1945年 8月13日 『八重山の沖縄戦』

先島諸島沖縄戦

八重山の日本軍

八重山群島には、昭和19年に宮古島から配転になった独立混成第45旅団 (旅団長、宮崎武之少将、2,865名)が配置され、ほかに石垣島海軍警備隊約3,000名と地元で編成された特設警備隊(約2,000名)が警備に当たっていた。』(235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 235頁より》

『先島のほとんどの島で、守備軍に提供する食糧の供出や飛行場建設のための労務提供(ただ働き)などで、住民は飢餓状態となった。さらに、守備軍の陣地確保や〝住民は戦闘にとって足手まとい〟との理由から、近くの小さな島へ強制移住させられたり、住民もめったに近寄らない山奥への強制避難が命じられた。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

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戦争マラリア

『…八重山の場合、1945年正月早々に3回目の空襲を受けたが3月以降は、それが1日に十数回に及ぶほど激化した。5月に米潜水艦による初の艦砲射撃があり、そのためもあってか、6月に入ると同群島守備軍は、主島の石垣島の住民をそれぞれの居住地に隣接する山岳地帯や他の島々に強制的に避難、疎開させた

ところが多数の将兵をかかえる部隊の駐屯もわざわいして風土病のマラリアが爆発的に蔓延していたので、住民は薬不足に加えて食糧難から極度の栄養不良に陥り、敵の攻撃を待たずに死亡する者が続出した。皮肉にも沖縄本島で戦闘が終結しつつあった頃、八重山住民は、戦況もまったく知らされないまま逆に受難の道へ踏み出したのであった。

こうして住民の罹病率は、全人口の54パーセントにも達した。ちなみに昭和19年現在の八重山の人口3万4,936名のうち空襲その他による戦没者は、187名だが、マラリアによる死亡者の数は、全人口の1割強の3,647名にも及んだ。その悲惨さは、目を覆わしめるものがあり、戦場のそれと何ら異なるものではなかった。守備軍将兵のばあいも同様で、約8,000名の陣容中、戦没者は約700名だが、その大部分はマラリアが死因であった。(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)』(233-235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233-235頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-27-4.jpg

護衛空母スワニー(CVE-27)所属のTBM機から投下された2つの爆弾が、石垣飛行場を破壊するため音をたてて落下する様子。先島諸島石垣島にて。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度:4000フィート(約1219メートル)。

Two bombs from a TBM plane from USS SUWANNEE (CVE-27) whistle their destructive way toward Ishigaki Airfield on Ishigaki Islands of Sakishima Group. Aerial: T-0930-9 K-20 4000'.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『連日のイギリス空母部隊による空爆がつづいて、有効な反撃の手段もなかった日本軍は、万一のアメリカ軍上陸に備えたつもりだろうが、それが住民にどんな厄災をもたらすかについてはまったく考えなかったといってよい。住民はしかたなく軍の命令に従ったが、その結果、飢餓はいっそうひどくなり、移転先がマラリア病を媒介する蚊の群生地であったりして、多くの住民がマラリアにかかり、つぎつぎに死んでいった。沖縄ではこうして罹病し、死んでいったマラリア戦争マラリアと呼んでいる。

戦争マラリアの典型が西表島強制移住させられた波照間島の住民である。強制移住沖縄本島の戦闘がほぼ終わりつつあったころに実行されたという。戦局の大勢を見ない、独りよがりな守備軍の強制移動命令によって、じつに全人口1,275人のうち98.7パーセントにあたる1,259人がマラリアにかかり、461人(罹病者の36.6%、全人口の36.2%)が死亡したのだった。(石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著・石原昌家監修「もうひとつの沖縄戦」)

波照間島をふくむ八重山諸島石垣島西表島与那国島波照間島、黒島、小浜島竹富島新城島鳩間島など) は人口が3万4,900人あったが、そのうち1万6,884人(48%)がマラリアにかかり、3,676人(罹病者の22%)が死亡した。死亡者の大半が、沖縄戦が収束したあと、1945年(昭和20)の7月8月9月に集中している(「別冊歴史読本」戦記シリーズ18「沖縄 日本軍最期の決戦」の瀬名波栄「強制疎開マラリアの惨禍」による)

この地区ではそれまでは年間で10人弱しかマラリアで死んだ者はいなかったという。死亡者のうち84パーセントにあたる3,075人が、日本軍(八重山地区列島の守備についていた独立混成第45旅団)の命令により、住んだこともない山奥や別の島に強制疎開させられた者だった。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

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そのとき、住民は・・・

遭難した疎開民 ⑪ 

1945年(昭和20) 6月30日沖縄本島における日本軍の組織的な持久戦が終わっていたこの頃、石垣島では、台湾へと疎開する人々がまだいた。出航から数日後の7月3日 、台湾の基隆(キールン)に入港予定だった2隻の疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受け、1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島での生活を送ることになり、毎日、島中を歩きまわって食糧を探すという日々が続いていた。無人島でのサバイバル生活を始めてから1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日、決死隊は遭難者全員に見送られて魚釣島を出発した。

8月13日は風が止まったため、櫂で舟を必死に漕ぐしかなかった。漕いでいる最中にも「はたして八重山にたどりつけるのか」の不安はあった。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。そう確信した決死隊の8人の目は輝き、ひもじさも苦しさも吹き飛んだ。急に元気が出て、漕ぐ腕にも力が入り、力の限り漕いだ。

その頃、魚釣島の隣にある南小島には、6人の男たちがいた。男たちは、決死隊の食料を確保しようと、アホウドリのいる南小島に別の小舟で渡っていたのだ。2、3日もすれば肉や卵を持ち帰り、決死隊の貴重な栄養源となるはずだった。しかし、魚釣島に戻る予定だった日、両島間の潮流が激しくなっていた。

潮流を挟んだ両島の往来はまず南側に向かって力の限り漕ぎ、そこから潮流を斜めに突っ切ってしかいけない。その潮流にそのまま乗ると北小島に流されてしまうか、最悪の場合は、東シナ海を漂流してしまうという危険なものだ。6人の男たちは、潮の流れが緩やかになるまで、南小島に留まらざるをえなかった。(尖閣諸島遭難・4 、6)

《 [72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および [74 尖閣諸島遭難(6)]6人取り残される - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース より抜粋、一部要約》

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/images/top/img03.gif

尖閣諸島 | 外務省

http://si.wsj.net/public/resources/images/OB-UN172_islesp_F_20120911004424.jpg

南小島(前)、北小島(中)、魚釣島(奥)

The disputed islands in the East China Sea known in Japan as Senkaku and Diaoyu in China. ASSOCIATED PRESS

Writing China: James Manicom, ‘Bridging Troubled Waters’ - China Real Time Report - WSJ

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月13日(月)

 

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