1945年 8月15日 『それぞれの〝終戦の日〟』

日本、敗戦

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『アメリカ東部時間(東部戦争時間)14日午後7時、トルーマン大統領がホワイトハウスで記者会見し、日本の降伏を正式に発表。8月14日が対日戦勝記念日VJデー」となる。』

President Harry S. Truman reads to newsmen his announcement of the Japanese surrender officially signaling the war's end during a White House, Washington, D.C. ceremony at 7 p.m. August 14, 1945. At the right of the President are Secretary of State James F. Byrnes and Admiral William D. Leahy, Presidential Chief of Staff. (AP Photo)

 

『オーストラリアのハーバート・エバット外相兼司法長官、ラジオ演説で、国際戦争犯罪法廷で昭和天皇戦争犯罪人として訴追すべきだとの意向を明らかにする。「天皇は単なる操り人形だったとは考えられない。裕仁天皇は日本を戦争に導き、慈悲なき戦いを遂行した」と主張。』

  

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朝鮮半島京城(現・ソウル)では、日本の敗戦に伴い日の丸が降ろされた

The Japanese flag is lowered as Japanese officers and troops formally surrender the United States at the end of World War II, Seoul, Korea, August 1945. The surrender marked the end the decades-long Japanese occupation of Korea. (Photo by PhotoQuest/Getty Images)

【戦後70年】玉音放送へ未明の攻防 1945年8月15日はこんな日だった

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無線ジープの周りに大勢集まって、戦争終結のアナウンスを聴く米海兵第1師団の兵士たち。日本は連合国側の平和条約を受諾。この第1師団は太平洋で最初に攻撃を展開した部隊である。(1945年8月15日撮影)

MARINES GET THE WORD: 1st Div Mar crowd around a radio jeep and listen to the announcement that the war is over. Japan has accepted the Allied peace terms. The 1st Div was the first unit to stage an offensive in the Pacific.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

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対日戦争勝利の日、リチャード・W・ワレス中佐を先頭に勝利のVサイン人文字を作る海兵隊第11軍の将校たち。(1945年8月15日撮影)

Officers of the 11th Marines who fought on Oki., form a human V for Victory on V-J Day. In front is Lt. Col Richard W. Wallace, Bn. Comdr, 98 Meridan Ave., Southington, Conn.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地

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NHKスペシャル

沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた20160820 - Dailymotion動画

 

  

第32軍の敗残兵

同夜、沖縄本島南部の東風平の壕にいた敗残兵6、7名は、東風平の東に位置する与那原方面の空に、バラバラッ―と、ものすごいサーチライトのような光を見た。特攻隊が来ているのかと思ったのだが、実際は、戦争の勝利を祝う米軍の艦船が祝砲をあげていたのだった。

《 戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2 内の http://www.jvvap.jp/miyahira_seigen02.pdf より抜粋、要約》

捕虜になった敗残兵

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この日本兵捕虜は日本の敗戦を聞いて、1杯のビールと休みを欲しがった。しかし解放する手続きはまだ何もなされていないため、海兵隊の哨兵(右)は彼をそのまま働かせた。(1945年8月15日撮影)

This Jap POW wanted a glass of beer and the day off when he was told of Japan's surrender. But because no work had come thru yet to release him, this Marine guard, right, kept him working.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

そのとき、住民は・・・

終戦」を米兵から聞いた住民たち

『…8月15日、沖縄の各地では、米兵たちが小銃を空へむけて乱射し、「戦争は終わった」といって歓声をあげた。これを見た収容所の難民たちのなかには「日本軍の逆上陸だ!」といって恐怖におののいた人たちもいたという。』

《 読谷村史 「戦時記録」上巻 第一章 太平洋戦争 より》

米軍野戦病院: 久志村

『…1945年8月15日。その日の朝、何時ごろだったろうか。看護兵の姿もなかったから、早い時間であったと思う。突然、米軍キャンプの辺りで銃声が響いた。叫び声も起こった。歓声であった。入院患者は顔を見合わせた。今ごろ友軍の斬り込みでもあるまいとは思ったが、今まで例のないことだったので、不審というより不安を感じた。そこへ、ウィットン看護兵が姿を見せた。彼は酔っぱらっていた。何やらしゃべっていた。上機嫌であった。

通訳の新川さんが訳を聞いた。新川さんは俗にいう、〝ハワイ戻り〟で、英語の達者なおばさんであった。新川さんが深刻な顔で話していたが、やがて、手を挙げ注目を促した。

戦争は終わったと言っているよ

新川さんの声に、テント内に緊張が走った。

日本はアメリカに降参して、戦争は終わったと、ウィットンは言っているよ

誰も言葉を発しない。緊張は重苦しい沈黙になり、やがて嗚咽に変わっていった

これまで、人々は、1日も早く戦争が終わるように願っていた。戦争が終わるということは、日本の敗戦を意味していることも承知していた。それが現実になったとき人々は押し黙り、泣いた。』(115-116頁)

《「狂った季節 戦場彷徨、そしてー。」(船越義彰/ニライ社) 115-116頁より》

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日本軍が降伏したことを通訳から聞き喜ぶ沖縄の地元民。(1945年8月15日撮影)

Okinawan natives have been told of the Japanese surrender by their interpreter and are cheering.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

(投稿者註: これは、NHKスペシャル「沖縄 空白の1年 〜 “基地の島” はこうして生まれた」の冒頭で出てくる場面の写真である。群衆は、米軍担当者の指示に従って「喜び」を演出している。)

『日本の敗戦の日8月15日のことです。米軍から「生徒を引率して旧久志国民学校の校庭に集合せよ」という命令がきました。学校へ行ってみると星条旗が上がっています。私たちは、事情をのみこめませんでした。米軍将校は私たちを整列させて

「あなたがたはもう日本人ではないアメリカ人になったのだ星条旗のもとに並びなさい。日本の天皇は8月15日をもって我々に降参した。あなたがたはアメリカ人になったことを自覚しなさい」というのです。

私たち教師は、これを聞いて泣きました。幼稚園の子どもたちは、なんのことかわからないので、キョトンとして先生がたの顔を見つめています。米兵は、さらに言葉をついで

今日は、そのお祝いにお菓子を2つずつあげます。」というのです。米軍の野戦食糧のレーションが配られました。子どもたちは大よろこびです。レーションを2つもかかえて、はしゃぎまわっています。

先生がたは涙を流しながら

ジョーイ ウリンデーカムミ サクンジティ ウッターヤナアメチカーターンカイ コーサンセーンディルムン(こんなものを食べるものか、しゃくにさわる、こんないやなアメリカーに降参したなんて)」といって憤慨しています。

私たちは生徒をつれて海岸に行きレーションを岩にたたきつけて捨ててしまいました

これを見ていた子どもたちは

「シンシーターヤ クサミチョーッサー クワンジミシカンヌーガヤラ ワッター ヒッティカマ(先生がたは怒っているよ、カンズメを好かんのかな、拾ってきて食べようよ)」といっているのです。飢えていた子どもたちの姿と、皇民化教育をになってきた教師たちの姿をまざまざと思いおこします。(74頁)

《「島マスのがんばり人生 基地の街の福祉に生きて」(島マス先生回想録編集委員会) 73-74頁より》 

『…ある日、生徒の集会所になっていた海岸に、私たち生徒は集合させられた。旧瀬嵩国民学校に駐屯していた米軍部隊から将校が来ていたのである。

めったにないことなので珍しかった。なにやら大変うれしそうに話をした。通訳がいたかどうかは覚えていない。なにを話しているのか分からなかった。

先生の方を見ると泣いておられるようである。米軍将校に気づかれないように、そっとハンカチを取り出して涙をふいている先生も。将校はにこにこしているし、先生は泣いている。このちぐはぐな光景が、印象に残って忘れられなかった。

その日が日本の無条件降伏の日であることを知ったのは、ずっと後になってからであった。

この日の様子は、社会福祉活動家の島マス先生も新聞に書いておられたように思う。マス先生は、私たち瀬嵩の木の下学校の先生でした。』(18-19頁)

《「庶民がつづる 沖縄戦後生活史」(沖縄タイムス社編) 18-19頁より》

 

 玉音放送」を聞いた住民たち

1945年8月15日正午、「終戦の詔」を昭和天皇が読み上げる、いわゆる「玉音放送」がラジオで放送され、当時の国民は戦争に負けたことを知った。』

youtu.be

玉音放送を現代語訳で「耐えられないことにも耐え」【終戦記念日】

『しかし戦禍を潜り抜け着の身着のまま逃げていた多くの沖縄県民は玉音放送の存在すら知らず、かろうじて放送を聞けた人はごくわずかでした。

…戦後、沖縄の人権運動の先頭に立った瀬長亀次郎さんも、疎開していた北部で玉音放送を耳にしました。瀬長さんが記した回想録には、このように記されています。

…「天皇のいわゆる玉音放送を聴いたのもこの野戦病院のベッドの上でだった。『終わったか』とういうのがその時の実感だった」』

《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 玉音放送を耳にして より》

沖縄本島中部の石川市では、米軍政府の諮問機関「沖縄諮詢(しじゅん)」を設立するため、戦前からの政治家や教育者たちが集められて会議が開かれた。沖縄の行政機構を再建しようとの会議の冒頭、軍政府副長官から「正午より天皇終戦放送がある」と告げられ、出席者を代表して後に沖縄民政府の初代知事となる志喜屋孝信ら3人が、軍政本部で玉音放送を聞いた。会議に出席した安谷屋正量(初代琉球工連会長)はこう回想している。「終戦を知らされみんなシュンとなった。しかしそれまで戦火に追われ、生命の危険にさらされショックというショックを味わいつくしただけに、それ以上の動揺はなかった」。

 

久米島の米軍キャンプ近くに住んでいた小学2年生の女児は、米軍から「大切な放送がある」と言われ焼け残った奉安殿にでんと置かれたラジオを聞いた。独特な抑揚の声が聞こえてきたが、漢語の多い文章は少女にとって難解で、何のことか理解できなかった

《 社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]玉音放送 共有されなかった体験 | 社説 | 沖縄タイムス+プラスより抜粋、要約》 

 

先島諸島沖縄戦

遭難した疎開民 ⑬

1945年(昭和20) 6月30日、台湾に疎開する人々を乗せた船2隻が石垣島を出港した。数日後の7月3日 疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受けた。1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島でサバイバル生活を送ることになった。1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日魚釣島を出発した決死隊の舟は、同月14日石垣島へ到着、助けを求めた。

魚釣島に残されている者が終戦を知るよしもないが、玉音放送のあった8月15日1機の飛行機が魚釣島に現れた。一度、米軍機の空襲を体験している遭難者たちは、爆音が聞こえると一気に岩陰へと走って隠れ、岩陰から島を旋回する飛行機にじっと目をこらした。機体に日の丸が見えると、「友軍機だ」と、だれかが叫んだ。その声を合図にみんな岩陰から飛び出してきた。

絶望のふちに沈んでいた疎開者の顔に涙があふれ出し、「バンザーイ」「バンザーイ」が絶叫された。“決死隊”が成功して連絡してくれた…。やっと外部とつながった喜びは大きかった。台湾から派遣された飛行機は、パラシュートで小包みを落下した。中には乾パンと金平糖が入っていた。乾パンは1人当たり25個が支給され、金平糖は病人に配られた。

しかし、食糧は自分で受け取ることが条件だったので、ある母親は、病気で動けない長女を小屋に残し、重症の末っ子を背中に負いながら長男と四女の手をひいて、小学3年になる二女が五女をおぶって三女の手をひき、一家は配給の列に並んだ。「きつい」「歩けない」とむずかる子どもたちを、なだめすかしながらやっと7人分の食糧を貰った。(尖閣諸島遭難・5 / 八重山の戦争)

《 [73 尖閣諸島遭難(5)]やっと救助船来た - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース および 「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) / 217頁より抜粋、一部要約》

 

 

日本軍最後の特攻隊

8月15日の夕方、第五航空艦隊司令長官として、沖縄戦などで海軍の特攻作戦を指揮した宇垣纏(うがき まとめ)海軍中将は、特攻機「彗星」に乗り込んだ玉音放送後、11機の特攻機を準備するよう指示していた宇垣中将は、部下らと共に大分基地から沖縄に特攻出撃した。宇垣中将の特攻機は、伊平屋島の海岸に突っ込んだとされている。これが日本軍最後の特攻隊で、誰一人帰還する者はいなかった。(ハフィントンポスト/QAB)

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《 琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月17日(金) および 【戦後70年】玉音放送へ未明の攻防 1945年8月15日はこんな日だった より抜粋、要約》

  

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