1945年 6月9日 『米軍、粟国島に上陸』

南進する米軍

西部戦線

小禄(おろく)半島

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小禄半島にて、トンネルを掃討する偵察兵

Patrol cleaning out tunnel. Oroku Peninsula, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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負傷した日本人を治療するために小禄半島の後方へ運ぶ海兵隊員と手伝いの沖縄人

Marines with Okinawan assistance carry wounded Jap to the rear-Oroke Peninsula, Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

中央〜東部戦線

八重瀬(やえじゅ・やえせ)

『第7師団のアーノルド少将は、…6月9日の午前7時30分を期して攻撃を開始するよう命令を下した。

さしあたってとるべき目標が2つあった。玻名城の95高地と、ごつごつした珊瑚礁の岩山は、フォールトン中佐の率いる第32歩兵連隊第1大隊の責任となり、ウォーレス中佐の率いる第7連隊第3大隊は、安里村落の真北で八重瀬岳のふもとの平地に足場を固めることになった。暁の偵察隊は、95高地の前にある岩山まではなんら邪魔されることなく進撃した。ところが、第3連隊C中隊の攻撃主力が100メートルも進撃すると、日本軍は激しい抵抗を示してきた。』(471-472頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 471-472頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/337972.jpg

激しい戦闘が繰り広げられた“ビッグアップル・リッジ“の攻防戦の様子。一人の兵士は弾を詰め直し、もう一人は発砲するところ。(1945年6月9日撮影)

One rifleman reloads and another fires, in the 96th Division's advance to capture Big Apple Hill, the scene of intense fighting. 

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『他の分隊も、1時間後には丘の頂上に着いたが、着くと同時に三方から機関銃火を浴び分隊員8人が全員とも殺された。だが、そのうちの2、3人が丘の上に上がってきて、夕方までにはI中隊の兵20人が丘陵頂上の端のほうに、わずかながら地歩を確立した。

…K中隊も同じことだった。…目的地から2、3百メートルのところで進撃を阻止された。およそ45分間ほど攻撃は停頓した。…曹長が8人の兵をひきつれて、銃火の下を進撃してきた。曹長らは高台を占領すると、中隊の一部を攻撃していた日本軍の機関銃座めがけて集中射撃をあびせた。これで機関銃を黙らせることはできなかったが、敵の機銃手のねらいをくるわすようになったので、後方の中隊につづいて前進するよう合図した。こうして、6月9日の午後1時半までに、K中隊は八重瀬岳の南東端を確保することができた。その夜、日本軍は少人数ながらも決死の3個小隊が、手榴弾戦の合間を利用してI中隊に対して3回も反撃してきた。I中隊はこれを軽機関銃自動小銃で迎えうち撃退した。』(473頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 473頁より》

 

周辺離島の制圧

粟国(あぐに) 

6月9日、米軍は防備施設もない粟国島に上陸してきた。

『機動部隊の艦艇は島を包囲し、正規の戦闘体制で先ず艦砲射撃を行い、艦載機で警戒掃射し、東海岸から戦車で歩兵地上部隊と共に上陸6月9日午前5時決行した。島に抵抗の部隊が皆無であることを知り、全機動部隊約4万人を上陸させた。不意を打たれた村民は生か死かの混乱状態に陥った。食料も蘇鉄より外なく飢餓寸前のこともあった。米軍は上陸するや要所要所に防御陣地を構築し、住民に安堵の念を与え軍兵站部から軍食料の米や缶詰を配給するなど宣撫工作に主力を注いだ。米軍は約6ヶ月駐屯して引き揚げた。』(256-257頁)
《「粟国村史」(http://www.aguni-archive.jp/userfiles/files/document_pdf/document.pdf) (粟国村村史編纂委員/粟国村) 256-257頁より》

youtu.be

1945年6月9日 粟国島侵攻

WW2 Invasion Of Aguni Jima, 6/9/1945 (full) - YouTube

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破壊工作部隊は爆薬を仕掛けて侵入路を作り、揚陸艇が粟国島に上陸できるようにする。(1945年6月9日撮影)

Demolition team laying charges to blast clear channel for small craft to beach at Aguni, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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海岸への侵入路を作るため爆破作業を行う水中破壊工作部隊。粟国島にて。(1945年6月9日撮影)

Underwater demolition team blasting to make channel to beach at Aguni, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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水中破壊工作部隊が侵入路を確保した海岸に上陸する水陸両用装軌車粟国島にて。(1945年6月9日撮影)

An LVT on beach which had been cleared by underwater demolition unit at Aguni, Ryukyu Islands.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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収容所に移動する粟国島の住民を手伝う海兵隊員。(1945年6月9日撮影)

Marines aiding natives of Aguni, Ryukyu Islands, as they are moved to compound.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

www.nhk.or.jp

 

 

第32軍の動向

小禄半島の海軍

沖縄方面根拠地隊(沖根): 小禄(大田実海軍少将)

6月9日、司令部壕の東正面の宜保は朝から激戦となり、午後3時20分遂に占領された。他地区でも米軍が相当進入してきた。米軍の包囲網は、確実にせばまりつつあった。海軍部隊は肉弾攻撃で対抗した。

沖縄方面根拠地隊は4日から7日までの戦果を、9日に次のように報告した。

「砲撃、及び陣地戦闘による戦果は、人員殺傷1,110名。観測機撃墜1機、撃破1機、戦車5、迫撃砲4、車輌4、機銃2、幕舎4である。挺身斬込による戦果は、人員殺傷約230名。破壊したものは戦車4、迫撃砲2、牽引車1、機銃6、幕舎2で、捕獲したものは小銃2、その他に戦車砲弾、機銃弾、双眼鏡等である。また、肉弾攻撃により戦車5を破壊した」』(111頁)

《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 111頁より》

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/maps/USMC-V-18.jpg

https://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/V/USMC-V-II-9.html

9日、沖根の陣地は直径2キロ余の小さな円に狭められ、米軍の猛攻は四方からこの狭い地域に集中した。74高地の西・数百メートル、…司令部医務隊壕にも、馬乗りの危機が迫っていた。』(434頁)

衛生兵長の証言:

『「戦闘で負傷した者や、敵がほとんど夜通し上げている照明弾の灰で火傷した人など、患者は約30人程居ました。そのうち、少なくとも足腰の立つ者、這ってでも歩ける者には肉薄攻撃、つまり肉攻隊への出撃命令が出ました。敵の戦車が通りそうな道路の要所要所に、夜のうちにタコツボ壕を掘っておく。そこへ爆雷を持った肉攻隊を潜ませ、敵が現れたら爆雷に点火して飛び込めと言う訳です。そんな陸上特攻に、20名は出ました。

私もそのうちの何人かをタコツボへ連れて行きましたが、皆それっきり帰りませんでした。医務隊として誠に辛い任務でした」』(434頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 434頁より》

 

壕からの追い出し

写真に写る防衛隊員の体験談

『「顔半分写っているのが私です」

防衛隊員として昭和20年3月、東風平で山1207部隊に入隊した。主な任務は弾薬運搬。東風平の部隊から、首里重砲弾を運び、帰りは野戦病院のあったチンバルモー(東風平)に負傷兵を運んだ。



「昼は危ないので、夜、行動しますが、文字通り“爆弾”を抱えてますから、毎日大変でした」。弾を背にかつぎ、サトウキビ畑に身を隠しながら首里に向かった。

戦火が激しくなるにつれ、日本軍はじりじりと追い詰められ、各部隊は南下を始めた。…部隊も、糸満の新垣まで後退した。そのころには兵もバラバラ。…軍曹以下7人の班と行動をともにした。まず、壕を確保しなければならなかった

そこで、軍曹は「軍命」ということで、民間壕に入った。「中には民間人が15人ぐらいいました。軍命といわれ、住民はしぶしぶ出ていきました。朝だったと思います」空にはとんぼと呼ばれる米偵察機が飛んでいた。その日の夕方、…水をくむため壕近くの井戸に行くと、そこにおじいさんと娘らしき2人が死んでいた。「顔に見覚えありました。壕にいた民間人に違いありません

…「軍曹に『ほかの壕を探せ』と言われて、仕方ないので、石をつみ、しゃがんで1人身を隠せる程度の囲いをつくりました。その時には、写真の少年兵もいました」手製囲いの天井にはふとんを使った、という。

こんな囲いで夕立のような砲弾が防げるはずはなかった。

「それで、写真後方にあったひめゆりの塔近くの壕に入ったわけです。その壕には、民間人や負傷兵がたくさんいました」。

入ったその日に米軍が“馬乗り”、3日後にはガス弾が投げこまれた。「もうだめだと思いました。どうせ死ぬなら、外でいい空気でもすってから、と思い、天井にあいていた小さな穴から、抜け出しました」。穴から顔を出すと、外には銃口を向けた米兵が10人ほど立っていた。少年兵も…出てきたため、同じく銃口を向けられた。写真はその時、写されたもの。写真に写る2人の服が、所々白いのはガス弾のため、だと言う。』

[81 神谷 金栄さん(上)]「生きた心地せず」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

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洞窟の反対側へ出ようと掘っていたところを捕らえられた二人の日本兵。二人とも泥まみれで、海兵隊員を前に呆然自失となっている。(1945年6月9日撮影

Two Jap soldiers are captured in a cave, trying to dig their way out of other side of cave.They are dirty and muddy, and seem stunned by capture.
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『少年兵はその場で米兵に連れていかれた。「名前さえも聞かなかった。私より二つほど下と思った」…数時間が過ぎた後、やってきた2世に「壕の中にはまだ人がいますか。この壕はやがて米軍が爆破します。中にいる人に早く壕から出るよう、呼び掛けてもらえぬか」と頼まれた。…中に入り、その旨を伝えた。「反応は半信半疑の様子だった。でも、私でさえ、そう思っていたから仕方なかった。それでも2、30人の民間人は投降に応じました」。が、民間人を連れ、外に出ると、待っていたのは、米兵の銃口。「それを見て、彼らは壕の中へ逆戻り。私は2世に、米兵は隠れてもらうようにお願いして、再度、説得しました」。それで、やっと投降した、という。

壕の中には、まだ、日本兵が残っていた。もう1度入ったが、投降を聞くはずもなかった。「きさまはスパイだ」と刀を抜いた。「壕が狭かったので、刀を振り回せなかった。一目散で逃げました」投降の呼び掛けは、2世とともに4日間続いた。いくつもの壕を回った。何人もの民間人がそれに応じ、収容所に運ばれた。「でも、後で分かったんですが、その近くで私の両親や兄弟、いとこらが亡くなっていたんです。妙な因果ですね」』

[82 神谷 金栄さん(下)]壕に投降呼び掛け - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

沖縄島からの脱出

(じん)航空参謀の沖縄脱出 ④

大本営に対し沖縄への「一大航空攻撃」を具申するために東京へと派遣されることになった神直道航空参謀は、5月30日、防衛隊員として召集されていた糸満の漁夫6人が漕ぐ刳舟で、ようやく沖縄島から脱出した。

『神少佐は、沖縄脱出にかれこれ努力をしていたが、なかなかその方策がたたず、荏苒日を過ごしていた。今から本土に帰還しても意味をなさぬというので、三宅参謀の起案した中止命令が軍司令官の決裁を得たのは、軍司令部が摩文仁に後退する直前であった。この中止命令といき違いに神は刳舟に帆をかけて名城を出発していた。そして幸運にも、日々北方への脱出に成功し続けた。与論島から徳之島へ、そしてここから飛行機で東京に飛んだ。神が徳之島に到着した旨の電報を入手したのは6月9日のこと記憶する。この電報を入手した瞬間、参謀部洞窟にいる将兵は、皆しーんとなった。参謀長は電報を手にしたまま大声で、「神を呼び戻せ!」と叫んだ。誰も応答するものはなかった。参謀長の残留将兵に対するジェスチュアに過ぎなかったのである。』(381-382頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 381-382頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

『…6月になると、沖縄の住民の自殺が増えはじめた。日本の宣伝力の一部はまだ力を保っていたのである。敗れた軍や国の大義名分のために喜んで死ぬことはもうなかったが、民間人の多くは病的に敵を恐れていた。単純で孤立していた人々は、日本軍の優越性を信じたのがとんでもない間違いであったことはわかったが、とてつもなく強力なアメリカ軍は依然として、日本軍がいっていたとおりの化け物であるように思われた。島民の中には、アメリカ軍の拷問を恐れるあまり、肉親が自分で喉を切ったのを見てほっとする者もあった。本土の新聞が、沖縄の子供の「散華」を書いている一方で、子供を抱きしめて泣いていた両親は、手榴弾を爆発させて一家全員に安楽をもたらしたのであろう---あるいは、赤ん坊には、包丁や木の枝や岩を使ったかもしれない。榴弾を用い、日本の将校と兵が、生き残った者にその親が死んだ場所でとどめをさしたこともあった。それでもなお、大多数の民間人は死を選ばなかったが、飢餓や病気、個々の日本兵の残虐行為、主にアメリカ兵の無差別射撃のために死んでいった。 』(279頁)

《「天王山  沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 279頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/125393.jpg

沖縄の赤ん坊を壕の中から出す海兵隊員。壕の中から泣き声を聞いた偵察隊が地元民と2人の日本兵を見つけた。日本兵は捕虜となり、地元民は安全な場所に連れて行かれた。(1945年6月9日撮影)

Marines handing little Okinawan baby out of cave. Recon patrol heard noises in the cave and discovered civilians plus two Japs. Japs were captured, and civilians were taken to safety.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

戦場で泣く子の運命

証言1

『…洞窟に入れてくれと兵に懇願した。今の爆弾がやんだら出ていくと約束すると、彼らは態度をやわらげた。年上の婦人も入ることを許された。しかし、彼女には子供の泣き声をとめろ、ときびしく命令した。泣きやませることができず、彼女は赤ん坊を外に連れ出した。

「しばらくして、彼女はひとりで帰ってきた。子供をどうしたかはわからなかった・・・彼女は何もいわないし、誰も彼女には尋ねなかった」』(279-280頁)

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 279-280頁より》

証言2:

『「子供が泣いたらね。要するに弾がこっちに来る。子どもに対して『みんなの迷惑だからガマから出て行け』と言う。人間っていったのはそんなかねと思ったね。だから赤ちゃんのいる人は、もうあんまり泣いたら外に出ていった」』(168頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社) 168頁より》

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年6月9日(土)