1945年 4月1日『米軍、沖縄島に上陸』

米軍の沖縄島攻略はじまる

1945年4月1日、復活祭の日曜日の明けがた。沖縄近海に、まさに進攻せんとする1300隻からなる米大艦隊の威風堂々の姿が望見された。その多くは、西の方 ー 東支那海に浮かんでいる。その日、天気は晴れていたが、空気は冷たかった。気温は24度よりややひくく、さわやかな東北東の微風が静かな海面にさざなみを立て、渡具知海岸には、白い波頭も見えなかった。視界は午前6時まで16キロ。それ以後は、霧や靄で、8キロないし11キロであった。これ以上の攻撃の好条件は想像もできなかった。』(81頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 81頁より》

『4月1日、太平洋にある米軍部隊の総力を結集した沖縄上陸が開始された。…攻略部隊艦艇1213隻、攻撃輸送艦175隻、LST(戦車揚陸船)187隻を含む45種類の各種艦艇からなり、これに58機動部隊艦艇88隻、イギリス空母機動部隊22隻、補給修理部隊95隻、特務支援部隊100隻以上を加えると、1500隻を越え、将兵は、海軍2380、海兵隊8万1165、陸軍9万8567名にのぼる史上空前の攻略部隊となった。(140-142頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 140-142頁より》

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THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

『海岸が、霧や砲煙でかすんでしまわない以前に、一條の太陽の光に映し出されたこの見知らぬ島影を眺めていた兵士たちにとって、復活祭のこの日は運命の日でもあった。船内では、沖縄島の模型から、上陸地点の後方にそびえる高地や、さらには島の丘陵や断崖絶壁などを目の前にして、兵士たちは、防衛陣地として、この島は十分に適していると思ったりもした。また兵士たちは、沖縄では一戸一戸が高い石垣でかこまれていることや、幾千基もある沖縄の異様な墓は、場合によっては日本軍の陣地や掩蔽壕になるかもしれないということも、事前の報告書を読んで知っていた。兵士たちは、慶良間の防衛陣がもろかったことから勇気づけられてはいたが、最初の日本本土の島に上陸するのに、その海岸地帯にどんな防禦陣地が構築されているのか、考えただけでも恐ろしさに身ぶるいする、というのが皆が抱いていた感じだった。それに、海岸の向こう側には、恐ろしい毒蛇や、伝染病、あるいは、はげしい敵意にみちた住民がいるかもしれないのである。』(82-83頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 82-83頁より》

f:id:neverforget1945:20170401001300j:plainUSS Indiana (BB-58). Chaplain serves Holy Communion while holding Mass on the quarterdeck, during the Okinawa operation, April 1, 1945. 80-G-325209.

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上陸日の空爆と艦砲射撃

米軍は、兵士らが沖縄島に上陸する直前まで上陸地点を砲撃し続けた。艦砲射撃が開始されたのは午前5時半。その後、米兵らが上陸した午前8時半までの3時間、絶え間なく砲撃を続けた。 

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USS Idaho (BB-42). Bombarding Okinawa with her 14″/50 main battery guns, April 1, 1945. Photographed from USS West Virginia (BB-48). (80-G-K-3829 (Color).

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沖縄本島への上陸作戦は1945年4月1日午前5時半に開始。沖合を埋め尽くしたアメリカ軍の艦船から10万発という砲弾が放たれた。』(28頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社)28頁より》

『総攻撃の時刻は午前8時30分とされた。4時6分、第51機動部隊司令ターナー海軍中将は、「上陸開始!」の信号を発した5時30分、夜がまさに明ける20分前、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、そして177隻の砲艦がいっせいに砲口を開き、総攻撃直前の掩護射撃を開始した。この砲撃で撃ち込まれた砲弾は、12センチ砲以上が5万4825発、ロケット弾が3万3000発、曲射砲弾が2万2500発で、部隊上陸前の砲撃としては、かつてないはげしい集中砲撃であった。』(83頁)

『第58機動部隊は、沖縄の東方およそ110キロの海上に位置し、九州から飛来する日本機の来襲に備えて戦闘機隊を上空に上げて日本機迎撃の態勢をとったころ、支援空母艦隊が兵を積んだ船団とともに到着した。午前7時45分、母艦を飛び立った艦載機が、海岸や付近一帯の塹壕をナパーム弾で攻撃した。』(83頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 83頁より》 

 

上陸部隊、海岸を目指す

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Okinawa Operation, 1945. Marines climb down a debarkation ladder from a Coast-Guard manned assault transport to board an LCVP to take part in the initial attack on Okinawa, April 1,1945. Courtesy of Robert O. Baumrucker, 1978. NH 89369.

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『一方、LSTとLSM型船舶は、最初の上陸部隊と水陸両用戦車、トラックを積んで目的地に到達し、その大きな口から、戦闘準備完了の兵員をのせた上陸用舟艇を吐きだした。まず、水陸両用戦車が海岸から360メートル沖で攻撃第一波を編成し、旗を立てて、午前8時零分陸地めざして進んだ。その後、二波、三波・・・とつづき、さらに短い間隔をおいて、上陸軍を乗せた水陸両用トラックが第五波から第七波まで、戦車隊のあとにつづいた。各上陸地点の反対側では、管制艦がマストに吹き流しをなびかせて海上を旋回しながら、水陸両用戦車、トラック隊の攻撃編成をすすめさせた。午前8時15分、攻撃第一波の装甲車は母艦近くで隊列をととのえた。5分後には管制艦の吹き流しはおり、長さ13キロにおよぶ上陸用舟艇が舳艫相ふくみ、上陸地点に向かって進んだ。』(83-84頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 83-84頁より》

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USS West Virginia (BB-48). Crewmen on watch on a 40mm Quad. Gun Mount, while their ship was supporting the Invasion of Okinawa, April 1, 1945. 80-G-K-4707 (Color).

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Okinawa Invasion, April 1945. LVTs and other landing craft head for the Okinawa landing beaches on 1 April 1945. USS LCI(G)-809 is partially visible at left, helping to cover the assault, with another LCI beyond her. Photographed from USS West Virginia (BB-48). 80-G-K-3848 (Color).

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『上陸用舟艇がしだいに海岸に近づくにつれ、乗り組みの兵は日本軍の砲撃がいまにも襲いかかるかと固唾をのんでいた。だが、時たま曲射砲弾や、その他の砲弾が落ちてくるだけで日本軍らしい反撃の兆候もなく長い上陸部隊の戦列は、あたかも大演習をしているかのように前進していった。』(84-85頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 84-85頁より》

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Armored amtracs of Company A, 1st Armored Amphibious Battalion, carry the assault wave of the 4th Marines, 6th Marine Division, onto RED Beach. The LVTs mount 75mm howitzers and .50-caliber machine guns, and were used effectively later in the campaign when the Thirty-second Army attempted amphibious landings on Tenth Army flanks in April.

THE FINAL CAMPAIGN: Marines in the Victory on Okinawa

 

空と海からの攻撃、続く

『砲艦からのロケット弾、曲射砲、40ミリ砲による予備艦砲射撃が開始され、その砲撃は熾烈をきわめた。上陸地点から陸上900メートル以内には12センチ砲弾、11.5センチロケット弾、10.7センチ曲射砲弾などが、30メートル四方に25発の割で毛布を敷くように撃ち込まれた。慶伊瀬島からの砲撃もこの艦砲にいっそう重みを加えた。』(上陸部隊が)『珊瑚礁に近づいた後、砲艦は方向を変えた。』(84頁)

『これと相前後して艦載機は、一隊64機からなる二編隊をつくり、艦砲が攻撃目標を内陸の方に変えているあいだに、上陸地点付近の海岸や後方地帯に機銃掃射をあびせた。』(84頁)

『水陸両用戦車やトラックは砲艦の近くを通りすぎて護衛なしに進撃し、戦車隊はまん前にある日本軍陣地めがけて75ミリ榴弾砲を撃ちつづけてから上陸した。』(84頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 84頁より》

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 USS Tennessee bombards Okinawa on April 1, 1945, while LVTs head for the beach.

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沖縄島に無血上陸する

攻撃の第一波が、指定されたとおりの海岸に着いたのが午前8時30分。その後は、どの隊も2、3分と遅れずに上陸した。支援砲火は、第一波が上陸する1、2分前まで、ますますその激しさを増していったが、上陸部隊が海岸に達すると、突然、海岸地帯への重砲火はピタリとやみ、聞こえるのは、遠く内陸に向けて方角をかえた砲弾のとどろく弾着音だけとなった。いままで島を包んでいた砲煙や砂塵は、たちまちにして消え、米軍は、直接、自分らの目で、島の自然な姿を見ることができた。彼らは奥行き20メートルほどの海岸の上に立っていた。その砂浜は、高さ3メートルの護岸で、内陸部との境界をなしていた。海岸自体には砲弾のあけた穴はあまりなかった。だが、海軍の艦砲は、護岸の随所に大きな穴をあけ、適当な進撃路をつくってくれていた。』(85-86頁)
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 85-86頁より》 

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Absence of enemy opposition to the landings made the assault seem like a large-scale maneuver as troops left their craft and quickly consolidated. Other waves followed closely.

HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 3]

後続部隊はぞくぞくと入ってきた。1時間とたたぬ間に、第3上陸軍団が、第6、第1海兵師団を比謝川の北部に上陸させ、第24軍団は、第7、第96歩兵師団をこの同じ川の南部側海岸に上陸させた。第6海兵師団と第96歩兵師団は両翼を固めた。この四つの師団の二連隊から二大隊ずつ、つまり、1万6千の兵が最初の1時間以内に上陸した。攻撃部隊のあとに戦車隊がつづいた。』(86頁)

上陸部隊を全員おろしてから水陸両用トラックは、積みかえ地点まで引き返し、そこでさらに、支援部隊、武器、補給物資などを積み込み、リーフを越えて海岸に運んだ。』(87頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 86、87頁より》

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 『沖縄上陸は、全部隊がまったく信じられないほど簡単に行われた。日本軍の砲撃陣からの妨害はほとんどなかった。海辺に日本軍はいなかった。地雷にもでくわすことがなかった。作戦はだいたいにおいて計画どおりいった。隊の組織がくずされるということもなく、二、三の部隊を除いてほとんどの部隊が、それぞれの指定された海岸に上陸することができた。あれほど期待していたのに、反撃どころか、いささかの抵抗もない。これがかえって米兵に不吉な予感を与え、彼らに猜疑心を抱かせたので、偵察隊を出すことになった。しばらくして、日本軍の罠にかかっているのではない、ということがはっきりしたので、部隊は計画どおり進撃していった。』(88頁)

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 88頁より》

youtu.be

Okinawa Bombardment, 04/01/1945 (full) - YouTube

 

(読谷よみたん)・中(嘉手納かでな)飛行場を占領

『上陸した海岸にある小高い丘陵地帯にのぼってから、米軍は警戒しながら奥地のほうへ進んでいった。部隊の当面の目的は、嘉手納、読谷の両飛行場である。どの飛行場も、上陸した海岸からはおよそ1.6キロの距離にある。第7師団の第17戦闘連隊は、午前10時、偵察隊をだして嘉手納飛行場を探らせたが、飛行場は放棄されていることがわかった。午前10時半、部隊の先頭は滑走路を横切りはじめ、数分後には200メートル奥まで進出した。

同じく第6海兵師団の第4海兵連隊も、午前11時30分までには、簡単に読谷飛行場を占領した。この飛行場は嘉手納よりも立派であった。嘉手納、読谷の両飛行場には、壊された日本機や補給物資が散らかっていた

夜に入るまでに米軍が確保した橋頭堡は、長さ1300メートルにおよび、幅はところによって4500メートル奥まではいっていた。攻撃師団予備軍までふくめ、6万以上の兵員が上陸した。全師団とも砲兵隊の上陸は早く、日暮れまでには、直接掩護射撃を加える砲兵隊大隊がそれぞれの位置につくことができた。戦車隊も、対空砲火部隊や1万5千の歩兵と同じように上陸して作戦を展開していった。』(90頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 90頁より》

『何ほどの抵抗も受けず無傷に近い形で上陸に成功した米軍は、すぐに嘉手納海岸一帯に橋頭堡を築いた。ついで同日午前11時半、主要な目的であった読谷(北)と嘉手納(中)の両飛行場をいともあっけなく占拠すると、すかさず飛行場の整備に当たった。…こうして嘉手納飛行場は、その日のうちに不時着用として使用できるまでになった。』(39頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 39頁より》  

 【読谷飛行場】北東上空から見た読谷飛行場。奥は東シナ海。/1945年撮影

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Yontan-airfield-1945.jpg

A view of Yontan Air Field looking northeast in 1945 with the East China Sea in the background.

Yontan Airfield - Wikipedia

 

上陸地点周辺の集落に入る

『第6海兵師団は、伊良皆からマキ原の下方、師団端のある地点を結ぶ線で前線をうちきり、夜を待った。第7師団は約5キロ近くも奥へ進み、日本軍の塹壕を数ヵ所攻撃したが、師団自体もまた戦車3輌が地雷にやられた。南部右翼では、第96師団が、北谷の南にある川のほうで、桃原村落の北側から普天間地区の北西部にある高台と、勢頭の北部と南部の丘陵地一帯に陣地を構えた。』(90頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 90頁より》

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米軍の「上陸陽動作戦」

比謝川上陸と時を同じくしてトーマス・E・ワトソン少将の率いる第2海兵師団が、沖縄南東部海岸にある港川上陸陽動作戦を行った。その地域にいる日本軍に上陸作戦が行われると思い込ませるためである。上陸陽動作戦はあらゆる点で本物そっくりに行われた。…沖縄南東方沖に着くや、まず一隊24隻のLCVP船からなる部隊が、7回にわたって煙幕にかくれて第2海兵師団を海岸へ向けて運んだ。第四波が出発点を通過した午前8時30分 ーこの時間はちょうど米軍主力が渡具知海岸に上陸する時間だがー 全船隊が方向転換し、コースを逆にとった。全上陸用船団は、午後3時、母艦に帰ってきた。この示威作戦に対する日本軍の反応は、4回にわたって一斉射撃をしただけである。米軍のこの陽動上陸作戦に対し、日本軍は誇らしげにつぎのように発表した。「敵は4月1日、沖縄南東部に上陸を試みたるも大損害を蒙り、計画は完全に挫折せり」』(88-89頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 88-89頁より》

 

臨時住民収容所の設置

『1945年4月1日、読谷山村渡具知の海岸より上陸した米第6海兵師団は、同日読谷山村都屋臨時住民収容所を設置、多数の村民を収容した。…4月1日には、楚辺集落や喜名の役場跡にも村民が収容され(た)』

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

 

第32軍の動向

『「那覇沖の敵輸送船約60隻から、水陸両用戦車多数をもって北飛行場方面に上陸を開始中なり。午前8時」

「北飛行場上陸予想点に対する艦砲射撃はせん熾烈をきわめつつあり。なお、朝来飛行場への重爆撃活発なり。午前8時4分」

昭和20年4月1日、米軍は遂に沖縄本島に上陸を始めた。これは沖縄方面根拠地隊大田司令官の敵上陸の報告第一電である。電文は事実関係を淡々と述べているだけだが、大田司令官は内心では切歯しながら、これを報告したことであろう。

米軍は地上戦闘部隊18万3千人、艦船約1500、補給部隊をあわせると約54万人の大部隊であった。これは当時の沖縄県民にほぼ匹敵する数である。一方、沖縄守備軍の総兵力は約11万人。その1/3は、防衛隊や学徒隊を含む現地召集兵で編成されていた。

この日、第32軍司令部のある首里台上でも、牛島司令官以下、その幕僚らが、早朝から数百の艦船の援護の下に米軍が嘉手納海岸に上陸するさまを望見していたが、圧倒的物量作戦を誇る米軍の前には、ただ沈黙を守るだけであった。』(67-68頁)
《「沖縄 旧海軍司令部壕の軌跡」(宮里一夫著/ニライ社) 67-68頁より》

『…いま首里山上に立つ日本軍首脳らは、…ある者は談笑し、また他の者は煙草をふかしながら悠々敵の必死の上陸作戦を眺めている。何故だろうか?我々日本軍はすでに数ヵ月来、首里北方高地帯(牧港-我如古-和宇慶)に堅陣を布き、アメリカ軍をここに誘引し、一泡も二泡も吹かせる決意であり、その準備は整っているからなのだ。』(374-376頁)
《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 374-376頁の「八原高級参謀の手記」より》

 

軍司令部

首里の司令部壕のそばにある台上から、米軍の上陸地点はほとんど真北に見えた。北谷から嘉手納(渡具知)、さらに読谷に連なる海岸線が、見遥かすかぎりほぼ一直線に伸びており、褐色の砲煙と土煙が混りあってひっきりなしに噴き上げ、たなびき、ところどころに、ナパーム弾のまッ黒な煙が奔騰する、まったくの地獄図が展開していた。陸と海との境界も、煙かモヤに包まれてハッキリせず、無数の舟艇が白い尾をひいて、煙の晴れ間に不意にその間から顔を出すのが、異様であった。
目をに転ずると、知念半島の西側、山が低くなったところから湊川沖の海が見え、ここにも米艦艇に護られた輸送船と上陸用舟艇が展開し、渡具知方面と呼応するように、砲撃部隊が猛烈な射撃を送っていた。
32軍司令部は、敵が渡具知海岸と(嘉手納付近)湊川海岸(島尻地区、知念半島の南)の二方面から上陸するものと判断していた。大部隊を持ち込むには、渡具知海岸しかない。それはわかっていた。しかし、一部を南に回して、湊川に上がられると、守備軍としては、柔らかい下腹を突かれるのと同じであった。

軍司令部では、北に向かっては62師団を配備し、湊川に向かっては24師団と44旅団に軍砲兵隊の大部分を指向した。湊川から入ってこられたらたいへんだ、という先入感が、最後まで北に向かって、好機に果断な処置をとることをためらわせた。…湊川は陽動クサイと判断していても、どうにも踏ン切りがつかなかった

しかも、この日は、朝、何度となく湊川方面から敵上陸の誤報がとび、軍司令部の神経をいら立たせた。湊川の陽動部隊は、上陸用舟艇約20隻に海兵隊をのせ、煙幕を張りながら真一文字に岸に近寄ってくると、いっせいにUターンして引き返した。「なんだ。陽動だけか」そう安堵しても、敵がそこに沖合にいるかぎり、いつ上陸をけしかけてくるかわからない。守備部隊は、すこしも緊張を緩められなかった。』(143-145頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 143-145頁より》

米軍の上陸に対して、32軍が水際撃退作戦を諦め、持久戦略を取った理由は、兵力の決定的な不足である前年11月、第9師団が台湾へ引き抜かれた段階で、それは決まっていた。だから、米軍の上陸海岸付近に配備されていたのは62師団の独立歩兵第12大隊敦賀編制の賀谷支隊、約千人、海軍第11砲台も傘下)と、9日前に俄に編制した特設第1連隊(3千人)だけだった。特設連隊は兵站・航空・船舶要員など本来、後方任務の約5千人を、六つの戦闘部隊に組み替えたもので、第1連隊は北、中飛行場大隊が主。県立農林学校の鉄血勤皇隊173人も含まれていた。32軍の高官は、無理矢理仕立てあげられたこれらの6個連隊を「烏合の臨編部隊」と呼んで憚らなかったが、そのくせ火砲も持たないこの部隊を、上陸が早くから予想された地区に配置している。捨て石としか言いようがない。」(376頁)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 376頁より》

 

62師団の独立歩兵第12大隊(賀谷支隊: 支隊長賀谷与吉中佐) (第11海軍砲台)

『中国大陸で歴戦した強豪。支隊長賀谷与吉中佐を中心に、団結の強い勇猛部隊で、「中頭域内の警戒に任ずるとともに、所在の直轄部隊と協同し、同方面の防備が厳重であるよう敵をあざむけ」という苦肉の命令を受けていた。…支隊長は、中飛行場を東からとり囲むように、各中隊をそれぞれの位置につけた。米軍上陸とともに、上陸海岸の南端にあった海軍第11砲台は、全弾を撃ちつくし、指揮官西川兵曹長以下30名全員戦死桑江の連隊砲も、ほとんど全滅。中飛行場正面に上陸した米7師団、その南側の96師団の強引な進撃に、賀谷支隊の中隊単位の兵士たちが協力して頑強に抵抗、支隊長また機略縦横、活潑に命令を発し、部隊を機動させて奮戦した。ことに南側の北谷地区では、第1中隊が米96師団を向こうに回し、厳しい戦闘を交えて退かず、猛然ぶりを発揮した。各中隊は2日朝までに第二陣地に就く。』(150頁)
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 150頁より》

 

特設第1連隊の第1大隊(北飛行場)と第2大隊(中飛行場部隊)

『…特設第1連隊の第1大隊(北飛行場)主力は、4月1日には飛行場東側の洞窟に入っており、大隊指揮下の部隊は、ちゃんと飛行場周辺に配置についていたのだが、米軍の進出が予想以上に迅く、充分備えができないうちに衝突して、ほとんど全滅にちかい損害を出し、部隊はチリジリになって国頭に後退していた。第2大隊(中飛行場部隊)は、飛行場大隊と特設警備工兵隊と学生隊からなっていた。学生隊は、配属将校尚謙少尉の率いる沖縄県立農林学校1、2、3年生徒170名。中飛行場の北東にあたる山中に陣地をつくり、そこに入った。』(148頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 148頁より》

『渡具知の浜のすぐ後方には、第1特別連隊と防衛隊が配置されたが、彼らの任務は米軍の進撃をできるだけ引きのばしながら、読谷、嘉手納両飛行場を破壊し、その後は退却せよとの指示であった。(114頁)

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 114頁より》

 

兵士や防衛隊員らの証言・記憶

『「おい。船の中から船が出てくるぞ」斤候隊長山本義中少尉は鋭く叫んだ。「え?」「ええっ?」隊員らは声を押し殺した。「この双眼鏡をのぞいて見ろ」。隊長の声に、隊員は次つぎに双眼鏡をのぞいた。「ふーむ」「ううう」。みんな息をのんだ。水陸両用戦車の横隊行進。そのうしろ、サンゴ礁に打ち寄せる白波のあたりに黒い船影の横列。そのたくさんの船腹から舟艇がおろされる。遠浅の海を渡ってくる。米兵が歩いてくる。』(17頁)

『4月1日は下士官の指揮で、18人が北谷村砂辺へ様子を見に行った。持っているのはシャベルだけだ。友軍機は一機もこない。友軍は一発も撃たない敵の艦隊は大きな島のように、しかもゆっくり動いていた」』(18-19頁)

《「沖縄・八十四日の戦い」(榊原昭二/新潮社版) 17、18-19頁より》

 

日本軍の誤算

おどろくべき作戦指導の齟齬

『米軍の上陸は、充分以前から予想されていた。大本営では、4月1日がもっとも上陸の可能性が多いと、予告も出した。3月31日には、明朝上陸の公算極めて大、という情況判断の電報も打った。しかし、実際になると、計画していた米攻略船団を洋上で撃滅することも、海軍航空部隊には飛行機が得られず、台湾の陸軍機は、480機の大勢力を擁しながら、もっぱら台湾攻防戦に備え沖縄戦にたいしては九州にある第六航空軍の介添役になるという任務分担を守って、特攻部隊数10機を出したほか、あまり積極的な戦闘参加をせず、その六航軍は、兵力の準備が遅れ、攻略部隊を発見してから上陸するまでのもっとも米軍の脆弱な時機に全力攻撃をすることができず、また、攻略部隊船団が沖縄に接近し、上陸するという前夜、猛然これに夜襲を加えようと構えていた士気高い海上挺進戦隊の、もっとも成果を発揮するであろう位置を占めていた慶良間の特攻艇300隻は、事前に無為にほとんど全部を失ってしまった
もちろん、米攻略船団出現とともに、沖縄の中飛行場を出撃して、きわめて有効な攻撃を敢行した特攻機もあったが、なんとしても機数が少なく、散発的で、攻略部隊を撃滅するまでには遠かった。さらに、航空攻撃の主体となる九州の第一機動基地航空部隊(五航艦中心)が、攻撃の優先順位を依然として米機動部隊に置き、米機動部隊が現れると、米攻略部隊がそこにいても、攻撃の重点を機動部隊に指向したりして、結局、この大攻略部隊は、実質的にほとんどノーマークのまま、ほとんど無疵のまま、沖縄の土を踏んだ。それだけですら、おどろくべき作戦指導の齟齬であった。』(146-147頁)

《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 146-147頁より》

 

そのとき、住民は・・・

『当時、浦添の村役場の職員だった男性は、高台から上陸の瞬間を目撃していた。
蟻が砂糖に群がっているところを、つついたら、ブサーっと(一斉にうごくでしょ)。米軍はああいう風にやって来るわけ。私は思わず見事なものだなあと思っとった。そのあと、最初に舟艇が近付いた瞬間に、あれだけのものがそのまま上がって来る、ここまで押し寄せてくるという。範囲が大きいからね、それで恐怖を感じたわけです。ゾーっと、そのまま、そのまま来るんだと。その時、戦争に入るんだと思った」』(28頁)

沖縄県庁の職員だった男性はこう語る。「上陸地点の北谷の集落めがけて、どんどんものすごい艦砲射撃。一方で戦車がドドドドと。その戦車の後から歩兵がずーっと入ってくるんです。これはもうやられたなと思いました

さらに上陸地点の北谷町にいた女性たちは迫り来るアメリカ兵を目撃していた。「向こうから敵が来る。上陸地点の砂辺の方から。来たかと思うと弾がびゅんびゅんきたもう怖いのも通り越しています」』(29頁)

NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班/新日本出版社)28、29頁より》

 

チビチリガマに避難した住民たち読谷村よみたんそん)「集団自決」の前日

チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ500メートルほど行った所にあり、深さ10メートルほどのV字型をした谷の底にある。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所といった意味から「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたと考えられている。米軍が上陸した海岸からは800メートルほど内陸である。』

『…4月1日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。』

読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第三節 それぞれの体験

 

 

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