間が過ぎた後、やってきた2世に「壕の中にはまだ人がいますか。この壕はやがて米軍が爆破します。中にいる人に早く壕から出るよう、呼び掛けてもらえぬか」と頼まれた。… 壕の中には、まだ、日本兵残っていた。もう1度入ったが、投降を聞くはずもなかった。「きさまはスパイだ」と刀を抜いた。「壕が狭かったので、刀を振り回せなかった。一目散で逃げました」投降の呼び掛けは、2世とともに4日間続いた。いくつもの壕を回った。何人もの民間人がそれに応じ、収容所に運ばれた。「でも、後で分かったんですが、その近くで私の両親や兄弟、いとこらが亡くなっていたんです。妙な因果ですね」

琉球新報『戦禍を掘る』神谷金栄さん証言 ~ 防衛隊員と少年兵 - Battle of Okinawa

 

そのとき、住民は・・・

戦場で泣く子の運命

戦場で赤ん坊をつれた母親が身を寄せる場所を見つけることは難しかった。

死体がごろごろ…一番可哀想だと思ったのは母親が子供を背負ってここから半分になっている。片方に子供が泣いている。母親が死んでる。道路の反対側に母親の胴体がある。そういうのがずっと何十メートルも何百メートルもあった。

民主主義がどんどん埋め立てられている ~ 戦後76年 遺骨が眠る土砂を沖縄の新基地建設に … 元日本兵や若者たちから抗議の声 - Battle of Okinawa

証言1

洞窟に入れてくれと兵に懇願した。今の爆弾がやんだら出ていくと約束すると、彼らは態度をやわらげた。年上の婦人も入ることを許された。しかし、彼女には子供の泣き声をとめろ、ときびしく命令した。泣きやませることができず、彼女は赤ん坊を外に連れ出した。

「しばらくして、彼女はひとりで帰ってきた。子供をどうしたかはわからなかった・・・彼女は何もいわないし、誰も彼女には尋ねなかった」

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 279-280頁より》

証言2:

子供が泣いたらね。要するに弾がこっちに来る。子どもに対して『みんなの迷惑だからガマから出て行け』と言う。人間っていったのはそんなかねと思ったね。だから赤ちゃんのいる人は、もうあんまり泣いたら外に出ていった」

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 168頁より》

しかし、実際には赤ん坊の泣き声は、そこが民間人の壕であることを伝えるものであった。

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沖縄の赤ん坊を壕の中から出す海兵隊員。壕の中から泣き声を聞いた偵察隊が地元民と2人の日本兵を見つけた。日本兵は捕虜となり、地元民は安全な場所に連れて行かれた。(1945年6月9日撮影)

Marines handing little Okinawan baby out of cave. Recon patrol heard noises in the cave and discovered civilians plus two Japs. Japs were captured, and civilians were taken to safety.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

粟国島の収容所

米軍は上陸するとすぐに住民に日本軍の所在を訪ねた。水産学校の学生が、学生服が軍服に似ているからか兵士と間違えられて射殺されている。強姦事件も起こった。家屋は焼かれ住民は収容所に送られた。

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Second Division Marines stormed ashore at Agne Jima, 30 miles west of Okinawa, 9 June 1945. Lt. H. P. Barrand talks with three native women after the invasion.
1945年6月9日、沖縄の西方30マイルに位置する粟国島の海岸に猛然と上陸する第2海兵師団。侵攻後、3人の地元女性と話すバランド大尉。撮影地: [Aguni]

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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司令部の諜報担当者より尋問を受ける粟国島の住民。(1945年6月9日撮影)

Natives of Aguni Jima, Ryukyu Islands, being questioned by Command Post intelligence.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

粟国島の村長 (39歳男性) の証言

すると今度は、「君は村長にしては若い、軍人ではなかったか」と、軍部とのつながりを追及するわけです。私は三七歳で村長になって当時三九歳でしたから、若すぎるといって疑っているわけです。そのほか、粟国の人がなぜ慶良間に行っているのか、とか、子供たちがなぜ兵隊服を着ているのか、とか、久米島の見えるところへつれていって、あの島には日本軍がいるか、とか毎日毎日追及するわけです。ずっと緊張の連続でしたよ。私はとにかく、この島には軍隊はいない、われわれは軍部とは何のかかわりもない、と説明したんですがなかなか許してくれないわけです。

そのころ、在郷軍人会の元陸軍少尉伊佐永篤さんはかくれていて最後まで無事でした。この方などが指導して偽砲をこしらえたわけですが、それで米軍の方も警戒していたと思います。

沖縄戦証言 粟国島編 - Battle of Okinawa

4千人の島に4万人部隊という尋常ならざる上陸であった粟国島の猛攻撃は、90人もの島民の犠牲を伴うものであった。

米軍が上陸してから、郵便局長屋宜宗保氏と教員をしていた長女ヨシ子さんも西部落で銃殺され、又東部落では水産学校生小嶺安道君と奥那嶺俊彦君が学生服を着けているのを日本軍と見違えられて銃殺、又吉繁幸氏も防団服を着けていたので軍協力者と見破られ共に銃殺されたのである。何故、無抵抗の良民まで銃殺するかと憤慨もしたが、ただ戦争の悲を感じ残念でした。

米軍は上陸すると村民を捕虜し、全部学校裏の東伊久保原に集容され集団生活をさせられていたが、さらに六月十二日には全員浜部落に移動させられた。その理由は羽地村の捕虜収容所に移動の予定であったらしい。携帯品は衣類と味噌だけその他は一切持つ事は出来ないと注意され、村民は移動準備をして待機していたが、七月一日羽地への移動中止という命令が来たとの事で、村民は全員字西・東部落に移動させられた。食糧も不足してきたので各自も家畜を屠殺したり、又軍命により家畜を殺して村民に配給したりしたので村の家畜は全滅状態となった。

粟国村『粟国村史』アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理 (1984年) - Battle of Okinawa

 米軍は伊平屋島と同様に、粟国の家屋を焼き、また基地建設をした。

もっと困ったことは、せっかく焼けのこった家を、汚いからといって放火したり、新代用に壁板や柱をひっぱがして燃やしてしまって、上部落に小さな仮飛行場をつくり、戦車隊が照宮名原、砲兵隊が長作原、無線隊が番屋原、陸軍が前原、食糧置場が南場々久保原、コースカー部隊(施設隊)がンナグジ原そして本部を役場にというふうに駐屯していました。駐屯部隊の隊長であるペーイン少佐の話では米軍は四万人がこの島に上陸しているということでした。

『沖縄県史』沖縄戦証言 粟国島編 - Battle of Okinawa

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収容所に移動する粟国島の住民を手伝う海兵隊員。(1945年6月9日撮影)

Marines aiding natives of Aguni, Ryukyu Islands, as they are moved to compound.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

米国陸軍通信: Aguni Shima survey. Power plant and 270 DA radar antenna. / 【和訳】粟国島の調査。発電施設と270DAレーダーアンテナ。1945年7月28日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

11月5日、米兵本部も他の部隊と共に引き揚げ、翌年 (1946年) 3月15日にはコースカー部隊(施設部隊)も最後に引き揚げた。

粟国村『粟国村史』アメリカ軍の粟国上陸と終戦処理 (1984年) - Battle of Okinawa

 

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*1:「5月初旬、ターナー提督はバックナー将軍に対し、長距離レーダーと戦闘指揮官施設を設置できる場所を決定するために離島の調査を開始するよう要請した。 この研究の結果、鳥島粟国島伊平屋島久米島島の順で捕獲可能であると判断された。」Vol V--Victory and Occupation [Chapter II-10]