1945年 8月5日 『収容所から収容所へ』

米軍の動向

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6人のGIがジープに座って映画を鑑賞中。(1945年8月5日撮影)

Okinawa, Moving Pictures

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者註: リンク先の和訳を投稿者が要約)

 

 

第32軍の敗残兵

国吉(くによし・くにし): 歩兵第32連隊第1大隊(大隊長・伊東孝一大尉)

『日時は定かではないが、米国の雑誌が手に入った。『ライフ』誌だったと伊東は記憶している。その雑誌には、雪の積もった市街地で、日米双方の兵士が戦っているイラストが載っていた。

敵の本土上陸はこの冬だろうか講話になるのは来春以降か?)

それまで持久戦を続けるしかないと、伊東は密かに思った。しかし部下は配属の諸隊を入れて150名足らず。その大半が傷病の身だ。陽のあたらない洞窟で冬を過ごすのは至難の業だった。

一方で「神機到来」を、ただ待つことなどできなかった。残された命は限られている。伊東は「出血の強要を」と焦った。

戦国時代、主家の再興のために非業の生涯を送った武将・山中鹿之助の和歌を、伊東は日夜心の奥で口ずさんだ。

           憂きことのなおこの上に積もれかし

           限りある身の力試さん

それによって自分と自分の心を奮い立たせていたが、衰えていく身体を思うと、いっそ自決してしまえと自棄的な気持ちにもなった

(いやいや、俺一人で死んで、残った部下はどうなる)

(しかし現状では満足な戦闘すらできないではないか)

(いや、しかし・・・)

伊東の心は乱れつつ、衰弱した命はローソクの灯のようにジリジリと残り少なくなっていく。

「このような状態を地獄といい、このような妄執を修羅というのだろうか」

伊東は手記に、こう心情を綴っている。』(264-266頁)

《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 264-266頁より》

 

 

そのとき、住民は・・・

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在沖第2海兵隊航空団基地所属の軍人に1日16,000ガロン(約60,560L)の水を供給した水源は澄み通っていた。看板は水利用者に対して溝の中に入らないよう注意を呼びかけている。前景には石製の風呂桶が見える(1945年8月5日撮影)

The spring which was providing 16,000 gallons of water daily for servicemen stationed at a base of the Second Marine Air Wing on Okinawa is crystal clear. The sign warns users to keep out of the trough. In the foreground are stone tubs used for bathing.

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フィルター装置のついた最新施設を有する古びた洗濯所で洗濯する地元の女性。洗濯に使う水は厚い石板で囲われた大きな石製おけに引き入れられて使われる。きれいに洗うため、こすり洗いした後、衣服を石板に打ちつける女性たち。近くには公共浴場がある。(1945年8月5日撮影)

Native women launder clothes at an old-age laundry where modern service filtering station has been established. The water used in the laundry is piped to a large stone tub which is surrounded by stone slabs. The women beat the clothes on the slabs after scrubbing to cleanse them thoroughly. Nearby is a community bath.

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http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/112-02-3.jpg沖縄本島石川の地元民。労役のため収容所に集められた大勢の地元民。高さ50フィートの火の見櫓から撮影。(1945年8月5日撮影)

Natives at Ishikawa, Okinawa. Crowd assembled in labor compound. Taken from fifty-foot fire tower.

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野嵩収容所古知屋収容所

6月下旬に沖縄本島南部の「轟の壕」から救出された人びとの一部は、その後、米軍の指示で男女別々にされ、トラックに乗せられて、野嵩収容所(現・宜野湾市)に送られた。そのとき、ある夫婦は離ればなれになってしまった。

『降ろされたのは宜野湾村の野嵩収容所でした。

野嵩は実家の喜舎場からは遠くなく、学校時代に通学コースだった普天間神宮にも近いところです。米軍が北谷海岸に上陸して首里に進撃していく途中にありますから、4月初めから中部地区の住民を集めた難民キャンプが設営してあったそうです。初期のころ捕虜に取られた人たちは集落の空き家にはいって生活してましたが、後から来た私たちは家には入れず、郊外の畑をブルドーザーでならして、テント小屋を建て増していって、6月ごろには見渡すかぎりのテント村になっていました。大型テント1棟に100名ぐらいずつすし詰めで暮らしていました。私たちも大型テントの片隅に場所を取って共同生活をはじめました。食糧は米軍から無償配給がありました。毎日白米が1人1勺ぐらい、家族全部でカンカン(空き缶)の1杯ぐらいになりました。それをぼろぼろのお粥に炊いて食べました。調味料はアメリカ製の粉末、燃料はあちこちから木の葉などあつめてきて間に合わせました。そうやって2、3日はめいめいで炊事していましたが、後からはテントごとにシンメーナービ(大鍋)に一括して炊き出しをしました。』(157頁)

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 157頁より》

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沖縄本島の米軍収容所内にいる民間人の生活の様子。米軍占領時。米軍の配給品を食べる民間人。(撮影日、場所不明)

Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island. Jap civilians eating US rations.

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『…食糧は米軍から無償で配給されますが、毎日、日照りの中を配給所の行列にならぶのが大変な日課でした。

もっと困ったのは水不足でした。何百人という人が同じ井戸から水を汲んでいくので、ぼやぼやしていると底まで干上がってしまいます。空き缶のツルベで13尋もたぐって汲み上げても、赤土のまじった水が底の方に少ししかたまっていませんでした。飲み水を確保するのがせいいっぱいで、とても水浴びするだけの水はありません。そういえば、戦争がはじまってから風呂に入った覚えもありません

…テント小屋には床もありません。地べたに適当な敷物をしいて横になるだけです。かぶる物もありません。中はむし暑く、外から熱風が吹き込んできて、便所のいやな臭いを運んできます。便所は、畑の真ん中に穴を掘って、板を渡して前だけテント布で隠したアメリカ式の簡易便所がつくられていました。蝿と蚊がぶんぶんする不衛生な環境の中、体力が衰弱して、食事が合わないので、ほとんどの人が下痢をしていました。悪性の下痢がまんえんして、毎日のように死人が出ました。葬式班というのがあって、毎日、死人を担架にのせて、畑に穴を掘って、着のみ着のままの姿の死体を担架から穴にほうりこんで土をかぶせるだけ、犬猫のような扱いでした。』(158-159頁)

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 158-159頁より》

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井戸にいる地元の母親と子供。/ Native mother and children at well.

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8月の初めごろ、夫…が前ぶれもなしに野嵩にたずねてきました。信じられないような再会でした。男たちはみんな海に捨てられてもう生きて帰ってはこないだろうとあきらめていましたから、たいへんな驚きと喜びでした。別れた時には衰弱がひどかったですから、生きているだけでも不思議でした。聞くと、轟の壕からトラックに乗せられて、中部地区の人たちが収容されていたマースヤー(桃原)に連れていかれたそうです。その収容所からジープに便乗して私たちをさがしにやって来たというのです。これで親子3人がそろって、生きる勇気がわいてきました。(でも、その喜びも長くは続かなかったのですが)。

夫と再会して間もなく、野嵩の避難民に、軍から古知屋への移動命令が出ました。山原への移動命令は食糧難を解消する目的があったようです。私の家族と佳子ねえさんの家族は一緒に軍用トラックに乗せられて古知屋へ向かいました。8月5日ごろだったと思います。』(160-161頁)

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 160-161頁より》

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G-6軍政府病院付士官や兵士の宿舎および病棟用地。(撮影地: 宜野座村

Establishing shot of place in jinuza to be used by G-6 hospital for officers and mens quarters and wards.

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『古知屋はヤンバルの宜野座村の集落で、戦前は開墾地のあったところです。開墾地の跡に米軍が建てたカヤブキ長屋がいっぱい並んでいて、首里那覇あたりの避難民の収容地区になっていました。

先に来た人たちはいい場所を取って住んでいましたが、後から移動してきた私たちには山の奥の不便な場所しか与えられませんでした。佳子ねえさんの家族は隣の長屋を割り当てられました。屋内は床も敷物もありません。でも、久しぶりに親子3人そろっただけでも希望がわいてきました。

「こうして生きているんだから、那覇へ帰ったら、また生活を建てなおそうね」と夫と励まし合いました。

まず、食べることです。地面を掘って竃をこしらえて、6斤缶づめの空き缶を鍋の代用にして配給でもらった米に野草や調味料をごっちゃに雑炊をたいて、それが主食でした

古知屋に来てからようやく水浴びができました。考えてみると、艦砲射撃がはじまった3月23日以来、お風呂に入ったという覚えがないのです。小川の流れに浸かって戦場の泥と垢を落としていくと、ようやく平和がよみがえったんだなあという実感がわいてきました。』(161-162頁)

《「沖縄戦 ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった・・・」(安里要江・大城将保/高文研) 161-162頁より》

  

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