1945年 7月21日 『生き埋め』

〝沖縄〟という米軍基地

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ペリーマン一等兵。彼は第31海兵隊航空群兵站部で爆弾クレーンを操縦していて、日本に向かう途上、爆発物を飛行機まで運ぼうと、吊り上げて荷車に積み始めた。(1945年7月21日撮影)

Private First Class Harry W. Perryman, of Newark, New Jersey. He operates a bomb crane for the ordnance section of Marine Aircraft Group 31, starting the explosives on their way to Japan by hoisting them on the dollies which carry them to the planes.

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第35戦闘機群ノース・アメリカンP-51マスタングの着陸訓練のため、第149陸軍航空路通信施設隊員によって滑走路のへりから操作される交通制御砲。「正規の」滑走路が事故のため一時的に閉鎖されているため、(九州上空でのコンソリデーテッドB-24リベレーターの援護任務から戻ってきた)航空機はまだ正式には使用許可になっていないこの滑走路に着陸する。沖縄。(1945年7月21日撮影)

Traffic control gun being operated from the edge of the airstrip by a member of the 149th Army Airways Communications System, giving landing instructions to a North American P-51 ”Mustang” of the 35th Fighter Group. The strip was not officially opened, but planes had to be landed here since an accident had temporarily put the ”regular” landing strip out of operation. (Planes have returned from a cover mission for Consolidated B-24 ”Liberators” over Kyushu.) Okinawa, Ryukyu Retto.

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米軍の動向

戦利品

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海兵隊の飛行場に駐機された日本製の飛行機。アメリカの新しい塗装の成果を披露している。この軍機“トニー”は、海兵隊が日本軍を読谷飛行場から追い出した復活祭の日に、損傷もなく鹵獲された。読谷から別の基地へ移動させるところである。(1945年7月21日撮影)

A made-in-Japan fighter plane, sporting a new American paint job, is shown parked on a Marine airfield on Okinawa. The plane, a Tony, was captured in good shape when Marines ran the Japs off Yontan airfield on Easter Sunday. It has been flown from Yontan to another base.

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捕獲された日本軍機“トニー”。海兵隊少佐が操縦し、海兵隊航空基地に着陸した。(1945年7月21日撮影)

A captured Japanese Tony with a Marine Major at the controls landing on a Marine air base at Okinawa.

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面談

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視察開始の準備が整った第2225民間検閲特別班Aの兵士。(1945年7月21日撮影)

Personnel of the 2225th Civil Censorship Special Unit A are ready to start on an inspection trip.

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『住民については、スクリーニングが終わっていない者が23万人以上と大半を占めている。そのスクリーニングによって、民間人に紛れ込んでいる軍人が選別され捕虜にされる』(345頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 345頁より》

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面談待ちの民間人。(1945年7月21日撮影)

Civilian waiting to be interviewed.

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日本軍の戦死者は軍人軍属を含めて約9万4千人(防衛隊員、学徒隊員も含む)であるので、戦死者に対する捕虜の率は約16パーセントである(6月末時点での捕虜数で計算すると11.4パーセント)。防衛隊員であっても住民に紛れ込んで捕虜にならずにすんだケースもかなりあったと見られるので、率はもう少し高くなるだろう。』(347頁)

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 347頁より》

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C-6軍政府田原司令部で面談する第2225民間検閲特別班Aのトム・ヤマウチ2等軍曹とキノッズ中尉。(1945年7月21日撮影)

Tabaru Headquarters, Military Government, C-6, on Okinawa, is the scene of this interview by l. to r., S/Sgt. Tom Yamauchi, Los Angeles, Calif., and Lt/JG D. P. Kinods, Albuquerque, New Mexico. 2225 Civil Censorship Special Unit A.

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そのとき、住民は・・・

『羽地内海を臨む名護市仲尾次沖縄戦当時、この集落に避難民の中でも特に、弱り切った年寄りを収容していた養老院のようなものがあった。そこでは、毎日のように息を引き取る年寄りが見られたという。遺体は、仲尾次橋を越えて海岸沿いに仲尾次方面へ約1キロほど行った、くぼ地に埋められた。そこは、ちょうど森と森の間で、やや開けた原っぱになっていた。

昭和20年、夏の真っ盛り。梅雨が明けてから連日、焼け付くような日差しが照りつけていた。穴掘り作業に駆り立てられた人たちは、暑さと空腹で半ば意識がもうろうとしていた。中でも、16歳の少女には朝8時から夕方まで続く作業はつらかった。

お昼少し前のこと。深く掘られた穴に、その日も栄養失調で息絶えた老女の遺体が運ばれてきた。いつものように2人の男にタンカで担ぎ込まれてきた遺体は、穴の縁近くに降ろされた。その遺体を穴に放り込もうとして少女は思わず目をそむけてしまった。死んだものとばかり思っていた老女が、突然目をむき、少女をにらんだのである。死体の扱いには慣れてきていたはずの少女も、さすがに背すじがゾクッとした。

立ちすくむ少女を見かねて、男の人が老女に着物をかけ顔を覆った。そして、そのまま穴に投げ落とされ、上からスコップで土が放り込まれた。』

 

作業に参加した少女(当時)の証言:

『「あまりにも気の毒だった。あのおばあちゃんはどこの人だったかねえ。たぶん家族が来ていなかったから、身寄りがなかったと思うよ。70くらい。いや、やつれていたからそう見えたんで、実際は50代だったような気もする。助かる見込みのない者は早く埋めろ、というアメリカの命令だったらしいね」。

「その時はおばあちゃんににらまれた気がしたけど、きっとひどい衰弱で口が利けないもんだから、まだ生きてるよォーと、目で哀願していたんだろうねえ。息を引き取らないうちに埋められた年寄りは、覚えているだけでも3人はいたさー」。

[34 名護・仲尾次での埋葬]病弱者を生き埋め - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月21日(土)