1945年 8月13日 『八重山の沖縄戦』

【投稿者註】先島諸島では地上戦がなかったため、日米両軍の記録や証言、住民の体験談等が乏しいが、八重山諸島に関しては、ここに集約しておく。

第32軍の動向

先島諸島の日本軍

八重山諸島

八重山群島には、昭和19年宮古島から配転になった独立混成第45旅団 (旅団長、宮崎武之少将、2,865名)が配置され、ほかに石垣島海軍警備隊約3,000名と地元で編成された特設警備隊(約2,000名)が警備に当たっていた。』(235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 235頁より》

石垣島の川平湾に残る「特攻艇秘匿壕」、日本軍の特攻兵器を隠すための壕です。

日本軍は、川平湾の海岸線に壕を掘り、特攻艇の出撃基地にしました。壕の入口は高さ3メートルほど、奥行きは25メートルあまりあり、昭和20年2月に完成しました。配備されたのは海軍の特攻艇「震洋」。ベニヤ板の船体の先に250キ口の爆薬が積みこまれ、兵士1人が乗り込み、体当たりして自爆します。1隻5メートルの船が、ひとつの壕に5、6台隠されたといいます。

海の特攻作戦では、宮古島で陸軍が、石垣島で海軍が、敵を待ち受けることになっていました。このうち川平湾には、50隻の特攻挺が配備されましたが、結局、川平湾から、特攻艇が出撃することはありませんでした。』(NHK沖縄放送局)

 

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『1943(昭和18)年末、平喜名飛行場(後に拡張されて海軍北飛行場となる)に観音寺部隊が駐在するようになった。同部隊は、南方から日本への物資輸送ルートを護るために配備されたのであったが、この頃から八重山は戦争色が急激に色濃くなっていった。

翌44年2月には平得飛行場(海軍南飛行場)、6月には陸軍の白保飛行場の建設も始まった。また、8月には宮古島から独立混成第45旅団が、その後同旅団配下の各大隊が陸続と来島するようになり、八重山には約8000名もの将兵が駐留するようになった。

そのため学校や公共施設、さらには大きな民家などは軒並み軍に接収されてしまった。八重山農学校は44年8月に同旅団司令部に接収され、年末には八重山中学校までもが接収されてしまった。そして中等学校生から国民学校の児童に至るまで、飛行場の建設や陣地構築作業に動員されるようになった。

八重山農学校や八重山中学校の生徒たちは、全八重山から動員された勤労隊に混じって44年1月からは海軍北飛行場、翌2月からは海軍南飛行場をはじめ各陣地の構築作業に動員され、滑走路の整備や掩体壕掘り、タコ壺壕掘りなどの雑務作業に就いた。

こうした日本軍大部隊の駐屯で、八重山では特に食糧問題が深刻になっていった。軍への奉仕作業動員によって地元の食糧増産が進まないだけでなく、空襲が激化したために島外からの食糧移入も途絶え、食糧問題は急速に悪化していった。軍は食糧の提供を地元民に強要したのみか、軍の食糧を確保するために、住民をマラリアの猖獗地に強制移住させて多くの犠牲者を出すなど、悲惨な事件も繰り返し起きるようになった。』(215-216頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 215-216頁より》

 1945年4月15日石垣島の日本軍は、不時着した米軍機に搭乗していた米兵3人を逮捕した後、捕虜として扱うことなく殺害した「石垣島事件」を起こしている。(投稿者註: 1945年4月15日のブログ参照)

 

先島諸島の学徒隊

鉄血勤皇八重山: 沖縄県八重山中学校・沖縄県八重山農学校

1945年3月29日、鉄血勤皇八重山隊が編制され、「通信班」「対空監視班」「迫撃班」の3班に分けられた。

『鉄血勤皇八重山隊の迫撃班は、…戦車への特攻訓練を行っていた。この訓練は、タコ壺壕の中に重さ約10キロの爆弾を抱えて身を潜め、敵戦車が来ると体当たりをする特攻戦を想定してのものであった。隊員たちは訓練の後、旅団本部や各部隊にそれぞれ配属されていった』(219頁)

『鉄血勤皇八重山隊の20名から成る対空監視班は、当初八重山農学校にあった独立混成第45旅団本部にある監視哨に配属されて、敵機の来襲を知らせる任務に就かされていた。班員たちは、農学校の南…にある高さ15メートルほどの琉球松に設置された監視台で、時には敵の機銃掃射を受けながら、双眼鏡を手に監視活動を続けていた。午前8時から午後4時まで、2名1組になって1時間交代の勤務であった。』(218頁)

対空監視をした八重山中学校生徒の証言:

『ある日のこと、午後3時過ぎ、敵機グラマン数十機、およそ2時間位の猛攻撃に遭遇した。太陽の光を背にして旅団本部に急降下、機銃掃射、爆弾投下の雨あられ、…爆弾投下と共に強い爆風が耳をつんざく。松の木の枝の対空監視は五分板3枚をしばりつけたお粗末なもの、すぐ下の枝が爆弾の破片でへし折れる。…上空ではグラマン機が旋回を続け猛攻撃を続けている。弾の音は耳をかすめる。ピューという音が連続的にとんでくる。一瞬目を閉じる。「神様、お父さん、お母さん、僕をこの松の木で死なさないで下さい」。誰に祈るとなしに合掌する。生地獄はまだ続いている。交替時間はすぎても交替できるはずがない。日本軍の抵抗は時折、一発か二発、全く大人と子供の角力である。

敵が攻撃をやめて帰還する。松の枝で無事生きていることが全くの奇蹟。防空警報解除の指令を出す。…飛行場周辺整備に当たっていた海軍宮田部隊は高射砲陣地を構築したが、本物でなく松の丸太棒で偽装した物が多く、物の用に供されるものでなかった。全く情ない話である。沖縄県教育委員会沖縄県史』第10巻各論編9 沖縄戦記録2 より)』(221頁)

八重山農学校生徒の体験談:

『5月頃であったろうか、他の隊員たちは開南に移動して特訓が続けられたようであるが、私たち数名の者は旅団本部付きとなった。小学校裏の墓地に通信機材を運びこみ、引き続き激しい特訓を受けつつ軍務についたが、成績が上がらないといっては木刀や竹刀でたたかれることがあった。

…空襲も激しくなり、旅団本部のある校舎をめがけて機銃掃射やロケット弾が落ちた。校門の近くの松の木の頂上には対空監視班がいて、「〇〇度の方向、爆おーん!」などと大声で叫んでいたことが印象に残っている。…(『市民の戦時・戦後体験記録』第3集より)』(223-224頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 218、221、223-224頁より》

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沖縄戦継承事業/沖縄県

『45年6月上旬になると、有線班、無線班は合流して開南に移動し、正式に部隊配属となった。そして開南集落の西南の兵舎に起居して、兵隊と同様の厳しい軍隊生活を送るようになった。開南集落から於茂登岳頂上へ重い通信機を背負わされて、1日に二往復するなど文字どおりの苦しい作業も続けられた。』(217頁)

『…7月上旬には再び移動命令が下り、隊員たちはさらに於茂登岳の山奥の旅団本部まで徒歩で移動させられた。その後は各班バラバラの行動に入るようになったが、8月に有線班に除隊命令が下り、隊員らは於茂登岳を下りて自宅に戻ることができた。

通信班のうち暗号班については、隊員数、配置、活動状況など、ほとんど記録が残されていないが、6月以降は、有線班、無線班と行動を共にしたとのことである。』(218頁)

八重山中学校生徒の体験談:

『6月上旬、私たちに突然移動命令があり、開南に移動した。そこでは無と合流して八木中隊に再編入された。直属の上官は大橋勲という東京帝国大学出の見習士官だった。その日から起床ラッパに明け、消灯ラッパに終るという完全な軍隊生活が始まり、飯盒等も支給され、給料も二等兵待遇の13円50銭であった。その次は17円50銭支給された。しかし、それは金額が記入された紙切れに過ぎず、現金を手にしたことはなかった。食事は玄米と乾燥竹の子、ひじき、こんぶの連続で、飲み水事情も最悪であった。ほとんどがマラリア、パラチフスにかかり、元気な者は於茂登の山奥へ弾薬を背負って運搬するのが日課となった。

7月上旬、また移動命令が下り、私たちは徒歩で於茂登岳の奥深くにあった旅団本部に移動した。そこはさすがに旅団本部とあって、食事も俗にいう銀飯だった。勤務といえば、1日3回の輪番の飯上げ当番以外は、上官のマラリア解熱の看護やドラム缶の風呂焚き程度の日課で日が暮れた。

8月12日、ついに私たちの鉄血勤皇隊は、当分の間自宅に帰って待機するよう命令が下った。…石垣市史編集室『市民の戦時・戦後体験記録』第1集 石垣市役所より)』(222頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 217、218、222頁より》

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八重山農学徒隊(女子): 沖縄県八重山農学校

生徒の体験談 ①:

『農学校を卒業したばかりの私たち10数人は、従軍看護婦として、4月から看護学の講義と実技を受けることになり、…軍の指導を受けた。その頃から空襲が激しくなり、何度も墓の中に入ったり出たりしながらの勉強だった。

5月に入ってからは、疎開をした住人のいない茅葺きの家を兵隊が壊していたが、その材料を私たちがリヤカーに積み込んでトラックまで運び、さらにトラックに積み込んで山の中に運び、そこで病室や宿舎を造ることになっていたのである。

6月6日に、私たちは野戦病院の看護婦として於茂登へ行くことになった。丁度梅雨時で、山道は険しく、トラックも途中までしか通らない。それから先は、馬と私たちの手で運ぶしかなかったのだ。ひざの深さまでもあるぬかるみの中を、馬の足跡に足を取られながら、すべったり、転んだり、大変な所へきたもんだと心の中で泣きながら、お互いに励まし合って、やっとのことで、野戦病院にたどり着いた。

翌日から、兵隊たちといっしょになって防空壕掘り。内科用、外科用、薬剤室など数多くの壕掘り作業が続いたが、私たちは工事用材料の運搬や、途中までトラックで運ばれてきた荷物の運搬と、毎日が重労働の連続だった。

看護婦として来たはずの私たちが、ある日荷物運搬に行く途中、敵機と交戦した日本軍の高射砲弾の炸裂にあい、その破片で4、5人の者が負傷をしてしまった。

…やっと落ち着いた頃から、於茂登の病院にも運び込まれるようになり、看護婦も作業班と看護班の二手に分かれての奮闘だった。

患者たちのほとんどがマラリアと下痢患者だったが、…最も気の毒なのは重傷患者であった。薬品不足のせいもあったと思うが、充分な看護もしてもらえず、ただ死を待つばかりの人たち。死亡時刻を確認するため、私たちは患者の脈はくを取り続けるのだった。死亡者が出ると軍医が確認する。あとは私たちの手で処置をし、屍室まで担架に乗せて運ぶのだが、雨の中を山の赤土はとても滑るし、…小川の丸木橋を渡る時に、滑って死体を担架から落としたこともあった。』(222-224頁)

生徒の体験談 ②:

『6月6日、私たち学友はいよいよ於茂登へ出発することになった。16名の従軍看護婦は3班に分けられた。非常袋や頭巾を肩からかけて、…川良山中を通り、開南の野戦病院本部へ着いたのが正午だったと覚えている。

開南病院では、看護婦たちが忙しそうに立ち回っているのを見て、目前に迫る戦闘感をひしひしと感じた。開南を発って、ようやく私たちの職場である於茂登へたどり着いて、覚悟を新たにしたものだ。

終戦も間際になって開南から傷病兵が送られて来たので、交替で病院勤務をさせられた。初めての看護勤務だったが、その兵士は息も絶えだえで、虫の息の状態。…衛生兵が注射器と薬液を持ってやってきた。「これを打っておけ!」と渡されたのを見ると、「強心剤カンフル」と書いてあった。私たちは「まだ、注射をしたことはありません」と答えたところ、衛生兵は「これは皮下注射だから、誰にでもできる」と言って、一針打ってみせてくれたが、患者は顔の筋肉すら動かさない。…戦争はこんなに人の命を粗末にするのかと思うと情けなくなった。この兵士はとうとう明け方、息をひきとった。』(225頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 222-224、225頁より》

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沖縄戦継承事業/沖縄県

生徒の体験談 ③:

『7月頃、傷病兵が入院するようになった。私たちは1班から順に看護につくようになった。病棟いっぱいに横たわる入院患者、軽い人も中には幾人かいたが、多くは重症患者だった。やせこけて、目だけ大きく見えた。
…夜勤は一人であった。…ふと気がつくと、「看護婦さん、看護婦さーん」と、細い声がする。患者が水を欲しがっているのである。しかし、水は「絶対に、飲ませてはだめ」と、強く言われている患者である。もう少し我慢するよう、なだめ、すかせるが、「死んでもよいから、水が飲みたい。今、夢で水がでてきた。喜んで飲もうと思ったら、目がさめてしまった。もう少しだったのに」と、かすれた声で悔しがっていた。その後、この患者は勤務交替後、2、3日して死亡した。「可哀想に、どうせ、こんな結果になるのであれば、飲みたいだけの水を飲ませてあげれば良かったのに・・・」と、胸を痛めた。』(227-228頁)

生徒の体験談 ④:

『私たち農校女子は、雨にビッショリ濡れての芋の植え付けから糧秣運搬など、於茂登山の道なき道のそれこそドロンコ坂を足をとられないように、足先でさぐりながら一歩一歩踏ん張って登った。…しばらくして病棟の勤務となった時、病院全体が敵に狙いうちされ、毎日のように50キロ爆弾、焼夷弾、機銃掃射があり、戦場のまっただ中であることを実感させられた。

爆音が遠くから聞こえて来ると患者達は大さわぎ。自分よりも大きな体をした傷病兵を支えながら避難壕へ案内し、看護婦は機銃のすさまじい音を耳に手をあて、敵機の去るのをふるえながらじっと待つしかない。歩くことの出来ない傷病兵たちが「看護婦さん、看護婦さん」と叫ぶのだが、何をする事も出来ない。近くに衛生兵は見つからず、看護婦だけの力では、寝ついたままのその人たちは、どんな思いで時を過ごしたのだろうか。』(229-230頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 227-228、229-230頁より》

 

八重山高女学徒隊: 沖縄県八重山高等女学校

生徒の体験談 ①:

『昭和20年4月、八重山高等女学校の1期生60余名は、陸軍病院野戦病院海軍病院の3カ所に配置された。私は第28師団第3野戦病院に配置された。

野戦病院に運び込まれた患者は負傷兵より、マラリア患者が多かったマラリアは、蚊によって媒介されて高熱がつづき、脳症をおこす怖い病気である。マラリアには、三日熱、四日熱、熱帯熱があり、三日熱は三日に一度高熱が出る。四日熱は四日に一度高熱が出る。熱帯熱は毎日高熱が出ると教えられた。石垣でのマラリア患者は、ほとんどが熱帯熱であったらしい。熱が出る前は背中がぞくぞくと寒くなりブルブルと震え出し布団を2、3枚かぶせ、その上から人がおさえないと、震えは止まらなかった。そのあと高熱が出る。水も無いので井戸水を急須に入れ、ジョロジョロと頭にかけ通しであった。ようやくなおっても顔色は非常に青ざめ、頭の毛は抜け、やせこけていた。戦時中、蚊の多い原野や山中に避難したのでマラリア患者が多かった野戦病院でのマラリア患者には、投薬されたが民間人には、薬がなく死亡する人も多かった。』(206-207頁)

生徒の体験談 ②:

『昭和20年3月頃、私達1期生は陸軍病院野戦病院に配置され、私は陸軍病院班になり、石垣国民学校の裏の墓地でひき続き看護術教育を受けた。空襲が頻繁になり、その度ごとに墓の中に避難した。

ある日、私達の中から海軍病院へ10名行く事になった。…海軍病院は、バンナ岳の麓にあり、海軍警備隊の井上部隊が駐屯していた所であった。早速医務室勤務に回され一般看護婦と共に医療業務についた。…バンナでは、1、2回の空襲はあったが、不思議と少なかった。多分敵機はバンナ上空で反転し、飛行場への攻撃をねらっていたと思われる。各部隊からの負傷者が毎日のように運ばれてきた。看護術教育を受けたが、軽傷患者ならともかく、いざ手術となると気弱な私にとっては、見る事さえ大変だった。…特に手足等の切断の際は、逃げるにも逃げられず、執刀医にメスや手術用器具を手渡しては手術台から離れ目を閉じたりした。

ある日艦砲射撃があり4、5人の負傷兵が担ぎ込まれて来た。その中に40才位の瀕死状態の兵士がいて、かすかな声で「水、水」と要求した。軍医は脈をとったりしたが「駄目だ」と言うなり「水を飲ませてあげなさい」と言われた。衛生兵は水を飲ませた。しばらくして、その兵士が、はっきりした声で「天皇陛下万歳」と言うなり、こと切れた。まわりは、水を打ったようにシーンとなった。

日がたつにつれ、私達も恐ろしさ等に馴らされ、死亡した兵隊の爪や髪を切ったり棺桶に入れる事や死体処理も苦にならなくなった。』(204-206頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 204-206、206-207頁より》

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沖縄戦継承事業/沖縄県

生徒の体験談 ③:

『戦況が次第に厳しくなってくると、石垣国民学校の裏にある墓を開けて、病院の代わりとして使われた。病院と化した墓には、腕を切断された兵隊や発熱した兵隊などが次々と運び込まれてきた。

…私は田本家の大きな墓に入り、そこで作業をするほか寝泊りをした。墓の中には湿気が広がり骨壺があるが、死を覚悟しているので、何も怖くなかった。

…墓は病院の代替施設になっており、私たちは患者を看病するために、機銃掃射を避けて、墓の間を往来した。石垣国民学校の裏には洞窟があったが、そこに爆弾が命中して亡くなった人もいた。爆弾投下で墓の入口が破壊されたこともあった。

空襲が段々激しさを増すと、陸軍病院は石垣国民学校から於茂登岳に移転することになった。開南集落から於茂登岳の入口までは陸軍のトラックで行ったが、…その後は徒歩で行くしかなかった。

於茂登岳の旅団司令部は、兵舎として使われていた八重山高女の校舎を壊し、その資材を用いて建てられた。…河川の側に陸軍病院の看護舎があって、私たちはそこで学友とともに寝食を共にした。』(209-211頁)

生徒の体験談 ④:

『…30代の兵隊が壊疽で左腕の付け根から切断することになった。広い亀甲墓の中は、手術準備で駆け回る人や、患者の呻き声で重苦しい雰囲気になっていた。通常は麻酔をして手術に入るが、麻酔薬がないので生身の手術となった。患部を残し、白布で体を覆い、両足、右手、頭が動かないように押さえた。私も衛生兵とともにその任務に当たった。軍医は、「日本軍人なら我慢しろ」と言うや否や、メスで肉をバサッと切り、鋸でゴシゴシと骨を切り落とした。私は患者の絶叫や悶えに倒れてしまい、「これぐらいのことで倒れて看護婦が務まるか」と軍医に叱られた。

…彼は何日か後にも右手を切断し、身動きのできない状態になっていた。この患者の包帯交換が大変だった。2日おきから3日おきの交換になると、傷口の包帯は膿で被われ、その上を蛆虫が所狭しと這い回っている状態であった

…その他、顎のケガで下顎が外れ、ぶら下がった人、腹部を機銃弾が貫通し腸が飛び出ている人、骨と皮の痩せ細った人など、様々な患者が次々と担ぎ込まれた。』(218-219頁)

生徒の体験談 ⑤:

陸軍病院に配置されて、まもなくして米軍機による空襲があり、全身黒焦げに火傷した人、両足のない兵隊などが担架で運ばれて来た。私はその光景を見た途端、卒倒してしまい軍医に叱られた。宮鳥御嶽の西方には空家が並んでいたが、病室はそこを使用した。病室には負傷兵やマラリアにかかった兵隊がずらりと寝込んでいた。私たちは負傷兵らの体温を測定し、井戸水を運んで頭を冷やしたりした。

石垣国民学校の北側だと記憶しているが、自然の洞窟があった。そこには多くの兵隊が山入りしていて、私たちもそこを利用した。

…空襲になると私たちは、洞窟には入れなかった。洞窟は全て兵隊が使っていた。私たちは周囲にある墓を使用した。

昼夜を問わず、米軍機は飛んで来た。…街中には人影などはなくなり、病院もそれぞれ山奥に移転することになった。私は陸軍病院から開南にある野戦病院に配置替えを言い渡されたが、その前に親との面会を許され、小浜島に行くことになった。…私は島には帰ったものの、再び石垣島に行く親の許しを得ることができず、故郷に残ることになった。「親子が別れて死ぬことはできない」と母が泣きすがった。私は島に残る決心をしたが、学校のことが心配で、1日たりとも落ち着くことができなかった。

小浜島にいる間は、島に駐屯している海軍の奉仕作業や病院の手伝いをした。当時、島の住民は空襲を避けるため、避難小屋での生活を余儀なくされており、私も住民と同様の生活を送っていた。』(214-216頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 209-211、214-216、218-219頁より》

 
 

八重山諸島沖縄戦

戦争マラリア

『…八重山の場合、1945年正月早々に3回目の空襲を受けたが3月以降は、それが1日に十数回に及ぶほど激化した。5月に米潜水艦による初の艦砲射撃があり、そのためもあってか、6月に入ると同群島守備軍は、主島の石垣島の住民をそれぞれの居住地に隣接する山岳地帯や他の島々に強制的に避難、疎開させた

ところが多数の将兵をかかえる部隊の駐屯もわざわいして風土病のマラリアが爆発的に蔓延していたので、住民は薬不足に加えて食糧難から極度の栄養不良に陥り、敵の攻撃を待たずに死亡する者が続出した。皮肉にも沖縄本島で戦闘が終結しつつあった頃、八重山住民は、戦況もまったく知らされないまま逆に受難の道へ踏み出したのであった。

こうして住民の罹病率は、全人口の54パーセントにも達した。ちなみに昭和19年現在の八重山の人口3万4,936名のうち空襲その他による戦没者は、187名だが、マラリアによる死亡者の数は、全人口の1割強の3,647名にも及んだ。その悲惨さは、目を覆わしめるものがあり、戦場のそれと何ら異なるものではなかった。守備軍将兵のばあいも同様で、約8,000名の陣容中、戦没者は約700名だが、その大部分はマラリアが死因であった。(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)』(233-235頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 233-235頁より》

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/113-27-4.jpg

護衛空母スワニー(CVE-27)所属のTBM機から投下された2つの爆弾が、石垣飛行場を破壊するため音をたてて落下する様子。先島諸島石垣島にて。空中写真。使用機材: K-20カメラ、高度:4000フィート(約1219メートル)。

Two bombs from a TBM plane from USS SUWANNEE (CVE-27) whistle their destructive way toward Ishigaki Airfield on Ishigaki Islands of Sakishima Group. Aerial: T-0930-9 K-20 4000'.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

『連日のイギリス空母部隊による空爆がつづいて、有効な反撃の手段もなかった日本軍は、万一のアメリカ軍上陸に備えたつもりだろうが、それが住民にどんな厄災をもたらすかについてはまったく考えなかったといってよい。住民はしかたなく軍の命令に従ったが、その結果、飢餓はいっそうひどくなり、移転先がマラリア病を媒介する蚊の群生地であったりして、多くの住民がマラリアにかかり、つぎつぎに死んでいった。沖縄ではこうして罹病し、死んでいったマラリア戦争マラリアと呼んでいる。

戦争マラリアの典型が西表島強制移住させられた波照間島の住民である。強制移住沖縄本島の戦闘がほぼ終わりつつあったころに実行されたという。戦局の大勢を見ない、独りよがりな守備軍の強制移動命令によって、じつに全人口1,275人のうち98.7パーセントにあたる1,259人がマラリアにかかり、461人(罹病者の36.6%、全人口の36.2%)が死亡したのだった。(石原ゼミナール・戦争体験記録研究会著・石原昌家監修「もうひとつの沖縄戦」)

波照間島をふくむ八重山諸島石垣島西表島与那国島波照間島、黒島、小浜島竹富島新城島鳩間島など) は人口が3万4,900人あったが、そのうち1万6,884人(48%)がマラリアにかかり、3,676人(罹病者の22%)が死亡した。死亡者の大半が、沖縄戦が収束したあと、1945年(昭和20)の7月8月9月に集中している(「別冊歴史読本」戦記シリーズ18「沖縄 日本軍最期の決戦」の瀬名波栄「強制疎開マラリアの惨禍」による)

この地区ではそれまでは年間で10人弱しかマラリアで死んだ者はいなかったという。死亡者のうち84パーセントにあたる3,075人が、日本軍(八重山地区列島の守備についていた独立混成第45旅団)の命令により、住んだこともない山奥や別の島に強制疎開させられた者だった。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

 

そのとき、八重山諸島の住民は・・・

『先島のほとんどの島で、守備軍に提供する食糧の供出や飛行場建設のための労務提供(ただ働き)などで、住民は飢餓状態となった。さらに、守備軍の陣地確保や〝住民は戦闘にとって足手まとい〟との理由から、近くの小さな島へ強制移住させられたり、住民もめったに近寄らない山奥への強制避難が命じられた。』(123頁)

《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》

 

石垣島(いしがきじま)

『太平洋戦争前、石垣島では北部を中心にマラリアが蔓延していました。戦争末期、島の住民は日本軍の命令で、北部に退去させられました。避難した先ではマラリアにかかる人が出始め、2496人がマラリアで命を落としました

白水地区には、空襲の際に避難していた人たちが使用していた防空壕などの跡が残されています。』(NHK沖縄放送局)

 

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鳩間島(はとまじま)

『さんご礁に囲まれた八重山地方の離島・鳩間島、今は人口およそ50人のこの島も、戦争に巻き込まれました。アンヌカーは、やぶに囲まれた自然の洞窟で、戦時中、島の人たちが防空壕として利用していました。洞窟の奥には、かつて水が湧いていました。

沖縄戦当時、アメリカなど連合軍は、沖縄本島周辺だけでなく、八重山地方の島々もたびたび攻撃しました。鳩間島も、空爆や機銃掃射に見舞われました。空襲が激しくなると、住民は日本軍によって、5キ口向かいにある西表島に避難させられました。しかし西表島では、当時、マラリアが蔓延していて、鳩間島にいたおよそ600人の住民のうち、59人がマラリアで犠牲となりました。』(NHK沖縄放送局)

 

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波照間島(はてるまじま)

『太平洋戦争末期、沖縄で地上戦がはじまった時期に、アメリカ軍から直接攻撃を受けていないのにもかかわらず、島民絶滅の危機に陥ったのが波照間島の住民でした。

…戦況が厳しさを増していた1944年。軍隊のいなかった波照間島に、「青年学校の教師」という一人の男がやってきました。山下虎雄と名乗るこの男性を島の人たちは何の疑いも持たず、歓迎したといいます。

…実はこの男性は、陸軍中野学校の卒業生だったのです。陸軍中野学校とは戦時中にスパイを養成するために作られた教育機関

…この中野学校卒業生が、アメリカ軍の上陸が予想される沖縄に集中的に配置されました。山下虎雄もその一人であり、本名ではなく偽名でした。最初こそ物腰穏やかで、子供たちにも親切だったという山下が、その正体を現したのは沖縄戦が始まったときのことです。突如、平服から軍服姿になった山下は、島民を集めると「日本軍の命令だ!」と、島民を波照間島から西表島強制移住するように指示を出しました

…山下は、アメリカ軍に奪われてはならないと、波照間島の牛、馬、豚、畑に至るまで、すべて処分するよう指示をしました

追われるように西表島に移住した島民に、山下は恐怖の統治を始めたといいます。』(ハフィントンポスト)

 

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『移住後まもなく、島内ではマラリア罹患者が続出し、死亡者は日増しに増える一方。このままでは住民が全滅してしまう......危機感を感じた波照間国民学校の識名信升(しきな・しんしょう)校長は、7月末に小舟で西表島を脱出して、石垣島の第45旅団長に惨状を"直訴"し、帰島の許可を得ます。山下は軍刀を振りかざし、帰島に反対しますが、このときには住民も"どうせ死ぬなら、波照間島へ帰って死んだ方がいい、斬るなら斬れ!"と、識名校長を中心に全員で必死に抵抗し、波照間島に帰ります。(『ハテルマ シキナ 少年長編叙事詩 よみがえりの島・波照間』より)

しかし壮絶なマラリア地獄はここからが本番でした。多くの住民がマラリアに罹患したまま帰島したので、波照間島マラリア有菌地と化してしまったのです。食料も尽き、島内に自生する「ソテツ」の幹を食べ尽くしてしまうほど、飢餓は悲惨なものだったと言います。(『証言で学ぶ「沖縄問題」-観光しか知らない学生のために-』より)』(AERA.dot)

 

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西表島(いりおもてじま)

『戦時中、日本軍の命令で波照間島の多くの子どもたちが西表島疎開させられました。

マラリアが蔓延していた西表島への疎開で、児童を含むおよそ500人の住民が犠牲となりました

忘勿石と岩場に刻んだ、波照間国民学校の校長、識名信升氏。識名校長は、石垣島の日本軍の上官に直訴し、島民を波照聞に帰す許可を得ました。島に帰る日、人知れず「忘勿石」の文字を刻みました。』(NHK沖縄放送局)

 

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そのとき、住民は・・・

遭難した疎開民 ⑪ 

1945年(昭和20) 6月30日沖縄本島における日本軍の組織的な持久戦が終わっていたこの頃、石垣島では、台湾へと疎開する人々がまだいた。出航から数日後の7月3日 、台湾の基隆(キールン)に入港予定だった2隻の疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受け、1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島での生活を送ることになり、毎日、島中を歩きまわって食糧を探すという日々が続いていた。無人島でのサバイバル生活を始めてから1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日、決死隊は遭難者全員に見送られて魚釣島を出発した。

8月13日は風が止まったため、櫂で舟を必死に漕ぐしかなかった。漕いでいる最中にも「はたして八重山にたどりつけるのか」の不安はあった。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。そう確信した決死隊の8人の目は輝き、ひもじさも苦しさも吹き飛んだ。急に元気が出て、漕ぐ腕にも力が入り、力の限り漕いだ。

その頃、魚釣島の隣にある南小島には、6人の男たちがいた。男たちは、決死隊の食料を確保しようと、アホウドリのいる南小島に別の小舟で渡っていたのだ。2、3日もすれば肉や卵を持ち帰り、決死隊の貴重な栄養源となるはずだった。しかし、魚釣島に戻る予定だった日、両島間の潮流が激しくなっていた。

潮流を挟んだ両島の往来はまず南側に向かって力の限り漕ぎ、そこから潮流を斜めに突っ切ってしかいけない。その潮流にそのまま乗ると北小島に流されてしまうか、最悪の場合は、東シナ海を漂流してしまうという危険なものだ。6人の男たちは、潮の流れが緩やかになるまで、南小島に留まらざるをえなかった。(131、133-134頁)

《「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 131、133-134頁より抜粋、一部要約》

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/images/top/img03.gif

尖閣諸島 | 外務省

http://si.wsj.net/public/resources/images/OB-UN172_islesp_F_20120911004424.jpg

南小島(前)、北小島(中)、魚釣島(奥)

The disputed islands in the East China Sea known in Japan as Senkaku and Diaoyu in China. ASSOCIATED PRESS

Writing China: James Manicom, ‘Bridging Troubled Waters’ - China Real Time Report - WSJ

 

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琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月13日(月)

 

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