米軍 - 降伏文書調印式までの動向
日本本土への進駐
29日に専用機バターン号で沖縄の読谷飛行場に到着したマッカーサーは、30日、厚木飛行場に降り立った。
8月31日、厚木飛行場には1000名の連合軍将兵が到着し、横浜に進駐する。(308頁)
… 前日、関内に進駐した連合軍将兵の就寝は早かった。それでも山下公園に設営された幕舎には、自家発電装置による電灯が煌々と輝いていた。通信線の取り付けをはじめ設営の能率的な動きは日本人を驚かせた。
「丗一日はマッカーサー元帥をはじめ將兵全員早朝5時半には起床、7時朝食をすますと直ちに進駐第2日目の活動がはじまった。マッカーサー元帥以下高級將兵の宿泊するホテル・ニューグランドのロビーには部下に命令を傳える將校や元帥の部屋へ報告に入る参謀などがあわただしく行き交ひ、その間を縫って米英新聞記者、映画班などがカメラを両手に忙しくたち廻っている」(20・9・1『読売報知新聞』)
現在のホテル・ニューグランド、マッカーサー・スイートルーム
このマッカーサーの日本進出と前後して、他の米軍部隊と要人たちも続々と日本の土を踏んでいた。要人たちの多くは、9月2日に東京湾上の米戦艦「ミズーリ」で行われる日本の降伏調印式に参加するためである。
まず8月28日 (註・実際には8月27日) にはウィリアム・F・ハルゼー大将の米太平洋艦隊第3艦隊が、旗艦「ミズーリ」以下258隻を率いて東京湾に入った。翌29日にはチェスター・W・ニミッツ元帥(米太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面司令長官)がグアム島から水上機で飛来し、相模湾の戦艦「サウスダコタ」に長官旗を掲げた。そして30日には第3艦隊の海兵隊が相模湾から上陸し、横須賀の海軍工廠と鎮守府を接収し、ハルゼーの勝旗を掲げた。
8月31日、さらに2人の有名な将軍が日本の土を踏んだ。1人は日本軍のシンガポール攻略時の英軍司令官だったアーサー・パーシバル中将、もう1人はマッカーサーの部下で、フィリピンのコレヒドール島で降伏したジョナサン・ウェーンライト中将である。2人は満州の奉天(現瀋陽)の収容所にいたが、マッカーサーの招きで降伏調印式に参加するため東京に飛んできたのだった。
連合軍捕虜の救出 - 奉天捕虜収容所
マッカーサーの後任としてコレヒドールの戦いを指揮したウェインライト中将、および英国陸軍パーシバル中将はシンガポールで捕虜となり、多くの捕虜と共に満州の奉天捕虜収容所に収容されていた。OSS (戦略情報部) は8月16日にパラシュート降下し、進軍するソ連軍に先駆け同地の連合軍捕虜の解放作戦を敢行した。
【訳】奉天に到着後、ウェインライト将軍とパーシヴァル将軍およびその他の上級士官はC-47とB-24が待機する北嶺飛行場に移送され、そこから重慶、そして日本に向かい、東京近くの飛行場に到着、そこから車で横浜に向かい、8月31日にウェインライト将軍はマッカーサー将軍と感動の再会を果たした。
マッカーサーは、極度にやせ細った自分の部下との再会をはたす。
General Douglas MacArthur greets General Jonathan Wainwright in Yokohama's new Grand Hotel. This is their first meeting since they parted in embattled Corregidor, in the Philippines, in 1942.
ダグラス・マッカーサー将軍が、横浜のニュー・グランドホテルでジョナサン・ウェインライト将軍を迎える。1942年にフィリピン・コレヒドールの戦いで別れて以来の再会であった。
General MacArthur greets Gen. Jonathan Wainwright | Harry S. Truman Library
島に連れてこられた朝鮮人
朝鮮人軍夫の虐待と「処刑」
次第に軍夫の数が減っていくことにいら立った日本兵は、四月下旬のある日、山を下りポケットにさつまいもをしのばせて戻って来た軍夫を摘発し、それまでに住民の畑作物を掠めた者、食料収集を命ぜられ帰隊時間内に戻らなかった者など、七人の軍夫に銃殺刑を言い渡しました。うしろ手に縛られ引き立てられて行く七人の後に、墓穴掘りを命ぜられた七人の軍夫がついて行きました。沈さんもその一人です。深さ三〇センチくらいに掘った穴の前に立たされた七人に対し、指揮者の兵隊が「最期に言いたいことはないか」と説いたのです。すると、年長の千有亀という軍夫が昂然と答えました。「われわれは腹が減っていた。それなのに君たちは食料をくれなかったではないか。われわれは働くのはいい。どんなに働かされても我慢しよう。仕事なのだから。しかし、働けるだけの食料もくれずに、ただこき使ったのだ。われわれは心から君たちを恨む。腹が減っていたのだ」 刑死を前に言い放つ、その凄然な言葉に、兵隊たちは一瞬ひるんだ様子でしたが、「朝鮮人は死ぬまでメシか」と、憎々しげに侮蔑に満ちた悪態をつくと、生いもを取り出して千有亀の口へ押しこんだのです。この軍夫処刑事件にショックを受けた沈さんは、もはやここに留るべきではない、脱走しようと決意し、親しい仲間とひそかに脱出計画をねり上げ、14人の同僚と5月4日夜、実行に移しました。幸い日本兵にさとられずに成功し、翌朝、米軍ランチに救出されるのですが、沈さんはひどい栄養失調で視力が低下しており、海上を近づいてくるランチが見えなかった、と言っておられます。
垣花武一さん、十五歳の阿嘉島の少年の証言
「かわいそうだね」と言葉で、言ったら大変ですから、繋がれて処刑場に行くのも、みんな見ているが、「かわいそう」の一言もいえない。結局、処刑場に連れて行かれるのは、国賊だから、軍紀に反する連中だから。そういう人たちに向かって、同情したら、それこそ、大変ですよ、同罪ですよ、当時としては、それが怖かったですよ。自分たちの身内が、おじぃとおばぁが処刑されたとき(米軍に収容され、その後、釈放された阿嘉島の住民2名が、日本軍によって「米軍に通じた者」として殺害された)も、一言も同情の言葉もかけられない。そういう時世だったですね。
阿嘉島・岳原展望台で「処刑」地を探す沈 在彦さん (1986年11月19日)。
「キム・サンギリー、シム・ヂェオニワッター」(金相吉やーい、沈在彦が来たぞー)
1986年11月19日、41年ぶりに沖縄・阿嘉島を再訪し、島の中央、岳原展望台に立った 「太平洋同志会」招魂団の一人沈在彦さんは、声をふるわせて亡友の名をくり返し叫んだ。 「太平洋同志会」―1944年「国民徴用令」によって徴発され、「軍夫」という名の軍務雑役労働者(軍属)として沖縄へ送りこまれた、韓国・慶尚北道慶山郡出身者の生き残り二百数十人が、1946年2月、米軍の捕虜として収容されていた米軍の収容所(屋慶名)で結成した旧友会である。
日本は朝鮮半島から多くの軍人軍属動員を動員した。その実数は未だ不明のままではあるが、厚生省作成の資料などをもとに、およそ37万人が動員されたと考えられている。そのうち、3,400人以上が沖縄へ動員された。
太平洋戦争末期の沖縄戦。アメリカ軍が最初に上陸したのが、阿嘉島でした。この時、日本兵でも沖縄の住民でもない人々が戦いの最前線にいました。軍服ではなく、作業着のようなものを着た男性たち。当時、日本の殖民地だった朝鮮半島から連れて来られた“朝鮮人軍夫”と呼ばれる人々です。武器も持たされないまま、軍のために働らかされていた人たち。その実態はほとんど分かっていませんでした。彼らはどのように沖縄に送られ、何をしていたのか。生き残った人たちの話を韓国で聞くことができました。軍のもとで危険な労働を強いられる中、多くの軍夫が命を落としました。日本がアジアを巻き込んで進めた太平洋戦争。激戦地・沖縄に送り込まれた“朝鮮人軍夫”たちの証言です。
[証言記録 市民たちの戦争]“朝鮮人軍夫”の沖縄戦|番組|NHK 戦争証言アーカイブス
1938年、国家総動員法が朝鮮に適用され、翌年の39年には国民徴用令も公布された。すべてを区別なく平等に遇するという意味の「一視同仁」、朝鮮を差別せず内地(日本本土)と一体化するという意味の「内鮮一体」-これらのスローガンを通して朝鮮総督府は朝鮮の人々を鼓舞し、皇民化を推し進めた。日本軍の軍人・軍属としてアジア・太平洋各地に送られた朝鮮人は、24万人とも34万人ともいわれる。
朝鮮人の「徴発」とは
慶尚北道慶山郡に暮す若者たちの許へ、国民徴用令の「白紙」が届けられたのは、1944年6月中旬のこと。当時の戦況は、6月15日米軍サイパン島上陸(7月7日守備隊玉砕)。6月19日マリアナ沖海戦、日本海軍壊滅的打撃を受ける。7月米軍グアム、テニアン島上陸。7月18日東条内閣総辞職等々。次期戦場が東シナ海域であることも確実視され、沖縄防衛の第32軍の兵力が増強されようとした段階で、日本政府・軍部が本土防衛の捨て石とした沖縄へ、朝鮮の若者たちを送りこむことを企んだのであります。朝鮮総督府から慶尚北道へ通達された徴用人員は約3000人。さらに道から慶山郡へ割り当てられた人員は3000余り。これを面(村)に割りふり、各面長(村長)らが20歳代の青年名簿からえらんだ、といいます。有無を言わせぬ徴発・連行です。官憲一体の人狩りで、ある人は「ちょっと面事務所(村役場)に用事ができたので」とだまされ、ある人には「割のよい仕事がある」と甘言が投げかけられた。忌避、逃亡のおそれのある者は厳重に監視され、脅迫されています。… 皆、田植えの最中、土足のまま引っ張られたり、寝込みを襲われて連れ去られたりして、拒否、逃亡は絶対にできませんでした。慶山郡では、青年二七人が「決心墜を結成、竹槍や鎌を持って山頂に籠城。徴用令発動に抵抗する、という「事件」さえ起きています。
挑発された者たちの中には命がけで逃亡する者も多かった。慶尚北道から「軍夫徴発令状」で奄美と本島に送られた金元栄は、途中、何度も朝鮮人の逃亡と、日本兵により虐待され消息知れずになる同胞を目撃してきた。
「今、きさまらに逃亡した奴のざまを見せてやろう」
瞬間、体がぞくっとする。あぁ、つかまったな!誰だろう?」皆、息を殺して、不動の姿勢だ。あっ! 兵隊たちに引きずられてきたのは私の組員の崔致動だ。一晩のうちに彼の顔は見る影もなくやつれ、激しい殴打に痛めつけられた身体は満足に立っていることもできずによろめく。「さあ、みんなとっくりと見ろ!逃亡したやつの末路はこうなるんだ。こいつは軍法会議に回されて殺されてしまうかもしれんぞ。あとの7人も、もう捕まった。どうだ、よく見たか?」暴悪な中体調の顔にはさっきが満ち満ちている1度は再びどこかに引きずられていった。
「徴発」というのは・・・、(註・日本は、朝鮮) 人に対する「徴発」はなかったというんです。人が人を徴発・・家畜や品物などを徴発しましたが、人を徴発したことはなかったと言うんです。日本人がそんなふうに・・・。< 中略 > そうです。それがまあ、「徴発」というのは、(日本人が)私たちを物扱いして(沖縄に)行かせたと思います。それは、「徴発」というのは物品に対する行為であって、人に対する行為ではないんです。私たちは日本を散々怨みました。私たちを家畜扱いしたんです。人間扱いされていないと恨みました。同じ人間としてではなく家畜のように扱われ、日本を恨みました。
阿嘉島 (野田隊) の衛生兵の証言
その頃、軍夫と陣地作りをしていた基地隊の勝又一等兵から聞いた話では、軍夫を連れて部落の東側の山に機関銃の陣地作りをしていた時のことで、小休止のとき彼が、「お前達は親兄弟に、無事でいることを知らせて行ったのか」と聞くと、「班長さん、私は軍の徴用ではなく、挑発ということで、村にいた時につかまり、いきなり軍用トラックに乗せられたので、それっきりです」と悲しそうな顔をしたので、ほかのものに聞くとそうだと …
奪われた名前、奪われた尊厳
朝鮮人軍夫も朝鮮人慰安婦も「内鮮一体」の名目で「創氏改名」、つまり日本名をつけられた。
※古い SNS にあった岩盤剥離前の貴重な画像、どなたが撮影されたのか不明。
「姜」の文字が刻まれた(沖縄陸軍病院壕20号壕では、寝台の上段にベン上等兵と呼ばれる朝鮮の軍人が入院していました。彼は気管支を負傷したのか、胸に五円玉のような穴の空いた器具を差し込まれ、そこから息をしていました。平和の礎には12人の「姜」の名が刻まれていますが、彼が含まれているかは不明です。
《沖縄陸軍病院壕 平和ガイド通信 平成20年12月》
日本名で刻まれた墓標
※ 墓標の文字をわかりやすくするため写真の明度を加工しています。
【訳】「沖縄、日本兵さえいなければ、かなり快適な場所」
この墓標の写真は、1945年4月の米軍の沖縄本島上陸後に来沖したであろう従軍カメラマン、ユージン・スミスが本部町健堅で撮影したものである。… しかし今回注目したいのは、その一つ一つの墓標に記された名前である。一人を除いてすべて「故陸軍々属~之墓」とあるが、その中に「故陸軍々属明村長模之墓」(右から4つ目)、「故陸軍々属金山萬斗之墓」(右から2つ目)という墓標があるのが分かる。
駐車場の土地の所有者である○○さんは、発掘に賛成した。追悼式で会った我部さんは「母が、戦争当時日本兵が朝鮮人をいつも殴っていたと話した。朝鮮人が乱暴に殴られる場面を見たと言っていた」と話した。
[ルポ]沖縄の朝鮮人軍属だった「萬斗、長模」は駐車場の地の下に捨てられたのか : 日本•国際 : hankyoreh japan
朝鮮人軍夫と沖縄戦
朝鮮人軍夫に対するいわれなきスパイ容疑による虐殺が頻繁した。金武で特殊潜航艇の基地として豪堀りに従事していたなかから7人がスパイ容疑で虐殺されたし、渡嘉敷ではスパイ容疑で5人、窃盗容疑で2人が殺されている。そのほか慶良間列島では「『脱走をはかった』『食糧を盗んだ』とかの理由で、野田隊は関ヶ原処刑場と呼ばれる座間味村の阿護の浜で13人の軍夫を処刑した。また部隊本部の下に約50人を監禁し、逃げ出した者をつかんで阿護の浜で処刑している」
石垣島の平得飛行場建設
原田組が工事を担当していたが、中に朝鮮人労働者がたくさんいて、大きな金槌を細い柄をたわませて、「サニヤー、サニャー」とかいうようなかけ声をかけて槌を振る。単調ではあるがその音が規則正しく響く。時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。
「泥水飲んで飛行場作業」『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa
本部半島での朝鮮人軍夫
また渡久地には数十人の朝鮮人軍夫が来ていて、村役所の前を通って行くのをしばしば見かけたことがあった。軍夫たちは、ごく些細なことでもなんくせをつけられて殴り倒されていた。牛馬にもひとしい扱いを受けて男泣きに泣きじゃくっていた光景は、いまも忘れることができない。軍夫たちは昼休み時間になると、トウガラシをもらうために民家を訪れるのであったが、一、二分でも作業に遅れると、それこそ半殺しの目に会うのであった。
自らも沖縄人として差別を受けながらも、朝鮮人軍夫を「処刑」し「彼らは喜んで死んだ」と主張する赤松隊の知念少尉。靖国神社に合祀することが「虐殺」の正当化として利用された例でもある*1。
赤松隊長の命令で私は討伐隊を編成して捜索をしていました。村民の通報で海岸にひそんでいる三人の朝鮮人を捕え、私は「おまえたちの名誉にかかわることは一切公表しない。靖国神社にも祀るから.........」と説得して斬りました。よろこんで死にました。
筆者 村民の要請は村会か常会かの決定によるものですか。
知念 いちいち村会か常会にかける間なんてありません。個人的なものでした。おそらく強盗も強姦もしなかったでしょう。筆者 村民が殺してくれと要請したのですか。
知念 殺してくれとは云いません。しかし報告のとおりだと、軍規にふれますから殺さなければなりません。… 私たちは、朝鮮人については、その姓名も知りません。ことばは通じなかったし、立場は違うし、あまり関心もありませんでした。
… 沖縄の朝鮮人の歴史から見えてくるものはなんだろうかということになります。一つは、沖縄が被害の地であることは間違いない。しかし、その沖縄も植民地体制のもとに組み込まれており、少なくとも東アジアとの歴史的関係というより広い視野で見ないことには、沖縄で何があったのか、少なくとも沖縄戦で何があったのかという全体像は見えてこないということです。
そのとき住民は・・・
沖縄諮詢会 - 郵便業務の開始
終戦とともに発足した沖縄住民による行政組織沖縄諮詢会では、この頃通信部を設置、郵便の取り扱いを開始します。
沖縄諮詢会では、アメリカ軍政府から業務を引き継ぎ、1945年9月から郵便の取り扱いを開始します。当初は、各収容所から諮詢会に向かう人々をのせたバスを郵便にも利用、生活物資が無償配給だったこの当時、家族の安否をしらせる郵便も、無料で配達されていました。政情が落ち着くにつれ、街には郵便ポストも設置されていきますが、それはアメリカ軍が捨てたボンベを回収しポストに改造したものでした。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
*1:遺族への謝罪どころか、連絡すらないまま、靖国神社に合祀されている韓国人、台湾人の遺族らが戦後、合祀の取り消しを求めている。靖国「韓国人合祀取り消し」控訴審も敗訴…わずか45秒で「棄却」(ハンギョレ新聞) - Yahoo!ニュース